a particle effects... 私たちの世界はきっと、いくつもの出来事が少しだけすれちがって、二度と調和しない。

はたかおる

雨は雪になって

 雪が降っていた。

 彼女は病室から帰って来て、僕の目の前で寝顔を作っている。彼女の大きさの箱に大切に入れられた彼女。文字通りその顔は作られた寝顔で、本当は眠ってなんかいなかった。

 二人が好きだったティーバッグの紅茶を僕だけが飲んでいる。窓枠を眺めると、見たくも無い白い粒が次々と降りている。飾り気の無い白いカップから大げさにのぼる湯気に運ばれてわざとらしい柑橘の匂いが鼻腔に届いた。

 僕は、彼女が本当の僕のことを実はよく知らないってことを知っていた。彼女とその周りの人達には僕は横須賀の電気工事の会社で働く青年って言う事になっていたけれど、実際はそうではなかった。でも、それは、彼女を騙しているって言う事では決して無くて。僕の身分や、戸籍、年齢、存在の全ての詐称は公的に正しく手続きされたものだった。要するに、嘘をついていることが正しく僕自身であって、それを彼女に説明するなんて言う事ももちろん出来なかった。




 車のガラスに小さなレンズを作る水滴は、ワイパーに拭き取られて、一からやり直しでまた、たくさん貼り付けられていく。何度も何度も、その回数は増える。

「もう、今日は止まないか」

 昨日までかわいていた空気が十分に湿る雨とその寒さに、車の中はなかなか暖かくならなかった。雨は口に出した以上に止みそうもなくて、空の明るさも控えめだった。

 国道を厚木に向かいながら、タイヤが冷たいしぶきを盛大に上げる。

 夜が始まるまでの、ほんの僅かな時間は雨が、町を綺麗に演出する。短い間だけれど、僕には残っている明るさがありがたかった。

 僕は、彼女のところに走った。

 まるで僕だけが取り残された世界になってしまったような気がして、とても寒くて。

 彼女の顔を見た僕は、目から零れそうな気持ちを抑えながら、いつまでも待つって伝えたんだ。そのとき僕の世界には、またまたご冗談をとまだ笑って返すくらいの元気がある彼女がいた。帰ってこないみたいに言わないでよと。

 実際の僕は、彼女を待っているようなことはしていなくて、ほとんどの時間は彼女の近くどころか、日本にすらいなかった。グアムや沖縄で、時に、恵みの大地と仕事仲間と呼んでいるアフリカ各所で仕事をする僕は、汗まみれで、泥まみれで。彼女の事をすっかり忘れていることだってあった。ただ、一度だけ、Appleの携帯端末に入っていた着信が気になって、仕事が終わるなり彼女に連絡をした。

 その時は寒くなり始めた季節だったから、その事を話題にして僕に電話をくれたのだなと、彼女に対する言い訳と取り繕う嘘、それと、僕の気持ちを混ぜた言葉を用意した。

 けれど、話はそう言うものじゃなかった。

 いつだって、形のないものでさえ永遠があるんじゃないかと思っていた僕は、彼女が僕に伝えてくれる愛情だとか、僕からもそれを贈って欲しいという要望だって永遠なんだって思ってた。


 僕たちはいつか一緒に暮らして、僕たちの子供と、ずっと笑って。これって終わらないでいつまでも続く夢だったんだろうか、それとも考えてはいけない事だったのだろうか。だけど、そう言うものが仮に永遠だとしたって、さわることが出来る、かたちの有る物の方が先に終わりを迎えることがあるってことを、僕は知った。

 その日も、こんな風に嘘みたいに肌に刺さるような気温だった。

 今、帰ってきた彼女を目の当たりにすると、今度は本当に僕の目からは哀しさの全部が流れ出てしまった。それでも、僕のいったいどこにそんな機械が入っているんだろうと思える位に後から後から悲しい気持ちは作られて、僕がこの世界からいなくなるまで流れ続けるんだろう。




「わたし、もしかしたら死んじゃうのかな」教えてよ、ヒロ。

 残された時間を計算することに疲れて呆然とする彼女は僕に、呟いた。顔には涙の筋が残っていた。病室は暖かかったけど、無機質な温度は僕の胸の中にある部品を握りつぶしそうだった。

「そんなご冗談をおっしゃると、僕の心臓が持たないぞ、頑張れ」

 頑張れ、絵里。

 本当は、心からそう思っていた言葉だ。だけど、それ以上の言葉を繋ぐと、彼女の心はきっとバラバラに壊れてしまうんだろうと、僕は、頑張れという言葉に何も付け足すことはしなかった。

 彼女の心に、先の丸まった金属を差し込んで、元に戻らないような疵をつけてしまったことに、罪悪を感じる。残酷な言葉になってしまう。そんな言葉を掛けることが適当かどうか、今でも分からない。

 どんな言葉を掛けてもきっと僕の視界はゆがんだレンズのように揺れて、上手に彼女の顔を見られなくなってしまう。言葉は出てこなくて、それ以上繋がらなくなってしまうんだろう。

 そうしてやっぱり、雪が降る今日になって、彼女は彼女だった何かになって、帰ってきた。

 僕は、僕の中の彼女が僕以外の人の中の彼女と全然違うところにうろたえていたけれど、それは顔に出さずに悲しんでる振りをした。相変わらず窓の外に降り続く雪と、そのくせやけに明るい空が余計に自分の居場所がどこなのかを分からなくしてしまった。

 そしてどう言うわけか、今日は彼女の事を思い出しすぎる。




「ねえ、ヒロ。鵠沼に行こ」

 少々投げやりに選んだ水族館よりも、海岸の方が落ち着くし時間が長く感じられるじゃん。という理屈に大変納得しつつも、アクアリウムを二人で眺めている自分に満足したいような気もしたからだろう、

「あー、うん」まあ、そうだね。

 などと、気のない返事をする僕は感情の出やすい顔の作りでもしているのだろう。彼女は少し意地悪な顔をして、ズンズン一三四号線を歩いて行く。

 本当は、僕たちはカップルなんだからさ、腕を組んで、キスをして、おさかなが光って流れていくのを見ながら手を繋いだらいいんじゃないでしょうか? などと考えながら、そんな事をうらやましいなと、一拍遅れてついていく。

 このあたりでは本当にうじゃうじゃ涌いて出てくる彼ら彼女らが、思い出を作ってしまい込んでしまうのを、ねたみに思うような気持ちを心に隠して。海岸線の風を横顔に受けてちょっと僕は、わらった。


 記憶が目の前に現れて、そして、消える。

 泣いたのは僕だけじゃない。箱に入った彼女を見つめて色々な人の涙が流れるのを、僕は見続けた。

 日常にない、この匂い、この空気、この空間。ここは、彼女の部屋のはずなのに。全部が、僕にそれが事実なんだよと知りたくもないのに、無理に教えてくれた。

 彼女と僕の周りで悲しい顔をする誰かは、きっと僕の知らない彼女を知っている。それがどんな顔で、どんな顔で喋って、どんな姿の彼女が本当なのかを、彼女に尋ね続ける僕は何者なんだろう。彼女は答えない。そして、彼女は目を覚まさない。


 僕は、彼女が生きていたとして、この罪の大きさと、彼女の純真さとが釣り合うのだろうかと、彼女がいなくなったこの世界で考える。涙を流して、一体僕の中に入っているこの涙を作り出す機械はどれだけの量の水滴をこぼし続けるんだろうかと考えて、冷静になっても、気持ちも、涙も止まろうとなんて、全然しなかった。

 彼女は、知らないまま死んだ。僕の本当のことを伝えられる日はいつか来るだろうかとか悩んでいた僕自身がひどく滑稽で、惨めに感じられて。僕は彼女の寝顔のような顔に、

「ごめんね」と心からの謝罪を送る。

 だけどやっぱり僕を許すとも許さないとも、何の答えも返って来はしなかった。




「サキオカ! 早く撃て!」

 賑やかとは言えない通り。風は砂を含んで。

 色黒で、鼻筋の通った彼女は、視線の先にいる男だけを視界に映して、口を動かしている。僕と、そのとなりにいるホワイト少尉にはそれは聞こえない。

「少尉! でも、あれは!」その辺歩ってるだけの女の子かもしれませんよ。と言うまもなく遮られた。

 僕と小隊の最小の要素を構成するホワイト少尉は、初めての戦場で僕を蹴り飛ばした。

「お前は乙女かよ!」罵るつもりもないのに、彼は僕を強く圧するように囁き声を浴びせた。

 すぐさま僕の狙撃銃を奪って、自分の癖とは違うチューニングのM24を器用に構えると、プローンのまま身じろぎもしなくなる。優しすぎる上官が脳内でM24のパラメータの確認をしながら、ナノマシンとの通信で自分の仕様に書き換えている間、不覚にも、安心してしまう。

 僕がやらなくて良いのか、と。

「少尉、でも」僕は。

 責任の重さに、事の重大さに、すっかり押しつぶされてしまって。合衆国のためにやらなければならない行為と、全くやれそうもない僕の気持ちが、セリフと全く繋がりをもてない接続詞を口から吐き出させて取り繕う。

 涙を流しながらホワイト少尉を見つめた。

「泣くんじゃねえよ」うるせえヤツだな、とため息をついて、僕を勢いよく蹴り飛ばす前に丁寧に床に置いておいた測距計を、左手に掴んだ。

「おい、見てろ」メンドクセエヤツだなおめえは。なんかやってろ。

 と、僕に測距計を放り投げると、僕はすぐに任務に引き戻されて、一瞬のこの感情を読み取られたような気がして、恥ずかしさと、上官の気遣いにまた涙がこぼれた。

 たった数十秒のやりとりの間、通りを無感情に歩く少女は明らかに不自然に膨らんだ服を着込んで、護衛対象へと近づいていった。僕は、その歩みがどうしようもなく速く感じられて、初めてグリップに右手を掛けていないことを後悔した。僕が、やらなければいけない仕事だった。




 いつもの訓練のあと、僕らのエレメントは4人で映画を見た。ずいぶん古い映画で、爆弾処理班の男の話だった。冒頭からいきなり現れる女は、グルグル巻きにした爆弾を丸出しで陸軍のM1A1に歩いて行く。それを、僕のような狙撃手が発見して、悩む。そう言う話だった。もっともらしい話だと思いながら、その程度の炸薬の量で合衆国陸軍の戦車をどうこうできるもんじゃないだろなんてツッコミをいつもは寡黙でまじめ極まりないジョンソンが吐き出すと、その背中をそれは痛いだろって言うくらい少尉は叩きながら、それ以前にこんなに丸出しじゃ歩ってる歩兵に撃ち殺されるだろと笑っていた。

 だけど、そう言う演出は差し引いて僕はじっと考えた。もし、狙撃手にだけしか分からないような偽装をして、女子供が歩いていたら、僕は撃ち殺せるだろうか。

「おまえ、撃てなさそうだなオイ」

 なんてまるで空気も読まずに少尉は僕に失礼なことを浴びせてくる。

「仕事なんですから、やるに決まってるでしょ!」語気を強めた。

 言ってしまったからには後に引けなくて、

「何のために私達が選抜されて、お金掛けて訓練してるんだと思ってんですか」

 とまで言いはしたものの、僕はその実、やれるのか? と自問自答した。僕は、人間に銃口を向けることに関して、何の躊躇もない側の人間で、引き金を引くことだってやぶさかではない。だけど、女子供にそれを出来るのかというと、分からない。


 以前、デニーズの入り口で僕は十代のチンピラのケンカの仲裁をするハメになった。ナノマシンの入れ替えに行かされて、サンディエゴの暑さに不快感は知らない間にたまっていた。その上僕はまだ射殺という技術に対して割り切っていなかったんだと思う。

 つまらないケンカを止めようと僕は、少し乱暴なやり方をしてしまったようだ。殺意の対象がなぜか僕になって、こんどはそれを咎めようとした。不愉快な気持ちは平常心を上回って、僕は殴りかかる彼らの膝を蹴って押さえ込んで直後、思う様殴り倒した。しばらくして、動物みたいな低い声を出しながら一人が起き上がったとき、拳銃を僕に向けるのを見つめた。

 彼が安全装置を外して撃鉄を上げようとするのをただ見つめたまま、殺害という手段でその行為を止める決断が出来なかった。

 横で中尉とくっちゃべっていたはずのホワイト少尉は、気がつくと彼のリボルバーを横から掴むと思う様指が不気味な音を立てる方向に捻っていて、そのまま肘で殴り倒したあと彼を破壊した。これだけの暴力で止めなかったなら、僕は大けがをするか死んでいるかのどちらかだっただろうと思う。結局、いつも僕には自分の命を扱う覚悟もなかったわけだ。


 そんな事があったから、僕も大人げなく少尉にくってかかって、わかっているからそれを恥じる。

「まぁまぁボウズ、ムキになんなよみっともない」とにやにやと懐柔するのが憎たらしいが、反論を出来るわけでもないのでそのまま黙る。黙ったままポップコーンをゴソゴソと掴んで口に放り込んだ。

 画面の中では、女がテロリストである事に気付くことも出来ない僕らの同僚たちはパトロールに夢中だ。同じようにポップコーンを食べながら、同じように逡巡し考え込んでいたらしいピート中尉は少尉に真剣な顔で、

「だけど、俺は迷うぞ」と、堂々と。何を言ってるんだこの人は。

 畜生とか言いながら、狙撃手も迷っている。僕は目を少し大きく開いて中尉の聞き捨てならないセリフを聞く。

「いやまて、おれはホワイトみたいに壊れてないからさ。迷ったあげくにホワイトに任せちゃうかもよ」

 僕らの隊長は時々こんなことを言い始める。だから狙撃手じゃないんだよ俺は、などとおどけて見せさえする。中尉のもっともらしい意見に、僕らは一様にバドワイザーを口に含んで飲み下してしばらく何も考えないでいた後、なんとなく、「まあそうだろう」と口の中で舌を動かしたように思った。

 中尉の判断力はたいしたものだと思う。ホワイト少尉の扱いの巧さや、現地人や基地の人間とのコミュニケーションの取り方、根回しの巧妙さには感服する。もしかしたら、この人はナイーブなのかもしれないなどと勝手な妄想をした。その時、

「いや、中尉が一番ヤバいんじゃないですか? 時々正気を疑うような熱心さの時ありますよ。オレらのお客さんを片付けるとき、ワーカホリックかこの人は、って横から突っ込んじゃいますよ」今度、とジョンソンが大まじめな顔で言うもんだから、少尉がビールを吹き出し、汚すなと隊長に強く怒られた。




 そんな事を、こんなときに思い出す。まるで走馬燈だ。

 今この瞬間、爆死の危険にさらされている護衛対象の男にも、家族がいて、彼らには何の罪もない。一方でどうだろう、彼らを殺すことによって天国へ行くことを簡単に許されると勘違いして、平気な顔をして、同胞をも巻き込んで自らを爆発させるなんて。僕が彼女を殺すことで、実は、誰にも悲しみは生まれない。少なくとも、僕のPTSDを治しさえすればそこで万事解決じゃないか。

 そう言うことの一切合切に気がついたとき、ホワイト少尉の気配が消えた。そして狙撃手である僕の技術と遜色ない腕前の射撃で、あっさりその少女を殺して見せた。

 その瞬間、少女の薄い胸と、小さな頭部は内側から破裂するように消し飛んで、赤い飛沫が盛大に舞った。人形から手を離したように、倒れ込む彼女は、もう生き物ではないことが一瞬で見て取れたけど、僕はその罪をホワイト少尉になすりつけたことと、僕が誰も守らなかったこと、そして、それを恥じている事を思い出して、同時に絵里のことが頭によぎった。

 その時の僕は、涙を止めることが出来ずに、不潔な壁に背中をもたれかけさせて、それこそ僕の方が子供みたいに泣いた。




 横須賀の港に戻って、僕らは僕の失態を冷静に受け止めて、様々にフィードバックをした。認識を再構築した僕はその後の同様の事態に怯むことはしなくなったし、作戦後の精神調整で上手くやっていけることに気づいてからは、それも含めて業務だと言う事が受け容れられた。

 ただ、あの直後に掛かってきた絵里からの最後の電話で、僕は、僕の行為にすっかり打ちのめされてしまって。

 彼女の中に出来た癌という病気は、もしかしたらいま開発中だとか言う軍用のナノマシンによる遺伝子転写で、転移や増殖が抑えられたのではないかと思いはするが、民間にはそれは存在しないことになっているし、僕らの中でさえナノマシンがそこまでするのかと言うことになると眉唾な話だった。

 もしかしたら彼女と明日もう、会えないかもしれない。そんな予感がいつも僕の両肩に乗っかっていて、彼女との繋がりを失いたくなかった僕は、ピート中尉を説き伏せて基地を抜け出した。何度も、何度も。

「三笠公園でぼうっとしようよ。連れて行ってあげるからさ」

 お願いね、絶対だよ。って言う彼女の顔を見て少しだけ救われる。どこに行こうよ、何を食べようよなんて、色々な計画をした。

「西海岸をドライブしよう」なんて提案した僕に、

「湘南海岸で十分です」

 って小さく笑う彼女を助ける手段じゃない僕の技術は、なんの役にも立たない。厚木の病院にいる彼女の顔を見に行くことを許されてはいたけれど、それ以上の事は何も出来なかった。

 彼女と会って話が出来る少しの時間を様々に考える。16号線を走る車の中で、僕は僕の存在の不確かさにひどく惨めな気持ちになった。ひたすら真っ直ぐな白線と緩やかなカーブの沿道を目で追って、車のことをまるで気遣わない信号に何度も止められて、この時間の僕は。

 彼女が知っている僕と、僕が知っている僕、そして、僕が演じている僕。

 全員がバラバラで、一緒くたに僕の中にいる。そして、僕が演じている嘘の僕だけが彼女に合う事が出来て、会う度に小さく薄くなっていくような彼女を見ることで、本当の僕がもっている、ありのままの心はずたずたになっていくようだった。それはまるで、僕が撃ち殺した子供たちの銃創みたいにひどい有様だ。

 それなのに彼女は、僕に、

「いつまでも待っててくれるって、言ってくれてありがとう」

 って何度も言った。

 窓の外に舞う枯れ葉だとか、揺れる木の枝を眺める彼女の目から零れる涙を、どんな僕の姿のせいで流れてしまったのかと考えて、僕の息は詰まって。

「お礼なんかいらないのに、僕は絵里に会いに来ただけなんだから」当たり前のことにお礼なんて言わないでよ、と。僕は安心感を与えたくて、彼女の喜びそうな言葉を選んだ。

 いつの間にか、形式的な、儀式的な様式の挨拶になっていく一方で、それを繰り返す度に彼女の命は、段々と見えづらくなっていって、最後には、僕の知る彼女ではない彼女になって、彼女の部屋に、絵里はもどったんだ。


 それまでの間にも、その後にも、今だって。僕は、インド洋を飛んで、時には太平洋の真ん中から恵みの大地に忍び寄る。もうどんな戦場でさえ、どんなに幼い対象でさえ、怯まずにトリガーを絞る事をするようになって、ずいぶん危ない目にも遭ったしずいぶん、殺した。それでも悲しい気持ちだって、いっそ希死念慮だって消えはしないけれど、僕の体の中に浮かんだ小さな機械は、それを数十秒で消し去ってしまうんだ。

 絵里、僕の絵里。どれだけ時間が経っても、きっと君は許してくれないだろうと思うけれど。僕は、汚れ仕事に今から向かうよ。僕らが望んだ、小さな命は決して手に入らなかった。だからといってはなんだけれど、君のところに何人かは小さな子供を送り届けるかも知れない。

 彼らの大半は、君のいる、天国にはきっと行くことが出来ないかもしれない。もし、寂しかったら、戻っておいで。大歓迎だ。


 さっきまでべったりとしていた雪は、白く、細かい粒になって相模湾の沖に降っている。海の上に浮かぶ鋼板には降り続いているこの白い粒は積もらないけれど、君が帰ってきた日の町の白さを僕は、思い出して。

 息は白くて。ぼくの中から出てきた小さな水のかけらも煙みたいに、海の上に溶ける。


「いつまでも、待っているよ。この世界で」絵里。

 ゆっくり呟いて、君が僕に残した僕の偽物は、胸にしまった。


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