第5話 ifがあったならば

 ◆ 5 ◆


 なおも佐々木は語った。涙で濡れた顔を拭いもせず、口調も変えず、呼吸も乱さず。


 同じ街に住んでいる身だ、すれ違う事も確かにあるだろう。佐々木が俺たちを見かけたのは年末の事だったという。


 相変わらず倦怠感を漂わせる表情をしていた俺と、楽しそうに俺を引っ張り回すハルヒの姿は、こいつの心境に大きな変化をもたらせたのだと、佐々木は語った。


――苦痛と下らなさに満ちた今の日常と、キミと共に過ごした中学三年の一年間、そして今のキミの楽しそうな日常を、迂闊にも対比してしまったんだ。全く無意味なことにね。


 佐々木は淡々とそう語った。


「それから僕の中で、急激にキミの存在は膨らんでいったんだ。キョンがいてくれたことで僕は孤独ではなかったんだ、とね。そんな簡単な事を再発見するのに時間はかからなかった。だがそれも仕方あるまい? 僕は卒業してキミと離れた時から、キミに対する感情の全てを封印していたのだからね。といっても、たかだか数ヶ月前のことだ。消し損ねた火種は燃料を加えてやれば、また燃え上がるものさ。そして、それまでは抑え込んでいた自分の感情を……次第にコントロールできなくなっていったんだ」


 それから佐々木は、北高に進学した俺以外の同級生に連絡を取ったりもしたらしい。そう言われて思い当たる顔はいくつかあったが、なぜ直接俺に連絡する気になれなかったのかと問いただす間もなく、佐々木は続けた。


「年末にキミが入院したことも聞いたよ。既に退院した後だったがね。リアルタイムであれば、或いは見舞いにもいけたかもしれない。それを契機にキミに甘える事もできたかもしれないね。だが、時既に遅し、だ。年始に年賀状を突然出す事も考えたが、結局は出来ずじまいさ。冬休み……まぁ僕の場合は冬期講習だね。それが終わって三学期、僕は初めて順位を落とした。ああ、学力テストのことさ。まぁどうでもいいことだったんだが、親や教師はそうは思わなかったらしい。それくらい僕の表層状の様子もおかしかったのかもしれないね。両親は心配してくれたが、それは僕の精神状態や身体状況じゃない。数字のことだけだった。一応それでも素振りは見せてくれたがね。最終的に帰結するのは数字のことさ」


 それでも学年末には成績をリカバリーしたという。だが、それは最後の意地だったと佐々木は薄く笑った。そして、たった今気づいたかのように頬を拭うと、自分が泣いているという現実にだろうか、再び喉を鳴らして笑いながら言葉を続けた。


 そんな学年末が過ぎ、一年間の成績に因る無情なクラス分け結果を待つばかりの二年目の春。橘に会ったのだ、と。


「橘さんの話なんか信じられると思うかい? 僕は現実世界で生きていたし、苦痛というこれ以上ない現実を突きつけられて生きている最中だったんだ。そんな中で、それこそ冒険気質型のエンターテイメント症候群患者の妄想みたいな話を語られてもね。そもそも、あまりにも不確定な話じゃないか、世界を自分の都合のいいように変えられる力、その片鱗と潜在能力が僕にあるだなんてね。だから僕は彼女に言ったんだ、それだけ大きな力の可能性があるのだったら、今でも少しくらいは世界を変えられるはずなんじゃないか? とね」


 そう言われた橘は否定をしなかったという。


 ただ、しばらく言い淀んでいたようだったが『そうですね……少しならば、可能かもしれません。保証はできないですけど、例えば、学校の席替えを思った通りに出来るとか、その程度ならできるかもしれませんね』と微笑んだそうだ。


「くっくっ。僕は笑ったね。彼女は僕の周辺事情は調査済みだったようだが、とんだ見落としをしていると思ったものさ。我が校はね、キョン。徹底した数値管理なんだ。クラス分けも成績順だし、席順だって成績順なのさ。入学時に振り分けられた教室から始まって、それが上位クラスでありながら成績が下落すれば、クラスも落とされる……そんな風にね。場合によっては三年間同じ教室で過ごす事もあるわけだ。それが上位か下位かはともかくとしてね。徹底しているだろう? だがね……」


 それは起こったのだと佐々木は言った。二年一学期の初日、一年次と同じ教室で出席番号順に座らされた後、クジ引きでの席決めが行われた、と。


「そしてね、キョン。僕は橘さんに言われた、その日の夜に願っていた通りの席を手に入れたんだ。窓際最後列という目立たない席をね。でも、そこを望んだ理由はそれだけじゃないんだ」


 さっきも話しただろう? そう言うと佐々木は廃墟となった校舎に背を向けて彼方を指差した。この方角には駅があって、その向こうには俺たちの住む街の駅があって……その向こうには、俺が通う北高がある……んだったな。


「そう。説明が省けて助かるよキョン。そして僕の下らない告白を聞いてくれたまえ。僕がその席を望んだのはね、キョン。そこにいればキミに一番近い場所だと思ったからなんだ。笑えるだろう?」


 それから、キミのところの団長さんが、キミの教室ではそこに座っているという話を聞いていたせいもあったかもしれないがね――そう付け加えて、佐々木は俺に頬笑みかけた。


「なんとも愚かしく、そして情けない願いじゃないか。今更未練がましいとも表現できるね。僕と違う進路を選び、僕と違う学校に通うキミを想って、僕はその席を望み、そして手に入れたのさ。勿論確率論から言えば、こんなことは十二分に起こりえることだ。僕の力だのなんだのは抜きにしてね。たまたま席替えが起こり、たまたまクジで望みの席を引き当てた。だけどねキョン、この一件で僕は橘さんの話に興味を持ったんだ」


 そして、その日の帰路、橘に再会したのだという。開口一番あいつは言ったそうだ『窓からの眺めはいかがですか?』と。


 それは全てを知っているかのような口調だったと佐々木は言ったが、実際そうだったんだろう。あいつの組織とやらが、どの程度の規模なのかは知らんが、古泉達と対抗していると思えば、それくらいの調査は手の指を数えるより楽にこなしてみせるだろうさ。


「でもね、キョン。橘さんの話を聞いて僕は苦笑を禁じ得なかったよ。彼女は、ここで僕が置かれている境遇も理解していたようだ。そんな事を他人に知られるなど気分のいいものではなかったがね。だが、その上で彼女は、こんな境遇にありながらも超然としている僕を、ある意味超常視していたんだ。佐々木さんの精神は非常に安定しているってね。笑わせてくれる。僕のポーカーフェイスも大したものだと自己評価を高めたものさ。まぁ新学年に上がって一部の塵屑達と離れられたこともあって、実際のところ少しは楽になっていたのかもしれないけどね」


――さて、ここからはキミも知っての通りだ。


 両手を軽く広げて戯けたような仕草を見せて、佐々木は俺の顔を見つめた。涙で光る頬の上には、見た事もないような表情の眼がある。それをどのような……と表現できるほど、俺の語彙量はなかったし、人生経験も圧倒的に不足していた。


 ただ、俺はそんな佐々木の表情に、なにも返せない自分に苛立ちを感じていた。


 いつの間にか<神人>は全ての校舎と施設を破壊し尽くし、ただ呆然と――といった体で、瓦礫の上に佇んでいた。

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