第4話

 翌朝、鐘を打ち鳴らすような音で飛び起きた。窓の外はまだ仄暗く、欠けた月が淡く光っている。

 騒々しい音は下から聞こえてきていた。誰かが入口の扉を外から叩いているのだ。

「フィリア・クラーク! いるんだろう? 鍵を開けて出てくるんだ」

 早朝の表通りに、野太い声が響き渡る。フィリアはベッドから出ると、カーテンの隙間から外をうかがった。

 治療院の前には、黒服の男たちが集まっている。揃いの軍服の胸には、獅子の紋章。――〈獅子の爪〉だ。

 とうとうフィリアのもとにもやってきてしまった。覚悟はしていたものの、実際にその姿を目にすると足が震える。よろめきかけたところを、カーテンをつかんでどうにか踏みとどまった。

 そのかすかな音に気づいてか、部隊員の一人がこっちを見上げた。すぐにカーテンを引いたが、間に合わない。

「二階だ! 二階にいるぞ!」

「よし、扉を破れ!」

 怒鳴り声とともに、扉に体当たりする音が聞こえる。フィリアは裏口から逃げようと階段を駆け下りた。

 裸足の足が一階の床を踏むのと、玄関の扉が破られて男たちがなだれ込んでくるのとはほぼ同時だった。ナイフの一本も持たないフィリア相手に、部隊員たちはためらいもなく剣を抜いた。

「おとなしくするんだ」

 ひときわ体格のいい部隊員が、こちらに剣を向けて酷薄な笑みを浮かべる。しかし、丸太のようなその腕に後ろからしがみつく者がいた。

「なんの真似だ! 一緒に連行されたいのか!」

 不意を突かれた隊員は、剣先を揺らしながら叫ぶ。

「おお怖い。いたいけな年寄り相手に、よくそんな口が利けるね。――ほら、今のうちだよ! 早く行きな!」

 部隊員の腕にぶら下がった老女は、振り落とされそうになるのをこらえてこっちに目配せした。フィリアははじかれたように身をひるがえし、裏口へと向かう。

 だが、裏口の扉を開けたとたん、凍りついたように足を止めた。目の前に、黒い軍服を着た青年が立っていたからだ。

 すらりとした長身に、漆黒の短髪。澄んだ灰色の双眸がこちらを見下ろしている。

「……レヴィン」

 フィリアは全身から力が抜けるのを感じた。〈獅子の爪〉が現れたときから、予想はしていたことだ。それでも、完全に希望を捨てたわけではなかった。こうして彼の姿を目にするまでは。

「フィリア」

 レヴィンは息を切らしていた。よほど急いで来たのだろう。フィリアという「魔女」を、逃がさないために。

「ったく、手こずらせやがって」

 老女を振りきった部隊員が、背後からゆっくりと迫ってくる。カチャ、という音とともに、レヴィンも腰の剣を抜いた。挟み撃ちだ。

 これは「力」を使った報いだろうか。レヴィンの瞳を見つめ返し、フィリアは思う。

 だとしたら、逃げるわけにはいかない。すべては自分が招いたことなのだから。フィリアは奥歯を噛みしめ、白銀の剣の切っ先を目で追った。

 しかし、その剣がフィリアに向けられることはなかった。

「ここでなにをしている」

 冷えた刃にも似た声音が、レヴィンの口から漏れる。

「レ、レヴィン王子……」

 長剣を突きつけられた部隊員は、岩のようにごつごつとした顔を引きつらせた。

「この者には手を出すなと言ったはずだ」

「し、しかし、ゲイル王子が――」

「兄上がどうした? 部隊の指揮官は私だろう。わかったのなら、さっさとここから退け。この者の処遇については私が責任を持つ」

 レヴィンはぴしゃりと言い放つ。部隊員はまだなにか言いたそうにしていたが、やがてあきらめたように剣を収め、仲間と一緒に治療院を出ていった。

 扉が閉まったとたん、フィリアは床にへなへなと崩れ落ちる。静けさを取り戻した室内に、大きな溜め息が響いた。自分ではない。レヴィンだ。

「ふう、どうにかごまかせたな。もう駄目かと思ったが」

 すでに厳しい指揮官の顔は消え去り、ゆるい笑みさえ浮かべている。

「ごまかせた? どういうことよ。それに『王子』って――」

 日常とかけ離れた単語に、フィリアは混乱を隠せない。

「そのままの意味さ。といっても、妾腹の第四王子だが。見ての通り、〈獅子の爪〉の指揮官でもある」

「な――」

 フィリアはとうとう絶句した。その目の前に、大きな手が差し出される。

「だが、その身分ももう捨てる。――俺と一緒に、逃げてくれないか」

「……逃げる?」

 フィリアはレヴィンの手と顔を交互に見つめた。

「悪いが、時間がないんだ。〈獅子の爪〉の指揮権は、もう兄の手に落ちかけている。奴らが戻ってくる前にここを離れないと」

 ほんの数時間前に王が死んだのだと、レヴィンは小声で明かした。

「自分以外の王位継承者を消そうと、兄たちはまた刺客を放ってくるだろう。今度こそ討ち漏らさないようにな。それに、兄のゲイルは王以上に魔女狩りに積極的だ。このままではあんたの命も危ない」

 だから一緒に逃げよう――レヴィンはそう言うのだ。

 なにも考えず、この手を取ってしまえばいい。心のどこかでそうささやく声がした。しかし、フィリアは伸ばしかけた手を引っ込めて首を振る。

「私が怖くないの? 魔女だって疑われてるのよ」

「怖いものか。本当はわかっていたんだ。魔女なんてものはいないんだって」

 レヴィンはまったく動じず、笑みさえ浮かべている。その信頼が、今は痛かった。

「でも、私には本当に『力』があるの。あなたを助けたときだって――」

「知っている」

 絞り出すような言葉は、レヴィンの一言にさえぎられる。

「え……?」

 驚いてまばたきするフィリアに、レヴィンは穏やかな視線を向けた。

「あれは、治るような傷じゃなかったからな。嫌いな『力』を、俺のために使ってくれたんだろう?」

 では、初めから気づかれていたのだ。

「でも……どうして」

 魔女ではないと、どうして言いきれるのだろう。「力」の効果を、身をもって知ったはずなのに。

「どうしてだろうな。最初は助かったことを恨みもしたのに。ただ、あんたを見ていたら、もう少しだけ足掻いてみようって気になったんだ。父の手の平で踊らされる人生から、脱け出すために」

 俺と行くのは嫌か、とレヴィンは顔を覗き込んでくる。

「……嫌じゃない」

 嫌なはずがないじゃないか。

 フィリアはためらいを振りきり、レヴィンの手を取った。瞳と瞳を合わせて、温かい手を強く握りしめる。彼と自分とを結びつけてくれた言霊の力に、生まれて初めて感謝した。

 でも、それとももうお別れだ。彼の隣を、自分の力だけで歩んでいきたいから。

 フィリアは小さな声で、最後の「力」を使った。

「もう、『力』なんていらない」

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薬師フィリアの魔法 鮎村 咲希 @Ayu-nyanko

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