音のない場所

 音がなくなった。

 それは彼に振られた瞬間だった。それと同時に彼との思い出が走馬灯のように頭の中を駆け巡って、「この人と別れたくない」という思いが体の中を支配して、いずれ私は涙を流す。

 なんとも単純な原理のように思えるけれど、それが私の本当の気持ちであるのだから仕方ない。


 音がなくなったのは、不思議な感覚だった。この世に生きている以上音がない場所なんてないと思っていたけれど、中央線、高円寺駅のホームにはそんな場所があったのだ。視覚の中には電光掲示板が点滅を繰り返し、隣には電車が走り込んできて私の服を風で大きく揺らしていたりする。人がたくさんいて口をひたすらに動かしているようだけど、その時の私には何も聞こえてこなかった。

「〇〇〇〇〇〇」

彼の口が動く。それでも私にはやっぱり何を言っているのか分からない。きっとシャッターを下ろしてしまったのだ。これ以上、こんな話を聞きたくないと、私はそう思い込んで全てをシャットダウンした。涙が止まる事もないし、私の耳が音を聞こうとする事もない。そこにあるのはただ、静かだけど、慌ただしく動く世界の風景でしかなかった。

 彼はそんな言葉の通じない私を見て困惑する。人を見る目ではない、むしろ異星人を見ているような目だ。そんな風に見られている事を分かっても、私の”音”という概念は復活しない。いつまでも無音が続く、とても寂しい世界の中に一人ぼっちだった。


「……、大丈夫か!」

私の体は彼に大きく揺さぶられ、そしてその言葉の断片を聞く事ができた。その彼の声、ついさっきまで聞いていたのに、もう随分と懐かしく思える。そしてこの当たり前のように聞いていた声が、もう聞けなくなってしまうのだと思うと、また寂しさは込み上げてくる。そしてそれにならうように涙も後を追いかける。

「〇〇〇〇〇〇」

やっぱり聞こえない。高円寺の駅はこんなにも静かだったんだ。そんなの知らなかった。そして、私はこんなにも独りだなんて、知らなかった。

 もう何も聞こえないから、何も喋れない。そう考えて私は喋る事だって放棄して、今できる事はただ涙を流すっていう身勝手な行為の一つしかない。どうでもいいけど、電車はひっきりなしにホームへ滑り込んでくるし、人々は矢継ぎ早に口を開く。そんな人に伝えなくてはいけない事なんてこの世にあったかな。私にはないや。


 そう思った時に彼は私を抱きしめた。きっと、こんなになってしまった私を哀れに思ったのだろう。もう今となっては、彼の温もりだって感じる事ができない。私を抱きしめている彼は冷たい。大きな氷の中に埋もれてしまったみたいに、私の体も冷たい。でもまあ、今は夏だからちょうどいいかもしれない。かいた汗はみるみる引いていって、私の心も私の体からゆっくりと離れていくみたい。

「ごめん!ごめん!」

聞こえた。私を抱きしめた彼が耳元で声を出す。その声だけは、なんとか私の頭の中に放られてきた。そして次の瞬間に駅の慌ただしさがどっと頭の中に流れ込んでくる。電車の音、人々の声、アナウンス音、一斉に流れてきたもんだから、うるさくてしょうがない。私はとっさに耳を塞いでしまう。

 少し慣れてきて、私は手を自分の耳からゆっくりと離した。そうすると、世界は正常に戻っていた。高円寺駅にあるべき喧噪が、ちゃんとそこにはあった。

「終わりにしたいって、そういう意味じゃなくて、あのさ……」

気持ちは飛んでしまっている。今ならどんな言葉でも、その喧噪の中で聞く事ができる、受け入れる事ができるような気がした。

「あの……、俺と、結婚しよう」


 そしてまた、世界から音が消える。決まって涙は流れてくるんだ。


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心理描写の『短編小説』 古びた町の本屋さん @yuhamakawa

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