4月28日(月)-後編-

 教室に戻ると、亜実以外の生徒は誰も残っていなかった。

 亜実は窓側にある自分の席に座って僕のことを待っていた。僕が教室に入っていたことに気づき、こちらの方を見て微笑む。


「彼女さんは許してくれたの?」

「うん。それに、明日デートすることになった」

「なるほど。だから、何だか嬉しそうなのね」


 そりゃそうでしょう。

 僕は亜実の前の席にある椅子を借りて、彼女と向かい合う形で座る。

 亜実の机の上には既に数学の宿題プリントが置かれていた。もちろん、そこには答えは一つも書かれていない。


「さあ、まずは自分の力でできる限り解きましょう」

「ええ、教えてくれるって約束じゃない」

「全部教えたら意味ないでしょ。それに、分からなかったら正直に分からないって言えば教えるから」

「うん、分からない。だから教えて」


 ここまですぐに分からないと言われると、本当に分からないのかただふざけているのか分からない。笑っているからおそらく後者だろうけど。


「しょうがない。じゃあ、一緒に解こうか」


 僕は自分の教科書を取り出して、宿題の内容が載っているページを開く。


「このページに公式が載っているから、これを使っていけばいいんだよ。だから、この問題なら――」


 僕は亜実に懇切丁寧に問題の解き方を教えていく。

 最初こそは問題に向き合い、自分の力で解けそうな部分はちゃんと自分でやっていた。

 しかし、中盤になると集中力が切れてきたのか、亜実はチラチラと僕のことを見てくるように。


「休憩でもしようか?」


 数学が苦手な亜実にとって、宿題を半分やっただけでしんどいかもしれないし。


「別にあたしは大丈夫だけれど?」

「そうなの? 半分ぐらいまでやって疲れてきたから、僕の方をチラチラ見ていたんじゃなかったのか?」

「疲れてないよ。……でも、あたしが悠介のことを見ていたこと、気付いてたんだ」


 亜実は少し頬を赤くしてそう言った。

 こっちは勉強を教えている身なんだ。亜実の様子は随時確認するようにしている。それにこんな至近距離にいるんだから、亜実の視線を感じない方がおかしいだろう。


「何だかこうしていると、受験生のときを思い出すよね。予備校の自習室で悠介にこうして教えてもらっていたなぁって」

「そうだね。まさか、高校生になってもそれが続くとは思わなかったけれど」

「えぇ、今のちょっと傷ついた」


 亜実は不機嫌そうに頬を膨らませる。そんな亜実を見て、彼女に勉強を教えると聞いたときの栞もこういう表情をしていたのかなと思う。


「亜実に勉強を教えることを嫌だとは思ってないよ。人に教えることで理解がより深まったから。受験には大いに役立ったと思ってる」

「そ、そっか。じゃあ、八神に入学できたのはあたしのおかげでもあるのかな」

「……そうかもしれないな」


 塾で亜実と出会ってから、八神高校が第1志望ということもあって、塾ではいつも亜実と一緒だった。自習室で今のように僕が亜実に勉強を教えて。そんな日々から1年も経っていないのに、随分と遠い昔のことのように感じる。


「……あっ」

「どうした?」


 亜実は左手で目をこすっていた。


「眼にゴミが入っちゃって。ううっ、痛い。全然取れないよ……」


 ゴミが眼に入ることはあるよな。入ってしまったものによっては結構痛いときもある。


「ちょっといい?」


 僕は机越しに亜実の顔に近づき、


「眼、開けても大丈夫?」

「う、うん……」


 ゆっくりと亜実の左目を開けてみると、小さな黒いものがあった。ハンカチで取ってもいいかもしれないけど、ここまで眼がうるうるしているから、


「あった。小さいやつだから、涙を流せば出せると思う。できる?」

「……うん」


 程なくして、彼女の左目から涙が流れる。その涙の中にはさっき見つけた黒いゴミがあった。僕はハンカチを使って亜実の涙を拭き取った。


「これで大丈夫かな。もう痛くない?」

「うん。……あ、ありがとう」


 さっきまで頬だけだった赤みが顔全体に広がっていく。


「でも、こんなに顔を近づけられたら恥ずかしいよ。いくら、眼のゴミを取ってもらったからっていっても」

「……そうか」


 そういえば、亜実のこんな反応を見るのは初めてだな。前から一緒にいることが多かったから、こんなことをしても何ともないと思っていた。ちょっと意外だ。


「やっぱり悠介は優しいな」

「さっきも言ったじゃないか。困っている人を放っておけないよ。ましてや、僕の目の前で泣いている人を見つけたら……」


 それに、眼の悩みは共感できるんだ。以前、コンタクトに挑戦してみたら何だか気持ち悪くて、しかも痛い思いをしたから。


「……変わらないね」


 そう言う亜実の笑みは嬉しさの他にも、なぜか寂しさも感じられた。さっきまで痛い想いをしていたからだろうか。


「残り半分……やろっか、悠介」

「うん」


 残り半分も亜実は僕と二人三脚で何とか終わらせることができた。

 教えていることに専念していた僕は、亜実に宿題プリントを写させてもらった。これで明日は心置きなく栞とデートができる。


「ねえ、久しぶりに一緒に帰ろうよ」

「そうだね」


 万が一、亜実と一緒にいるところを栞に見られたら……そのときは事実をありのままに話そう。

 亜実と一緒に下校としたときには、陽が大分傾いていたのであった。

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