男の天使。

小鳥遊葵・朝比奈海・十八鳴浜鷗・大島初平

第1話「男の天使」小鳥遊葵

 路を行き交う人々の声が聴こえる。

 朝。夫を送り出した後、奈津子はホッと一息つき、朝刊に眼を通す。

 食卓ではこの三月で満八歳になる娘の冴子が、一人で朝食の支度をしていた。炊飯器から自分で茶碗にご飯をよそり、

「ママ、いっただきまーす」とチラッと笑顔を向けた後は、喰べることに熱中している。

 夫婦と子供。それぞれが別に朝食をとる光景を他人が見れば、ずいぶん奇妙な家庭に映るだろう。が、それも事情があるのだから仕方がなかった。

 家庭内はまぁ、幸せ、と言えるだろう。

 平凡ではあった。それなりの幸せ感、満足感はそのへんにある。家庭では平凡さが一番なのだ。奈津子はそう信じて疑わない。

 ただ最近、そのように平凡だと思っているのは自分だけで、夫と子供の受け取り方は違うのではないだろうか、と感じたりもしていた。

 冴子の食事している姿を眼の端に捉えながら、奈津子は器用に部屋の隅々まで見回していた。三人家族の住居としては、2LDKのアパートはいかにも狭い。

 裕福な家に生まれ育ち、広々としたところに棲んでいたころと、父親が急逝して手品のように朽ちた生活とを体験しているだけに、家そのものにはさほど執着心はない。

 それでも、夫婦二人だけで暮らしているぶんにはまだしも、冴子が生まれ、その成長とともに、壁に押し潰されるような圧迫感を覚えるようになっていた。

 部屋は二階で、見おろす真下の道があちこちへの通勤路となっていて、朝七時ごろにはもう、人々の声で姦しい。

(多少不便でも、環境のよい、少し広いマンションにでも引っ越そうかしら)

 甲高い人々の声や車の排気音を耳にしながら、奈津子はいつもの朝のように、そう思う。

 八時半。そろそろ冴子の登校時間だった。

 引っ越しをするにあたり、いちばんのネックは冴子の存在だった。

 まだ八歳。せっかく親しくなった友だちともわかれなければならない。そのことがいつもためらわせる原因になる。

 冴子はすでに、登校準備を整えている。食器をさっさと流しに運び、乾いたタオルで執拗に濡れた手を拭きながら、冴子は母親である奈津子を見つめてくる。

 何でも一人でやって、偉いでしょう。眼がそう言っていた。無言でうなずいてやる。

 この子は私のように育っている。今日もそう思う。

 表情の中から、自分と同様の資質を感じ取っていた。うなずきと微笑に誘われたように、冴子も笑顔を返してくる。

 

 奈津子が外に職を求めたのは、冴子が保育園に通いはじめたころだった。その時期を待ち望んでいたのだ。

 あれから五年。冴子にも親の生活のリズムが浸透したらしく、一年ほど前からは、こうして何でも一人ですることを、当然のように受け入れている。

 昼の仕事は朝九時から五時までで、日々冴子のほうが早く帰宅する。冴子はそれに対しても一言も不平を口にしなかった。

 ただ、奈津子は夜も仕事を持っていて、週に三日はいったん昼の仕事先から帰宅して、再び着替えて出かけなければならなかった。そのときだけは冴子も複雑な表情を隠さなかった。

 本音は寂しいのだろう。だから、奈津子が家にいるときは、一日中でもまとわりついて放れない。

 そうした無邪気さと妙に大人を演じる娘。そういう子をつくり上げたのは自分。つねにそうした負い目があった。

 時折、うるさい、と思うほどに、子猫のようにスカートの裾や腰の周りに戯れるのを見ていると、まだ八歳なのに、望みもしない大人の生活を強いられている娘の寂しさを、感じないわけにはいかなかった。

 けれど、この生活リズムを崩すことは不可能だった。

 夫の収入に不満があるのではない。三十三歳の奈津子より、六つ歳上の夫は、おそらく、同年代の男たちと比較しても、生活力という点では見劣りしない。

 見てくれだって決して悪くない。二枚目とまでは言わないけれど、そこいらを怠惰に歩いている男たちよりはずっと若く見えるし、視覚的な評判もまずまずだった。

 それでもどこかあき足らない。結婚生活に失望したというのでもない。ひょんなきっかけから夫と結婚し、冴子が生まれた。それはそれなりに幸せなのだ。

 子供の成長を眼にするのは嬉しいものだし、ホームドラマの理想的な父親像のように、娘と戯れる夫の姿も微笑ましいものだった。

 しかし、ある日、奈津子は不意に変えられた。

 狭いアパートの中で、毎日、家族三人だけの幸せ感に浸っていた奈津子の肩を強く叩く何かがあった。

 それは身体の奥底から、凄まじい勢いで駆け上がってきた、誘惑、という魔物だった。

 自分が自分を、どこかへと誘っていたのだ。それに敏感に反応していた。

 年齢とも無関係ではないかも知れない。さらには、備わっていてこれまで気づかなかった、仮眠していた資質。

 それらが奈津子を外に連れ出そうと、何度もアタックしてきた。

 簡単に負けた。その甘美さに。

 むろん、夫は反対だった。妻は家にいてこその妻。働きに出るということは、自分の甲斐性を否定されているとでも受け取ったらしく、激しく反対した。

 だが、結局は折れた。言い出した以上、遂行する性格を熟知していてのことだろう。と同時に、夫婦間での相手に対する愛情の量の差でもあった。

 なにしろ夫はいまどき珍しいほどの、家庭第一主義者であり、夜遊びもしない真面目男だった。

 奈津子は違う。子供が出来てからは、一つに凝り固まる愛情というものも多少はいいものだと感じてはいたけれど、もともとは奔放な性格だった。

 結婚は殆んど成り行きのようなもので、自分を真摯に求める当時の夫の熱意に、他の男よりは強いものを感じてのことであり、自分の年齢などを考えて妥協したようなものだった。

 だから結婚しても、奈津子の優位な立場は動かなかった。所詮、男と女は愛情の量が多いほうが傅くしかないのだから。

 ただ、動機はどうあれ、奈津子は結婚後、従順ではあった。いまだって基本的には変わらない。それは家族への愛、という範疇においてのことではあるけれど。

(私には自分にもわからず、制御できない、もう一人の私がいる)

 最近、頻繁にそう思う。仮に他の男とのセックスが夫や子供への裏切り行為だとするならば、それはもう、もう一人の自分のせい、としか言いようがない。

 奈津子は実に簡単に、そう割り切ることが出来た。

 

(そろそろバスの時間だわ)

 学校に行く前の僅かな時間を、膝で甘えようとする冴子の頭を手櫛しながら、奈津子は朝だというのに、邪まな妄想の中にいた。

 冴子の友だちで一緒に登校する女の子たちのソプラノが路上から聴こえてくる。その声に妄想を断ち切られた。

「ママ、今日は水曜だから、夜もお仕事よね」

 玄関のドアに向かって歩きながら、冴子が言う。

「そうね。でもパパは五時半に帰って来るし、ママもいつものように一度お家に帰って、それからのお出かけだから。そうねぇ、誰もいない間は浩くんのところにでも行って遊んでれば」

「ううん。今日は浩くんちには行かない」

「あら、喧嘩でもしたのかしら。いつも行ってるんでしょう」

「そう。だけど今日は、浩くんがウチに遊びに来るのよ」

「そうなの。それじゃ、何か美味しいオヤツつくっとかなければならないわね」

「うん。お願い」

 奈津子はうなずき、

「つくったら、冷蔵庫に入れとくから、レンジでチンしてから喰べるのよ。浩くんだけかしら、来るのは」

「違うよ。ひろ子ちゃんと大ちゃんも来るって言ってた」

「了解。あ、それから、パパのほうがママより先に帰るはずだから、お風呂沸かしておくように言っといてね。ママ、すぐに夜のお仕事だから」

「うん、わかった。じゃぁ、行って来まーす」

 冴子はドアを開けて、勢いよく飛び出して行った。

 窓を開ける。道を見下ろした。ちょうど、冴子がバスのステップに足をかけて、上を見上げてくる。眼が合う。お互いに小さくうなずいた。手を振り合う。ずっと続いている、朝の儀式のようなものだった。

 そろそろ九時になる。出勤時間だった。娘と約束したオヤツなどつくっている時間などなかった。昼休みにでも何か買って、一度家に戻ろう。そう決めた。

 朝食は原則として摂らないので、支度は早い。

 残っていたコーヒーを呑み干すと、あとはもう、鏡の前に五分坐ればお仕舞いだった。会社まで自転車で十五分。九時始業の呑気な会社なので、奈津子の出勤が、家族の中ではいちばん遅くなる。鏡台の前に腰を降ろした。

 

 時々、自分の性格を省みて、なぜこのようにつくり上げられてしまったのだろう、と思うときがある。それでその根源を探ろうとする。しかも、それはいつだって不意に湧く。今朝がそうだった。

 僅か十分か十五分しかない慌しい時間の中で、奈津子はふと、自分の顔を描く手をとめる。鏡にそんな自分が映っている。

 性格が形成された根源ーールーツを探ろうとは思っても、さほど大げさなものではない。それもやはり、自分の性格がさせる、一つのゲームのようなもので、真剣に悩んだり苦しんだりはしない。

 面倒くさいのは極端に嫌いだったし、そのことで自分がいっときでも暗い気分を味わうことなどもっての外。そう思うのも性格そのものなのだろう。

 鏡の前に坐り、いつもよりは念入りに化粧を仕上げながら、奈津子はそう結論付けた自分を気に入っていた。

 自分に忠実なもう一人の自分が、鏡の中で何の屈託もない笑顔を見せている。が、よく見ると、忠実に見える鏡の中の自分の顔は、本人に対して少し反抗的な表情を見せることがある。

 動作ではない。どこかが違うのだ。その微かな違和感が、時には奈津子をとことん苦しめることもある。

 鏡に映る自分は、思考も動きもすべて同一であるはずなのに、実はそうではない、と気づいたのはいつごろだったろうか。

 鮮明に記憶しているわけではないけれど、多分、外に仕事を持つ、少し前ごろだったと思う。

 今朝のように、柄にもなく自分の性格や、どこかに巧みに潜んでいる資質にまで思いが及ぶようなとき、奈津子は鏡の中の自分がひょいとこの自分を裏切る姿を垣間見る。そう。鏡の中の顔は実に安易に自分を裏切っている。

 それがいまもよく見えていた。右の小指を一本立ててみる。当然、鏡の中の小指もピンと立つ。けれど、それはやはり、自分を裏切っている。

(馬鹿よねぇ、殆んど……。きっと生理が近いせいだわ)

 そう思い苦笑しながらも、奈津子は再び、鏡に向かって左の小指を立てている。小指はどう見ても右手の小指。当たり前でくだらないことなのに、この拘泥の執拗さは何なのか。

 奈津子はいつもとはだいぶ違う、今朝の自分の変化に、今日これからを占い、得体の知れない不安に包まれる。

 この感覚ははじめてかも知れない。腕時計を見た。九時二十五分。遅刻だった。

 立ち上がる間際、もう一度、今度は右手の小指を上げてポーズをつくった。鏡の中の小指は左手のものだった。大げさに身を竦める。苦笑の後に歩き始めた。

 一歩外に出た瞬間、ついさっきまでの憂鬱に似たようなものが、見事に消えていた。

 

「今朝は遅刻は四十分だけか。偉い偉い」

 コートを脱ぎながら事務所に入って自分の机に向かって歩きはじめると、背後からそう言って抱きついてきたのは、北山だった。

 立派なセクハラなのに、もう恒例化していて、一人として気にする素振りもない。むしろ、その光景を愉しんでいるようだった。

「もう、やめてよ。朝から気持ちよくなっちゃうじゃないのよ」

 馴れた仕種で北山の腕を振りほどいた瞬間から、職場ではたった一人しかいない、女としての奈津子の存在は女王となる。

 県内では名の通った会社で、高級事務機器の販売がメインだった。奈津子は鎌倉に本社を置く、大河屋の蒲田店に勤め、事務処理の一切を一手に担っていた。

 支店には男が八人。他には運送に係わる社員が一日中出入りしていて、多い日には三、四十人の男たちが、事務所内にうようよいることもある。その中で、女は一人だけなのだ。大事にされて当然だった。

 男たちが言うには、男好きのする顔なのだという。全体の雰囲気も口説けば何とかなりそうに感じるのだという。

 プロポーションには自信があった。とくにはっきりと存在を誇示するように、歩くたびに左右に動く尻の量感は、男たちの眼にはたまらないらしい。

 そうした牡の欲望が、雌である奈津子の、日ごろの遅刻や早退などの我がままを黙認させているようだった。

 そんな男の甘さが無性に嬉しかった。夫もそれなりに大事にはしてくれる。しかし、群れを成す動物のような会社の男たちの強い眼差しとは、とても比較できるものではなかった。

 夫の優しさは、子供の母として、自分の妻としてへの優しさだった。会社や街の男たちは違う。衣服の上からでも強引に全裸に剥いて女を妄想し、愉しんでいる。

 その淫らな優しさ。奈津子はそのように、眼で犯される瞬間が大好きだった。

 熱のこもった男たちの眼光。その視線を殊の外気に入っている。

 だから、外ーー仕事場が好きで、街が大好きなのだ。

 これから五時まで、家庭内の煩わしさから解放されて、自由に過ごせるかと思うと、細胞が自然に活性してくる。

 仕事にも集中出来る。四方から注がれる視線を全身で受け止めながら、奈津子は昨日やり残していたぶんの伝票の整理からし始めた。

 いつも唐突に誰かが突進して来て、胸や尻を風のように撫でていく。そんなことを想像しながらの時間に浸っているほど以上の、女として素敵なアバンチュールなどあるだろうか。

 多情という言葉を知らないわけではなかった。しかし、その言葉の持つ淫靡な響きが心地よい。このように毎日を過ごせれば、と思う。そんなときの奈津子からは、家庭人としての片鱗さえ見い出せない。

 昼過ぎに、一ヶ月ぶりで、溝口支店の多田が顔を出した。胸に妖しい波紋が拡がる。

 多田は周囲に如才のない笑顔を振り撒きながら、久しぶりにみんなに会えた嬉しさからか、駄洒落を連発しながら事務所内を回り、最後に品物の納入伝票の束を手に、奈津子のデスクに近づいて来た。

 周囲は奈津子と多田との関係を知らない。その点、多田はとても巧みで、絶対に感知させないという、自信があるようだった。

 奈津子も充分に気をつけている。秘密が愉しい。

 男たちに均一に笑顔を与えてこそ、自分の価値が高まる。男は単純で、自分のことはともかく、女を他人が独占することを嫌う。

 呑み会などで、アルコールの勢いから、隣りに坐った男にきわどいポーズをサービスして、周囲の眼を惹こうとすることはあっても、それはあくまでも遊びだった。

 男たちはそんな奈津子のオープンさを好み、だから、多少の我儘には眼を瞑ってくれる。それだけに、多田との情事は完璧に隠蔽しなければならなかった。

 露呈した瞬間、事務所内での女王としての地位は崩壊する。それは心得ていた。

 多田は奈津子に伝票を手渡したとき、巧妙に手のひらにシグナルを送ってきた。自然を装い、微笑みの中に応えを含ませた。

 昼休み。奈津子と多田は、会社からはだいぶ離れたところにある、喫茶店の隅のテーブルを挟み、向かい合っていた。

 大きな喫茶店で、男女の秘密めいた出逢いには恰好の場所だった。見回すと、同じようなカップルが何組かいる。

「一ヶ月ぶりかしら」

「そうだな。十二月の二日に逢ったのが最後だから、正確には四十九日になる」

「法事みたいな言い方ね」

 シジュウクニチ、という言い方がおかしかった。そして、その四十九日と言った一言が、妙に気になった。

 面倒は嫌いだった。

 多田が、この前逢った日から今日までの日数を正確に把握しているということに愕いた。これは自分に対する愛情の変化ではないだろうか。ふと、そう思う。

 愛されることは嬉しい。愛することも愉しい。

 ついさっき、多田の顔を見たときは、奈津子も初恋の相手が出来た十代のころのようにときめいた。これだって、一つの愛、なのだろう。

 しかし、奈津子はこの前、多田と逢った日にちなど、大雑把にしか覚えていなかった。姿を眼にするまでは、正直に言えばその存在さえ忘れていた。

 ただ、逢えば瞬時にときめきはする。それだけだった。

 何時間か後には絶対に行われるはずの情事の光景を想像して、期待に震えたりもする。それだけだった。

 多田もそうだった。だから、安心して好きになれた。だが、今日の多田の言動は、奈津子の理想を裏切っていた。見つめてくる眼が、いつになく真剣なのだ。

「元気そうだな。相変わらず、みんなにもてているようだ」

 それでも口調は穏やかなものだ。が、眼に余裕がない。そんな多田を望んではいない。自分のライフスタイルを脅かすような言動だけは願い下げだった。

 逢っているこの瞬間、脇目も振らず、ひたすら夢中になってくれればいい。存分にお互いを堪能し、そのときだけ、自由に弄べばいい。奈津子は祈るような気持ちでそう思い、多田の顔を窺い、唇を凝視した。

「なぜ、正月は来てくれなかったんだ」

 コーヒーを一口呑んだ後のことだった。やはり、口調も顔の表情もあきらかに違う。

「だって、家族がいるのよ。それに私、必ず行くとは約束してなかったはずだわ」

「おまえはいつだって、必ずとか絶対という約束はしない女だ」

「それも仕方ないでしょう。一人ならともかく、私には夫がいて子供がいる。それに正月は来客が多いし、夫の実家にだって行かなければならない。あなただってそんなことぐらい、わかるでしょう」

「俺は正月中、初詣にも行かないで、おまえからの連絡をずっと待っていたんだ」

 まるで駄々っ子だった。もっとも嫌いな推移だった。

 急激に多田に抱いていたイメージが崩れていく。三十五歳。独身で、女には好かれるタイプだった。

 顔を出さなければあまり思い出すこともないけれど、たったいままで、多田は夫以外に求める「男」としては理想的だった。

 なぜなら、多田は交わるときにだけ「愛」を燃焼させて、普段は何食わぬ顔をしていられるからだ。それだけに、セックスは情熱的だった。だから、貴重だったのだ。

 隣りに子供が寝ていて、どうしてもお互いに遠慮がちになり、尚且つ、夫婦という義理だけで繋がるような夫との交わりとはまったく違う。

 奈津子は多田とそうなるとき、自然に獣となり、本能のままに時間を喰い、充実感に満たされた。

 私生活への無関心が最高だった。いっときの激しい貪りだけが必要なのだ。

 その一瞬には、多田の背を、夫との交わりのときよりも数倍強い愛で抱く。

 不倫相手に対しては、絶対に節度ある分別を望んでいた。家庭では一応、貞淑な妻であり、母でありたい、と願っているからに他ならない。

 不倫とはいっても、奈津子の感覚では少しも家族を裏切ってはいなかった。少なくとも、家庭の中に外での出来事を持ち込まない、という点に於いて。

 だから、男に必要以上の強い愛情ーー独占欲は求めない。それよりは万人に等しく愛されたかった。

 理想は当然、自分主導に尽きた。それだけに、今日のような多田の真摯さには困惑してしまう。そう思いながらも、多田の顔を見つめる奈津子から、男を惹き寄せるような、艶かしい微笑は絶えなかった。

 それが資質なのだろう。しかし、それらが願望とは逆に、男たちに誤解を与えることを、奈津子は知っている。だからといって、責められるわけではない。演じているのではない。媚びは備わっている資質なのだから。

 また、願望と現実との狭間での自分の言動による、相手の苦悩を見て人知れずに愉しんでいるという矛盾が、数多い奈津子の資質の中の一つでもあった。

 家庭内には他の男の気配など絶対に持ち込まないと割り切っていながら、それでもその危険の淵に、自ら足を踏み入れてみたい、という倒錯した欲望さえも実はある。

 男の苛立ちと苦悩の色彩が濃くなるほど、奈津子が放つ妖艶な微笑の中に、淫らさが彩られてくる。

 多田の眼からは、事務所で陽気な冗談を撒き散らしていたときのような、世馴れた耀きが消えていた。

 眼光は奈津子を見据えて純真だった。

 奈津子はそんな多田を見返して、自分に降りかかりそうな危険な匂いに噎せながら、男を狂わせる、という、女冥利を実感しつつある。

 快楽による、震えが走る。

「一ヶ月に一度はこうして逢えるのよ。それでいいじゃないの。こうして逢えば、私はいつだってあなたの自由になるんだから。お互いにそれ以上を望んでは駄目なのよ」

「愛し合っているんだろう。気持ちが強くなれば、一ヶ月一回は少なすぎる。それならむしろ、逢わないほうがいいとも思いたくなる。月に一度、蒲田に来るたびに、俺はずっと辛い思いをし続けてきた」

「あなたは物足りないほどにそんなこと言う人じゃなかったのに、今日は一体どうしたのかしら。私は今日のようなあなたじゃなく、以前のように、時々はおまえを抱いてやるって感じのあなたが好きなの」

「三年にもなるんだぞ、俺たちは。逢うたびに抱き合って、もうお互いの尻の毛の数だって知り抜いてるほどなんだ。それでもおまえは家に帰れば旦那や子供に囲まれて平然としていられる。俺は違う。この三年、アパートの中で一人悶々として過ごして来たんだ」

「そうだからって、夫と子供を棄てて、自分と一緒になってほしいなんて言うつもりじゃないでしょうね」

「その、まさか、だったら」

 多田の眼に卑屈さが宿る。

「むろん、子供までは棄ててほしいとは言わないけれど」

「お断りだわ」

 奈津子はきっぱりと言い切った。気持ちを試されるような言動に触れたくはなかった。

「わかってるよ。おまえが何をどのように考えているか。そんなことは充分に理解している。おまえは外と家とを呆れるほど見事に区別しているからな。俺とのことだって、ボーリングしたりゴルフしたりと、そういう遊びと同じにしか感じていない。そう思われることで疵つく男の気持ちなどに、まったく頓着していない」

「たしかに家と外とは区別はしてるわ。夫は必要だし、子供は愛してる」

「夫は必要なだけではないはずだ。愛情があるから一緒にいるんだろう」

「それはどうかしら。でも、単に愛しているとか愛していないから、外にあなたのような彼をつくっているんじゃないわよ。だから、たとえ私の夫があなたで、いまこうして逢っているのが夫だと仮定しても、私の気持ちは同じだと思うわ。悪いけど、はっきり言えば、あなたより夫のほうが収入も多いし、見栄えだっとずっと上よ。上手く説明出来ないけれど、愛情云々じゃないのよ」

 多田の前に置かれている煙草に手をのばした。多田の表情が揺れていた。ある意味、奈津子にはそれさえも快感だった。

「おまえはひょっとして、ただ淫乱なだけじゃないのだろうか。その血を鎮める、いっときの安定剤としてだけ、俺が必要なのじゃないのか」

「ひどいこと平気で言う人なのね。でも私、その淫乱って言葉の響き、あなたが思うほどに嫌いではないわ。それに淫乱さを否定するつもりもない。ただ一つ、誤解しているところがあるわ。あなはいま、自分は安定剤がわりか、と言ったけど、それは違う。そんなことであなたを使用したりはしないわよ。私は私を抱きながら、その瞬間に酔う、あなたの顔を見るのが好きなの。そう。その瞬間だけは、夫は論外だけれど、子供の存在よりもあなたへの愛が強くなる。強くなってた。それだけは偽りのない事実よ」

 多田は呆然として、奈津子の口元を見ていた。

 成り行きからは、仕事が終わり再び逢っても、いつものように二人で、モーテルに入るようなムードは消えていた。が、楽観していた。たとえどのような状況下でも、奈津子には必ず多田は誘ってくる、という自信がある。

 男の神経は非情に繊細ではあるけれど、せっかくのご馳走を眼の前にしながら、箸を置く男など滅多にいない。とくに今日の多田は猛然と挑んでくるはずだった。

 男の多くは、刻印するように、女の肉体に自分の印象を植えつけようと躍起になる。身体で繋ぎ止めようと努める。それは大いなる誤解ではあるけれど、男はとかく、信仰のようにそう信じているところがある。

 果たして、不利な形勢を打破するように、多田の表情にやわらかさが戻っていた。それは寸分違わない、餓えた男が女に媚びる、類型的な表情でしかなかった。

 多田も普通の男に成り下がった。いや、もしかしたら、これまでの恰好のいい姿こそが虚像だったのかも知れない。

 そう思いながら、奈津子はそれでも、多田からのベッドへの誘いを期待していた。気持ちはどうでも、肉体は久しぶりに牡の肉を求めて、疼いていた。

「今夜、いつもどおりでいいんだろう」

 打って変わった優しい声だった。いいわ、と応え、夜の光景を意識しながら、この男とはそろそろかしら。奈津子はそう思いつつあった。見つめあい、微笑んだ。安堵したような、多田の顔がある。

 

 昼休みが終わり、事務所に戻った。社員は全員帰社しており、奈津子が戻ったときには、一足早く帰った多田が、ついさっきとは別人のような笑顔で、自分の所属する支店に戻る支度をしているところだった。

 冗談に冗談で送られて、多田は奈津子のデスクに近寄って来た。

「それじゃ、また、一ヶ月後」

 多田はそう言い、わだかまりのない笑顔を見せた。

(いつまでもこのようにいてくれれば、何一つ不満はないのに……)

 奈津子はドアに向かって歩き出す多田の後ろ姿を見ながら、喫茶店での憂鬱を思い浮かべた。

 想像もしていなかった、あの顔。

(どうかしてたんだわ、きっと……)

 そう思いながら、ひょっとしたら、私が多田をあのように変えたのかも知れない。そう思う。もしそうなら、悪い気分ではなかった。ただ、煩わしさは変わらない。

 奈津子にとって、多田は夫との結婚後では、唯一特別な関係にまで進んだ男だった。すべての男の前に門戸を開いているような立ち振る舞いなので、男たちはこぞって奈津子を誘惑しようとした。隙を狙っていた。それは夜の仕事以外でも同様だった。

 昼の職場でも、後ろから抱きついてきたりするのも、男たちのあからさまな欲望の表現だと思う。

 なぜなら、巧みに胸や尻を触りながら、その手はとても淫らに這い回り、尻が押し付けられてすでに硬くなった男の性を敏感に感じ取ったことも、一度や二度ではない。

 月、水、金曜日と、夜、パート勤めをしている、クラブ形態の店に行くと、それはさらに顕著で、男たちは無遠慮にぎらついた眼で奈津子の全身を賞賛する。

 しかし、そんな男たちの織り成す行為は、決して奈津子を疵つけるものではなかった。むしろ、歓迎していた。

 自分に向けられる、直截な男の視線こそが、そろそろ速度をあげつつある、女としての老いへのブレーキになり、妙薬にもなっていることを、感じ取っていたからだった。が、危害を蒙りたくはなかった。また、自分を安売りするつもりもない。

 なるべく多くの男たちから注目され、愛されて、沢山の男たちを愛したいとは思いながらも、奈津子の触覚は、巧みに危険を察知する。

 今日まではまさにそうだった。絶対的な安心と、正確な愉悦が保証されるならば、奈津子は男と女であるかぎり不可欠な、アバンチュールとしての最終目的を拒否するつもりはなかった。

 そう。そういう意味合いからも、今日までの多田は、実に理想的な相手だったのだ。

男を自分の前にひれ伏させるという、サディスティックな快感を覚えながらも、奈津子はやはり、多田の変わりように尻込みしている。

 それは多少、多田への嫌悪感にも通じる。けれど、それでも奈津子は、夕方、多田と逢おうとしている。

 ーーその理由ーー

 強いて言えば、あと少し、自分に狂わせてみたい、という歪んだ欲望だろうか。生々しい優越感だろうか。

 それが自分の置かれた立場を悪化させると懸念しながらも、奈津子は夕方までの時間を、映画でも観て過ごすはずの多田の顔を想像して、満足もしているのだった。

 嫌悪しつつある気持ちを自覚しながらも、自分を待ち、焦燥する男の顔を思い描くことは愉しかった。感情の矛盾。それに苦笑する。

 そのときだった。

「奈津ちゃんは典型的な悪女タイプだな」

 そう言った、秋山の顔を思い出す。夜の仕事場の客だった。悪くはない男だった。むしろ、ついさっき喫茶店での多田に幻滅した後だけに、脳裏に手繰り寄せた秋山の顔が、鮮烈に浮き上がってくる。

 おそらく、今夜も来るはずだった。秋山は自分とこれから行われる、多田との情事の痕跡に気づくだろうか。

 そんな妄想の中に漂いながらも、五感は無意識に仕事を追っていた。日々の繰り返しの中で培われた習性は、気持ちはもうその場にはなくても、能率よく仕事を片付けさせる。

 すべての書類の記載が終わったとき、壁にかかっている時計が、終業を報せた。

 書類の束を手に、支店長のデスクに向かう。

 周囲を見回す。男たちの眼に、一日の仕事を終えた安堵感があらわれていた。その男たちの視線が、堂々と奈津子の胸や尻に注がれる。

 悪戯心に駆られる。殊更に大きく尻を振る。いっときだけ、夜の仕事場にいるときのような、歩き方をする。

「おお、セックスが事務服着て歩いてる」

 その声に、支店長が老眼鏡をずり下げて奈津子を見上げた。

「もう、失礼ね」

 身を捩ってその声に振り向きながら、奈津子は自分に集まる男たちの視線を全身で受け止める。

 

 着替えて会社を出た。

 待ち合わせ場所へと歩き出す。そのとき、後方から名前を呼ぶ声がした。振り返ると、駅へ急ぐ人の群れと逆行して、若い男が駆け寄ってくる。すでに辺りを薄い闇が包みはじめていた。

 男は四月に入社したばかりの、沢木だった。まだ十九歳。奈津子とは十四もの歳の差がある。立ち止まり、近づいてくるのを待っていた。

 沢木は傍に来て、いきなり白い歯を見せて笑った。長髪の前髪が、夕暮れの風に揺れていた。

「どうしたの、何か用かしら」

 入社当時から、親しみのこもった眼差しを向けていた男だった。姉を見るような、それでいて女として意識しているような……。

 当然、奈津子はまだ、沢木を子供としてしか見ることが出来ない。

 可愛い、とは思う。それでこれまでに何度か、沢木を誘い、夜の街に遊んだことがある。二人っきりということはまずなかったが、それでも一度か二度はあった。沢木はそのときを境にして、急速に傾いて来た。

 若いだけに純粋だった。だから奈津子は、それからは誘ったことはない。悪い気分ではないけれど、やはり、恋愛の対象としては若すぎた。

 空が闇を濃くした。星も月もない。雨の予感がした。空を見上げた。沢木はさらに近づいてくる。

「僕、今日は車で来てるんです」

 後方を指差す。路肩に片足を乗せた車が、水銀灯に照らされていた。

「それで、どうしたいのかな」

 口調は拒絶していた。一度、家まで送ってもらったことがある。それ以上のことはない。

「風間さんのような素敵な荷物だけだったら、宅配便の仕事も愉しいでしょうね」

「あら、それじゃ、私は荷物並みってことかしら」

 あのときはそう受け流した。沢木の眼は、そのときでさえ真っ直ぐで、顔は笑っていたけれど、瞳は燃えていた。

 奈津子も笑いながら、自分に狂いはじめた若い男に満足し、微かな満足感があった。あれから数ヶ月が経つ。

「雨になりそうだし、僕、送りますよ」

 予想通りだった。自分に忠実な言葉だった。

 と同時に、相手の都合など一切考えない、若さゆえのエゴが見える。腕をひいてくる。その腕を振り解く。怪訝そうな顔をしていた。

「これから大事な用事があるのよ」

 歩き出しながら言う。

「どこへ行くんですか。何の用事ですか」

 執拗だった。困惑する。苛立ってもいた。

「一々、そんなこと詮索しないの。こんなおばさんなんか相手にしないで、自分に合う若い女の子を誘ってデートしなさい」

 沢木の顔が歪んだ。こういう子は危険。奈津子は満足しながらも冷静だった。失うもののない立場での、純粋な眼ほど怖いものはない。

 待っているはずの多田と対比しながら、沢木の危険な若さというものを感じ取っていた。

「ひどいこと言わないでください。僕の気持ちは知っているはずです」

「それはこの私を好きだってことかしら」

 自然に並んで歩いていた。

「当たり前じゃないですか。僕は奈津子さんを愛しているんですから」

 風間さんが奈津子さんに変わっている。それからの沢木は、十メートル歩くごとに、「愛」という言葉を何度も繰り返した。

 相手も自分同様の気持ちでいると信じている。フリーセックスに近い昨今には、珍しい若者だった。

 バーゲンセールのように、「愛」という重い言葉を、無闇に連発するのも若さなのだろうか。奈津子には「愛」を羅列するエネルギーはなかった。

 唯一、愛を感じるのは、娘冴子にだけだった。

 夫に対してはどうだろう。

 不意に寂しさに襲われた。愛しているか、と問われれば、愛している、と応えるかも知れない。けれど、いつの間にか、そうした感情が稀薄になっているのも事実だった。

 三十八歳の男と、三十三歳の女。もはや、お互いを啄ばむような短いキスを何度も求め合い、愛していると囁き合ったのは遠い過去になっていた。いまでは互いの必要性だけで、夫婦としての関係を維持しているようでしかない。

 そう思うと、「愛」という言葉を、真っ向から言える、沢木の若さが羨ましくもある。おかしくもある。

 事実、そのおかしさが顔に浮かんだのを眼にして、沢木は憤然として、

「そんなに僕っておかしいですか。僕が奈津子さんを愛してるって言ったことが、そんなにおかしいことなんですか」

「ごめんなさい。そんなつもりじゃなかったわ」

 奈津子は弁解して、ため息をついていた。

「おばさんをからかい半分でいい気持ちにさせて、誘惑しようとしちゃ駄目よ」

「僕は真面目に言ってるんです」

 一際激しい口調に、すれ違う何人かが振り向いた。

 面倒な展開だった。だが、どこかで愉しんでいる。自分主導でこうまで熱くさせることが心地よい。

 また、それとは逆に、何時間でも待つ覚悟をしているはずの多田を思うと、沢木の行為は逢いに行くことを邪魔している以外のなにものでもなく、理不尽さを感じてもいた。

 むろん、沢木がこの後の奈津子の行動など、知る術もないことではあるけれど。

「沢木くん、あなたはねぇ、私を愛してるんではないのよ。怒るかも知れないけれど、あなたは別に、私でなくてもいいんだわ。ただ、女が欲しいだけなのよ。あなたはきっと、そこのところを混同しているのね」

 反発が返って来ると覚悟し、身構えた。が、沢木は怪訝な顔をするばかりだった。奈津子にはそれが不可解だった。

「ようするに、私をーー女を抱きたいだけなんでしょう」

 今度こそ怒るだろう、と思いながら、敢えて言う。

「そんなんじゃない。僕は奈津子さんを真剣に愛してるんです」

 自分で唆しておきながら、こうなるともう、お手上げだった。

 むしろ、ヤリたい、と素直に言ってくれたほうが救われる。そのほうが返す言葉にも手立てがある。

 伝法な口調で胸や尻を触り、抱きたいと言われるぶんには、それを軽快にかわし、愉しみながら、退ける。

 だがこうして、言葉で純粋に気持ちを表現する相手は苦手だった。純朴なだけに尚閉口する。

 言葉には、相手を愉しませ、酔わせてくれる技巧と教養が含まれていなければ意味がない。簡素な言葉で自分を最大限に表現したいのなら、小説家にでもなればいい。

 同じ言葉でも、男と女としての会話なら、とくに熟れた女を口説くなら、多少の装飾が必要なのだ。

 その中に時折、槍のようにストレートな表現を鏤めてこそ、女は懐や襞にまで飛び込まれ、刺されてしまう。

 二十歳前の若者にそこまで求めるのは酷だとは思いながら、奈津子は早く、沢木が闇の中へと消えるのを待っていた。

 なぜか急に多田が恋しかった。

 ついさっきまでは、急変した多田の言動を嫌悪していたはずなのに、余りにも唐突な若者からの求愛に、多田に対してほっとするような、懐かしさを感じたからかも知れない。

「私、急ぐから、また、明日会社でね」

 雨がぱらついてきた。それを潮に足を速めた。

「僕、待ってますから」

 未練が見えた。それでも沢木は意を決したらしく、車のほうに駆けて行く。

 奈津子は意味不明な沢木の一言を降り始めた雨に流し、多田と待ち合わせている喫茶店へと急いだ。

 雨が冷えを運んで来た。夜半には雪になるかも知れない。狐色のコートの襟を立てながら、奈津子はさらに急ぎ足になっていた。

 ふと足を止めた。携帯を取り出す。信号を待つ間、家に電話する。夜の仕事がある日でも、いったんは帰宅することが夫との約束だった。

 それを破るのは、多田と逢うときに限られている。言い訳のあれこれを考えながら、コール音を聴く。

 

「おまえ、何やってるんだ」

 夫の鋭い声。奈津子にとっては藪から棒だった。束の間、唖然とする。

「どういうことかしら」

 辛うじて落ち着きを取り戻す。これから多田と逢う。多少、それが負い目となっていた。

「冴子が泣いてたぞ。おまえ、美味しいオヤツつくっておくと言ったらしいじゃないか。それを真に受けて、近所の友だちを家に招き、それなのに何もない。可哀想だと思わないのか」

 迂闊だった。たしかに約束した。昼休みに何かしら買って、一度家に戻ろうと考えていたのだ。それが思いがけずの多田の訪問に、それまでの一切を忘れた。

 今朝の鏡の中の自分を思い出す。いつもならさっさと済ませてしまうのに、妙に鏡の中の自分というものに拘泥した。あれはいまを予感させていたのかも。

「あの鏡が悪いのよ」

「鏡ぃ? おまえなぁ、言い訳にもならないようなこと言うんじゃないよ」

 何気なしにつぶやいた一言に、夫は激怒していた。

 心臓を鷲掴みにされたような気分だった。とくに娘に対しては取り返しのつかないミスをした。

 沈黙していると、

「それで、この電話の意味は何だ。まさか急用が出来て家に帰れなくなったから、店屋物でもとって喰え、とでも言うつもりだったんじゃないだろうな」

 夫のこのような絡み方は珍しい。普段なら一言も二言も返すところなのに、夫の指摘が一々図星なので、奈津子はたじろぐ。

 その後、夫は無言に徹した。それが一層、奈津子を圧する。しかし、

「悪いけどそうなの。店から電話があり、急にパーティが入ったから早出してほしいって。それでーー」

 それ以上の言い訳を嫌うように、電話は夫のほうから切られていた。

 歩き始めた。もうすっかり夜だった。ネオンが鮮やかだった。雨はいま止んでいる。歩きながら、急に腹立たしい思いに駆られていた。

 発端はやはり、あの今朝の鏡のような気がした。

 異変だった。多田の急変。退社後の路上での沢木。そしてたったいまの夫に到るまで、今日はどうも不思議なことばかりが起きる。

 奈津子は夫を含めた三人の男たちの、自分への接し方を比較しながら、そう思う。

 鏡が元凶なのだ。冴子のオヤツを奪ったのも、あの鏡なのだ。何とも歯車が咬み合わない一日をつくったのは、あの鏡なのだ。奈津子はそう思うことにした。

 このまま家に帰ろうか、とも思う。夫の怒りを思うと、多田に向かう足も重くなる。だが、強引にその思いを追い払う。

 自分はいま、外にいる。外で家を思うことは自分の意に反する。

 厭なことばかり続いたけれど、自分のミスでそうなったのは、娘のオヤツだけだった。そう思いながらも、しかし、なかなか夫の顔が消えない。

 夫は帰宅すると、寝るまでの時間のすべてを、娘に与えようとしている。帰宅が晩くなることもない。

 奈津子はその光景を記憶から溶かそうとした。

 明日は夜の仕事は休みだし、予定もない。ずっと家にいて、今日の埋め合わせにご馳走でもつくろうかしら。奈津子は足を速めながら、そう決心した。

 今日は今日。明日は明日。もう決めたことだし、第一、意思が正確に足に伝わっていて、多田との待ち合わせの喫茶店へと、グイグイ導いていく。

 仕方がない。晴れ晴れとした気分ではないけれど、多田と逢うことが今日のメインなのだ。強引に理性を麻痺させる。

 そう。私はより健全で愉しい家庭を維持するために、多田と逢う。情事に燃える。それが奈津子の中での、正しい方程式だった。

 

 多田が身体の上から、放心したように降りた。

 夏子は今日の多田との交わりを悔いていた。満足感はあった。充分に。

 が、体内に風があるように、夏子は内側から冷えていた。

 やはり、あのまま帰宅するべきだった。

 脳裏に浮く夫の顔。自分と同じような眼差しで、見つめてくる冴子の眼。

 夫と娘の眼には差があった。夫は妻として母親としての奈津子に怒っている。

 娘は違う。同性として探っているような眼だった。女としての母親を見ている眼。

 こうして快楽の余韻に浸りながら、家族のことを思い出す自分を嫌悪する。多田は物憂げに腹這い、枕元の煙草に手をのばした。

 与えて、そして与えられた、という自信。

 背中で蠢く筋肉にそれがあらわれていた。奈津子が発した、わかれのムードを払拭した安堵感が多田の全体を覆っている。

 だが、奈津子が得たものは、肉の愉悦だけだった。

 終わった直後の徒労感。それを与えて満足している男など望まない。

 ましてや、家族のことまで思い出させるなど、論外だろう。一切を忘れさせて、その瞬間に埋没させる。それが優れた男の条件なのに。

 奈津子は多田の横顔を盗み見ながら、長かったこの男との、終わりを感じていた。いや、それはわかれるための口実に過ぎず、すべては自分の意思とは知りながらの、こじ付けだった。

 一時間半、多田との情事に費やした。あと一時間で夜の仕事場に行かなければならない。いつまでも肉体だけの余韻に寝転んではいられなかった。

 奈津子は勢いよく起き出し、裸のまま、バスルームへと歩いた。

 

 多田は過去の情事の、どの場面よりも情熱的だった。

 奈津子は店に向かいながら、自分の勝手な思惑により、このいい女を失う、一人の男を振り返る。

 お昼とは打って変わった男らしい微笑で迎えた多田は、ホテルまでを傅くように導いた。知っている多田とは違う。これまでの多田は、どこまでもクールだった。だから、上質な恋人としては最適だったのだ。

 傅くような多田。酔えなかった。芝居が見え、欲望を削った。失いたくない、という態度が露骨すぎた。

 この男は本当に、私に狂ったのだ。その確信が奈津子を冷ます。

 もっとも安全な男との見立てが、肉体を惜しげもなく開かせた理由だったのに、三年後の今日、多田はもっとも危険な男となった。

 あの若い沢木と何ら変わらない。それなら肉体的にも強靭な、沢木を相手にしたほうが、数倍の頂上にのぼれる。

 急激に多田が色褪せる。綿菓子のように甘い言葉を羅列する多田など、何の魅力も感じない。

 それでもホテルへの誘いを拒絶しなかった。自分をふしだらで無節操な女だとは思っていない。わかれようとしているから、断れなかった。

 事務所が違うだけで、同系列の社員なのだ。これからも月に一度ぐらいは顔を出し続ける。わかれるにしても、上手にしなければならない。

 男はほぼ、短絡的だった。腹いせが噂に変わることもある。情事を自慢の種にして吹聴されたくもない。

 女王の地位を脅かす。このままでいたかった。自分の全身を視姦する、男たちの視線が好きだった。そんなことを思い浮かべながら、モーテルに入った。

 多田は発情期の犬のように、息を荒げて飛びついてきた。

 有無を言わさず、衣服を剥ぎ取っていく。滑稽とも思えるような牡の顔。

 奈津子はそれに反応した。気持ちは月のように冷えながら、肉体はマグマのように激しく滾った。

 没頭したかった。しかし、多田が弾けた直後から、奈津子はやはり、多田への冷えを、自分の体内の内側に見た。

 萎えて、術もなく空気に触れる多田の男を太腿あたりに感じながら、奈津子の気持ちも萎えていた。

 抱く寸前までの乱暴はいっときで、その後はいつものように優しかった。それでも斑がある。

 宝のように感じていた、多田の指の動きにも斑が感じられた。

 焦っている。優しさの中で不意に吼え、二度目を突き立てた。苦痛ではなかった。むしろ、歓迎した。

 わかれるのだ。優しさだけでは苦痛だった。悔しい男の激しさがいい。が、快楽に身は溺れても、感覚の一部分はつねに醒めていた。

 その一部分が、激しく自分の上で揺れる多田と、昼、喫茶店で奈津子を困らせた多田とを、イコールで結んでいた。

 勘が鋭いだけに、変化は感じとっているはずだった。だから、努力したのだろう。あたかもそれだけを信じているように、女体に自分を刻印しようとしていたのだ。正確に反応し続けながら、それでも一部分が多田の胸中を覗く。

 後悔は交わった後、すぐに来た。

 逆に多田の表情には安息があった。最後に放った、奈津子の絶叫が、いたく多田を満足させたようだった。

 冷静になるにつれて、奈津子はわかれようとしている男と、なぜ肉を交えるのだろうと省みる。

 わかれた反動により、会社に居づらくなることを思うと、小石を棄てるようにはいかないのも事実で、後腐れなくわかれるための助走との考えもあった。が、それ以上に生まれ持っている資質のよう気がする。

 つまりは面倒だったのだ。沢木のような若い男の厚かましさは拒絶出来ても、多田のように身体が馴染んだ相手に誘われ続けていると、断るのさえ面倒になる。

 いや、多田だけじゃなく、求愛され、それが沢木のように危険ではなく、確実に自分の生活や性格を脅かす男ではないとの保証があれば、応じてしまうような怖れはつねに抱いていた。

 だから、蓮っ葉を装う。だから、上品さも傲慢さも装う。

 それらのすべての虚像が、自分を庇う。護ってくれる。坂口安吾の、「青鬼の褌を洗う女」に出て来るような女なのだ。そう言ったのは、夜の仕事場で知り合った、秋山だった。

 その本を読んだことはなかったので、いまだに意味がわからない。思い立ったが吉日。もし今夜秋山が店に遊びに来たならば、ぜひ、その意味を訊いてみよう。

 そんなことを考えながら、奈津子は男の匂いを流すために、浴室に行き、熱いシャワーを浴びた。

 スリガラスの向こうに、ようやく身を起こす多田の姿が揺れていた。

 

 店のネオンが見えてきた。まだ夜ははじまったばかりなのに、早くも奇声をあげて、蟹のように横歩きするほどに酔っ払った男たちが数人、奈津子を振り返り、指で卑猥な形をつくった。

「エルニド」に出勤した八時半ごろは、いつもの水曜のわりには混んでいた。月末のせいだろう。

 奈津子は着替える時間も惜しむような支配人に急かされて、客席に出た。

 息つく間もなく、仕事が待っていた。ホステスとしての契約ではなかったし、また、ホステスがいるような店のムードでもなかったので、特別な客の場合を除いては、席に着くことはなかった。

 けれど、たまにはそうして落ち着いてみたいと思うほど、四六時中、雑多な仕事に追われてしまう。

 カラオケのリクエスト。氷やミネラルウォーターの催促。煙草。料理。他のスタッフに頼めばすぐに片付くものを、客たちは一々奈津子を呼び、それらを言いつける。

 忙しさを歓迎している日もある。

 今夜がそうだった。多田に抱いた鬱憤を忙しさが掃除してくれる。精神的なそれらが排除できれば、残るのは肉体的な充実感だけだった。

 その夜は妙に身体のキレがよかった。軽い。奈津子は動き回りながら、その理由が多田との交わりから得た愉悦の産物ということに気づき、自分の淫らさに呆れていた。

 十時を回ると、客たちは申し合わせたように席を立ち、帰りはじめる。

 客席をボーイたちとともに奈津子も走る。空いたテーブルをきれいにセットし終わるころ、店内の熱気も一気に下がる。

 秋山が姿をあらわしたのは、十一時に少し前だった。奈津子の勤務時間が、あと一時間で終わる時間帯。

 いつものように、歩くのも大儀そうに入って来た。しかし、その顔も、奈津子の顔を見ると、耀いた。秋山は年齢のわりには、対象に向ける顔の表情が正直だった。最近、四十二歳になったらしい。

「今日は晩いのね」

 奈津子は秋山のボトルを出し、水割りをつくりながら、微笑んだ。

 支配人が席に挨拶に来た。愛想笑いを浮かべて、二、三、秋山と話した後、支配人はこの席に着いているようにと、奈津子に言った。うなずいた。

「少し忙しかった。気持ちは何時間も前からここに飛んでいたんだけど」

 思わず吹き出した。気障なことをまじめな顔で言う。

 他の客は三組だけだった。その中の一人が、中央のステージに立ち、唄いはじめた。疎らな拍手が起こった。

「何かいいことでもあったのか」

「え、どうして」

「表情がすっきりとしている。それに肌が妙に艶かしい。まるでナニの後みたいだな」

 狼狽した。むろん、冗談に違いない。奈津子一人がうろたえている。多田との情事が蘇る。

 こうして秋山は、つねにのっけから、奈津子を脅かす。

 勘がいいのか的確にいまの奈津子を言い当て、赤面させて平然としている。普段は奈津子も、秋山同様、心を顔に出すことはまずなかった。

 秋山の前でだけは例外だった。

 夏子はふと、多田との問題を相談してみたい気になった。それにより、秋山の反応を知りたい、という邪な思いもある。

 なぜなら、秋山も奈津子目当ての客だったからだ。それは本人自ら言っていた。

 出逢いのときから、表現がストレートだった。

 若い沢木の真っ直ぐさとはまるで違う。無造作に言っているようで、秋山の言葉は妙に琴線に触れる。

 当然、数々の言葉が、奈津子に強いインパクトを与えた。

 奈津子は思う、多田に対する自分の急激な変心は、もしかしたら、秋山という、バックボーンがあったからのことではないのか、と。

 奈津子は秋山との出会いの場面を呼び寄せていた。

 無言でいても、秋山は何も言わなかった。水割りをグイグイ呑んでいる。アルコールには異常に強い男だった。

 その横顔は掴みどころのない表情をしていたけれど、それでも風雪を凌いで来た男のような、力強くも不思議な魅力を携えていた。

 希望どおりに過ごしてくれる。話したいはずなのに、奈津子が無言でいるかぎり、それを尊重した。

 言葉では露骨に求めてくる。逆に、表情には言葉のような激しさはなく、焦りも見えない。

 その秋山との出会いは、秋の終わりごろだった。古い客で、週に二、三度は遊んでいる上客のようだったが、奈津子の出勤日に訪れたことはなかった。

 はじめてのとき、秋山はとても横柄だった。それはいまでも変わらない。少なくとも、表面上は。

 その夜、秋山の来た時間帯は暇で、支配人の常連への気遣いが、奈津子をその席に着かせることとなった。いつもは群れているらしいが、その夜は一人だった。

「ニューフェイスか。いつ入ったんだ」

 低い声で、口調はぶっきら棒だった。好みのタイプではなかった。そればかりでなく、奈津子の五感が危険を察知していた。

「もう三ヶ月になるんですよ」

「ほう……、知らなかった」

「あたし、月水金の三日だけだから」

「なるほど」

 秋山はうなずき、

「俺はその合間に来ていたってことだな。それにしてもあいつ、あんたのことなんか一言も言わなかった」

「あいつって、誰ですか」

「ここの婆さんだよ」

 ママのことらしい。

「ニューフェイスでも、おばさんだから言わなかったんでしょう」

「そんな評価はこっちですることだ」

 はじめて笑った。白い歯が印象的だった。料理が運ばれて来た。

「俺が来ると一つ覚えみたいにこれが出て来る」

 テーブル上に置かれた肴にあごをしゃくった。牛の叩きと漬物。言われてみれば、ボトルはすぐ出てきても、スタッフの誰一人として、料理のオーダーを取ろうとしなかった。それだけ常連だということだろう。ブツブツ言いながらも、秋山はそのことに満足しているようだった。

「勤務時間は何時までだ」

「十二時まで」

 秋山の口調に合わせた。

「あと十五分しかない」

 腕時計を見た。煙草を銜える。火を点けると、

「少し、残業するか」

 秋山は独りごちて、訝しげに見る奈津子を気にするでもなく、牛の叩きをパクつきはじめた。

「残業は構わないけど、でも時間オーバー分はこの店、サービス残業にしかならないの」

「そんなことはわかってる。俺が勝手に決めただけだからな。とはいっても、俺があんたの残業分を出すってことじゃないけどね」

 思わず吹き出しそうになりながら、

「そんなことはいいけど、あたしにはーー」

「夫と可愛い子供がいる、か」

 奈津子はいつの間にかペースに引き込まれている自分を感じていた。会話も言葉遊びをしているようで面白い。

 さっきまでの悪い印象が、払拭されていることも不思議だった。

「それじゃ、仕方がない。無理言っても嫌われるだけだ。けれど、あと三十分だけここにいてくれ」

 そう言われた直後、なぜか頭の中が真っ白になる。気がつくと、「はい」と応えた自分の声が、耳の中にはっきりと残っていた。

 奈津子はそう応じていた自分の変化を、他人事のように考えていた。

 三十分は瞬く間に過ぎ去った。

 秋山は約束どおり、解放した。別れ際、眼を凝視してきた。そして言う。

「明日からは俺も、月水金にするよ」

「あら、どうしてでしょう」

「迷惑なのか」

「まさか……。でもーー」

「簡単なことだ。おまえが気に入った。それだけだ。好きになったよ」

 あんたからおまえ。そう変わるまでの三十分だった。

「嘘でしょう。そんなに簡単に気に入ったり好きになったり出来るものなのかしら」

「大きなお世話だろう。一目で好きになってどこが悪い。嫌いなものは一生かけたって好きになんかなれないものだ。たとえばレバーの刺身。俺はあれだけはどんなに金積まれても喰う気にはなれないし、好きにはなれない」

「あたしとレバーを同等に見ているのね」

 その夜、はじめて屈託なく笑った。そして、

「あたし、それほどの女ではないわ。もしかしたらレバー以下かも知れないわよ」

「どうやらおまえには悪い癖があるようだ。さっき俺は言ったはずだ。評価は相手がするものだ。自分で自分を評価されるほど、男にとっては無意味なことはない。それじゃ付け入る隙がないだろう」

「それじゃ、付け入るつもりでいたのかしら」

 段々と奈津子も調子づいてくる。

「当然じゃないか。男なんてみんなそうだ。とくに俺はそのへんは正直だから」

「怖い人、なのね。気をつけなきゃ」

「ああ。充分に気をつけていてくれ。だけど、俺は近い将来、必ずおまえを抱く。覚悟しといてくれ」

 そう言った顔は真摯なものだった。

「あたしは、見てくれよりはずっと、時間のかかる女ですよ」

 自分が放った言葉に、愕いていた。取りようによっては、半分承諾したような受け応えだった。微かに後悔する。

 ストレートな求愛。同じようでも、若い沢木とはやはり違う。

 何よりも、初対面からの緊張を簡単に消し去ってくれた秋山に、好感を持ちはじめていた。密着するように腰をずらしていた。無意識だった。そのことに気づき、自分に唖然とした。

 こうして、奈津子と秋山は急速に距離を縮めていった。

 しかし、それは精神的なゲームの様相を示していた。その証拠に、未だ肉体的繋がりまでには進んでいなかった。が、多田への感情が醒めつつあるいま、おそらく、そう遠くない将来に、結ばれるかも知れない、という確かな予感に震えながら、奈津子は隣りに坐る秋山の膝の上に手を添えた。

 秋山が、おやっ、っという顔をした。

「そろそろ時間じゃないのか」

 手に重ねた指に力をこめてくる。

「あと一時間ぐらいで帰してくれるなら、まだいてあげてもいいわ」

「いてあげても、か」

「ううん。いさせて」

 これほど素直になれる自分に愕く。思うままに振る舞い、自分の変化に対応する男たちの表情を観察することが大好きだった。この夜の奈津子は変だった。

 当てずっぽうで言ったのだろうが、多田との情事を見抜かれているような気がした。それが奈津子に、らしさ、を失わせているのだろうか。

 だけど、これだって私。秋山の顔を見ながら、新しい自分の誕生を意識した。

 客が一組入って来た。四人連れだった。勤務時間が過ぎているので、このまま秋山の席に居続けても支障はない。ボーイたちが忙しく動きはじめた。

 

 秋山との会話は、セックス談義に終始することが多かった。

 平然ときわどいことを言ってくる。奈津子も、たとえどんな話題であっても、相手に魅力があればどこまでも喰いついていく。秋山は話術に有能だった。

 いつだって、時間をいっぱいに使い、求めてくる。実に堂々と。実に淫らに。

 求めるだけではない。反応を愉しんでいる。まるで自分を男にしたよう。

 出会ったことのないタイプだった。私生活での取り巻く環境のあらましは訊いた。しかし、一切自分のことは教えていなかった。昼、勤めていることさえも。すべてを知りたがった。

 俺は恰好つけてるだけでね。ぶっきら棒だけど、俺だって普通の男だから。好きになった女のどんなことでも知りたいと思う。

 秋山は会うと同じ質問を繰り返し、そんな自分を恥じるように、気持ちを吐露する。表情はまったくのヤンチャ坊主のようだった。

 その夜の話題もセックスだった。ポロッと顔も赤らむようなきわどいことを平然と言う。その一瞬一瞬が愉しい。

 時計の針が一時を回ったのには気づいていた。秋山も時間を気にして、自分の腕時計を眼の前に突き出す。が、帰りたくなかった。

 電話での、珍しく怒気を隠さなかった夫の声。それを振り切って、多田とのセックスに没頭した自分の行動。路上で奈津子に性欲を訴えた、沢木の眼。目まぐるしい一日だった。

 とくに喫茶店での多田の言動はショックだった。それに対し、当然のように冷えた自分にも。

 しかし、そんな交わりにさえ、一応の充実をみた。

 やはり、朝がいけなかったのだ。今日の一日を決定づけたとも思える、今朝の自分を敵視するような、鏡の中の眼を思い出し、そう思う。

 カラオケにも飽きたのか、仲間の一人が唄い終わるのを待っていたように、四人組が帰り支度をはじめた。

 秋山が急に寡黙になった。ぶっきら棒で話し方も伝法そのものだが、ふと寂しそうな顔をするときがある。

 ヤクザにも似た風貌のわりには、秋山の話す言葉の中には、真実がありすぎた。世馴れしているはずなのに、なぜこうまで純真さのようなものが保てるのか。それが不思議だった。

 妻帯者なのだ。それなのに、はじめて恋愛の対象者に出会ったような眼差しで見つめてくる。

 そうされると、気持ちが浮く。

 夫とは異質だった。いや、対極にいるような異人種だった。多田の過去と似ていなくもない。でも違う。

 もしかしたら、自分にもっとも近い人種。そんなことを思いながら、奈津子はぐいぐいと、自分の皮膚の内側に浸透していくような、秋山の匂いを実感していた。

「何を考えているんだ」

 煙草を銜えたままの秋山が言う。ライターの炎を差し出しながら、奈津子は、

「いろんなこと。会社でのことや、子供のことや、好きな人のこと」

 そう応じた。それにより一つ、昼も働いていることを教えたことになる。媚びている。それが恥ずかしかった。

「旦那のことが抜けている」

「あ、考えてなかった」

「俺と同じ理由かな」

「何かしら」

「遊んでて、女房の顔を思い浮かべたことがない」

「あら。同じ。でも、本当かしら」

 訊き返しながら、険しかった夫の声を振り返っている。

「女房は別格だから。外で遊ぶ女と同列に考えたことはない。女房に対して失礼だからね」

「わかるような気がするわ。でも、それって、あたしを口説こうとしているのも、遊ぶ女の一人と見ているってことよね」

 憤慨して席を立ってもいいようなことを言われても、怒りは湧いて来なかった。女房は別格という一言は、奈津子の思いとは必ずしも一致しなかったが、敢えてそれも言わない。

「最初はそうだった」

 悪びれもしなかった。秋山は大きな欠伸をした。

「さぁ、帰ろう。もう二時だ。車を拾ってあげるよ」

 不意に寂寥感に包まれ、考え込む奈津子の肩を、秋山は立ち上がりながら、ポンと叩いた。

「あたしは遊ぶための街の女と一緒か……」

 つぶやきに、再び秋山は腰を降ろした。

「おまえには旦那と子供がいる。俺には子供こそいないが、女房がいる。その二人がこの先たとえ深い関係にまで進んだとしても、その向こうに待っているのはわかれだろう。俺たちが一緒になる可能性はとても少ない。だからもし、気まずいわかれかたにはならなくても、わかれることに変わりがないならば、街の女と遊んだ、街の男と遊んだ。そう思うほうがお互いに楽なんじゃないのか。そう考えていたんだよ、ついさっきまでは」

「ついさっきまでは、って……」

 沈黙を嫌ったのは、奈津子のほうだった。先を促していた。二時十五分を過ぎていた。

「だから、ついさっきまではそう思ってた」

「それで、いまはどうなの」

「もう、いいだろう。帰ろう。予定時間をだいぶオーバーしてる。旦那と子供が待っているんだろう」

「ちゃんと言ってよ。あたし、それじゃ、すっきりしない」

「変だな」

「何が」

「おまえらしさが消えてるじゃないか。おまえはこれまで、俺がいま言ったようなことにえらく賛同していたはずじゃないか」

「そんなこと、あたしにもわからないわよ。たしかにそうだったけど、でも、今夜のようにそうはっきりと言われたことはなかったはずよ」

「覚えてるかな」

「何を」

 脈絡の感じられない問いに、対処出来ずに顔を見る。

「はじめて会ったとき、俺はたしか言ったろう。いつかおまえを抱くって。そのときおまえは、あたしは時間がかかる女よ、って言ってた」

 そのときを思い出す。秋山の言うとおりだった。

「それで、その時間だが、俺にはもうそろそろって感じがしてならないんだけどね」

 奈津子はため息をつき、

「そうかしら。それってかなり自惚れた科白よ。……でもーー」

 秋山は無言だった。見つめてくる。

「ううん、いいわ。今度にする。そうね。だいぶ晩くなったものね。今夜はもう、帰ったほうがいいわね。帰りましょう。タクシー、拾ってくれるんでしょう」

 奈津子は自ら次の言葉を呑み込み、立ち上がる。それを見計らっていたように、スタッフの一人が、コートとバッグを持ってくる。秋山も立ち上がった。

「外はざざ降りですよ」

 支配人が二本の傘を持って来た。

「雨、か」

 一向に構わないというふうに、傘を受け取ると、秋山は奈津子の前をさっさと歩きはじめた。

 

 支配人の言ったとおり、外は土砂降りだった。大粒の雨が路面に跳ねていた。

 それでも時間が晩いせいか、待つこともなく、空車を拾えた。

 秋山は家まで送ろう、と言ったが断った。

 たとえ相手が誰であれ、家まで送ってもらおうとは、いまのところ思わない。

 一度、送ってもらい、苦い体験をしていた。それは今日の夕方、しつこく送ると詰め寄った沢木に、過去に一度だけ家近くまで、車で送ってもらったときのことだった。

 やはり、今日のように雨の日で、送るという沢木の車に、好都合とばかりに乗った。翌日、近所のタバコ屋のおばさんにそのことを指摘され、からかわれたことがある。それからは慎重になった。家庭は大事だった。

 中傷とはいえ、他の男との噂をたてられることにより、家庭内に波風が立つことは望んではいなかった。そうなると、夫はおそらく、噂を理由に、外での仕事を取り上げようとするだろう。

 基本的には、専業主婦としての奈津子を望んでいるのだから。

 外での愉しさを味わってしまったいま、それが麻薬のように、自分の精神安定剤になっていると自覚している奈津子には、夫の要望など受け入れられるはずはない。

 もう、外に出ることから逃れられない。だから、家庭におけるミスは赦されないのだ。

 だから、今日の夕方の夫からの電話が、一直線に胸を貫いたのだ。二度と、あのようなミスは冒せない。

 まだ夫は必要だし、娘への愛情は人後に落ちない。しかし、自分を評価する、男たちの眼ときたら、そのような家族への愛情さえ破壊してしまうような力がある。

 奈津子はその怖いほどに自分を求めて群がる男たちのいる地域から、絶対に抜け出させない自分を熟知している。

 それを維持しつつ、家庭内の円満をも持続させるには、外と家との中間に太い線引きをし、それを結界とし、自分というものを分ける。それ以外に方法はなかった。

 

 タクシーは雨の路上を突っ走った。スクランブル交差点を通り過ぎた直後の四つ角で、タクシーを降りた。

 歩き出す。雨は多少、勢いを弱めていた。それでも足もとを濡らすには充分すぎて、五十メートルも歩くと、スカートまでがびっしょりだった。

 アパートまで近づいたときだった。ハッとして足を止めた。人の気配に怯んだ。男が自分の姿を確認するように、近づいて来たからだった。

 一瞬、夫かと思った。が、体型が違う。雨に全身をズブ濡れにし、男が近づいて来た。沢木だった。

 僕、待ってます。夕方、この雨の降り始め、別れ際に不意にその一言を残して去った、沢木が蘇る。

 冷たく突き放した。悔しそうに唇を噛み締めながら、遠ざかった沢木の一言だった。

 それにしても、凄まじい濡れかただった。おそらく、何時間も佇んでいたのだろう。近くの路肩に停めてある沢木の車が眼に入った。敢えて車から出て、全身濡れ鼠になりながら待っていた、と思われる沢木に、ある種の怖さを感じた。

 一瞬、若さというものを改めて考えた。

 危険な行動だった。事実、怖い。けれど、この妙な充実感は何だろう。

 ただ、苦痛のほうがより大きい。自分の気持ちにだけ忠実で、相手の立場を少しも考えないことに対する、苛立ちもある。それでいて、何となく、嬉しいのだ。

 そこが自分でも上手く説明できない。好事魔が数の少ない蝶を眼の色を変えて追いかけるように、奈津子は姿を見せて、その追っ手の指が届く間際に、ひょいと逃げ延びる、淫靡な緊張感が好きだった。

 沢木が尚も近づいてくる。激しい嫌悪感と嬉しさが鬩ぎ合う。困惑する。周囲を窺う。人影はなかった。再び勢いを増した雨だけが、路面に踊っていた。

 アパートはすぐそこだった。窓からの灯が見える距離だ。三時半。夫は珍しく、まだ寝ないでいるらしい。

「晩かったですね。どこ行ってたんですか」

「あなた、なぜこんなところにいなければならないの。ずぶ濡れじゃないの」

 このような質問は好まなかった。面倒だった。単に仕事場での先輩後輩という関係でしかない者の言葉ではない。

 あなたは私の何でもないのよ。そう声高に言ってみたかった。自由を束縛されるようなのが厭だった。束縛はしても、されたくはない。それでなければ、外に出ることが無意味になる。

 憩いを求めて外に出たのだ。憩いとは、家庭という狭い空間からの逃避であり、自分を凝視し、自由に過ごさせてくれる、男たちの熱い眼だった。その視線のいくつかを、いまは選べる立場にいる。それが憩いだった。

「僕、さっき、待ってるって約束したから」

「私は約束した覚えなんかないんだけど」

「でも、僕がそう言ったとき、奈津子さんは無言だった」

「だからって、承知したことにはならないでしょう。それに、私にはこれから大事な用事があるって言ったはずだし、それははっきりとした断りの言葉だったはずでしょう」

 沢木の目が寂しそうに震えた。ウェーブのかかった髪が雨に濡れて、ぐしゃぐしゃだった。瞳だけが燃えている。圧倒されそうなほどに。

 冬の雨は、沢木の唇を白くし、顔はさらに蒼白だった。

「僕、奈津子さん、好きだから」

 取り合わなかった。

「風邪ひくわよ。もう帰りなさい。明日は会社休みじゃないのよ。それにこんなことばかりしてたら、私と沢木くんとの会社での付き合いだってギクシャクしたものになるでしょう」

「それでもいいんです。僕、奈津子さんさえその気なら、あんな会社、すぐにでも辞めますから」

「それってどういう意味かはわからないけど、利巧な人の言うことじゃないわね。第一、そんな甘い考えでこの先やっていけると思ってるのかしら」

「そんなことどうでもいいんです。僕はいま、奈津子さんだけがすべてなんですから」

 これが若さなのだろうか。違うような気がする。異常だった。若さではない。幼すぎた。無謀と言うよりは、余りにも無知なのだ。

 身体だけは熊のように大きくても、どうしてこうまで子供のままでいられるのだろうか。それが不思議だった。羨ましくもある。芯から身体が冷えてくる。奈津子の唇も震えはじめていた。

「寒いし、私は帰るわよ。あなたも帰りなさい。そんなに濡れて、凍えるわよ。それに、私の立場も少しは考えてもらわないと……。主人がまだ寝ずに待っているのよ」

 歩きはじめた。その瞬間だった。沢木は前に回り込み、棒立ちの奈津子の傘の中に身を入れた。息つく間もなかった。びしょ濡れの身体のまま、力任せに奈津子を抱き寄せる。予知していなかった。うろたえる。

 ショックから、手を放れた傘が路上に転げ、駒のように二、三度回転し、静止した。雨を吸い込んでいる。

 細い腰をきつく抱き締める沢木の手をもはや拒むこともあきらめた。奈津子は直後に貪られた唇さえも、拒絶するでもなく、受け入れていたのだった。

 立ったままのしかかるように唇を求める沢木の顔は見ようともしないで、奈津子は唇をあずけたまま、眼は家の窓を窺っていた。

 依然、雨は降り続いている。家の灯は夫の苛立ちの度合いをあらわすように、激しく揺れて見えていた。

 そう思った瞬間、奈津子は立ちくらみにも似た衝撃を全身に受けて、四肢を硬直させた。突然だった。性的な快感に襲われたのだ。眼を閉じた。

 沢木の首に両手を回した。自ら貪った。沢木の身体の変化を、腰のあたりに感じていた。唇を放した。沢木は人が変わったように従順になっていた。一度強く抱き締めて、

「さぁ、もう気が済んだでしょう」

 得た快感を隠し、転げたままの傘を拾い上げた後にそう言った。

 沢木は白い歯を見せて、はにかんだ。

「うん」

 子供のようにうなずいた。納得したように、車のほうへ駆けていく。

 奈津子はアパートの階段の前で、濡れた衣服をハンカチで拭いた。まるで水を被ったように濡れているので、ハンカチで拭いたぐらいではどうしようもなかった。しかし、このままでは帰れない。夕方の電話が負い目になっていた。

 それにしても、今日は何という一日だったろう。奈津子は尚も衣服を拭きながら、そう思う。

 鏡のせいなのだ。そうとしか思えない。昼休みの多田の変貌も、そのせいかも知れない。たったいまの、若い沢木との抱擁とキスも。

 ただ、自分の淫らさは否定出来なかった。いや、違う。拒絶しての明日からを思うと、正しい選択だったのだ。とくにあの沢木の場合、拒み通すことによる社内での言動が怖かった。それを避けただけ。

 階段をあがり、ドアにキィを挿し込みながらも、奈津子は沢木とのキスで一瞬でも燃えた自分を振り返り、咄嗟にこしらえた自分への言い訳に、強引に納得していた。

 火が点けば、男の格も忘れる。

 ドアを開けた。居間に夫の背中が見えた。呑めるタチではないのに、水割りを呑んでいたらしい。夫は奈津子のほうに、振り向こうともしなかった。

「あら、寝ててもよかったのに」

 敢えてあかるく言った。夫の背中を手で触れた。

「いい気なものだ」

 その一言だけで、夫は背中に触れている奈津子の手を払い除けた。

 午前四時を回っていた。奈津子に夜の仕事がある日には、夫は先に寝ているのが常で、今日のように起きて待っていることなど一度もなかった。

 朝が早いからだ。しかし、今日の夫は、呑めないアルコールを口にしながら、帰りを待っていた。しかし、その背中は奈津子を拒絶している。いつもとはあきらかに違う。

「一体、何時だと思ってるんだ。いくら夜の仕事だからって、こんなに晩くまでやってるはずないだろう。それにそのずぶ濡れの服。おまえは着ているものまでも水なのか」

 近づこうとした奈津子から、夫はわざとらしく逃げて、見据えてきた。

「どうしたの。あなた、これまでそんなこと言ったことなかったでしょう。どうしたのよ、今日になって突然ーー」

 夫の余りにもよそよそしい態度に、奈津子は今日一日の自分の行動も忘れたように反発した。夫はそんな奈津子を無言のまま、見つめてくる。

 探っている。侮蔑している。そんな眼が厭だった。

 いたたまれずに立ち上がる。浴室へ向かった。濡れた衣服を脱ぎ、洗濯機の上に置いた。浴室に入り、頭から熱いシャワーを浴びる。冷え切った全身が、急に熱い湯を浴びて、弛緩するようだった。

 浴室を出て居間に戻ると、夫はまだ、そこにいた。無視した。キッチンに歩いた。熱いお茶が欲しかった。

 雨音が依然として激しい。お茶を淹れ、居間に戻った。

「おまえは変わったな」

 しばらく無言のまま、お茶を呑んでいた奈津子に焦れたらしく、夫は言った。眉間に縦皺が刻まれていた。端正な顔だけに、怒った顔には凄味がある。

「そうかしら」

 蓮っ葉を装った。パジャマ代わりにしているジャージに着替えた奈津子は、しどけなく、夫の前に両脚を投げ出していた。

「俺が外で働くことを赦したのは、絶対に家庭の仕事はおろそかにしないとおまえが約束したからだ」

「そうね。認めるわ。だから私は、その約束を忠実に守っている」

「守ってはいないだろう。それじゃ、今日のことは一体どういうことなんだ」

 声が荒々しくなっている。夫の言おうとしていることはわかっていた。

「夜の仕事を許可したのは俺なんだから、多少のことは眼を瞑るつもりでいた。酔っ払い、ずぶ濡れになったまま帰っても、それがたまになら俺だって仕方がない、と我慢することも出来る。しかしーー」

「しかし、俺のご飯や、冴子のオヤツをつくっておくくらいの基本的な仕事はちゃんとしてもらわなければ困る。あなたはそう言いたいんでしょう」

 スラスラと言う奈津子の顔を見る、夫の顔が引き攣っていた。

 怒っている。少しも怖くはなかった。まだ、夫は私に対して、怒る気持ちがあるのだ。そう思い、安堵する。

 何をしてもすべて赦そうと努力する近ごろの夫。それは奈津子には男らしさを失っているように思えた。努力してまで赦されたくはない。

 本心は、縛っておきたいのだ。夫は余りにも、夫という立場を誤解している。と言うよりは、夫という立場さえ忘れて、異常に父親であり過ぎた。

 そのぶん、夫から男が削除されつつある。そして夫は、妻である自分にも同様の変化を望んでいる。つまり夫は、妻が女の部分を棄て去ることを理想としているのだ。

 それは反面、正しかった。しかし、夫から見た場合に於いてだ。

 夫は付き合いが長いだけに、奈津子の旺盛な、女としての資質を見抜いている。だから、怖れているのだ。だから、家の中に閉じ込めて置きたいのだ。

 それが危険な女と結婚した男の、唯一の方法だと信じているように。

 が、それは通用しない。奈津子は当然、夫以上に自分を知っている。家族、とりわけ娘は大事だけれど、自分は家庭には収まり切れない。

 全身、女なのだ。

 奈津子は理想の夫と結婚したのではなかった。男と結婚したのだ。それなのに、夫はいま、男ではない。

 かつては病的なほど、男としての素敵な眼で見つめてきた。牡だった。そのいやらしさがたまらなかった。いまはその片鱗さえ見い出せない。

 夫は堂々と、父親の立場に浸っている。

 ひどい裏切りだった。外に出ようとした最大の理由もそこにある。外は理想郷だった。一歩外に出る。瞬間、奈津子は百パーセント、女になれる。

 全身のいたるところに突き刺さる、あからさまな男の視線は、自分が女であることを実感させる、宝物だった。

 夫の一つや二つの小言を受けたぐらいでは、とても外から足を洗うことは出来ない。

「俺の飯はまぁいい。だけど、子供と約束したオヤツぐらいはちゃんとつくれよ。可哀想だろう。今日、冴子の友だちが家に遊びに来ることも知っていたはずだろう」

「ごめんなさい。それは私が悪かったわ」

 それに対してだけは素直に詫びることが出来る。明日の朝、冴子にも謝ろうと思う。娘に対する愛情だけは、夫には負けないという自負がある。

「でも、時間がなかったのよ」

 我慢するつもりが、つい、一言に夫に対する嫌味が出る。

「いつもどおりに起きてたじゃないか。俺は先に家を出たが、まさかあれから二度寝したわけじゃないだろう。オヤツをつくる時間ぐらいあったはずだ」

「起きたわよ。ただ、ちょっと考えごとが長引いちゃって」

「何だい、それは。俺や冴子のことを考えること以上の事が、おまえにはあるってことだな」

 ええ、そうよ。好きな男のこと考えていたのよ。その男と日々、昼夜を問わず、セックスに明け暮れることだけを、私は朝から妄想してたのよ。なにしろあなたときたら、私のことなどずっとお構いなし。そんなあなたが私を批難出来るのかしら。

 奈津子は蛇のようにぬめぬめと責め立ててくる夫に、無言のままそう毒づいていた。

「とにかく、もっと家庭というものを大事にしてほしいね。それでないと、冴子が可哀想だろう。何に対しても感じやすい年ごろなんだから」

 夫は言うだけ言うと、そっぽを向き、煙草に火を点けた。

 ホッとした。こんな面倒は願い下げ立った。面倒が故に、多田は私を失った。奈津子は夕方からの多田とのセックスを思い出し、そう思う。

 店で秋山と長い時間を過ごし、たったいま、あの激しい雨の中で、若い沢木の唇を貪った。すると多田が消えた。雨が存在を流した。

 もう奇跡が起こらないかぎり、多田は私を抱くことは出来ないだろう。面倒に巻き込んでは駄目なのだ。

 少し離れたところに夫の顔がある。見て愕然とした。自分を見る夫の眼に、夫を見る自分の眼を見い出したからだった。

 夫の眼の前で、他の男と交わる場面を思い出す自分に対し、奈津子は、無意識に夫を男として見る眼を棄て、ただ、冴子の父親としてだけしか見ていないことに気づいたのだ。

 一度そう思うと、それが確信に変わるまでに、時間を必要としなかった。

 それはもう、「愛」などとは言えないものだった。

 どんなに取り繕っても、それは子供のためだけの関係だということになる。以前から奈津子は、それに似た気持ちは抱いていた。けれど、夫までそう感じているとは思わなかった。

 女としてではなく、妻として母親としてだけの日々を望んでいたとしても、夫の場合、それは自分への「愛」から生じた独占欲だと信じていた。

 不味そうに煙草のけむりを吐き出す夫の顔を窺い見ながら、奈津子は今日、店で会った秋山の顔を思い浮かべていた。

 まだ彼とは客と店のスタッフという関係でしかないけれど、秋山はつねに奈津子を求めた。一匹の健康な牡として、理想的な雌だと追い続けている。

 嬉しいが、雌としてしか見ていないのでは、と敢えて怒った素振りをみせると、秋山はそんな奈津子の頬を小突きながら、悪びれる様子もなく直截に求める。それが女に対する男からの最高の誉め言葉なのだ、と平然と嘯いた。

 吹き出すしかなかった。さらには絶対にこの憎たらしい男を虜にしたいものだと思う。前にひれ伏す秋山を想像することが愉しかった。

 過去の男たちのように、毎日でも逢ってほしい、と哀願する秋山を見たい。

 どう否定しても、秋山の言動には妙な説得力があった。悔しいけれど、最近は秋山の言葉の一言一言に、無意識にうなずいている自分に気づいて、唖然とすることもしばしばだった。

 そんなことを思い返していると、不意に秋山に逢いたいと思う。

 もし激しい雨がなければ、おそらく外に走ってでもコンタクトを求めていたかも知れない。

 はじめてだった。このように、面倒を自ら呼び込もうとする自分。はじめてだった。

 夫が水割りのグラスに手をのばした。見ると、その顔からは数分前までの険しさが消えていた。

 それどころか、見つめてくる眼が媚びていた。直後、夫が夜の女のように身を捩って近づき、奈津子の腕を引いてきた。奈津子はそれを他人事のように眺め、

「やめてちょうだい。疲れているのよ。それに、散々小言を言われたあとに、女の身体が燃えるわけないでしょう」

 冷たい言葉は、夫ののばしてきた腕から力を奪う。引き下がる。

 あなたは馬鹿よ。魅力が欠落したと思うのはそういうところなのよ。たとえいまのように断られても、強引にでもこの私を征服したならば、女としての価値を充分に認めるような抱き方をしてくれるなら、私だってその気にもなり、燃えるのよ。

 奈津子は負け犬のように退散する夫の姿を軽蔑した。さらに夫への愛が薄くなる。

 襖を開けて、夫が寝室に逃げ込む瞬間に見えた、一人娘冴子への気持ちだけが、もはや、家庭内での唯一の「愛」だった。

 その後、もう一度風呂に入ることにした。湯船に身を浸していると、全身から抜け出た疲労感が、湯の表面に浮いてくるようだった。

 奈津子は湯にたゆたい、たったいま、夫の欲求を撥ね退けた自分の気持ちを探り、整理していた。

 私はやはり、変化しているようだ。それも、急速度で。

 面倒なことが大嫌いで、物事に対しては実に淡白だったはずなのに、奈津子はいま、そのもっとも面倒な、自分の変化にひたすら愕き、困惑している。

 そのとき、湯の表面の気泡のように、すぅっと浮かんできたのは、またしても秋山の顔だった。その後方から、自分に好意以上の気持ちを持ち、迫り来る数人の男たちの顔も。

 その中でも秋山の印象は抜きん出て鮮烈だった。

 さっき雨の中でキスを交わした沢木などはむろん論外。プレイの対象とはなり得ても、恋愛の相手ではなかった。

 若いということの素晴らしさは、肉体の躍動感だけで、だからそのぶん、行動が粗野で、いつ危険な目に遭遇するのかラグビーボールのように飛ぶ方向の予測さえ出来ない。

 あの激しい雨の中での、貪るようなキス。でもあれは成り行き。不意に湧いた性感には慌てたけれど、しかし、一瞬の出来事であり、それ以上のものではない。

 秋山と多田。

 多田とは数え切れないほどに交わった。逢えばそれがメインだった。

 秋山とはまだない。多田とは今日、奈津子の中ではわかれたも同然だった。いや、棄てたのだ。それも理由だろうか。奈津子は秋山の引力に誘われる。

 どうやら、そのときが近づいているようだ。秋山はそう言った。その言葉に違和感を持たなかった。ひょっとしたら、夫を簡単に拒絶出来たのも、そこに理由があるのかも知れない。

 夫とは夫だから、時にはセックスもある。多田とはわかれを決意しながらも交わった。まだその光景も生々しい。

 ただ一人、まだ一つになっていない秋山への後ろめたさを、せめて夫だけでも拒否することにより、無意識に相殺しようとしていたのだろうか。

 しかし、よく考えてみると、それは些か突飛な考えのようだった。

 いくら何でも、まだ秋山に操をたてるほど、深入りしているつもりはない。拒絶は不満を通り越した、夫とのセックスへの期待感の稀薄さがさせたもの。そう考えるのが妥当だった。

 たとえば、夫がいつもする、味噌汁で箸の先を濡らし、ご飯をいきなりガツガツ喰べはじめる下品な行為。

 せっかく一生懸命につくった自慢の料理には眼もくれないで、ひたすら白米だけに箸の上下を繰り返すような、夫の過去から現在までの単調なセックスへの失望感が、求めを拒絶させたのだ。

 夫はセックスのときでさえ、奈津子を妻としか見ていない。だから、行為は生殖と捌け口でしかない。

 奈津子という成熟した女、が淫らに変化する様を望もうともしない。それは女としての性を否定していることに他ならない。それに馴れることを拒んだだけなのだ。

 女としてのプライドと資質が、拒んだのだ。

 微々たる冒険心のない交わりなど苦痛なだけだった。セックスはお互いに貪欲に求め合わなければ意味がない。

 それがまだ隠されているかも知れない、自分の魅力を掘り起こす手段にもなりうるのだから。

 奈津子はゆっくりと風呂に浸かりながら、限りなく、妄想を拡大していく。

 

 娘の冴子に身体を揺り起こされ、眼醒めて、自分の寝ていた状態に気づき、奈津子は一瞬、辺りを窺った。

 ホッとする。夫はすでに出かけた後で、娘の冴子がいるだけだった。心配そうな眼差しを向けてくる。

「ずっと傍にいたのね」

「もう、八時半よ、ママ」

「お食事は?」

「とっくに済んだ」

「そう……。ごめんね。ママねぇ、少し頭が痛いの。だから悪いけど、もう少し寝てるから、冴ちゃんは学校へ行ってらっしゃい」

「うん、そうする。そうか、ママ、頭が痛かったのか。心配しちゃった。ママったら、ウンウン唸って、腰がガタガタ動いているんだもの」

「そうだったの。ごめんね、心配かけて。でも、もう少し眠れば大丈夫。だから、安心して」

 平静を装いながらも、内心の動揺を隠すのに苦労していた。

 冴子が登校してから、奈津子は会社に少し遅れることを連絡し、ベッドの中で、眼醒めるまで見続けていた夢を呼び戻した。

 その夢は冴子の声によって中断されていた。

 夢の続きを愉しみたかった。というよりは、夢の中でのセックスで、絶頂に押し上げられる寸前に起こされて、たとえ夢でのこととはいえ、満たされないままにベッドを抜け出すことが厭だった。

 何という淫らな母親かしら。

 そう思いながらも、眼醒めた瞬間に起こした娘に苛立った。冴子が言った、腰がガタガタと動いていたということは、うなされていたと子供らしく心配したようだが、それはセックスの最中での身体の反応だった。

 眼醒めても、男の肉体を求めて、まだ身体が激しく反応したままだった。

 ため息をつく。欲望は持続していた。起き上がり、全身を引き摺るように歩き、冴子が出て行ったドアをロックした。

 歩きながらでも、体内には依然として、夢の中で燃え盛った炎が燻り続けていた。ベッドに戻り、身体を横たえて眼を瞑り、消えることなく脳裏に貼りついている光景を、再現しようと試みる。

 他人には不可能とも奇異とも思えることでも、奈津子にはさほど難しいことではなかった。

 それにしてもーー。

 奈津子は眼醒めてもまだ腰を振り続ける、自分の欲望の凄まじさにたじろぎ、驚嘆した。

 相手の顔もはっきりとあらわれていた。秋山だった。夫以外の男との交わりを、夢の中で見ることは過去にも何度かはあった。しかし、今朝ほど鮮明に画像として残るものではなかった。

 ただ、体型的にも秋山に間違いなかったが、奈津子を愉悦の頂上へ押し上げようとして、力強く躍動した男のしるしは、多分多田のものだった。

 まだ秋山との関係はないので、当然、その部分的な特徴は知らない。だから、その形状が夫のものではない以上、多田のものだということは確信出来た。

 奈津子はついさっきの夢の中での秋山との交わりの世界へ、もう一度戻りながら、次第に揺れ動く自分の身体を、とても愛しく感じた。自己催眠のようでもあった。

 自分に繰り返し暗示をかけながら、奈津子は急速にのぼりつめていく。

 朝の光が鋭角に切り込むベッドの上で、奈津子は秋山との未知のセックスに、とことん狂っていた。完璧にのぼりきるまでに、何度か、秋山の名を連呼した。

 会社に連絡はしたものの、そろそろ出勤しなければならないことは充分に自覚しながらも、行き着き、放心したままの肉体は、なかなか正常には戻らなかった。

 気が鎮まったとき、時計の針は九時半を指していた。気だるさが残っていた。起きて、洗顔し、鏡の前に腰を降ろす。が、どこかに満たされない何かが残っている。

 秋山とのセックス。それはどう足掻いても、まだ想像の中での昂ぶりでしかない。秋山の予言どおり、そろそろ本当に結ばれる時期が近づいているのかも知れない、と思いながら、奈津子は鏡の中の自分を点検する。

 遅刻は余り気にしていなかった。いざ仕事に入れば、男たちには絶対に負けない自信がある。

 今朝の鏡には、奈津子のすべてがそのまま映っていた。最近、鏡の中の自分に、不信感を持っていたのが、今朝は実に素直に、奈津子に語りかけてくる。

 むろん、右手を上げれば鏡の中の手は向かい合っているので、左手を上げているように見える。今朝はそれも気にならなかった。眼の縁が微かに朱に染まっている。

 狼ヘアにも似たショートカットの髪の所々が、まだ寝乱れたままだった。ブラッシングを繰り返しながら、秋山のことだけを考えた。

 その印象を強くするために、無理に多田の顔を思い出そうとした。だが、たった一晩の熟睡で、多田の印象は殆んど薄くなっている。顔を見つめた。少しずつ、いつもの顔に戻っている。唇に紅をさすころには、普段の奈津子がそこにいた。

 ーー私はきっと、想像以上に、秋山を好きになっているーー

 そう認識して見直す鏡の中の自分の顔は、奈津子の気に入るものだった。

 こうして自分の顔や姿を鏡に映していると、ふと、気づくことがある。それは前にも拘った、鏡の中の自分の裏切りについてだった。

 子供だって持たないような、疑問。

 小指一本の上げ下げの相違を、鏡の裏切りだと感じた自分。奈津子はいま、そんな自分に対する、答を見つけたのだった。

 それは多分、自分の現在おかれている環境に左右されているように思える。

 たとえば、最近はそうはないけれど、家庭だけを考えようとするとき、奈津子の外へ出たい、という欲求は肥大する。

 そんなとき、奈津子は鏡の中の自分に、裏切りを感じる。外へ外へとの誘惑が、柄にもなく、家庭第一と考えようとする自分を嘲笑する。

 無理をしてはいけない。おまえは家庭にじっとおさまっているようなタイプではないのだと、あからさまに嗤う。

 おまえの根っからの淫蕩な資質が外に導くのだからそれに逆らってはいけないとも。

いや、もしかしたら、その逆なのかも知れない。

 鏡の中でこの私を卑下しているのが、本当の自分なのかも知れない。奔放さに勝る実像が、いかにも貞淑ぶった、妻や母の顔をした鏡の中の自分を嫌悪して、その虚像を剥がそうとする。

 実像が虚像を打ち負かしたとき、今朝のように夢の中にまで外の男との関係が描かれる。そこには夫の存在などないに等しい。

 奈津子は思う。夫との暮らしを維持できるのは、冴子がいるからなのだと。

 いま夫は、奈津子にとって、それほどの価値でしかない。

 

 一度そう思うと、夫への嫌悪感はとどまる所を知らない。たまに求められるセックス。最近ではそれさえも疎遠になったが、求められれば義務感が生じる。

 しかし、その無味乾燥的な行為でも、成熟した肉体は反応する。長年の付き合いで身体が馴れているものだから、単純な行為でも、時間が奈津子を頂点へと運ぶ。

 事後、決まって愛情もなく抱かれて反応した自分を憎悪する。

 排泄だけが目的のような夫の動き。それが激しくなればなるほど、頭は冷静になる。その冷静さが自己嫌悪の源なのだ。

 だから、自ら凄まじく律動し、強引にでも燃やして、夫を終焉へと誘う。

 プライドを維持するために、そのように惨めなとき、奈津子は外での男たちの優しい眼差しや、奈津子だけを頂点に導こうとする思いいれたっぷりの手順を思い出し、夫を他の男と置き換えて達するのだ。

 思わず、ため息が出る。鏡の中の自分もため息をついていた。まるで肉体が感じているように。

 外の世界。自分を待つ男の熱い視線。嘘偽りなく、そこには自分を真摯に求める、男たちが群れている。

 むろん、そのすべてと関係するわけではないけれど、純粋に女としての自分を求める男の視線は、奈津子には歓迎して余りあるものだった。

 その中でも秋山のインパクトは強烈だった。直線的な言動。好ましかった。沢木のように単調ではなく、秋山の言葉には慈愛がある。

 多田とのときもそうだったが、奈津子は秋山にも言ったように、男と深い関係になるまでは、時間をかける女だった。

 夫とでさえも、セックスまで行き着くまでには、一年を必要とした。自然に股間を開けるようなプロセスが大事なのだ。

 また、それが相手の危険性を推し量る時間でもあった。

 しかし、秋山にかぎり、そのプロセスに於いて、点から点への速度が過去に体験したことがないほどに速いのだ。

 

 ある夜、秋山とキスをした。

 店のママの気まぐれから、一日だけ常連のためだけに営業したその夜、奈津子は秋山とともに周りを囲む眼の中央で、激しくキスを繰り返した。

 舌の先を絡め合うな濃厚なキス。

 それは常連だけという、浮かれた状況で、周囲から囃し立てられての洒落のようなものだった。

 しかし、途中からは周囲も固唾を呑んでいた。また、奈津子にも、洒落とはいえ、こうして人前でキスするような体験はかつてなかった。

 いずれにしろ、夫以外の男との交わりや、それに付随する行為は、殆んどが肉体的快楽だけを求めることに重点が置かれ、当然、お互いの肉欲だけが剥き出しになる。そうなることで、奈津子は外での自分を実感する。

 おそらく、夢の中での秋山との交わりも、家庭の、とりわけ夫への不満が見させたものなのだろう。

 が、そればかりでもなく、奈津子は秋山を受け入れようとしている、自分の意思を、その夢の中に見ているような気がした。

 身支度を整え、鏡台の扉を閉めながら、奈津子は自然に込み上げてくる、期待感に胸を躍らせる。

 

 事務所での一日は、変化もなく過ぎ去った。

 心地よい男たちの視線だけが、日増しに強くなっていくようだった。

 会社を出て、いったん帰宅し、主婦としての一応の仕事を終えた後に、再び街へ出た。まだ店への出勤までには時間がある。

 クラブでホステスとして働いている香澄から、久しぶりに電話があり、喫茶店で会う約束をしていた。

 外出支度を急ぐ奈津子を見て、夫はあきらかに不満そうだった。

 娘の冴子は、すでに週三日間だけは、母親は家にいないものだと悟りきっている。夫とは違い、その点、冴子の割り切りかたは、子供とは思えないほどに見事だった。

(どうやら、夫の血よりはだいぶ私の血を多く受け継いでいるらしい)

 奈津子はタクシーの中で、たったいま頭を撫でてきたばかりの冴子を思う。

「それじゃ、ママ、行って来るからね。ご飯の後片付け、お願いね」

 そういうと、

「うん、わかった。ちゃんとやっとく」

 何の疑いもないように応じる冴子を見ていると、逆に微かな後ろめたさが湧く。

 だが、化粧が出来上がるころには、それも消える。さて、出かけようか、としたときだった。

「俺はやはり、反対だな」

 奈津子のほうを向くでもなく、夫は小石を棄てるような一言を放った。

「何が?」

 立ち止まり、夫の背に振り返る。

「いいわけがないんだ。八歳の子が自分ひとりでご飯喰べたり、まだ俺がいるときはいいが、いないときなどたった一人で留守番を強いられるなんて。どう考えたって、子供にいいわけがない」

 その間にも、冴子は一見無心に、ご飯を喰べていた。

「わかってるわよ。だけど、急に辞めることは出来ないわ」

「辞めるのは簡単だろう。夜だけじゃない。昼の仕事だって辞めればいい。べつに生活に困っていてのことじゃない。何もおまえが働く必然性などどこにもない」

 香澄と約束した時間が迫っているときだった。奈津子は時計を気にしながら、まだ何か言い足りなそうな夫の顔を見る。夫はその後は無言だった。

「考えとくわ」

 それ以上の問答を打ち切るように言い、玄関に向かおうとすると、

「奈津子!」

 声が背に跳ねた。冴子の顔が愕いていた。

「そんな大きな声出さないでよ。冴子がびっくりしてるじゃないの。今日のあなた、変よ」

「とことん話し合う必要がありそうだな。最近のおまえを見ていると、仕事を持つときに約束したはずの、家の仕事はおろそかにしない、ということさえ疑わしい。今日帰ったら、話し合おうじゃないか」

「そうね。わかったわ。でもそんなこと、冴子の前でわざわざ声を荒げて言ってほしくはないわね。それに私、べつに反抗するつもりはないけれど、家のことは出来るかぎりのことはしているつもりよ」

「そんなことじゃないんだ。掃除や洗濯のことを言ってるんじゃない。そんなことは誰でもしていることだ。俺の言ってることはそんなことじゃない」

「あなた、仕事のストレスでも溜まっているのかしら。真面目も結構だけど、たまには外で呑み潰れるまで遊んでみたらいいんじゃないかしら。ま、それはともかく、いいわ。今日帰ったら、あなたの望みどおりに話し合いましょう。あ、今夜は帰りが遅いし、話は明日のほうがいいわね。明日は土曜だし、二人とも会社は休みなんだから」

 夫の言いたいことはわかっていた。それは近ごろ、奈津子自身、感じていたことでもある。

 ーー家庭への愛情ーー。

 多分、そのことを言及したいのだろう。しかし、夫はそれを誤解している。

 奈津子は娘である、冴子に対する、愛に優る他への愛を知らない。

 そうなのだ。私の家庭への「愛」はずっと不変なのだ。なぜなら、私は冴子を誰よりも愛している。もしかしたら、自分を愛するよりも。

 だが夫はーー。

 後方に飛ぶ街の灯をタクシーの窓から見ながら、奈津子は思う。不満を隠すことなくあらわした夫の顔の残像が、脳裏にある。

 私は夫に愛を残しているだろうか。その疑問とともに、果たして夫は、私に愛を感じているだろうか、という疑問も湧いて来る。

 過不足のない家庭だった。維持できるものなら、そうし続けたいという願望はある。その意味では夫もそれなりに大事だった。けれど、それが愛か、と問われれば、正直なところ、抵抗がある。

 夫も大事には思っているだろう。しかし、それは愛、からだろうか。違うような気がした。

 もう、与え合うことを忘れた二人に、「愛」という言葉は余りにも眩しすぎた。

「愛」とは、お互いのすべてを与え続けるものなのだ。

 そうしないと、言葉の重さに追いつかない。

 無形のものであろうと、激しく、時にはしっとりと求め合う交わりであろうと、互いに与え合うことこそが「愛」なのだ。

 私たちにはそれがない。奈津子はそう思う。

 二人が疑いもなく愛しているのは、冴子だけだった。

 タクシーは国道から左折して、繁華街に入った。前方に香澄と待ち合わせている喫茶店が見えた。それをぼんやりと眺めながら、奈津子は夫に対する愛の後退について考えていた。答えはすぐに生まれた。

 何度も繰り返し思い続けていたことだった。自分の女としての部分ーー資質を見ようとしないから。

 だから私は、外に自分を発表したのだ。

 評価は期待を遥かに上回った。

 それなのに夫は、依然として女としての魅力を無視しているかのように、家庭内では、自分の欲求を満たすとき以外は中性を望んだ。

 その欲求を満たすときだけのセックスさえ、単なる機械として接しているようだった。女の肉体に対する崇拝が消えている。

 それらの繰り返しが、私を変貌させたのだ。

 いや、それだから、私は自分の意思で変貌した。そう思い、そのことも明日、はっきりと言ってやろう。奈津子はタクシーを降りながら、そう決心した。

 街はもう、完璧に夜だった。夜に立つと、奈津子は活き返る。かなり底冷えがしたが、身体も顔も上気していた。煩わしい一切が溶け、奈津子は闇に抱かれる。

 

「電話くれるなんて、どういう風の吹き回しかしら。何か心境の変化でもあったのかな。今日はお店、休みかしら」

 のっけからの奈津子の言い方に、香澄は苦笑した。

「お店は八時までに入ればいいの」

 香澄が腕時計を見ながら言う。奈津子も時計を見た。七時十五分だった。

「私は八時半までに行けばいいの。それにしても、この前会った日を思い出せないくらい久しぶりね」

「そうね。半年ぶりぐらいかしら」

 他愛もない会話が続く。以前から、香澄とはうまが合った。ずっと昔、結婚する前に、奈津子はあるクラブに半年ほど勤めたことがある。その店で知り合い、親しくなったのが香澄だった。

 生き馬の目を抜くほどに競争の激しい夜の商売の中で、二人はお互いのどこに共鳴したのかは知らないが、翌日からはつねに行動を共にした。それから十年にもなる。

 奈津子が結婚を潮に店を辞め、まったく夜とは無関係の世界に暮らしはじめたことも、二人の関係を長続きさせた要因かも知れなかった。

 久しぶりではあるが、時々会い、時を忘れて語り合う仲だった。

「うまくいってるんでしょう」

「さぁ、どうかしら」

 奈津子は意味もなく笑った。

「あんた、昔から結構男たちにちやほやされていたから、旦那も心配が尽きないだろうね」

「さっきも出がけにちょっとね」

 夫の顔が蘇る。思わず、眉を顰める。

「喧嘩したのね」

「喧嘩ってほどのこともないんだけど、不満らしいのよね。私が外に仕事を持っていることに。とくに夜のほう」

「そりゃそうでしょうね。あんたの旦那って稼ぎがあるから、プライドが赦さないんじゃない」

「どうかしら。プライド云々じゃないみたい。ただ、家にじっとしていてほしいのよ。そして、自分の言うとおりに過ごしてほしいのよ。やれ、ご飯だ煙草だって、私を自由に使って気儘に過ごしたいだけなのよ。そんなの願い下げよ。召使じゃあるまいし」

「今日の奈津子、何か、変よ。これまでとは違う」

「どこが?」

 何かを探るように見つめてくる香澄の、次の言葉を待った。

「あんたたち夫婦、そろそろ冷めはじめてるんじゃないのかしら」

「そう見えるかな」

「見えるわよ。どっちかと言うと、奈津子のほうが冷めてるようね。だから旦那も危険を感じて、外に出ることに反対するようになったのかも知れない」

「でも私、女だわ」

「そりゃ、女よ。女の私が羨むほどのいい女よ。だけど、それってどういうことなの?」

「香澄は結婚したことないから理解出来ないだろうけれど、男ってね、いざ女を自分のモノにしてしまえば、さっさと手のひら返しちゃうのよ。子供が出来てからは、もう女としてさえ見てくれないんだから。私は家では女じゃないのよ。妻なのよ。刺身のつま、そのもの。それと子供の母親でしかないの。夫は私のこと、そのようにしか見ていない。でも、私は絶対に、死ぬまで、女、よ」

 香澄はうなずき、

「奈津子も結婚した女たちが必ず辿るコースを、着実に体験してるってことなのね」

「あら、結婚生活を体験したようなこと言うのね」

「馬鹿ねぇ。そりゃ、結婚生活なんかしたことはないけど、あたしはプロのホステスよ。男相手のプロフェッショナル。さっき奈津子が言ったように、自分の女房にまったく女を感じなくなった男たちが、あたしの店に来ちゃ、あたしたちにちょっかい出すの。だから、結婚の経験がないからって、大抵のことは手にとるようにわかるわよ」

「厭ぁねぇ。みんなそうなのかしら」

「殆んどがそう。中には稀に、妻や子の母親としての部分と、女の部分とを上手くコントロールしている達人もいるけど」

「それって、素敵。でも、そんな人でもあんたのところへ行って、女の子、口説いたりするのかしら」

「当然よ。それにそういう男の人ってやはりモテるのよね。さっと口説いて、気がついたらもうホテル。続いても二度か三度まで。あとは涼しい顔して風のように去って行く。それからは店に顔を出しても完璧に割り切っているのね。だから、逆に、あたしたちも安心できる。口が堅いし、絶対に周囲に漏らさないから。だけど、少しは玩具にされたような寂しさはあるけどね」

「口説かれたのね」

「違うわ。あたしが口説いたの。その人、古い水商売の人だけど……」

 香澄はそう言って、豪快に笑った。

 奈津子は香澄の話の内容に惹かれていた。奈津子にとっても、そういう男は理想的だった。まるで秋山みたい。

「奈津子、恋してるんでしょう」

 藪から棒だった。うろたえる。が、否定はしなかった。

「あの男とは、終わったのかしら」

 多田との関係は香澄も知っている。だから、口調にも遠慮はない。

 香澄が男だったら、どんなに素敵だろう、と思わずにはいられない。もしそうなら、私は必ず、寝るだろう。そう思う。

「私は終わったつもりでいるんだけど」

「だけど、先方はあきらめない、か」

「そうみたい。働く場所は違っても、所詮は同系列の会社でしょう。別れ方一つでも難しいのよね。私が会社を辞めればどうってことないんだけれど、そう簡単に辞めたくはないし」

「でも、どうしたっていうのよ。いい男だったじゃない。さっぱりしててさ」

「ところが急変したの」

「結婚でも迫られたかな」

 こと男に関しての勘は、相変わらず鋭かった。

「似たようなことをね、言われたのよ。まるで駄々っ子。ウチの娘のほうがずっと聞き分けがいい」

 その喩えに香澄は吹き出す。

「男って、生まれてから死ぬまで、ずっと子供のままなのよ。逆に女は、生まれた瞬間から、もう、一人の女なのよ。その違いね。でも、厄介だわね」

「私は吹っ切れているんだけど」

「そうかしら。あんたは多分、誘われたらまた応じるわね、きっと」

 否定しなかった。

「おそらく、可哀想になると思うのよね」

 香澄が笑う。

「だって、それって、私を依然として好きってことでしょう」

「面倒がなによりも嫌いなはずのあんたなのに。でも、本当の奈津子はその面倒くさいことを何年も続けて来ているのよね。だから、本当はあんた、男に甘いのかも知れない。それが男を夢中にさせる原因でもあるけど」

 奈津子は香澄の口元を凝視した。

「だって、奈津子の話を聴いてると、男に対する一つ一つがすべて恋愛だもの。あたしのように、遊びと割り切っているところが余り見えない。しかも、一つの恋愛が進行していながら、他の男の視線を差別なく受け入れようとしている。それって、奈津子のどこかに隠れている、男好きの面が年々、突出して来ているってことね。男に貪欲になって来ているというか、男を覚えた肉体がそれを求めている。自分では制御出来ないほどに」

「ひどいこと言うのね。怒るわよ。私には夫もいるし、可愛い子供だっているのよ。こうして外に出ているのだって、自分の中に溜まっているスモッグのようなものを浄化するためなんだから。それが健全な家庭を営むための一つの大事な手段として、絶対に有効だと信じているから、こうして外に出ているんですからね。だから、男だって、その意味では単に、精神のクリーナーでしかないのよ」

 言葉の辛辣さとは違い、少しも香澄を批難しているのではなかった。香澄は奈津子の顔を見て吹き出した後、

「男に対して本当の遊びだったなら、プロセスなんか必要ないわよ。夫以外の男と寝たかったら、何もうだうだ考えないでさっさと寝ることよ。プロセスは恋愛願望のあらわれなのよ。とくに奈津子の場合、あの男と何年も深く付き合っている。これって遊びじゃないでしょう。気持ちのクリーナーのつもりが、音ばかり大きくなって何もきれいにしてくれなくなったんでしょう」

 淡々とそう言った。

(そう。図星。面倒くさい男になったの)

 喉まで出かかったその言葉を呑み込んだ。秋山の顔が浮かんだからだった。香澄の言うことに、少なからず賛同するところがあった。

 けれど、多田と本当に恋愛していたかと振り返ると、疑問だった。

 一ヶ月に一度顔を見せるまでは、名前さえ忘れていたし、また、それを少しも不思議だとは感じなかった。

 それでも逢えば敏感に反応した。顔を見た瞬間にスィッチが入る。条件反射のようなものだった。

 だから、その関係が理想的だったのだ。その時間のすべてが刺激的で、明日からは忘れられる、という関係。

 秋山の場合はどうだろう。

 ある夜に交わした、秋山の仲間たちの前でのキスが、最初の肉体的会話だった。それだけなのに、何故か秋山は、奈津子の胸の中にふてぶてしく存在している。

 視線を宙に泳がせながら、奈津子は今夜もきっと来るはずの、秋山の姿を思い描いている。

「今夜、終わってからご飯でも喰べに行こうか」

 コートを引き寄せ、伝票を掴んだ香澄が言う。

「今日の奈津子に興味津々なの。それにあんただってまだ言い足りない何かがあるんでしょう」

 久しぶりに会った香澄に、いまの胸中をすべて露出しようと思っていた。が、香澄の独演場だった。それはそれなりの充実感はあるけれど、香澄の言うとおり、少し奈津子には物足りなかった。

「実はこの間、今夜終わってからご飯喰べに行こうとしている店のママにコート貰ったのよ。まだお礼にも言ってないし、下手なお礼するぐらいなら、呑み喰いするほうが喜ぶ人だからね。だから、奈津子、付き合ってよ」

「わかった。奢ってくれるなら付き合うわよ。でも、そんなに晩くまでは無理よ」

「それはわかってる。それじゃ、お店終わったら、携帯に電話する」

 香澄は男のように手を上げると、大股で外に向かった。

 

 八時半に店に入ることが出来た。

 週休二日制が世間の常識となってから、毎週金曜の夜の混み様は凄まじいものだったが、その夜は珍しく暇だった。

 それでも九時過ぎにはほぼ満席となり、ホッと一息ついた奈津子の視線は、自然に腕時計に向けられている。

 十時半。そろそろ秋山が来る時間帯だった。

 この一ヶ月、秋山は奈津子の出勤日に合わせて、必ず顔を出す。その目的を知っているスタッフが、わざわざ奈津子に近づいてきて囁いた。

「どうしたんでしょう、今夜は」

「あら、何がどうしたって言うのかしら」

「秋山さんのことに決まってるでしょう」

「そう言われてみれば、来ないわね。どうしたのかしら」

 恍ける奈津子に、スタッフの一人は苦笑を残して離れて行った。

 奈津子はもう、スタッフ全員が知っていることだけに、秋山との噂を敢えて否定しなかった。

 噂のように、まだ男と女としてのなにものも起きてはいなかったし、たとえそうなっていたとしても、秋山は噂など歯牙にもかけず、苦笑するぐらいが関の山だった。むしろ、身を捩って喜ぶかも知れない。

 秋山は常々、店のスタッフに対し、奈津子を好きだと言って憚らないし、気にするぐらいなら、出勤に合わせて来店するような無神経なことはしない。

 奈津子が恍けた理由は他にあった。

 無意識に、秋山を待っている自分。そこに気づかれることを嫌った。恥ずかしかったのだ。

 さっきのスタッフが、前方で、奈津子の眼を意識するように、腕時計を見た。

 十一時を回ったことは、奈津子も確かめていた。それほどに秋山を気にする自分。これが香澄の言う、すべてが恋愛云々の証なのだろうか。

 多田との最初のころも、このようにそわそわしていただろうか。

 その当時を記憶の奥に探った。だが、断片が時折行き来するだけで、どうしても、多田と出会った瞬間の、自分の気持ちを確かめることは出来なかった。

 十二時。奈津子の勤務時間は終了する。待つこともなく香澄から電話が入り、約束どおり、付き合うことにした。

 まさか、自分が帰った後に来ることはないだろう。そうは思いながらも、微かな不安もあった。まだ、携帯の番号は教えてもいないし、教えられてもいない。

 帰ることにした。

 珍しい成り行きだね。帰り際、支配人は言う。無言で店を出た。

 

 その店ははじめてだった。建物も装飾も粗末なものだったが、しかし、そこには「華」があった。

 眼の醒めるような喧騒。とりわけママの威勢のよさは、この人が本当に自分と同じ性を持っているのか、と思うほどの、「粋」があった。

 香澄のママへの挨拶が終わると、二人はサワーのグラスを合わせた。眼の前に調理人の振る鍋が踊っていた。

「かといって、わかれるつもりはないんでしょう」

 香澄はいつもこうだった。唐突なのだ。理解出来ず、香澄の顔を見る。

「さっきの話の続きよ。多田さんの話をしていて、あんた、旦那ともうまくいってないようなこと匂わせていたでしょう」

「オ! 深刻な話か。いい女二人のなにやら難しそうな話。画だね。うん、画だ」

 といつの間に近づいたのか、ママがポンと香澄の肩を叩き、通り過ぎて行った。

 上には上がいるもので、伝法さでは奈津子など問題にならない香澄だったが、この店のママにかかっては子羊に等しい。

「べつに離婚しようと思っているわけじゃないのよ」

 奈津子は客をからかいながら忙しなく店内を歩き回る、ママの姿を眼で追いながら言う。

「与えるものがなくなっちゃった。向こうも何も与えようとはしないし」

「セックスは?」

「あるわよ。たまに、だけど」

「そりゃあるだろうねぇ、夫婦なんだし、まだ若いんだから」

「そう。まさに夫婦だからって感じね。仕方ないから、たまには義務を果たすような……。女と見て、がむしゃらにその性を求めてくれるわけじゃない」

「女と見て、か」

 香澄の眼が微笑んでいた。

「おかしくはないでしょう」

「おかしくはないわね。でも、女と見て愛されているわけではないという奈津子の言葉は、なかなか大きな含蓄のある叫びね」

「茶化さないでよ」

「茶化してなんかいないわよ。でも奈津子、男ってみんなそうなんじゃない。外にいる、例えば奈津子やあたしを一匹の雌として抱きたい一心で見る男たちだってさ、家に帰れば奈津子の旦那同様、自分の女房のことなんか女として見てはいないんじゃないかしら。女としてつねに見ているとしたら、その女が朽ちることに我慢出来るはずはないもの。だから男たちは、女房に対して、敢えて、その眼を棄てているんじゃないかしら」

 そうかも知れない。奈津子は日々、裏側から男たちを観察し続けている、プロのホステスとしての香澄の眼を疑わない。思案顔の奈津子を見つめて、香澄は続けた。

「だから、奈津子の旦那だって、外に出れば女の一人や二人は口説いているだろうし、そんなところはきっと、世間の男たちと大差ないのよ。遊びに馴れた男たちは、そりゃ、女には優しいし、お金の切れはいいし、だから、いつもそんな光景を眼にしているとアルコールも手伝ってか、素敵な男に見えるけどさ、でも、家の中では多分、奈津子が感じるような不満を奥さんに感じさせているんだろうな、と思うのよ」

 反発するつもりはなかった。

 だけど、私の場合は違うのだ。奈津子は香澄の顔を見つめつつ、そう思う。

 第一、夫が夜遊びをした記憶がない。仕事が終われば、一目散に帰宅している。

 奈津子は友だちの家庭を気遣う、香澄の友情に感謝しながらも、その助言さえ、自分の中で燻る不満への緩和剤にはならないと悟る。

「よくわかるわ。でも、少し、違うような気もする」

 オヤっ? という顔で、香澄は奈津子を見つめてくる。

「そもそも、結婚じたいが間違っていたんじゃないかって、最近思いはじめているのよ」

「外で人気がありすぎるからそう思うんじゃないの」

「それはどうかわからないけど、でも私、その状態が愉しいの。これが本音かも知れない。私はみんなに愛されたいし、みんなに私の持っているすべてを与えたいと思う。だけど、そう願っていても、現実に家庭というものがあるんだから無理だけど。だから、それが苦痛なの。そのくせ、その家庭というあたたかいイメージの場所に寄りかかっていたいという、矛盾した気持ちもあるのよね。だから私は、家庭との境界線を越えて来ないことを条件に、私を愛する男たちに、私というものを与えたいなどと、虫のいいことをいつも考えているの」

「男の天使ね」

 香澄はポツンと言った。

「何、それ」

「男にとって、そういう奈津子のような女ほどありがたい存在はないはずよ。だって、奈津子の家庭にまでは干渉しないという、簡単な規律さえ守れば、自然にわかれが来るまでは、その魅力的なすべてを自由に出来るんだもの。天使、そのものよ」

「またひどいことを言う。そりゃ、たしかにすべての男たちに愛されたい、愛したいとは言ったけど、誰構わずにあげるというものでもないわ」

「わかってます。でも奈津子って、たしか面倒だけは嫌いだってずっと言ってたはずだけど、こうして見ると、意外と面倒を好んでいるようね」

「面倒は嫌いよ。煩わしいことなんて大嫌い。多田のように私との結婚を迫るとか……。もしそうなったら、どんな男でも、その瞬間にお断りよ。私のペースにとことん合わせてくれるような人。それがもっとも大事な条件なの」

 香澄は苦笑していた。理解しているのだ。奈津子は香澄の顔を見て、微笑んだ。

 サワーをお替りした。ママが直接持ってくる。私生活もこうなのかしら。奈津子はあまくでも威勢よく、客を前に江戸弁でしゃべり倒す、ママを見ながらそう思う。

 

 香澄との語らいはとても有意義で刺激的だった。男もむろん大好きだが、あのように、同性でいながら男同士の親友のように、何でも忌憚なく話し合える関係も大切だと、再認識した。

 一時間以上を過ごし、帰宅した。夫は寝ていた。

 あくる日、約束どおり、夫との話し合いに臨んだ。

 予想通り、平行線だった。何をどのように言っても無駄だった。夫はまだ若いのに、妙に年寄りじみていて、考えにやわらかさがなかった。

 言うことをあきらめた。なるようにしかならない。感じたことはそれだけだった。

 それよりも、金曜の夜に姿を見せなかった、秋山のことが気になっていた。

 当然、人には様々な抜き差しならない事情があるのは理解している。それでも、まだ携帯の番号は教えていないので、直接は無理でも、店を通じての連絡ぐらいは欲しかった。

 気が急いたままに月曜を迎え、夜、店に出勤した。

 その夜、秋山の姿を認めたとき、泣きたいほどに懐かしさが込み上げてきた。

 水曜日からなので、まだ五日顔を見ていないだけなのに、もう何ヶ月も逢っていないような錯覚に陥るほど、懐かしかった。

 この五日間、夫との口論やら何やらと、すっきりしないことが続いていたからかも知れない。

 秋山は十時ごろ、フラッとあらわれ、いつものように、元気だったか、と言った。

「寂しかったわ」

 秋山は苦笑し、

「一日来なかっただけじゃないか」

 そう言って煙草を銜えた。

 火を点けると水割りを一口呑んだ。店内は混み合っていた。十二時までは、秋山の席にばかり着いていることは出来ない。

 それを熟知している秋山は、席を立つのにも未練気な奈津子に、あとでゆっくり話そう、と尻を押して、勤務時間が終わるまで、奈津子を店に放った。

 仕事をこなしながら、視線はつねに秋山を窺っていた。時折、眼が合う。それが嬉しかった。

 まるで十代のときの、初恋の相手に対するような気持ちのようだと思い、奈津子は店内の薄闇に塗れて、人知れず、赤面した。

 終わるまでが長かった。十二時。まだあちこちの席の客たちが、傍にいるようにと求めていたけれど、無視した。

 店としてはそれでは困るのだろう。支配人がその言い訳に走り回っていたが、勤務時間外で、奈津子が残業してもいい、という素振りを見せない以上、どうしようもないことだった。

 急いで着替え、小走りに秋山の席に行き、密着するように腰を降ろした。

「相変わらず、人気者だな」

 秋山は店内を見回していた。

「少しぐらい、妬いてくれてもいいのに」

「勤務時間内は仕方がないだろう」

「それじゃ、もし、いまあたしにちょっかい出してくる男がいたらどうかしら」

「撲る」

 秋山の手を自ら握った。素直に嬉しいと感じた。自分はこんなに単純だったのだろうか。たった一言に浮かれるなんて。それが不思議だった。

「この前は用事があったのよね」

 話題を振った。

「結婚記念日だった。カミさんと飯喰いに言ってた」

 訊かなければよかった。悪びれもせず、平然と言う秋山を睨んだ。

「優しいのね」

 皮肉をこめた一言が精一杯だった。

「結婚記念日を忘れるほどの恋愛、二人でしてみるか」

「出来るかしら、そんなこと」

「そう簡単ではないだろう。もし、それが可能になったなら、何人かが不幸になる。俺の女房、おまえの旦那、少なくとも二人は確実に疵つける」

「あなたの奥さんはそうかも知れないけれど、あたしの夫はどうかしら」

 そうなっても、娘冴子は哀しまないような気がする。子供ではあるけれど、すでに男女のことの多少は知っている。

 メディアなどからの知識は豊富にある。

(いや、それ以上に、娘は私の資質を完璧に受け継いでいる)

 だから、そう心配してはいなかった。

 夫はどうだろう。怒るだろうが、それは他と恋愛した妻に嫉妬してのことではなく、家庭に災いを持ち込むことへの怒りのような気がしてならなかった。

「この前も言ったが、そろそろ、のようだな」

「さぁ、それはどうかしら」

「この店の仕事を終わってからでは晩すぎる。日曜なら、昼も夜も休みだろう」

「そうだけど」

「それなら、今度の日曜の昼に逢おう」

 ため息が二つ、重なった。

「いいけど、でも約束は出来ないわよ。まずは食事だけってことにして」

「それでもいい。そうがっついているわけじゃない」

 微かな悔しさが生じる。

(がっついてよ。何故がっつかないの。何故、そう余裕たっぷりなの?)

 自ら予防線を張っておきながら、奈津子は無言でそう詰る、自分の矛盾に気づいていなかった。

「馴れているのね、女に」

「フラれることにはね。だから、断られてもいいようなことしか言えない」

 悔しさが消え、不意に愛おしさが込み上げてくる。翻弄されているのだろうか。そうだとしても何となく嬉しい。

「よし、話は決まった。今夜は久しぶりにジルバでも踊ろうか」

 アップテンポのBGMに変わったところで、秋山は言った。うなずき、立ち上がる。手を牽かれたまま、フロアに向かった。

 客席から視線が集まる。日々混み合っていても、殆んどが常連だった。それだけに、同じ常連の中でも、店のオーナーと親しく、そのママといつも踊っている秋山のことを知る人は多かった。

 踊った。社交ジルバではない。四拍子で回される、激しいジルバだった。

 ついて行けないほどに巧みだった。触発されて、数組が出てきて、踊りはじめた。二人が踊る中央には近づかず、周りを囲むようにしてステップを踏んでいた。

 腰を強く抱き締められた。照明が落ちる。ゆっくりとミラーボールだけが回っている。そのたびに、店内の壁に描かれた、巨大な蝶が妖しく煌いていた。

 背が高かった。その秋山の男が、奈津子の下腹のあたりで充実していた。

「勃ってるわ」

 つぶやくように言った。

「当然じゃないか。いい女と密着してるんだ。反応しないほうがおかしい」

「嬉しい」

 すべてに悪びれたところがない。直裁にいまを言う。素直に言葉も身体も反応している。

 嬉しかった。

「可哀想」

「そう、思うか」

「うん」

「我慢してるよ。その気になるまで」

「帰って奥さんとするのね」

 耳元の苦笑が、奈津子の官能を擽った。

「これはおまえに反応したんだ。それをカミさんにぶつけたら、どっちにも失礼だろう」

 今度は奈津子のほうが苦笑した。嘘か本当かはわからないけれど、秋山が言うと、真実に思える。

「日曜日が愉しみだわ」

 本心だった。ただ、いささか愕く心境の変化ではあった。

 近々、秋山と深い関係になる。そうは感じていた。が、明日明後日のことではないとも思っていた。それが日曜に逢うことになった。

 食事だけとの断りは一応伝えたものの、秋山より、自分のほうがその決心を崩しそうで、奈津子はその変化に、内心うろたえていた。

 私は急速に変わりつつある。そう実感しないわけにはいかない。それも秋山という男の、強引とも言える舵取りによって。

 いや、強引では決してない。仕掛けが巧みなのだ。乗らなければ損。秋山にはそう思わせる、何かがある。

 曲が終わった。そろそろ一時になる。チークダンスを終え、席に戻った他の客たちは、それぞれに帰り支度をはじめていた。

「俺たちも帰るか」

 うなずいて、立ち上がる。

「タクシーか」

 無言のまま見つめると、

「家は遠いのか」

「ワンメーター。歩いて二十分ぐらいかしら」

「近いな。歩こう。送るよ」

 それにも素直にうなずいていた。

 私はいま、一人の男に、境界線を踏み越えさせようとしている。はじめてのことだった。だが、断れなかった。と言うよりは、一緒に歩き、送って欲しかった。

 店を出て、並んで歩いた。腕を組んだのは、奈津子からだった。広い国道に架かっている歩道橋を渡り、ゆっくりと歩いた。途中から、コートの襟を立てる奈津子の腰を、秋山は引き寄せ、密着させた。その部分に、衣服をも溶かすような熱を感じた。

「珍しく、星が綺麗だ」

 言われて見上げた。満天に煌いていた。夜空など見上げたことはなかった。店が終わると、すぐにタクシーに乗るのがつねだった。時折自転車通勤することもあるが、冬季は頬を切る風に耐え切れず、ほぼタクシーを利用している。

「この街の空って、星なんかないのかと思ってた」

 秋山は微かに笑い、

「俺がこの街に来たころは月さえ霞んでいたけど、最近は綺麗になった」

 そう言い、

「だけど、俺の田舎の空はもっと星が多い」

 そう言うと、子供のような自慢顔になる。

 微かに風がある。寒いが、だからこそ密着していられる。前方に公園がある。街路灯がその公園を妖しく照らしていた。

「入ろうか」

「うん」

 こうも素直な自分が嬉しい。公園内には誰一人としていなかった。二月の深夜、さすがにそのような物好きはいない。

 ベンチに腰を降ろした。抱き締められ、なすがままに身をあずけた。

 顎に指が添えられ、顔が上向きになる。唇が降ってきた。自らも求めるように受け入れた。

 二度目のキス。最初から濃厚だった。呑み込まれそうになるほど激しかった。とことん応じた。

 舌がスクリューのように回転し、混ざった唾液が攪拌された。軽く達した。満たされているはずなのに、奈津子自身、餓えた雌の獣になっていた。

 秋山の手が膝を割ってきた。拒まなかった。むしろ、進んで弛めた。

 すでにぬかっていた。それはわかっていた。いま、秋山がそこに触れた。愉悦に錐揉みにされる。寒さは感じなかった。全身が熱かった。

「シテ、くれるか」

 うなずいた。秋山を探った。探すまでもなく見つかった。

 私に感じている。見つめ、微笑んだ。ためらいはなかった。口を近づけた。被せ、挿し、味わい、熱を伝えた。

「もういい。おまえを感じ、俺を感じさせた。今日はここまでにしよう」

 その冷静さが小憎らしかった。束の間、解放しなかった。そのまま、眼だけで顔を見上げた。恍惚としている顔がある。それで納得し、放れた。

 再び、唇を求め合う。

「悪党」

 自分の口調に媚を感じた。

「おまえもそうだ」

「こんなに火を点けて」

「おまえもそうだ」

「あたしーー」

「きちんとしたところでおまえを貰う。こんなところで、風邪をひかせたくないからな」

「近くにホテルだってあるのに」

 口を突いて出る自分の言葉が信じられなかった。それほどに欲情していたのだ。

「二時になる。旦那に疑われたら、秘め事じゃなくなるだろう」

「どこまでも冷静なのね。あんなに激しいくせに。あたし、その秘め事って一言が、少し、寂しい」

「明日はわからない。しかし、まだいまは秘め事だよ」

「うん」

「その燃えた身体、旦那にでも冷ましてもらうか」

 奈津子は秋山を睨み、

「これはあなたが燃やしたんでしょう。それを他にぶつけたら失礼だって、ついさっき、あなた、言ったばかりよ」

 秋山は笑い、煙草を銜えた。ライターの炎が風に揺れた。

「行こう」

 立ち上がる。五分も歩けば家だった。

 身体は火照ったままだった。そんなとき、奈津子の頭からは、夫はむろんのこと、冴子のことさえ消え去っている。

 とうとう、境界線を越えた。家族の顔を思い出したのは、秋山とともに、家であるアパート近くにまで来てからだった。秋山を、あなた、といつの間にか言っていた自分を省みながら、玄関のドアに鍵を挿す。

 

 日曜日。

 いつもよりは念入りに化粧している自分に、こそばゆくなる。娘冴子は起きてすぐから、近所の友だちの家に呼ばれていて、そそくさと出かけた。

 お昼をご馳走になる、と言って嬉々としていた。

 あの日以来、これまで以上に、夫婦としての会話が少なくなったせいか、夫も朝早くから、釣りに行くと言って家を出た。観音崎まで足をのばすとも言っていた。実家が横須賀なので、ひさしぶりに立ち寄る目論見のようだった。

 奈津子にとってはお誂え向きだった。多少天気は悪かったが、気持ちはすでに浮いていた。鏡の中の自分も、今日を後押ししていた。自然にあの夜を思う。

 寒空の下、公園のベンチで、お互いを確かめ合った。

 寒さを蹴散らすほどに燃えた。秋山に滾りを知られた。秋山の昂ぶりを実感出来た。それから一日置いた今日。

 奈津子の体内には、埋み火のように熱が燻っていた。それも今日、晴れる。

 そろそろその日が近づいたようだ。そう言った秋山の顔が蘇る。

 自信たっぷりの口調。激しく押されて土俵を割ったのではない。がっぷりと四つに組まれ、巧みに寄られた。

 あの夜がそうだった。娘の冴子という特俵さえ浮かばず、自ら腰砕けになった。

 いい。これでいいのだ。若い沢木のように無鉄砲でもない。けれど、私を欲しい、いう目的をはっきりと持ち、通い、真摯に時間をかけ、心身をほぐしてくれた。

 金も使った。決して安い店ではなかった。

 ママのプライベートでの仲間でもあるだけに、一般の客よりは安くされているが、それでも奈津子の出勤日の週三日と、週末には仲間たちと店に集うだけに、秋山の散財は小さくないはずだった。

 私に一切を惜しまない。これを冥利と感じなければ女ではない。

 奈津子は自身に対する言い訳のような理屈をつくり上げ、一度鏡に向かって微笑むと、スキップするような足取りで、秋山と待ち合わせている、喫茶店に急いだ。

 

「おまえ、色は何が好きだ?」

 だいぶ馴れては来ていたが、その日の唐突さには面喰う。

 少し遅れて喫茶店に着き、すでにコーヒーを呑みながら待っていた秋山は、奈津子が席に腰を降ろした瞬間にそう言った。

「色って、こういう色のことかしら」

 奈津子は苦笑しながら、その日自分が来ていた、セーターを指差した。

 毛皮の中は黒のセーターだった。秋山はうなずき、

「黒が好きか」と言って、足を組み、見つめてくる。

 秋山はジーンズに革ジャン、中にグリーンの薄手のセーターだった。色の好みを問われてみて、日ごろの秋山が身につけている衣類の殆んどが、グリーン系だったことを思い出す。

「あなたはグリーンが好きなのね」

「ああ」

 美味そうに煙草を喫っている。

「私は黒系かしら。それで、色がどうしたの」

 運ばれて来たコーヒーを一口呑んだ後に、奈津子は言った。

「俺好みに変わってみてくれ。せめて逢っているときだけでも」

「どういう意味かしら」

「いまからおまえに合うのを買いに行くから付き合え。色はグリーン。それを着たおまえを夜の店の中で見てみたい」

 思わぬ成り行きだった。呆気にとられた。

「予算は十万。それで三着買うか二着にするか、それとも一着十万のを買うか、それはおまえに任せる」

 そう言うと、秋山はさっさと伝票を持って立ち上がり、これからゆっくりコーヒーを呑もうとしていた奈津子を急き立てた。

 愕かずにはいられない。こういう男ははじめてだった。今日は秋山と寝ることになる。その覚悟はして来た。覚悟と言うよりは、期待もして来た。

 しかし、そうなるにしても、自分主導にそうなりたい。どうせなら、抱かれるのではなく、抱きたい。そうも決めていた。

 だが、最初から秋山のペースに翻弄され始めていた。

 奈津子はまだ一口しか口をつけていないコーヒーをあきらめて、立ち上がっている自分に気づき、心地よい敗北感を味わっていた。

 それにしても、最初のデートで衣服をプレゼントしてくれるとは……。

 それも予算は十万だという。物にもよるが、一般的には少ない金額ではなかった。秋山の言うとおり、普通の物なら三着は買える金額だった。夢にも思っていなかっただけに、一気に嬉しさが湧いた。色はグリーンと指定されたけれど、異論はない。グリーンは嫌いな色ではなかった。

 そんなことよりも、まるで煙草でも求めるように、この自分に十万の金をかけようとする秋山の不思議さが胸に響いた。

 店に行く夜には、必ずそれを着ているようにとのことだった。与えた衣服に身を包んだ女を見ることは、男として多少の優越感になるのだろうか。

 女である奈津子にも、相手が想像している以上にその衣服を映えさせ、自分の女としての魅力を再認識させてやろう、という見栄があった。

「いつもびっくりさせるのね」

「そんなつもりはない」

 喫茶店を出て、デパートのある繁華街のほうへと歩きながら、自然に腕を組む。

「普通、びっくりするでしょう。いきなり、色の好みを訊いて、直後には服を買ってやるなんて」

「邪魔にはならないはずだ」

「そりゃそうだし、嬉しいけど」

「あ、そんなことしたら、旦那に疑われるか」

 秋山はたったいまそれに気づいたように、照れたような笑いを浮かべ、頭を掻いた。

「そんなことはどうにでもなるからいいけど、私はただ、はじめてのデートでそんなこと言うあなたに素直に愕いているの」

「それだけ惚れているんだ。好きにさせてくれ」

 その言い方がおかしく、奈津子は声に出して笑った。

「おかしくはないだろう。いま思いついてのことじゃないんだ。はじめて外で逢うときにはそうしよう。ずっと前からそう決めていたことだ」

「それじゃ、私も素直に喜ぼうかな」

「当然だ。喜んでもらい、それを喜んで着て、俺の前にあらわれてくれなければ困るし、俺の恰好がつかなくなる」

 何とも勝手な理屈ではあるけれど、それがまっすぐに皮膚の内側に浸透してくる。

 多田はプレゼントなどに気が回らなかった。

 誕生日に小物をくれたりはするが、精々、ご愛嬌程度だった。

 むろん、男から何かをせしめようという気などさらさらない。けれど、贈り物は殆んどの女の好物なのだ。

 女はたとえ、虫唾が走るほど嫌っている男からのプレゼントでも、習性として受け取ってしまう。

 むしろ、奈津子のように、相手に肉体以外の何物も求めない、という女は圧倒的に少ないはずだった。

 そんな奈津子でも、秋山の好意は嬉しかった。肉体を与える相手への代償ではなく、ずっと前から、最初のデートのときにはそうしようと決めていた、という秋山の心情に熱くなる。

 デパートに入り、目的の場所に直行した。そういう売り場に足を踏み入れたことのない秋山を、奈津子は先導した。グリーンの物は数が少なかった。吊るしで一つだけあった。奈津子はそれが気に入った。

 振り返ると、秋山は微笑を浮かべてうなずいた。取り寄せになる。と言うよりはオーダーメイドだった。いいものだった。一着でほぼ予算額だった。

 註文し、上気した顔で振り向くと、秋山は尻のポケットから財布を取り出し、次は靴だな、と言った。

 それで、デパートでの買い物は、終了した。

 外に出て、再び腕を組む。映画館通りのほうへ向かい、ゆっくりと歩いた。

 午前十一時。人が溢れはじめていた。

 腕を組んで気の向くままに歩きながら、同じ路を行き来する、夥しい人の群れを見て、このカップルの中の何組が、お昼の時間帯に私たちと同じような目的で歩いているだろう、とふと思う。他愛もない妄想だった。

 半分ぐらいは、今日の私たちのように、はじめてのデートカップルもいるかも知れない。だけど、その中で男は虎視眈々と相手の女を狙っていても、そう簡単に一度目からホテルについて行く女が何人もいるとは思えない。

 私だって、そう。たしかに外でのデートははじめてだけど、店では何度も逢っている。しかも、もうだいぶ前から、客とスタッフとしての関係からは逸脱している。

 奈津子はそんなとりとめのないことを考えていた。

 繁華街を抜けた。それでもまだ、人通りがある路が続く。中央にホテルがある。ラヴホテルだった。

 小洒落た外観。普通、この類のホテルは、街中であればあるほど、ひっそりとしたたたずまいであり、利用するカップルの抵抗感を和らげる何かが施されているものだが、眼の前にあるホテルはそんなことに頓着していなかった。

 堂々と存在を誇示している。常識的には気後れし、入ろうとするカップルの決断を鈍らせるような建物だった。

 風が冷たい。しかし、絡んだ腕は火照っていた。

 秋山は誘うだろうか。もし見えているホテルに誘われたなら、私は従う。

 街のど真ん中にあるホテルで、すれ違う人々の中に知人がいるかも知れないけれど、それでも奈津子は従おうと決心していた。

 ホテルの前に来た。人気が消える夜までは待てないのだ。遅くても五時までには帰らなければならない。それは事前に伝えてあった。

 秋山は無言だった。が、腕ははっきりと気持ちを言っていた。

 照れる様子もなく、奈津子は腕を引かれ、形だけでもためらう間も与えられずに、ホテルの中に足を踏み入れていた。

 秋山はさっさとパネルに飾られている写真の中から部屋を選び、奈津子を促してエレベーターに乗った。

 まだ無言だった。三階のボタンを押す。振り向いた。顔を見上げる。引き寄せられ、強く唇を吸われた。エレベーターが停まるまで、二人は音を立てて、唇を貪りあっていた。

 室に入った。男と女がお互いを求め合うだけの空間。このホテルははじめてだったが、他のこうした施設には多田とともに何度となく入ったことがある。

「少し、呑むか」

 エレベーターの中での激しさが嘘のように、秋山は落ち着いている。奈津子のほうがまだ、粗い息を引き摺っていた。

 いらない。そう言って秋山に密着する。早く秋山を確かめたかった。すべてを脱ぎ去り、密着しただけで達しそうな予感がした。そこへいくまでの戯れも望まなかった。貫かれたい。それだけを念じた。

 通じたように、引き寄せられた。顔を見上げる奈津子の眼が潤んでいた。

「私、今日を待ってたような気がする」

 そういった唇を、秋山の唇がふさいだ。一頻り、唾液が行き交う。唇が放れた。

「風呂はどうする」

「入りたい。でも、放れていたくない」

「一緒に入ろう」

「うん」

 秋山の腕に支えられ、立たされた。衣服が脱がされていく。外は寒いが、中は汗が滲むほどに暖かい。

 下着一枚にされた。微かに全身が硬直した。恥じらいだった。顔を両手で覆った。秋山は乳首を口に含んだままに、奈津子の下着を脱がせた。刺激が全身を駆け巡る。

 秋山は立ち上がり、全裸の奈津子を抱きしめてきた。

 それに形だけ抗い、両手で秋山の胸を押し、身体を放して、今度は秋山の衣服を奈津子は脱がしはじめた。

 すでに革ジャンだけは脱いでいたので、セーターを脱がせ、中に着ていた薄いTシャツを、秋山に両手を万歳させて剥がした。ジーンズのベルトに手をかける。指先が震えた。

 ジッパーを下げ、ジーンズの腰周りに手をかけ、脱がせはじめた。ブリーフが盛り上がっていた。

 私に欲情している。私を求めている。全身に喜びが走る。一つになるのもむろん嬉しい。

 けれど、こうして牡の印が雌を求めて眼の前に仁王立ち、嘶いている光景こそが、奈津子にはもっとも好ましい。

 誰でもない。いま求められているのは私一人。それが現実として、十センチしか離れていない眼の前にある。下着に手をかけた。秋山の両手が奈津子の肩にある。

 熱い。奈津子はその熱を感じながら、下着を足首まで降ろし、蹲ったまま顔だけで秋山を見上げた。その姿が覆い被さるように大きく見えた。

「入ろう」

 秋山の声も湿っていた。

「待って」

 言うのももどかしく、奈津子は自ら秋山を呑み込んだ。吐息が聴こえた。頭を両手で鷲掴みにされた。

「風呂に入ってからだ」

 奈津子は被りを振った。風呂に入れば、そのぶん、秋山のエキスが薄くなるような気がしたからだ。

 欲情したそのままを記憶していたい。だから、束の間、熱中した。気持ちを理解したように、秋山は奈津子が自ら放れるまで、息を荒げたまま何も言わなかった。

 大人だった。奈津子は放れる間際、両腕で秋山の尻を抱き締めて、金槌で打たれ、板に没する釘のように、口の奥に秋山を挿し込んだ。それで達したのは、奈津子のほうだった。

「さぁ、風呂に入ろう。今度は俺の番だ」

 放心状態のまま、抱き起こされ、奈津子は秋山に運ばれるように、浴室へと歩きはじめた。

 

 すでに火が点いて、一度燃え盛った後だけに、秋山の指が身体の一点に触れた瞬間、奈津子はスパークしていた。

 そうなれば、もう自分を止めることが出来なかった。風呂は簡単にシャワーを浴びただけだった。両腕に抱かれてベッドまで運ばれた。

 秋山は巧みだった。急いているのは、眼や、息でわかった。けれど、焦らされた。むしろ、自らを敢えて焦らしているのではないか、と思われるほど、秋山は奈津子の肉体を丁寧に味わった。

 慈しんでいる。それがよくわかった。すべてが奈津子に、「愛」を実感させた。

 望んでいたものがそれだった。時には獰猛に挑んで欲しいけれど、そこに慈愛が含まれていれば最高なのだ。

 愛撫だけで沸点に達した。事前には一気に欲しかった。が、こうして堪能されると、それが間違いだということがわかった。

 そろそろだった。思う間もなく、貫かれた。直後から、秋山はそれまでの優しさを棄て、牙を剥いた獣になった。

 躍動した。翻弄された。まるで波に弄ばれる木の葉のように、奈津子は下で震え、上で舞った。

 汗が二人を密着させたままだった。一分の隙もないほどに全身を絡め合い、接続したままだった。

 同時に咆哮した。秋山の汗が眼に落ち、視界を霞ませた。身体が宙に浮いているようだった。

「もう、他人ではなくなったな」

 物憂げにうなずいた。

 腹這いになり、煙草に火を点ける秋山の顔を見ていた。なにごともなかったかのような、落ち着きを取り戻していた。その横顔が憎かった。

 自分が崩壊した。そう思わずにはいられない。夢中にはさせても、夢中になることはない。それが奈津子の姿勢だった。

 交わりに歓喜しながら、放れれば、帰りを思う。その繰り返しだった。それなのに、いまは五時に帰らなければという意識も薄くなっている。

 これは自分の崩壊に違いなかった。だから、最早平然と煙草を喫っている秋山が少し憎かった。

「だからって束縛はしないよ。いい母親、いい妻の立場までは奪おうことはしない」

「嬉しいけど、それって少し、寂しい」

 本来ならば、理想的な展開だった。そう求めて、これまでを克服して来たのだから。

 けれど、いまは一週間前までの奈津子ではなかった。鏡に違和感を見い出せなくなった自分。進歩したのか後退したのか、奈津子は急激に変わりつつある自分に困惑していた。

「ただ、他に男がいることを赦すほど、俺は寛大ではない」

 キリッと胸を刺す何かを感じた。瞬間、多田の顔が浮かんだ。

「まさか……」

「昨日までのことは言わないよ。俺が言いたいのは今日からのことだ」

「うん」

「嬉しかったよ」

 煙草を消した秋山が、唇を求めてくる。応じた。微かに煙草が匂う。心地いい。やすらぐ。

 と同時に、再び体内に炎を感じた。それを体感したように、秋山は時計を見た。

「五時には帰るって言ってたな」

「そう。帰りたくないけど、子供がその時間に戻るから」

 奈津子は、寝返り、仰向けになった秋山の上によじ登った。

「物足りなかったのか」

「違うの。満ち足りた。満ち足りたから、それをもう一度身体に刻印しておきたいの」

 もう恥ずかしさはなかった。秋山の言う通り、すべてを与え合った。他人ではなかった。お互いが共有物だった。

 奈津子は自分で動き、定めて、喰べた。そう。喰べた。

 これまでにも感じていた、得体の知れない空腹感を満たすように、奈津子は秋山を喰べ、錐揉みにされ、腰が駒になった。

 放心状態だった。時が止まっているようだった。時計を見る。四時になる。

「そろそろ、帰る時間だ」

 秋山が背伸びする。静謐だった。空調の音だけが、羽虫のように微かに聴こえる。先に起き上がったのは秋山だった。そのまま浴室に歩いていく。

 透明のガラスに囲われているだけの浴室。シャワーを浴びる秋山の姿。湯気で全体像は隠されてはいたけれど、シルエットが大胆に動いていた。

 奈津子も起き上がる。まだ全身から力が抜けたままだった。

 けれど、その身体が軽かった。秋山がバスタオルで汗を拭きながら出てきた。奈津子も入る。シャワーを熱くした。それでも身体の熱さには劣るような気がした。

 出ると、秋山は衣服を着始めていた。物憂い動きの奈津子を見て、

「あれ、いつ出来るのかな。早くあれを着たおまえを店の照明の中で見たい」

 そう言った。

「一週間ぐらいかかるって」

 買った洋服の直しの時間だった。靴だけは持って来た。やはり、グリーン系だった。

「明日の夜、行くよ」

 うなずいた。明日、秋山と逢ったときの自分が愉しみだった。変化しているだろうか。

 急ごう。秋山が急かしてくる。気遣っている。それはわかる。が、少し寂しく、悔しい。

 帰したくない。そう訴え、何故引き止めないのだろう。そうされて困るのは自分なのに、相手を思う秋山の分別が恨めしかった。

「さっぱりしてるのね」

 皮肉をこめたつもりだった。

「すぐ、この関係を毀すつもりはないからね」

「大人なのね」

「さぁ……。だけど、立場を尊重し合うことは男と女には必要なことだ。長続きさせようと思えば、それが最善の方法だろう」

 言いたいことはよく理解出来た。それでも女は、余りにもあっさりし過ぎていると、不満なのだ。何度かは、帰したくない、と言われたい。そう思ったときだった。

「可能なら、帰したくないよ」

 胸中を見透かしているような一言だった。思わず、抱きついた。

「キスして」

「せっかく口紅塗ったのに、いいのか」

「そんなもの、また塗ればいいもの」

 そうだな。秋山はそう言い、抱き寄せて、唇を求めて来た。舌を吸われながら、妙に重い気分を自覚した。与え、呼び込みながら、その理由を詮索した。

 男のことは知らないけれど、女が男から与えられる喜びは、脳には行かず、刺激を受けている部分から、下半身に向かって拡がっていくような気がする。

 いまも唇から下方に駆ける愉悦を感じながら、奈津子は重い気分の正体を探し出していた。

 不倫。しかもダブルでの。

 これまでのは形は不倫でも、「愛」は稀だった。あっても薄かった。愛された実感はあっても、愛した、という自覚はなかった。

 秤にかければ、圧倒的に、家庭のほうが重かった。だから、遊びは感じても、不倫などという重々しさは、少なくとも、奈津子にはなかった。

 けれど、今度は違う。まだたった一度なのに、この不倫は重い。

 愛が混じっているからなのか。しかもそれはとても濃厚なものだ。果たして秤にかけたなら……。

 以前のように圧倒的に家庭のほうが重いだろうか。

 眼にする数値が不安で、奈津子は秋山と家庭とを、秤にかけることは出来なかった。このまま突き進むのが怖い。

 多田もそうだったが、見かけは秋山より夫のほうがずっといい。

 経済力は知らないけれど、割烹の親方をしているだけにそこそこはあるだろうが、夫も結構な実入りがある。それなのに何故、人代わりしたようにこうまで自分が熱中するのか。

 相性だろうか。たしかに相性はいい。とくにセックスは、夫は論外として、多田よりもずっといい。

 が、それだけではない。もしそれだけだとしたならば、自分がとても惨めになる。それはやはり、全体的な、男として、人としての魅力の量だった。

 そう思うと、不安になる。

 自分が感じているということは、他の女もそう感じるはずだった。むろん相性もあるから、感じない女もいるだろうが、それでも不安だった。

 大衆的な魅力ではない。ある意味、癖のある魅力だった。一度咬んでみなければわからない。

 そうしなくても、果汁が滴っているように、近づいてみたい匂いを醸し出していたけれど、それが一度歯を立て、舌で味わうことによって、特異で、しかも豊饒な味に全体を麻痺させられ、身動きが出来なくなる。

 ただ、癖が強いだけに、好きと嫌いにはっきりとわかれるだろう。

 三陸名物のホヤのように、ぴったりと合った人の舌は、次々にその固体を求めたくなる。そんなマニアックな魅力に、奈津子は咬まれ、丸呑みされていた。

 促され、ホテルを出た。四時半。外はもう、薄暗くなっていた。ホテルの前を歩く人々の眼も、気にならなかった。奈津子は進んで腕を組み、堂々とホテルを出た。

 やましいことをしたという意識はない。抱かれてよかった、という充実感だけがある。

 これまでは抱かれるよりは抱いてきた感のある奈津子が、ほぼ完璧に秋山の方法で抱かれたことに、満足していた。

 

 多田はあきらめたようだった。

 何度か携帯に電話があり、執拗に誘われた。また、来る日ではないのにも係わらず、近くまで来たので顔を出した、と事務所にあらわれ、男たちと雑談をしながらも、奈津子を窺っていた。

 無視した。電話でも、もう逢う気はない、とはっきりと伝えた。男が出来たのか、と食い下がられた。

 そうだ、と応えた。言い触らしてやるとも言っていた。その一言で、もう逢わない、とだけ決めていたのが、心底嫌いになった。

 勝手にどうぞ、と言った。さすがに言い触らしはしなかった。当然だろう。多田には多少の地位がある。関係をあからさまにして、もっとも得にならないのは、多田のほうだった。

 若い沢木は一見、無関心を装っていた。

 若いなりに、自分が付き纏うことでの、社内での奈津子の立場を考慮しているようだった。しかし、仕事が終わり、事務所が入っているビルが見えなくなる距離になると、先回りしていて、子犬のように奈津子に纏わりついてくる。

 無視、し続けた。それでも意に介さないようだった。僕は絶対にあきらめませんよ。そう言って引き下がる顔には笑みがあった。

 すべてを秋山と比較した。諸々の条件を比べれば拮抗する男たちはいる。けれど、自分をこうまで夢中にさせる、何かを持ち合わせているのは、秋山だけだった。

 その秋山は、奈津子の夜の店の出勤日には、必ず顔を見せた。

 あれから一週間後、秋山に贈られたグリーンの衣服が出来上がって来て、奈津子はその夜、あらわれた秋山を愕かせた。その日仕上がることを報せていなかったのだ。

 秋山は眼だけで笑い、似合うと言った。グリーンは余り身につけたことはない。それを着て、姿見を覗くときには、微かに緊張した。

 見て、自分でも似合っていると思った。それで秋山も闇雲に、自分が好きだという理由だけで、グリーンを押し付けたのではないことがわかった。

 それなりに、似合うと確信していたのだ。そのように、秋山は奈津子がまだ、踏み込んでいないところへと導いてくれる。

 自分の抽斗が増えていく。それは女としての至福が増えるということでもあった。

 オフになる十二時が待ち遠しかった。グリーンの洋服。まるで秋山そのものを纏っているような気分で、奈津子は密着するように、隣りに腰を降ろした。

「旦那は?」

「夫のことは、タブー」

「いや、その服のこと、気にしていなかったかと思って」

「大丈夫。私も働いているんだし、気に入ったのがあったから買った。そう言っただけよ」

 秋山はうなずき、満足そうだった。水割りをつくる。ボトルの底が見えていた。それに気づき、秋山は自らスタッフを呼び、ニューボトルを註文した。ボーイが持ってくる。それを開けて、新しい水割りをつくったときだった。

「一本、くれよ」

 秋山は言う。いまニューボトルを頼んだばかりなのにと、その一本の意味がわからず、困惑する。

「おまえの、だよ。一本くれ」

 指が股間を指差していた。思わず吹き出した。

「何、それ……。競馬でもするのかしら。勝負師はよくおまじないのように毛を求めるって聴いたことがあるけど」

 甘く睨んでいた。拒絶など出来ない。むしろ、興味津々だった。

「賭け事はやらない。おまじないも興味ない。あるのはおまえへの興味だけだ」

「どうすればいいのよ」

「トイレに行って来い」

「どうしても欲しいのね」

「真面目に言ってるんだよ」

「わかった」

 奈津子は立った。一度振り返り、睨んだ。眼が媚びていた。恥ずかしさは感じなかった。秋山も立つ。連れションでもするか。

 近くに立つスタッフが笑った。

 尿意はなかった。ドアを閉め、立ったままスカートを降ろした。思い切って抜いた。見ると数本手のひらにある。そこでも吹き出しそうになる。

 秋山の唐突さにはだいぶ馴らされていたが、何を考えているのか皆目わからない。そして、それに順応し、内心嬉々としている自分というものも、奈津子自身、把握出来なくなっていた。

 席に戻ると、秋山のほうが先に戻っていた。腰を降ろし、拳の中に求められたものを握ったまま、秋山の眼の前に差し出した。

 秋山も拳を握っていた。それを開く。唖然とした。その手のひらの上にも数本の陰毛があった。

 見つめていると、秋山は奈津子の毛を受け取り、自分のと混ぜると、たったいま封を切ったばかりのウィスキーボトルの中に入れ、

「俺とおまえのカクテルだ」

 そう言って、グラスに残っていた水割りを一気に呑み干すと、新たに二つ、自分でつくり、一つを奈津子の眼の前に置く。

 改めて乾杯しようと言った。ためらう間もなく、奈津子はなすがままに従い、その水割りに口をつけていた。

「儀式だな」

「あの記念?」

「それもある。だがそれ以上に、男に口説かれたときにはこれを思いだせ」

 秋山は二人の陰毛を入れたボトルを指差した。

「怖いわ」

「怖くていいんだ。ひりひりするような恋愛でなきゃ、しないほうがいい」

「怖いわ、私」

「心配ない。前にも言ったが、家庭を毀すようなことはしない」

「それよ。それ、私のほうから毀しそうで、怖いの」

 お互いの陰毛を絡ませ、それをボトルに入れるなど、他愛のないものではあるけれど、それは奈津子の胸に、楔となったことは否定出来ない。

 私はどんどん咬まれていく。これまでつくり上げてきた自分が崩壊する。怖さはそれから受けるものだった。

 

 数日経った。相変わらず夫との会話は少ない。その夫がある日、家を買おうと言った。愕いたが、いずれはそうしなければ、とは思っていた。

 冴子も成長し、賃貸のアパートでは、家持ちの友だちに引け目を感じさせたくない、という思いが、奈津子の中で、日増しに強くなっていたからだった。

 毎月支払う家賃に少し上乗せしただけで、マンションが買える。返って来ない金を支払い続けるよりは、毎月自分のものになる物件への支払いは、有意義なものになるはずだった。

 貯蓄もあったし、頭金には支障がない。反対する理由はなかった。

 しかし、その話は急転した。家を買う。それを口にした夫の企みに気づいたからだった。夫はあくまでも、奈津子を新しい家に縛ろうとしていた。

 普通、夫婦共に働くことにより、その支払いを楽に運ぼうと考えるものなのに、夫は家は自分の収入だけで支払えるはずだから、これを機に、家に落ち着け、と切り出してきた。理不尽だった。

 奈津子はそれを拒絶すると、夫は胡散臭い眼で奈津子を見る。

 そして、夫だけの力で家を買い、妻には家だけを守ってほしいと言えば、普通、妻ならそれを喜ぶものだ。そう言って奈津子を詰った。価値観の著しい違いだった。

 奈津子は違う。自分は家の中だけに棲息するのは無理だと悟っている。

 家を買い、人並み以上の生活をする。そのことに異論はない。けれど、そこに自分の力が加わらないことには納得がいかなかったし、人も羨むような城を得ることで、さらに自身をグレードアップ出来、それによって、これまで以上に外社会に於いても、自分の言動に余裕が生じると考えていた。それは魅力が増すことでもある。

「家は私を縛っておくための代償のようなものなら、私はそんなもの、いらない」

 奈津子はそう言い放った。

 夫が当然のように怒った。おまえは家庭というものを蔑ろにしている、と視線が奈津子を刺した。

 怯まなかった。奈津子自身、周辺に棲む主婦との違いは充分に感じ取っていた。しかし、それらのほうが正しいとはどうしても思われない。

 短い一生。それはどう足掻いても夫のものではない。自分のものなのだから。

 唯一、その一生の中で絶対的に係わらなければならないのは、娘の冴子だけだった。

夫は頑なに拒否する奈津子に鼻白み、家を買う話も頓挫した。

 と同時に、奈津子もそれでいい、と思い直した。家を買う。そこには夫との一生が閉じ込められる、という思いがあった。

 過去ならともかく、いまは夫とともに生涯を過ごす自信は揺らいでいた。それを再認識した瞬間、奈津子はこのまま、賃貸生活でもいい、と思う。

 けれど、多少、生活環境は向上させたかった。いま棲むアパートはマンションとは名ばかりだった。

 一応鉄筋造りではあるけれど、いかにも外観がみすぼらしい。これまで家まで送ると執拗だった男たちを頑なに断った理由の一つには、余り男たちの眼に触れさせたくない、家の顔というものがあった。

「家を買うのは見合わせても、もう少しマシなところを借りましょう。冴子も友だちが多くなり、毎日のように家に連れて来るようだから」

 奈津子は依然として憮然としているままの夫にそう告げた。

 夫は何も言わなかった。家の主。希望はそれだけだから、奈津子とは違う意味合いで、夫は自分の家ということに拘泥する。

 奈津子はふと思う。もし自分が普通の女ーー妻なら、家を買うと夫が言った瞬間に狂喜し、今夜の夕食を奮発するかも知れないと。

 奈津子は自分が普通ではないことを自覚していた。が、これだけはもう、どうしようもないのだ。治せるものではない。

 病かも知れない。家にいて萎む自分の姿を想像したくはない。外に活路を求める。それは奈津子にとって、不治の病のようなものだった。

 奈津子は夫を無視し、その日から、賃貸マンションの物件を探し始めた。何も言わないということは、夫もそれを認めたということ。そう判断した。

 また、反対されても実行するつもりだった。何よりも冴子が喜ぶ。条件は、冴子の子供同士の付き合いを一番に考えて、同じ学校に通える地域に限定された。転校はさせたくなかった。

 見つかった。手ごろだった。何よりも、いま棲んでいるアパートとは、グレードが違う。外観もあかるく、周囲に建つマンションと比較しても、見劣りしなかった。間取りもいい。

 帰宅し、夫に伝えた。夫もいま棲んでいるアパートには不満たらたらだったので、奈津子が見つけて来たことには不快感を示しても、のそっと立ち上がり、見に行くと家を出た。

 戻った夫は、性格そのままに細々とした条件を奈津子に問い、結局は承諾した。

 それからは忙しない日々が続いた。それでも、会社も店も休まなかった。

 とくに店は、秋山に逢いたさに必ず出勤した。一度関係してから、立て続けに抱かれている。そう。これまでの男を抱く感覚ではなく、完璧に抱かれている。

 おまえはもう、俺の女だ。そう言われるたびに、以前なら絶対に赦せなかったはずなのに、素直にうなずく自分に感動したりしていた。

 そうなのだ。私はもう、秋山の女。

 その気持ちが強くなるごとに、これも以前には想像さえしなかった、秋山の家庭というものが気になりだした。

 これではまるで、自分と付き合った、多田やそれ以前の男たちが、自分のプライバシーに干渉しようとしたことと変わりない。

 そう自己嫌悪しながらも、しかし、思いに歯止めをかけることは出来なかった。

 引越しが明後日に迫った夜だった。

 すでに新しく借りるマンションの鍵は受け取っていて、奈津子は時間を繕っては、少しずつ、部屋を整いはじめていた。まだ合鍵はつくらず、夫は奈津子とともに一度見に来ただけだった。

 その夜、店に出てはじめて、秋山に引っ越すことを告げた。

「引越し祝い、しなければならないかな」

 秋山はどうでもいいようにそう言った。

「頂戴」

 秋山は苦笑し、

「何がいいんだ」

「あなたが欲しい」

「もう、何度も、そうしているだろう」

「でも、まだまだ欲しい。ねぇ、引越し祝い、今夜、頂戴」

 訝しげな秋山に、

「今度借りるマンション、もう私だけは入れるの」

 秋山の眼が耀く。その煌きが染み入る。

「まだお布団も何もないけど、その真新しいマンションの私の家に、最初に招きたいのがあなたなの」

「嬉しいな」

 奈津子は媚びた眼でうなずき、

「もう、夫には抱かれる気は毛頭ないけど、そこでのはじめてを、あなたとしたい」

「それも嬉しい」

「だから、今夜、来て」

 秋山は周囲の眼に気づかれないように、上手く尻を抱き寄せた。疼いた。火が点けられた

 近ごろでは、秋山が店に来る夜は、ついつい晩くまで傍にいてしまう。

 関係が出来る前までは、晩くとも午前一時を過ぎると店を後にしていたけれど、以降、帰宅を促すのは秋山のほうで、奈津子はその言葉に拗ねて、もうちょっとと甘えるようになっていた。

 それだけに朝は大変だった。

 五時には起きて、一応、主婦としての務めは果たさなければならない。夫は何もなければ冷蔵庫などを探し回り、不機嫌そうに簡単な朝食を済ませて、あたふたと出かけて行くが、冴子にはそうもいかない。

 それでも、小学校に入学したころから、冴子もパン食を好むようになり、その点は助かっている。

 けれど、妙なことに、コーヒーではなく、パンに味噌汁という組み合わせでしか喰べなかった。それで毎朝、味噌汁だけは必ずつくるようにしていた。

 それが済めば再び布団に入り、起き出した冴子が顔を洗い、朝食を摂るのを耳にしながら、自分の出勤する時間まで、うとうとしているのが常だった。

 それらをすでに知っているだけに、秋山は早く帰れ、と言う。

 だが、朝が辛くても、奈津子はもう少し、もう少しという気持ちだけしかなくなり、そのたびにこんなはずではなかった、と自分を訝り、しかし、さらに秋山に身を寄せて行くのだった。

 ただ、今夜だけは違う。秋山に真新しいマンションの夜を、一番に体験してもらう。そう思い、奈津子は時計を見て、腰をあげた。午前一時前だった。

「少し遅れて来て。あたし、用意することがあるから」

「わかった」

 そう応じる秋山の肩に軽く触れ、奈津子は店を出た。おおよその場所は教えた。説明すると、大体わかると言った。マンションの階数と部屋の番号もメモに書いて渡した。迷ったら、携帯で案内するつもりだった。

 マンションに着き、鍵を取り出す。誰もいないとは知りながら、何故か緊張を強いられた。

 昼ならまだしも、この時間、夫は来るはずもない。もし来ても、まだ夫には鍵を渡していないのだから、中で息を殺していれば入る術はない。そうは思っても緊張するのは、やはり、背徳感からだろうか。

 いや、違う。はじめての家に、秋山を呼んだ。その秋山がもうすぐここへ来る。それへの期待感が奈津子を異様に緊張させているのだった。

 はじめて、あの街中のラヴホテルに入ったときの数倍、奈津子は妄想を逞しくしていた。

 三十分が経つ。布団はない。薄い毛布が一枚あるだけだった。

 幸い、ヒーターはある。火を入れた。浴槽に湯を張った。

 三階建てなのでエレベーターはなかった。石を敷き詰めたような階段がある。微かに靴音が聴こえてきた。それが一歩一歩近づいてくる。

 少女のように心臓が高鳴った。奈津子は急いで浴室に向かい、湯を確かめて、あることをして玄関に戻った。そこで秋山を迎えたかった。ドアの前に立つ、人の気配を感じた。軽くノックしてくる。

「どなたでしょう」

 敢えて言う。

「俺」

 施錠はしていなかった。

 開いてるから入って。奈津子はそう言って、その場にしゃがんだ。

 ドアが開く。靴先が見え、すぐに全体があらわれた。秋山は後ろ手に施錠し、奈津子を見て眼を瞠る。

「支度するものって、それだったのか」

 顔が微笑んでいた。奈津子はうなずき、

「気に入ってもらおうと思って……、あたしなりに考えたの。気持ちを込めて、あなたが喜ぶようなことをしたいと思った」

「最高だ。俺はおまえのその淫乱さが好きだ。男と女、いや、俺たちは牡と雌だから、二人きりのときはそうして常に、俺を刺激し続けてほしい」

 秋山は靴を脱がずに、奈津子と向かい合うようにしてしゃがみ、すっと右手を伸ばし、的確に触れてきた。

 奈津子は浴室で下着を脱いで来た。スカートはそのままだった。今夜も秋山から贈られた、グリーンの衣服だった。

 そのスカートを膝上まで捲り上げ、奈津子はしゃがんでいた。

 寒さは感じなかった。それどころか空気に晒した股間が生暖かかった。両膝を極限にまで開いていた。和式のトイレで用を足すような姿勢で、奈津子はドアが開けられ、秋山が顔を出すのを待っていたのだ。

 素直に喜んでくれた。奈津子も同様だった。もう店にいるときからスイッチは入っていたのだ。だから、指が触れただけで燃え盛る。

 靴を脱ぎ、珍しく秋山も昂ぶっている。奈津子を抱き上げた。寒風に晒されていた秋山の手が、背中と裸の尻を抱えた。

 秋山は足で居間に続く障子戸を開けた。薄い毛布が敷いてあるだけの部屋。ヒーターが寒さを緩和していた。

「すぐに、いいだろう」

「うん。そうして」

 秋山は下半身だけを脱いだ。重なってくる。それだけで全身が震えた。予告もなく、挿してきた。一気に飛んだ。痺れていく。星がぶつかり合う。弾けた。

 簡単に裏返された。俺たちにはこれがよく似合う。そうかも知れない。奈津子はうなずき、応じた。

 犬になり、その獰猛さに蹂躙された。音が爆ぜる。奈津子は啼き、叫び、痙攣し、沸き立った。

 さらに突かれた。串刺しにされているようだった。翻弄される自分が心地いい。啼いて、泣いた。全部あげる。残さずあげる。

 叫んでいた。どこもかしこも自由にして。すべてがあなたのもの。命もあげる。

 直後、奈津子は殺された。天国というものが本当にあるのなら、いまこの瞬間がそのような気がした。

 律動は終わった。けれど、秋山の蠢動は続いていた。やがて微動に変わり、秋山は放れた。奈津子は尻で媚びたままだった。

「シャワーは使えるのか」

「うん」

 そう応えながら、奈津子は鈍い動作で秋山を掴まえた。

「お湯でなんて厭。あたしがきれいにしてあげる。全部あたしがしてあげる」

 訴えた口が舞い降りた。口をお湯にし、タオルにした。終わった。それでも放したくなかった。

「俺に惚れすぎるな」

 闇から降るような声だった。私に惚れすぎないで。係わる男に繰り返し言って来た一言だった。いま、奈津子はそれを秋山に言われている。

「もう遅い。もう、惚れちゃった」

「不幸になる」

「奥さんも不幸ってことかしら」

「少なくとも、幸せではない」

「あんなに激しく愛してくれたばかりなのに」

 秋山は苦笑し、

「おまえはいつも堪能させてくれる。だから、逢うのが愉しみだ」

「あたしは玩具?」

「まさか。玩具はプログラムで動くしか能がない。おまえは愉しみを創り出す」

「いっぱい考える。努力するするから、だから、愛して」

 頬ずりした。熱が伝わる。卑しい雌豚のようだった。愕かずにはいられない。これも私なのだ。これが、私なのだ。外の世界が見つけてくれた私。家では絶対に探すことの出来ない私。

 私が蜘蛛だったのに、その私が蜘蛛の糸に絡まれて、身動き出来なくなっている。その不自由さが愉悦だった。

「一緒だと、何度でも欲しくなる」

「何度でも、気が済むまで自由にして」

「そうもいかない。もう四十過ぎだからな。過ぎると、明日がなくなる」

 秋山は、まだ裸のままの股間を、足の親指でまさぐり、埋めた。抵抗もなく受け入れていた。

 屈辱的な行為。それなのに、腰が独りでに蠢いた。親指を基点にして回る。秋山の一部。足の親指。腹を空かした雌犬だった。進んで指を頬張っている。

 こうまで秘密を共有しているのだ。ブレーキペダルを失っていた。多田との交わりが幼稚に思えた。

 戦いた。嗚咽した。秋山の太腿を抱き、引き寄せた。親指に圧力が加わる。再び、咆哮した。

 限界だったのか、秋山が再び挑んできた。太腿を腰に絡めた。子供が欲しいと思った。瞬間、記憶が飛んだ。

 下から背を丸め、秋山の腕に歯を立てた。覚えているのはそれだけだった。

 

 夫との離婚を意識したのは、秋山と新しいマンションで交わってからすぐだった。

 これまでにも感じていたことではあるけれど、傍にいるのに堪えられなくなった。食事後の、夫の食器を洗うことさえ厭になる。

 もっとも苦痛になったのは、夫が入った後のお風呂を使うことだった。どうしようもなく、不潔に思え、シャワーだけで済ますことも屡(しばしば)だった。

 そんなとき、クラブ勤めをしている香澄の顔を思い出し、正直に心情を吐露した。

 奈津子、あんたたち、末期よ。香澄はそう言い、旦那のほうがそうなったのなら救いようがあるけど、女である奈津子のほうが厭になったんじゃ、もう、戻れないかも知れないね、と言った。

 もし、このことを秋山に伝えたら、どのように反応するだろう。

 最近の秋山は、出会いのころの秋山ではなかった。最初から自信たっぷりではあった。しかし、いまは当時の何倍も自分というものを貫き、奈津子を翻弄していた。

 あの新しいマンションでの交わりに、それが如実にあらわれている。

 私はあの夜、秋山の玩具になった。そう感じないわけにはいかなかった。秋山はこれまで蓄積してきた女のプライドさえも、粉々に砕き、帰った後、砕けたそのプライドを、必死に掻き集め、もとに直そうと努めても、無理だった。

 唇を咬みながら、しかし、支配される喜びも感じていた。いや、屈辱感よりも満足感のほうが大きかった。

 私はつくり直されている。そう思わずにはいられない。飼育されているのだ。

 まるで、魔法のように、手品のように。翻弄される快感。それはこれまでには考えたこともない気持ちの変化だった。

 男を自由に扱うサディスト気味の自分しか意識していなかったのに、そのずっと上をいくサディストのような秋山に、自分の中のどこかに潜在していた大きなM性を掘り当てられた。

 夫を厭になる。離婚したい。それは何も秋山に強要されたことではなかった。家庭だけは大切にしろ。それがいつもの秋山の口癖だった。

 矛盾だった。これまでは自分の思い通りに外を歩くことで、その余裕から、家庭をも大事に出来た。けれど、いまは違う。

 秋山に根こそぎ掘り起こされている。すべてが受身だった。秋山に未知を耕され、過去とは比較にもならないほどに肥えた肉体と痩せた精神。

 そう思うと悔しいけれど、完璧に心身ともに下僕のように仕上げておきながら、家庭だけは大事にしろ、と嘯く秋山が、抱き締めて喰い千切りたいほどに憎かった。

 あたしは離婚する。そしてあなたとともに行く。そう言ったときの秋山の顔が見たい。

 奈津子の家庭内を秋山はほぼ把握していた。むろん、寝物語に話したからだ。だが、秋山は自分の家のことは何一つ話さなくなった。

 ずっと以前、妻と外の女とは違う。妻は一段上にいる。奈津子の心情を省みることなく、そう言っただけだった。

 携帯の番号を交換した際、家の番号も訊いた。

 拒否されるかと思っていたら、簡単に教えてくれた。携帯に通じないときなどに、かけてもいいかしら。そう言うと、俺がおまえの家の電話にかけてもいいなら。秋山はそう言って平然としていた。

 むろん、まだ一度も家に電話したことはない。

 だが、いつの日か、電話して、自慢の女房の声を聴いてみたい、という欲求に駆られていた。それによる秋山の反応も見てみたい。

 どこまでも秋山に傾倒していく自分を意識するにつけ、どこかに秋山が困惑するようなカードを持っていたいと願った。それが自宅の電話だった。いまのところ、奈津子にはそれしかない。

 娘冴子は、親の異変を何となく感じているようだった。最早、母親べったりで、夫がかまうほどには父親のことは頭にないようだ。

 その冴子が、ある夜の仕事が休みのとき、テレビを観ながら奈津子に密着してきた。夫は会話もない家を嫌うように、パチンコに行くと言って、夕食後に出かけた。

「ママ、お父さんのこと、嫌いになったの?」

 大きくなるにつれ、奈津子のことはママ、父親はお父さんと呼んでいた。

 予期していなかっただけに愕いた。不穏な気配は感じている。それは知っていた。けれど、こういきなり斬り込んで来るとは思いもよらなかった。

 もう少しで九歳になる。もともと感受性には鋭いものがあった。さらに最近は、メディアの影響などで、小学生ともなれば男女のことの多くを知っているし、体の発育状態も過去の比ではない。

 奈津子は笑顔を繕った。

「どうしてそう思ったのかな」

「だって、お父さんとお話も余りしないし、何か変」

 奈津子は冴子の頭を撫で、

「ごめんね、心配させちゃって。そうねぇ。冴子ももう大人になりつつあるものね。わかるわよね、何となく」

 不安そうな眼が見上げてくる。

「でも、心配しなくていいのよ。たとえどんなことになろうと、ママは冴子とだけは絶対に離れないから」

 泪ぐんでいた。冴子にとっても予想通りの応えだったのだろう。当然だった。最早、ボーイフレンドと一緒に手を繋いで歩いている小学生だって結構いる。

「大丈夫よ。冴子には寂しい思いはさせないから」

 すでに寂しい思いをさせていることに気づいていないかのような、奈津子の言葉だった。

 秋山の顔が脳裏に浮かぶ。これまで何度もそうして来たように、秤にかけていた。夫など、秋山の重さに飛ばされそうなほど、軽い存在でしかなかった。

「今度、ママとお外で食事しようか」

「いつ?」

 こういうところはまだ子供だった。心配も忘れたように、眼を耀かせる。

「そうねぇ。今度の日曜」

「約束だよ。破ったらひどいから」

「破ったりしないわよ。何でも好きなのをご馳走してあげる」

 狡猾なことを言っていた。はぐらかすつもりはなかった。

 まだ時期尚早のような気がしてのことだ。夫とは離婚に向けて突き進むような気がする。そうなれば、いずれはきちんと説明しなければならない。

 秋山に会わせることになるだろう。それは自分が引いた境界線を毀すことに等しい。

 いや、すでに結界は崩壊している。この新しいマンションで、まだ家族が引っ越す前に、激しく交わっているのだから。

 それでも自分の中で、鬩ぎ合いがあった。何とか自分主導に立ち直りたい。その思いはいつもある。

 しかし、秋山の放つ毒は、奈津子のそれを遥かに上回っている。

 まるで敵ではなかった。飼い馴らされている。言葉では言い表せないほどの、魅惑的な毒を何度も注入されながら。

 

 桃の節句も終わり、季節は暦どおりに春めいてきた。ぼちぼち南のほうからは、桜開花のニュースも報じられている。

 日曜日。久しぶりに予定もなく、奈津子は冴子を連れて上野に行った。

 動物園だった。冴子は生き物には幼児のころから興味を示し、動物のみならず、時折、奈津子の母が棲む栃木の山奥に行ったときなど、蛙やナメクジまで手掴みし、ポケットに入れ、土地の人々を驚かせていた。

 その冴子が動物園に行きたいと言ったので、たまには一日、子供の望みを叶えてやろう、と思ってのことだった。

 一通り、見て歩いて、ベンチに坐り、春とはいえ、まだ冬の尾びれを引き摺ったような風が微かに吹いているにも係わらず、二人で売店で買った、ソフトクリームを舐めていた。そのときだった。

 奈津子はある一点を見て、愕然とした。

 秋山の姿を認めたからだった。一人ではなかった。秋山と同年代と思われる女性と一緒だった。

 むろん、奈津子が同じこの動物園にいることなど知るはずもなく、秋山とその女は、手を組んで仲睦まじそうに、散策気分で動物園の中を歩いていた。

 あちこち見る様子もなく、五十メートルほど離れたところにいる、奈津子には気づいた様子もない。

 瞬間、奈津子に芽生えたのは、嫉妬、だった。それが凄まじい勢いで奈津子を包み、いっとき、金縛りにでもあったように、全身を硬直させていた。

「どうしたの、ママ」

 努めて平静を装うが、変化は冴子に伝わったようだった。

「ううん、何でもないわよ。風が寒くなってきたわね。そろそろ帰ろうか」

 そう繕ってはみたものの、じっと見つめてくる冴子の眼は、奈津子の何かを感じたらしく、素直に立ち上がり、うん、帰ろう、と同調してくる。

 秋山たちの後を追うように歩きはじめた。が、途中から、出入り口のほうに踵を返した。嫉妬心が燃え滾り、声をかけそうな状況を危惧したからだった。

 秋山たちは象のほうへと歩いていた。身体が震えた。寒い。

 奈津子は冴子を抱きかかえるようにしながら、帰り道を急いだ。そうしながらも、秋山と出逢い、こうなる前までの自分と比較して、何故、こうまで変わってしまったのだろう、と嘆く。

 本来なら、いまの秋山の姿が自分のはずだった。

 帰りの車中でも上の空だった。あの仲睦まじさ。お互いに信頼がなければ出来ない自然さだった。

 おそらく、秋山が外の女とは別格だと嘯いている、妻だと思われた。

 自分を省みて、あのように長年夫婦として連れ添っていながら、しっとりと微笑み合い、二人きりで動物園を散策する、四十代前半のカップルに違和感を抱く。そして、羨望した。

 まるで卑猥さがない。自分と秋山の画に置き換えてみる。密着して歩く。幸せを感じる瞬間だった。けれど、それはいつも、貪欲に互いの性を求める、獣の序章に過ぎない。

 私も外の女の一人でしかないのだ。

 そう思い、思った自分を嫌悪した。さらに、そう思わせた秋山を一瞬、憎んだ。

 ふと、困らせてやりたいと思った。そうすることが、唯一、自分が優位に立てる手段のような気がした。自信を喪失し、ひれ伏し、哀願する秋山を見てみたい。赦せなかった。あの幸せそうな光景が。

 電話してみようか。むろん、家の電話にだ。あなたの夫は私に夢中なの。もしそう告げたなら、あの何の疑いもないように微笑む、妻らしい女はどのような反応を示すのだろう。当然、秋山にも通じる。

 秋山もまた、それでどう変化するか。うろたえ、取り繕い、必ず、接触を求めてくるはずだった。

 悔しいことに、いまは奈津子のほうから誘うほうが多かった。求められ、内心では尾を振っても、顔には余裕を浮かばせて逢ってあげる、という形にしたい。これまでの男たちに対するように。

 このままでは自分だけが破滅する。

 多摩川の鉄橋を通過する電車の窓から川面を見つめながら、奈津子は急激に自分を失いつつあることに、気づいていなかった。

「ママ、もうじき駅よ」

 冴子に袖を引かれ、うろたえた。じっと見上げてくる。まっすぐな子供の眼。異変に過敏な視線だった。

「着いたら、お寿司でも喰べようか」

 無意識に子供に諂っていた。

「いらない。早くお家に帰ろう」

 そう言う冴子の頭を撫でながら、明日は店に来ることになっている、秋山の顔を、再び脳裏に手繰り寄せていた。

 

「昨日は何して過ごしたの」

 秋山が姿を見せたのは、九時半ごろだった。相変わらずのジーンズ姿だ。ブルゾンだけは多少、薄いものに変わっていた。店はその夜も混みあっていた。

「昨日か。女房とデートだ」

 正直というか、悪びれもせず、秋山はそう言って煙草を銜えた。隠してほしかった。そうなら、ねちねちと追求することも出来る。このように真っ正直だと、二の句が接げなかった。

「いっぱい、妬けた」

 本心を言った。一晩が過ぎて、だいぶ気持ちは落ち着いていたのに、顔を見た瞬間、嫉妬が煮え滾った。秋山は不思議そうに奈津子を見た。

「象さん見て、パンダ見て、仲がいいのね、お宅は」

 勘がいい。それだけで納得したようだった。

「偶然だな。おまえも動物園に行ってたのか」

「娘と」

「声かければよかったのに。飯ぐらいご馳走したよ」

「奥さんがいるのに」

「構わない。あいつはそんなヤワじゃない」

「信頼されてるのね。悔しいわ。みんな暴露しようかしら」

「信頼ねぇ。単にすべてを受け入れているだけかな」

 脅かしともとれる一言にも、秋山は平然としている。それが奈津子をたじろがせた。

「あなた、平気なの? あたし、あなたとの関係を奥さんに言っちゃうかも知れないわよ」

 秋山は水割りを呑み、再び煙草を銜えながら、

「好きにすればいい。女は所詮、男を裏切る。もしおまえがそうして、カミさんが逆上して離婚すると言うなら、それでもいい」

「本当かしら。あたし、もし、あなたが離婚という可能性があるなら、本当にそうしてもいいわ。そこにあたしの行く末も見えてくる」

 暗に夫と離婚して、秋山との生活を、と匂わせた。

「それとこれとは話が違う。俺はカミさんが望むなら、離婚は受け入れると言ってるだけだ」

 と、にべもない。本質を再認識したような気がした。常々言っていた、女房は別格、という一言。

 外で出逢う女たちとは一線を画している。それは事実なのだ。

 しかし、それはまだ、いい。が、奈津子にとって、その外の女たちを並列にされ、その中の一人にしか見られないことは、屈辱以外のなにものでもなかった。

「あたし、夫と離婚の話を進めているの」

 秋山は怪訝な顔をした。

「本気か」

「冗談でこんな話、出来ないわよ」

 秋山は苦笑し、

「おまえのことだ。しっかりと将来を見据えてのことだろう。俺が意見することでもない」

「ひどいこと言うのね」

「そうかな。俺は干渉を嫌うおまえを尊重しているつもりだが。第一、外の男からあれこれ言われたくないというのが、おまえだろう」

「あなたはあたしを愛してるって何度も言ったわ。奥さんにもそう言ってるのね」

 見据えた。秋山は眼の前で悠然としていた。顔には微笑が浮かんでいた。

「カミさんとの関係は、愛云々は通り過ぎている。言うとすれば、必要。その一言だけだ。おまえに言った、愛してるは本心だ。おまえは女として完璧だ。男なら誰でもそう思う」

「あなたもあたしにとって、男として完璧なの。だから、夫との離婚も考えた。発端はあなたよ」

「天使が悪魔に変心しようとしているようだ」

「どういうことかしら」

「おまえの魅力はそういうところじゃない。そんなの、そこいらの女と変わらないだろう。おまえはある意味、男の天使だった。だから魅せられた。おまえの言動に執着し、少しでも気に入られようと努力した。そのような男たちを見て微笑むのがおまえだった。天使に出逢った男は無意識に悪魔になる。嫉妬に狂い、天使のプライベートまで把握しようと愚かな言動に走る。おまえはそういう男たちを巧みに誘導し、時には天使から女王になり、線引きし、聖域を定め、それ以上は一歩も男を受け入れず、男の気持ちをさらに悪魔へと導いていった。しかし、いまのおまえは違う。もう天使でも何でもない。自ら卑小な悪魔に成り下がっている」

 軽く握っていた拳が震えた。

「あたしも天使に会ったのよ。だから、いまは悪魔になっている」

 睨んだ。無言の眼が睨み返してくる。

「女って面白いな。どんな女でも、自分が一番だと信じてる。その面白さがあるから、こうして遊びはやめられない」

「遊び?」

「ああ。おまえが俺と付き合うまでいろんな男たちを遊んでいたように」

「矛盾だわ。遊びに愛は介在しないでしょう」

「理屈じゃない。その瞬間、対象を愛する。そうすることにより、互いに昂ぶる。必要なことだよ」

 場所が店でなければ喚きたかった。平然と一人の女を粉々に毀そうとしている。そしてそれは、秋山の言う通り、これまでの自分でもあった。

 数人の男を毀した。稀薄になっていた過去が鮮烈に蘇る。もっとも近い過去。多田の社内での業績は、別人のように落ちている。それは各支店に送られてくる、内部資料でもあきらかだった。

 だが、たとえそうだとしても、秋山がほぼ、健全だった自分を毀しているのも事実なのだ。まさか、過去の男たちの敵討ちじゃあるまいし、真剣に愛するまでに気持ちを盗みながら、つれない言葉は耳にしたくなかった。

「結婚していようがいまいが、いま以上に夢中になれる対象があれば、それを毀してでも手にいれたいと思うのは、自然なことでしょう」

 益々自分に似つかわしくないことを言っている。奈津子はそうは感じても、どうすることも出来なかった。

「相思相愛ならばそれでいい。ただ、一方的なだけでは、相手はどんどん離れていく」

「そう……。あたしの一方的な愛ってことなのね」

 泪ぐんでいた。勤務時間はとうに過ぎたとはいえ、スタッフは不穏な空気を感じ取っている。時折視線を走らせて、秋山と奈津子を窺っていた。

「このままでいいじゃないか。簡単なことだ。おまえが昔のおまえに戻ればそれで済むことだ。そうすれば、お互いに、これまでのように激しく貪欲に愛し合える」

「身体だけだったのね」

 言ってはならないことだった。口に出せば、惨めになるのは自分なのだ。

「どう思おうと、お互いに相手のプライバシーには干渉しないことを前提にしての始まりだったろう。しかも、それはおまえが釘を刺したことのはず」

 たしかにそのとおりだった。けれど、いまはそれでは済まなくなっている。

 その変わり様を逐一見て、もっとも知っているはずの秋山のはずだった。

 自分が変わる。そうすれば相手もさらに夢中になり、追い求めてくる。少なくとも、多田はそうだった。逢って求め合うだけじゃ飽き足らず、離婚を迫り、結婚を求めて来た。

 多田は独身、秋山は妻帯者。その違いはあるものの、自分さえ離婚を決意し、結婚を匂わせることによって、秋山も多田のように喜びに震え、難しいまでも、妻との離婚を真剣に考える。奈津子はそう信じて疑わなかった。

 それは奈津子にすれば当然だった。はじめて、境界線を越えさせた男なのだ。まだ夫も冴子も一夜を過ごしたことのないマンションで、その汗が部屋中に染み付くほどに愛し合った。

 玄関のドアを開ける秋山の眼に、下着を取った丸裸の下半身を進んで晒し、心身ともに気持ちをあらわした。

 また店では新しいボトルに、二人の陰毛を入れ、顔を出すごとにそのボトルのウィスキーを呑み合い、二人だけの秘密に昂ぶった。

 それはどちらも、完璧に心身を赦しているという証でもあった。愉悦を求めるだけではなく、自分が感じる以上の快楽を相手に与えたい。そう思うのは、愛ではなく何だろう。

 それなのに、プライドを金繰り棄てて、女である奈津子のほうから、家庭を毀しても添え遂げたいという求愛をまのあたりにしてさえ、秋山は無感動な顔をして、自論を展開するばかりだった。

「あたしって、怖い女なのよ」

 再び惨めになるようなことを言っていた。

「女は全員、生まれた瞬間から怖い存在だよ。俺は散々その怖さを味わってきた。女は自分の幸せだけしか考えない。ずっとそうだった。おまえのように。自分が望む幸せを得ることにより、不幸になっていく者の数を知らない。その気持ちの救いようのなさを知らない」

「奥さんだって女よ」

「あいつは例外だよ」

「嘘。あなたいま、女はみんな、裏切るって言ったでしょう」

「だからいつも言ってるだろう。あいつは別格なんだ」

「そう……。そうならあたし、挑んでみたいわ」

「どうぞ」

 秋山はグラスに残っていた水割りを呑み干し、

「今夜の酒は美味くなかった。貴重な時間だったのに」

 そう言って立ち上がり、いつもの喫茶店で待ってる。一言を残し、出入り口のほうに向かった。奈津子は歯軋りしたい自分を堪えていた。

 その歯軋りをしたいという欲求は、こうまで貶められて、それでも待っているという喫茶店に向かおうとしている、自分への悔しさでもあった。

 店の外で逢えば、当然のように抱かれる。憎しみを抱きながらも、抱かれれば、炎となる自分を知っている。奈津子は今夜も帰宅が朝方になる自分を、はじめて厄介な女だと思った。

 天使。秋山の一言。そう。秋山はきっと、尻軽な女だと思ってのことなのだ。だから、男の天使などと。

 意地でも印象づけてやる。唇を軽く咬み、奈津子も立ち上がり、出入り口に向かった。お疲れ様、というスタッフの声が背にぶつかる。本当に疲れていた。

 

 抱かれた。帰路についたのは、朝に近かった。口論してから夫とは別室で寝ていた。3LDKなので、それも可能になった。

 しかし、夫は帰宅時間はチェックしているはずだった。だが、それはどうでもよかった。夫のために何かをすることが苦痛なのだ。朝帰りを指摘されたその瞬間、奈津子は離婚話を持ち出すつもりでいた。

 冴子一人を養うだけなら、自分の収入だけで充分だった。それだけに、奈津子は敢えて、堂々と帰宅した。

 冴子はぐっすりと寝ていた。その顔を見て、自室に行き、すぐにベッドに入った。まだ、身体が火照ったままだった。

 愉悦の余韻が残る身体に触れながら、とことんいいように扱われている、と思わずにはいられない。誘いを断れない自分。あのあくまでも毅然とした自分をどこに落とし、置いて来たのか。

 振り返ると、まだ、グリーンの洋服を贈られたころまでは、優位に立っていたような気がした。

 それから……。いつどこで立場が急変したのだろう。思いつかなかった。

 店で思いをぶつけ、その後にホテルで抱かれてから、秋山の足が少しずつ、遠退きはじめていた。

 必ず出勤日には来ていたのが、三日のうち二日しか来なくなり、半月後には一度しか顔を見せなくなった。それとなくスタッフに、週末の仲間との集いには出ているのか訊いた。欠かさず出席しているとのことだった。

 答は一つだった。次第に疎んじられている。そう思うしかなかった。週に一度になっても、ホテルへは秋山のほうからは誘って来ない。

 帰りたくない。堪らずそう言う奈津子に、秋山はそのときだけ悪戯っぽい眼をして応じ、抱いた。

 交わりは変わりなく激しいものだった。

 行為の間だけ、すべてが忘れられた。まるで、関係をどうにか繋ぎ止めているのはセックスの力。そう思わずにはいられず、一人になると、泪が溢れた。

 我慢出来ず、疎遠になった訳を訊ねた。

 忙しいからだと言う。でも週末には仲間たちと呑んでるじゃないの。そう言うと、あの時間はなにものにも変えられない、と平然と言い放つ。

 私はなにものにも変えられる存在。そう言っているに等しく、奈津子のプライドは著しく疵つけられた。

「そろそろ、あたしに飽きて来たのかしら」

 秋山はほくそ笑み、

「いや、そんなことはない。おまえは相変わらず魅力的だ。しかし、天使ではなくなって来た」

 そう言って笑った。

「天使だなんて……、都合のいい女じゃなくなった。そうでしょう」

 秋山はそれには応えず、

「おまえ、いまの自分に満足してないだろう。いまのおまえは、そこいらの女と変わらない。セックスは相変わらずいいが、嫉妬や離婚を口走るようじゃ、普通の三十過ぎの女ってだけじゃないか。おまえは女王然としていて耀くんだ。それに男は魅せられる。利巧なはずだから、それをわからないはずはないだろう」

「はっきりしてよ。厭ならそう言って。回りくどいこと言わないで」

「わかった。言うよ。いまのおまえは好きじゃない。俺は結婚は一度で沢山だ。それに、女房タイプじゃないおまえと結婚しようとは思わない」

 愕然とした。たしかにはっきりして、とは言った。だが、こうまで真っ正直に言われるとは思わなかった。

 深刻な顔をしているのではない。世間話でもするように淡々と言うものだから、愕然として余りある。

「あたしはいま、手負いの獣みたいなものよ。そうあからさまに攻められたら、鼠だって猫を咬むわよ」

 精一杯の虚勢だった。

「今日はそろそろ帰ろう」

 秋山は動じなかった。いつも帰る時間よりは一時間ほど早かった。顔には出さないが、気分を害しているのだろうか。

 奈津子は引き止めなかった。辛うじて踏み止まった。まだ微かに残っているプライドがそうさせた。

 秋山が席を立ち、帰っても、奈津子は十五分ほど、一人で呑んでいた。

 馴染みの客が声をかけてくるが、応じなかった。スタッフも心配顔で近づいてくる。手を振って追い払う。秋山がいないところでは、以前の奈津子のようだった。

 しかし、秋山の言った、いまのおまえには魅力がない、という一言は、胸に突き刺さったままだった。

 言われてみれば、言動にそれが出るのか、昼の会社でも、以前のように自分を崇める視線が減ったような気がしてならない。

 男は女に特定の男がいると感じたとき、一歩さがる。いないと思うからアタックしてくる。男がいる。それが自分の言動にあらわれていたのだろうか。これでは多田と変わらない。

 そう思いながら、奈津子は秋山を憎みはじめている自分を、自覚していた。こうなったのは秋山のせい。

 嫉妬や離婚を口にするおまえには魅力がない、と言い放った秋山の顔を思い出しながら、もしこのままわかれが来るとするならば、自分だけが不幸になるような終わり方はしない。そう決心した。

 秋山との行く末はどうなろうと、最早、奈津子の気持ちの中では、夫との離婚は避けられない。それはもう、規定路線だった。

 夫はすでに別次元の存在なのだ。

 同次元の秋山だけが、いまの奈津子の対象だった。

 その秋山の、喰べ飽きた料理や、遊び飽きた玩具を棄てるように、こちらから、もっと喰べてほしい、もっと遊んでほしい、と切実に思うようになってからの、いつでも手のひらを返すような、最近の言動が癪だった。

 

 雨が降っていた。秋山の明らかな変心を感じ取ったあたりから、奈津子は偏頭痛に見舞われはじめた。

 その日も眼醒めたときから頭の片隅が重く、大したことはないと思いながらも、出社する気にならず、電話して会社を休んだ。

 家には奈津子一人だけだった。頭は重かったが、寝ている気にはなれなかった。

 起きて、リビングでコーヒーを呑んだ。それでどうにか細胞が覚醒したようだ。

 窓から外を見る。本降りだった。冴子を送り出すときはそうでもなかった。下校時間には迎えに行ってやろう。そんなことを思いながら、窓を叩くように降り続ける、雨を見ていた。

 もう十日、秋山の顔を見ていない。奈津子の出勤日である月水金を避けるように、秋山は週末だけ顔を出し、古い呑み仲間たちと過ごしているようだった。

 意地があった。電話はしなかった。餓えるのはまずは男のほう。

 あの秋山だって、必ず体を求めて、連絡して来るか、店に顔を出すはずと思っていた。いや、期待していた。

 だが、来なかった。餓えたのは奈津子のほうだった。求めて疼くのだ。むろん、夫は代用品にはなり得ない。

 おまえの体は最高だ。秋山の言葉が蘇る。あなたも最高。言われるたびに、何の抵抗もなく、そう応じた。いまでもそう思う。

 しかし、それなら、何故連絡して来ないのか、と思わずにはいられない。

 最近はほぼ、奈津子のほうから誘ってはいたけれど、それは逢う間隔が短いからと高を括っていた。

 それが十日にもなり、電話一本ない日を重ねていると、秋山にとっての自分の存在というものがとても軽いものに感じて、いたたまれなくなった。

 雨音が耳を打つ。微かにしか聴こえていなかったのに、急激にその音が耳にざわめき、奈津子を苛立たせた。

 電話してみよう。逢ってほしい、と言えば、逢ってくれる。

 屈辱的ではあるけれど、逢いたい、という気持ちのほうが、それに勝っていた。しかし、秋山に電話しようと思いながら、奈津子は秋山の家の電話番号をプッシュしていた。

 別格。秋山の妻を言う、口癖だった。どこが別格なのか。

 おまえはいい。おまえの体は最高だ、と言いながら、何故、妻を別格と言い、平然としていられるのか。

 不意に、自分の耳で、秋山の妻を確かめたい、と思ったからだった。

 賭けだった。まかり間違えば、秋山との関係は破局する。が、秋山がこの行為をどのようにとるかだった。

 まさかそこまではしない。そう思っていても不思議ではない。はじめて、秋山の怯える顔が見られるかも知れない。

 ひれ伏し、崇め、これまでの男たちのように睥睨したい。もしそれが裏目に出て、たとえ破局が待っていたとしても、妻と自分が話したという事実は消えない。

 とくに妻の記憶にはきっちりと刻まれる。それにより、別格だと讃える妻との間に亀裂が入ることのほうが、確率的に大きい。

 いずれにしても泣きついてくる。それが一部分が重いままの頭で描いた、奈津子のシナリオだった。

 コール音が耳に心地いい。奈津子は自分の行為に酔い始めていた。

 まだすっきりとはしない朝の頭が、コール音の回数が増えるごとに、再び夢の中にいるように、朦朧とし始めていた。七回目のコール音の後、相手が出た。

「はい、秋山です」

 声は想像以上にしっとりとしていた。

「もしもし、秋山ですが」

 奈津子は一瞬、臆した。相手の落ち着きぶりにたじろいだのだ。

「あたし、奈津子と申します」

 気を取り直し、奈津子は敢えて、姓ではなく、名前を言った。

「奈津子さん……。主人のお知り合いかしら。それでしたら、いま主人、仕事に出かけてますので、そちらへお電話していただけますか」

 普通、自分の知らない女からの電話なら、夫との関係を疑い、多少の取り乱しはするはずだと想像していた。が、相手は声を聴くかぎり、まったく動じていなかった。

「いいえ、今日は奥さんとお話したいと思いまして」

 一瞬、間があった。しかし、

「主人のことかしら。私は構わないですけど、主人はもちろん、この電話のことは知らないんですよね」

 構わない? 何故構わないのだろう。少しはうろたえてほしい。

 もし自分なら、夫を愛していたころの自分なら、女からの電話で同じことを言われたなら、必ず動揺しているはずだった。気を引き締めた。こうして電話してしまった以上、もう、犀は投げられたのだ。

「あたしたち、愛し合っているんです」

 言うつもりもなかったことを言っていた。

「あたしたちって、主人と、ということかしら」

 どうしてこうまで冷静でいられるのか。

「そうです。これまで何度となく愛し合いました」 

 束の間、沈黙した。

「おかしいわね」

 それが相手の次の一言だった。応えに窮した。秋山同様、言葉が唐突すぎる。言い換えれば、先まで頭が回っているということなのだろうか。

「主人、そんなこと言う人、好まないはずだけど」

 愕かずにはいられない。会話が咬み合わない。自分だけが空滑りしているような気がした。

「どういうことですか。あたしはご主人をあたしにください、と言ってるんですよ」

「あなた、お幾つ?」

「それが何か」

「まだお若いのね、きっと」

「いいえ。三十三歳です」

「そう。それじゃ、家族もいるんでしょう」

「そのすべてを棄ててでも、ご主人が欲しいんです」

「そうなの……。困ったわねぇ。主人、病気なのよ」

「病気……」

「そう。恋愛病、とでも言ったらいいのかしら。ほんと、困った人」

「奥さん、あたしをからかってるんですか」

 苛立ちを抑えられなかった。

「違うわ。同情してるの。可哀想と思ったの」

「奥さん、おかしいです。あたしはご主人をくださいって言ってるんですよ」

「どう思われようと仕方ないけど、私に主人をくださいって言うのもおかしいわよ。それを決めるのは私じゃない。主人だもの」

 二の句が接げなかった。唖然とした。けれど、的を射ていた。

 逆の立場なら、もし夫をくれと女に言われたなら、同じことを言うような気がした。だが、それは自分に揺るぎない自信があってこそ、言えることでもあった。

「それじゃ、秋山さんがそうすると言えば、奥さんは黙って引き下がるってことですね」

「そうよ。他人はどうかは知らないけれど、私にとって、人を愛するってことはそういうことなの。清濁を迷わず受け入れる。とくにあの人に係わった以上、その覚悟がないと一日だって持たないわよ。あなたもこうして電話してくる以上、それぐらいは理解してるはずでしょう」

 言葉を探した。出てこなかった。それにしても、この自信はどこから来るのか。夫婦としての歴史の重みだろうか。信じられなかった。自分たち夫婦にはあり得ない。

「あなた、本当に主人を愛してるの?」

「それでなければ、こうして電話など出来ません」

「そうね。それじゃ、このことを主人に伝えてもいいのね」

「もちろんです。秋山さんはきっと、わかってくれるはずです」

「毒よね、それがあの人の……。強い毒を放つ人だから、咬まれるとどうしようもなくなるのね。でも、それは危険よ。どうにかして自分の中に、その毒を中和させる何かを見つけ出さないと。理屈じゃないの。あの人自身、自分の撒き散らす毒に神経を麻痺されているんだから。だから、病気と言ったの」

「いま言ったこと、秋山さんに告げてもいいんですね。奥さんが病気だと言ってるって。自分の毒に麻痺されているって奥さんが言ってるって」

「いいわよ。おそらく、否定しないはず」

 奈津子には、この相手こそ、毒に麻痺させられているような気がしてならなかった。嫉妬心など欠片も持ち合わせてないように、実に淡々としていた。

「あたしには、奥さんこそ、毒に麻痺されているように思います」

 感じたことをありのままに言う。あかるい笑い声が受話器の中に響いた。

「そうよ。完璧に毒に侵されているの。また、麻痺しなければ、とてもじゃないけど、身も心も持たないから」

「奥さんはそれで幸せなんですか」

「人それぞれ、幸せの感じ方が違うもの。私はこれで、結構、幸せなの」

「このあたしに嫉妬しないんですか」

「いまはしないわねぇ。昔は毎日嫉妬してたのよ。でも、自分にわかれる意思が生まれない以上、受け入れるしかないの。あなた、本当に主人を失いたくないのかしら」

 無言でいると、

「もしそうなら、あの人を変わらせるなんて不可能だから、あなたが変わるしかないわよ。それはすべてを受け入れるってこと。あの人、わかると思うけど、稀代の面倒臭がりや。自分のリズムを毀す対象には一変に興味を失くす。そういう人よ」

「もう、いいです」

 話すうちに頭が混乱していた。本心だろうか。もしそうならば、この相手は強かだった。主人のすべてを許容すると言う。けれど、奈津子にはこの相手の手のひらで、秋山のほうが踊っているだけに過ぎないように思えてならなかった。

 その餌が、外での女……。つまりは、この私なのだろうか。

 ふざけないで。そう叫びたい気持ちを辛うじて抑え、

「奥さんは強いんですね」と言った。

 皮肉のつもりだった。

「違うわ。強くされたのよ」

 屈託のない笑いをそのまま聴き続けることを嫌い、奈津子は一方的に電話を切った。

 後悔した。秋山本人からの仕打ちよりも、さらに屈辱感に苛まれた。いまだに夫の外での相手と、以前からの友達のように気軽に話す、相手の神経が信じられなかった。

 それに比べれば、まだ、電話して思いを伝えた自分のほうが、まともなような気がしてならなかった。

 屈辱感は時間が過ぎるに連れて、増して来た。まだ雨は降り続いていた。呑みたい心境だった。ひとりでは惨めだった。

 顔を思い浮かべる。真っ先に迫って来たのは、会社の若い社員、沢木の顔だった。この数ヶ月、秋山に虐げられて来た。誰かに君臨したかった。それには沢木は恰好の相手だった。

 時計を見る。まだ、昼前だ。

 何もかも忘れるほどに呑みたかった。秋山の妻の声が蘇る。あたしは負けない。そうつぶやいた。あたしはまだ、男を傅かせることが出来る。尾を振る沢木の姿を想像した。誘おう。

 

「今日はあたしが待っていてあげたわ」

 土砂降りの中、沢木が車をあずけている駐車場の傍で、奈津子は傘をさし、近づいてくる沢木を待っていた。

「奈津子、さん」

 傘が頭上からずれて、前髪が濡れるのも構わず、沢木は佇む奈津子に近寄り、純粋に喜びをあらわした。

 久しぶりに昂揚を感じた。ただ、秋山と逢っているときの昂ぶりとはあきらかに違う。

 それでも安堵した。沢木はまだ、この年上の私を思い続けている。

 沢木の執拗さをあれほど嫌悪したはずなのに、秋山と疎遠になり、その妻との電話でのやりとりで苛立っていた気持ちが、降り続ける雨と、沢木の純粋さに洗い流されるような気がした。

 いや、これだけで一切が溶かされると思うほど、奈津子は子供ではなかった。沢木は所詮、当て馬のようなものだった。

 街は広くても、秋山が徘徊する範囲はそう広くない。若い男と雨の降る夕暮れに逢っていることは、そう遠くないうちに秋山の耳にも入る。そう信じた。

 いや、それも回りくどい。奈津子はその夜、女王のように振る舞い、酔い潰れ、傅くように付き合うに違いない沢木を、周囲に見せつけるつもりだった。

 そう。沢木を伴い行く場所は、夜の勤め先である店に決めていた。

 金曜日。秋山が仲間たちと集うのは土日。それでよかった。明日になれば、この事実はスタッフや親しい友人であるママの口から、秋山に伝わる。そこでどう出るか。

 妻に電話したことで激怒し、詰るだろうか。それでもよかった。

 また、再び男を侍らす自分を見て、盗られたと勘違いして、言い訳めいたことを羅列し、復活を画策するだろうか。

 奈津子は様々な光景を思い描き、

「沢木くん、今夜はとことん、付き合ってくれるかしら」

 甘く見つめながら、そう言った。

「もちろんです。夢のようです。あの雨の夜から、奈津子さん、僕のこと無視していたから、嫌われたと思い、苦しんでいたんです」

 心身が軽くなる。嘘のない言葉だけに、染みた。

「あたし、あの夜、あなたに唇を奪われたのよね。今日、会社を休み、午後になって体調が戻ったとき、不意にあの夜を思い出し、それとあなたの言うように、会社でも大人気なく冷たかったかなと思ったら、急に逢いたくなったの。あたしたち、雨に縁があるのかしら。こんな土砂降りの雨じゃなかったら、悪いけど、思い出すことはなかったかも知れない」

「僕、雨が好きになりそうです。理由なんか何でもいいんです。こうして待っていてくれた、それだけで充分です。嬉しいんです。とことん付き合います」

「そう。それじゃ、場所はどこでもいいわね」

「はい。どこへでもついて行きます」

 時計を見た。まだ六時前。店は七時からだった。一時間。簡単な食事でもしよう。そう思い、周囲を見回した。激しい雨のせいだろう。人通りは少なかった。と言うよりは、殆んどない。

「まだこれからいくお店が開くまでに一時間あるの。あなた、車でしょう。それまで雨のドライヴに誘ってくれるかしら」

「はい。喜んで。車、すぐそこですから、行きましょう」

 少しも嘘の感じられない沢木の背を見つめて歩きながら、奈津子は自分の言葉は虚飾に満ちていると思った。まだ若すぎて、沢木には女の嘘を見抜く、眼も耳もない。

 そしてあたしも……。

 秋山のすべてが真実だとばかり、信じていた。いや、真実だったのだ。

 妻を別格と言って憚らなかったし、おまえは最高だ、と繰り返したことも、全裸で絡み合うときだけに発せられたものだけに、ある意味、真実だったのだろう。

 秋山は感じたことを直截に言う。沢木は違う。同じ一直線でも、心が言葉を言わせていた。だが、それでも奈津子は秋山が好きだった。だから、すべてに最高だ、と言って欲しかった。

 抱いて最高と言うだけなら、性を売るプロの女たちと違わない。秋山の妻も言った。毒なのだと。

 吐く息も、言葉も、身体も、全部が毒なのだ。心地いいから、毒なのだ。

「沢木くん」

 駐車場は薄暗かった。誰もいない。奈津子は沢木を車の前で呼び止めた。

 振り返る沢木に近づく。顔を両手で挟んで引き寄せ、唇を求めた。震えが伝わって来た。密着した股間が一気に充実していた。

「ごめんね、急で」

 そう言って背を抱き締め、囁いた。

「嬉しいです。急でも何でもいいです。いつでもいいです。僕はいつでも待ってます」

 これもいまのうちなのだ。何年、このままが続くだろう。

 もう一度キスを求めた。今度は沢木も積極的に応じて来た。技巧も何もない。女を知らない年齢ではない。ただ、体験した。それだけだったのだろう。

 嬉しいです、と繰り返す沢木の濡れた前髪をハンカチで拭き、さぁ、行きましょう。そう言って先に車に乗り込んだ。

 奈津子はいま吐いた、自分の毒に麻痺した、沢木の横顔を凝視した。

 ごめんね、沢木くん。あなたは秋山をこの手に取り戻すための、餌なの。

 奈津子は声に出さずに、そうつぶやいた。

 

 雨の中、沢木が案内したのは、横浜だった。山下公園近くの洒落た店。

 喫茶店のようなところだったが、そこで軽い食事をとり、歩いてすぐの公園に出た。雨の勢いは変わらない。それでも二人は、公園内を数分歩いた。船の灯や街のネオンが潤んでいた。ここでも積極的に、唇を求めたのは奈津子のほうだった。

 沢木はすっかり、感激している。女の子が夢を見ているような顔をしていた。満足だった。男を腑抜けにする。忘れていた好物が鮮明に蘇る。

「さぁ、今度はあたしが案内するわ。行きましょう」

「はい」

 車に乗る。フロントガラスを滝のように雨が流れている。ワイパーが重そうにそれを弾く。

 着いたのは、八時前だった。路上駐車の列に隙を見つけた沢木が、器用にそこに入った。大雨の中での縦列駐車の難しさは、車を運転しない奈津子でも想像出来た。

 それをいとも簡単にこなしてしまう沢木の横顔を見つめながら、若くて頼りないけれど、この子もやはり男。そう思う。

「雨、降り続けるようですね」

「そうね。日付が変わるころにはあがってくれればいいけど」

 暗に深夜まで呑むことを悟らせた。沢木がうなずく。ドアを開けた沢木が、先に降りた。前から助手席のほうに回り、傘を差して、ドアを開けてくれた。精一杯をあらわしている。

 秋山はそうしなかった。そう思うと同時に、午前中にした、秋山の妻への電話を思い出す。そのことは秋山の耳に届いているはずだった。

 が、その秋山からまだ連絡はない。必ず、批難、もしくはうろたえ、二度としないでくれ、と哀願するような電話があると期待していたのだ。

 妻が伝えない、ということはあるだろうか。プライドがあるならば、絶対に夫に電話の相手を質すはずだった。

 自分ならそうする。また、そうして当然だった。それなのに何故、秋山からの電話がないのだろう。不思議だった。

 目指す店は眼の前だった。時間帯は同じぐらいだが、こうして客として店に来るのは一年ぶりぐらいになる。この店に働くまでは、時折、気の合う仲間たちと遊んでいた。

 地下だった。絨毯敷きの階段をゆっくりと降りる。奈津子は沢木の腕に自分の腕を絡めた。このまま姿をあらわせば、スタッフは愕くだろう。

 一年も勤めて、奈津子目当てに通ってくる客も、若い男と腕を組んで入れば、唖然とするはずだった。

 それでもいい。いまは秋山に伝えるためにだけ行動している。

 以降、もし逢えないのなら、この店に通う意味も薄くなる。秋山と知り合うずっと以前から働いていながら、知り合ってからは、その秋山と逢うためにだけ、出勤しているようなものだった。

 そう思い、奈津子は敢えて腕を組んだまま、店のドアを押した。瞬間、BGMが耳を打つ。

 入り、客席に向かって二、三歩歩いたとき、そのBGMは、バラードに変わり、瞬時にしてムードを落ち着かせた。一斉に視線が向けられたような気がした。自然に昂揚する。

「僕、こういうところ、はじめてですよ」

 高級感に怖気ついたのだろうか。沢木の絡んだ腕に力が入っていた。

「すぐ、馴れるわよ」

「はい」

 ボーイが近づいてくる。さすがに客として訪れたと判断したらしく、馴れ馴れしい態度は消していた。

 雨のせいか、店は半分ぐらいの入りだった。そのボーイの案内で席に向かう。

 何気なく、いつも秋山と二人で過ごす席を見た。混んでいても、ママが秋山やその仲間たちのためにだけ、いつも一つ、空けている席だ。

 全身が硬直した。そこには十人以上の小団体が宴も酣だった。

 それはいい。愕き、身体を硬直させたのは、そこに秋山がいたからだった。

 殆んどがカップルのようだ。女たちも見覚えのある顔ぶれだったが、記憶しているのは男たちだけだった。

 蘇る。秋山と付き合いはじめたころ、二人はこの仲間たちの前で、キスしたのだ。囃し立てられた。

 あれが秋山とのファストキスだった。日にちまでも思い出す。この店のママが、常連客だけのために、店を開放した夜だった。

 あのキスから、私は私でなくなった。不意にそう思う。

 いや、そんなことはどうでもいい。奈津子の眼は、秋山の隣りに坐る小柄な女の顔を凝視していた。

 仲間たちの隣りにいるのが彼らの妻だとするならば、秋山の傍にいて家族ぐるみの交流のような場で満足そうに微笑んでいるのは、秋山の妻に他ならない。電話の声が蘇る。

 すべてを許容する。それが私の愛のあらわし方。そう言っていた。あなたはあの人の毒に麻痺させられている。そうも言った。

「どうしたんですか」

 心配そうな沢木の眼も、奈津子の視線を追った。慌てたのはスタッフだった。

 あちらの席になります。奈津子の前に立ち塞がるように前方を遮り、席へと促した。

「金曜なのに、珍しいわね」

 奈津子の問いかけに、スタッフはうなずき、

 今夜は欠勤ですか、と沢木を気遣うように奈津子に言う。

 そうだ。昼の会社には欠勤の連絡はしたけれど、この店にはしていない。

「ええ、まぁ」

 奈津子は曖昧に応じた。沢木は物珍しそうに店内を見回し、奈津子とスタッフの会話も耳に入らないようだった。

 喉が渇いた。まずはビールにした。沢木も同調する。乾杯し、少し雰囲気に馴れてね。そう言った。沢木の仕種はまだ硬かった。奈津子もそうだった。秋山を眼にしたときの硬直が、まだ弛んでいない。

 それにしても大胆なものだ。通常ならば、金曜の夜は出勤している。それを熟知していながら、仲間はともかく、秋山が同伴で遊びに来るということに、奈津子は忸怩たる思いになる。

 女房は別格。それをまざまざと見せつけられているような気分だった。

 ビールを呷った。眼は沢木たちのテーブルに貼りついたままだった。親しい間柄なので、ママも同席していた。そのママの眼が奈津子を捉えたようだ。無断欠勤を詰られるかも知れない。そういうことには厳しい経営者だった。

 もしそうなら、辞めてもいい。秋山とその妻と思われる女を見て、奈津子は一杯のビールで悪酔いするような気分だった。

 奈津子は秋山から贈られた、グリーンの洋服を着ていた。席と席の距離は十メートルぐらいある。

 見ていると、奈津子の姿を見つけた秋山の仲間たち数人が、屈託なく手を振ってくる。強張った笑顔を返すのが精一杯だった。

 ママがスタッフに手を上げた。近づいたスタッフの耳を引っ張るようにして、何か言っていた。やがて、そのスタッフが奈津子の席に向かって来た。近づき、奈津子の耳に口を寄せ、

「ママもみなさんも、奈津子さんもカップルのようだから、あちらに合流しないかと言ってますが」

 沢木は眼を丸くして、スタッフと奈津子の顔を見回した。

「そうしようかしら」

 挑戦的な気持ちが芽生えた。毒喰わば皿までだった。

「向こうの席に移りましょう。ここのママもいるし、他の人も凄い人たちばかりだから」

 沢木ははじめて来た高級感のある店でのアクシデントに、心底愕いているようだった。だが、すべてに好奇心旺盛なのも、若さの特権なのだ。

 いや、それよりも奈津子の言うがままに、嬉々として従うという形だろうか。立ち上がり、前を歩く奈津子の後に、誇らしげに続いた。

 

 ママの手招きに、二人は席の中心に坐った。壁を背にし、店内が見渡せる。ママは店に来ると、いつもこうして店全体を見つめ、毎日その場にいるように的確な指示を出す。

 眼の前に秋山がいた。笑顔を向けてくる。それぞれの同伴者に、ママは奈津子を紹介した。

 今日はここ、無断欠勤らしいけど、でも若い彼を連れて来て、売り上げに協力するようだから、今夜だけは大目に見るわ。と一言牽制することを忘れなかった。

 男たちは遊び馴れていて、気軽に話しかけてきた。けれど、その妻たちは奈津子の連れに興味津々とした眼を向けてくる。

 どう見ても歳の違いは一目瞭然だった。見るからに貞淑そうな妻たちばかりだ。だから、たまにこうした遊び場に誘われると、相手が夫であっても異様にはしゃぎ、そのムードを目一杯味わおうとする。

 彼女たちにとって、奈津子のような、一見奔放な女は、どうしても眼を惹きつけて止まない対象なのだ。

「あなた、紹介しなさいよ、その可愛い坊や」

 ママはあけすけだった。沢木は眼を白黒していた。

「奈津子さん、このお店に働いているんですか」

 まさに青天の霹靂だろう。眼を瞠ったり、興味深そうに奈津子を見たりと、落ち着かない様子だった。

「あたしの会社での同僚なんです。名前は沢木くん」

 沢木は緊張した面持ちで、頭を下げた。

「奈津子、あなた、もうこの子、喰べたの?」

 女たちが悲鳴をあげる。批難の声ではなかった。別次元を覗きたいという、思いが悲鳴になったような気がした。

「まさか。ママ、厭だわ。会社の後輩だし、歳も十歳以上も違うんですから」

「あら、いいじゃないの。若いってことは、元気だってことよ」

 ママの卑猥な言い方に、座が沸き続ける。沢木は思わぬ成り行きに、たじろいでいるようだった。

 ママは秋山との関係を知っている。知りながら、揶揄している。秋山の顔を見た。その隣りで、妻らしい女が、微笑みながら、奈津子を見つめていた。ママが奈津子、と名前を言った以上、妻は気づいたはずだった。電話でも名前を名乗っていたのだから。

「秋、踊ろうか。繭、いいでしょう」

「どうぞ。何なら返さなくていいから、ママ貰っといて」

「厭よ、こんな浮気な男。遊び相手には最高だけどね。本気になったら損するのは絶対に女。気をつけないと駄目よ、奈津子。こんな秋みたいなのにひっかからないように」

 突き刺さる。意図しての言葉だと感じた。妻を見た。相変わらず微笑んでいるだけだった。

 俺も踊るか。繭、俺の相手してくれ。秋山とともに、その右隣に坐っていた男も立ち上がる。繭と呼ばれた秋山の妻は、気軽に立ち上がる。

 行ってらっしゃい。その男の妻と思われる女は、手を振って夫をフロアに送り出し、残った仲間たちと、数組が踊り始めたフロアに視線を走らせ、嬌声をあげていた。

 奈津子だけが浮いているような気がした。

「ねぇ、あなたたちも踊りなさいよ。あなた素敵だから、踊ってる姿見てみたい」

 そう言ったのは、ボスと呼ばれている男の妻だった。

「それじゃ、俺が相手しようか」

 そのボスが立ち上がる。沢木が不安げに見上げてきた。奈津子は応じた。ジルバだった。自信はあった。これも秋山に仕込まれたものだ。

 その秋山が、ママを相手に相変わらず巧みな動きを見せていた。客席から拍手がくるほどなのだ。

 ボスと呼ばれる男も上手かった。草野球仲間というよりは、遊び人の集まりのようだった。

 踊りながらも、秋山を意識した。自分が若い男と二人で来たことを、どのように感じているのだろう。秋山の妻はジルバはきごちなかった。が、愉しんでいた。一つの悩みもないような笑顔が印象的だった。

 別格。その一言が蘇る。神棚に祭り上げているとでも言うの? そう訊いたことがある。

 ああ、その通りだ。だから、カミさん、と俺は言うだろう。そう言って笑って言った。

 他愛もない応えだった。そのときは何の気なしに駄洒落と思いクスッと笑ったけれど、こうして見ると、妻が秋山に大事にされていることがよくわかる。

 私は外の女。実感した。

「奈津子」

 振り向くと、ママだった。秋山がママを巧みに回した。と同時に奈津子もボスに回された。ママが飛んでくる。奈津子も飛んだ。ママを受け止めたのはボスで、奈津子はずっと踊り続けていたパートナーのように、秋山の腕に操られ、一瞬にして、チェンジされていた。再び拍手が起こった。

 ママが近づいてくる。ボスをママがリードしているようだった。

「奈津子」

 久しぶりの秋山の体臭を感じながら、ママを見た。その後方に秋山の妻が踊っている。ライトが秋山の妻の後方から当たり、丁度日蝕のように、ママの影に隠れた。

「秋はチェンジが巧みよ。ジルバのようにね」

 どこまで知っているのだろう。響く言葉だった。あきらめろ、と言っている。秋山を見上げた。

「元気だな、おまえ」

「あの子とは何もないわよ」

「そんなことはどっちでもいい」

「以前、あなたは俺以外の男と付き合ったら赦さないって言ったわ」

 ジルバの曲で秋山はチークに誘ってくる。

「あのときは、な」

「いまは違うのね」

「坊やが妬いてるぞ」

 秋山がターンする。前方に、見据えるような眼の沢木がいた。

「カミさんから聴いたよ」

「それで、今夜は奥さん孝行なのね」

「違うね。今夜は仲間たち夫婦との、定例交流会だ」

「仲がいいのね」

「ああ、いいね。さっきの続きだが、カミさんに言われたよ。気持ちがよくなるほどに自分に真っ正直な人ねって」

「嘘」

「嘘じゃない。あいつはおまえさえその気なら、一緒にお茶ぐらい呑むような女だよ」

 信じられなかった。器が大きいとも思わない。奈津子の常識では、秋山の妻も、こうして平然とそのようなことを言う秋山も、異常だった。

「あたしも自分のことを常識はずれの女だと思わないこともなかったけど、あなたたち夫婦はそれ以上のようね」

 精一杯の皮肉だった。返って来たのは苦笑だけだった。

 曲が終わった。身体が離れる間際、

「とても似合っているじゃないか」

 秋山は言う。洋服のことだと思った。秋山に贈られた洋服を着て、若い沢木を抱こうとしていた自分。そう言ってやりたかった。

 が、秋山が似合っていると言ったのは、グリーンの洋服のことではないらしい。

「ママも言ってたが、若くて活きがよさそうだ。似合うと思うよ」

 頬を思い切り叩いてやりたいのを、辛うじて堪えた。

「この洋服も似合うでしょう」

 ちょうど秋山の妻が近づいて来たところだった。

「うん、よく似合ってるな。最近買ったのか」

 すぐ傍まで近づいていた妻にも聴こえたようだった。秋山の妻は苦笑し、

「あなたの大好きなグリーンじゃないの。よく似合っているわよ」

 そう言った。

 奈津子は愕然としていた。敢えてそう言ったのか、最近買ったのか、と言った秋山の一言に対してだった。限界だった。

「あら、恍けているのかしら。たしかこれは、あなたにプレゼントされたものよ」

 傍にいる妻は無視した。プライドが先行した。

「あ、そうだったか」

 秋山はまるで悪びれた様子はない。

「奈津子さん」

 沢木が呼ぶ。ダンスが終わってもなかなか戻らないことに、焦れているようだった。

「そうか。そのころのおまえはきっと、魅力的だったんだろうな」

「奈津子さん」

 再び沢木が呼ぶ。その沢木を秋山が手招いた。沢木が小走りに近づく。

「おまえ、しっかりとガードしろよ。俺たちはそろそろ帰る。おまえの彼女は魅力的だから、男にもてる。だから、きっちりと護っていろよ」

 初対面の相手に、おまえ、だった。それに一言も言い返せない沢木を見て、その差を思った。異常に正常が敵う訳がない。

「沢木くん、今夜はとことん呑むわよ」

「はい」

 自分の限界を知らされた思いだった。

 異次元に遊んだ。そう思うしかないのだろうか。

 秋山も妻も、それを取り巻く仲間たちも、そしてママさえも、係わった人々と比較するまでもなく、異次元の人種だった。

 そう思わないかぎり、自分は立ち直れない。

 秋山たちが席に戻り、帰り支度をはじめた。奈津子はまだフロアに残り、沢木と胸を合わせてチークを踊る。

 異次元の世界に彷徨った。そう思おうとしたが、何度も失敗した。

「沢木くん」

「はい」

「あなた、両親と一緒に棲んでるのかしら」

「いいえ。僕は地方出身だから、アパートですけど」

「そう。よかった。あたし、今夜、沢木くんのアパートに行く。だから、このあたしをめちゃくちゃにして」

 そう言った。沢木の身体が反応する。後方の気配に視線を向けた。秋山たちが帰るようだ。視線を戻した。沢木の胸だけが見える。

「あたしを愛して」

「はい」

 背を抱き締める沢木の熱を感じながら、奈津子は秋山に熱を奪われたままの、自分というものを再認識し、嗚咽した。

 それを勘違いした沢木の腕が、奈津子を支えた。嗚咽が止む。すると笑いたくなった。大声で笑いたかった。

「お酒なら僕のアパートにもあります。奈津子さん、帰りましょう」

 気が急いているようだった。

「そうね」

 応じながら、秋山を忘れる消しゴムにはなり得ない沢木との交わりを想像し、奈津子は再び、嗚咽した。

 ママ。娘冴子の声を空耳が捉えた。一瞬、体が棒のように硬直する。

「帰ろう、沢木くん」

「はい」

 沢木はまだ、自分のアパートに来るものと、信じて疑わないようだった。

 ママ。再び、冴子の声が耳に木霊する。

 わかった。帰る。すぐ帰るから。

「奈津子さん、帰るって、あのぅ」

 メールが鳴った。秋山からだった。見る。

 グッドラック。

 苦笑した。苦笑するしかなかった。

「あのぅ、奈津子さん……」

「帰るって言ったでしょう」

「僕のアパートに来てくれるんですよね」

「そうね。今度ね」

 スタッフに手を上げた。タクシーを呼んで。そう告げる。

 慌てる沢木を見つめた。

「ありがとう。沢木くん。愉しかったわ」

 そう言った。帰宅したら、同じ言葉を秋山にメールしようと思った。

 終わりを実感した。しかし、夫との離婚だけは覆らない。

 いや、秋山との終わりを実感したのではない。自分も異次元に行こうとしているように思えてならなかった。もう一度勝負したい。あの秋山の妻と正反対の女として、もう一度挑もう。

 

 まだ雨は土砂降りだった。階段から外に出ると、タクシーが待機していた。

「僕が送ります」

 雨の雫を避けるように、そう言う沢木を振り切った。

                          (了)

                            

 

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男の天使。 小鳥遊葵・朝比奈海・十八鳴浜鷗・大島初平 @kugunari

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