第四章(3)

 これから中島さんの家を出ようとした時、玄関のチャイムが鳴った。両親が帰ってくるには早いと言いながら、中島さんが玄関へと去って行った。しばらくして中島さんが戻ってきた。何が起こったのか、彼女はかなり焦っている様子だ。

「あの……祥ちゃん……」

「落ち着いて。一体どうしたって言うのよ」

 中島さんは一度深呼吸をしてから答えた。

「真美ちゃんが来ました」

 そう聞くと、津島さんはすぐに立ち上がった。

「行きましょうなっちゃん。堤君と高瀬さんはここで待っていて」

「待って。私達も行くよ」

 勝手に僕も入れられているが問題はない。言われなくても、僕もついて行くつもりだ。しかし津島さんは首を横に振った。

「これは私達三人の問題だから。出来れば私達だけで解決させて。話がまとまったら呼ぶわ」

 そう言われれば引き下がるしかない。僕も高瀬さんも「分かった」と言って、その場に留まる。そして津島さんは扉の方に振り向く。しかし切り替えが早い津島さんとは対照的に、中島さんはまだ戸惑っているようだ。

「でも……そんないきなり……」

「明日しようとしていたことを今日するだけの話よ。かえって好都合ね。ここは二人がいるから、一階のリビングに通しましょう」

 簡単に言っているが、津島さんも緊張しているのだろう。強く握られた彼女の右の拳が、ほんの少しだが震えているのが見えた。怖くないわけがないのだ。次に八坂さんの気に障ることを言ってしまえば、二度と口をきいてくれなくなるかもしれない。そもそも昨日の今日だ。八坂さんが津島さんとの会話に応じないこともあり得る。

 僕は膝で歩いて津島さんに近づき、彼女の拳を両手で握った。気の利いたことは言えないが、とにかく津島さんの拳の震えを止めてあげたかった。

「堤君……」

 見下ろす津島さんと見上げる僕の視線が合うと、僕はこくりと頷いた。津島さんは気安く触らないで、と咎めることなく小さく笑った。

「ありがとう。少しは王子様らしくなったわね」

 こんな僕でも津島さんに勇気を与えることができたようだ。僕は安心して手を離した。きっと津島さんなら事を上手く運ぶだろう。

 津島さんと中島さんが部屋を出た後、高瀬さんが立ち上がった。

「堤君。ほら、行くよ」

「行くって。津島さんのとこ?」

「決まってるじゃない。心配じゃないの?」

 あまり良い趣味とは言えない。全く心配していないと言えば嘘になるが、僕は津島さんを信じた上で八坂さんの元へ送り出したのだ。ここは黙って津島さんの戻りを待つべきだ。

「僕はここにいるよ。津島さんなら大丈夫だと思うから」

「そっ……あたしは行くね」

 と言い残し、高瀬さんは扉を開けたが、そこで立ち止まり僕の方を向いた。

「分かった。僕も行くよ」

 一人で行きにくいのならばそう言えばいい。僕も腰を上げて、高瀬さんに続いた。僕達は忍び足で廊下を歩き、階段の入り口で一旦立ち止まる。そこから三人の足が動いているのが見えた。ちょうどリビングへ移動していたところだろう。

 しばらく待ってから僕達はゆっくりと一階に下りた。廊下を真っ直ぐ進んだ先がリビングのようだ。そこから物音がする。今のところは落ち着いた様子だ。僕達はゆっくりとその扉へ接近した。そして二人とも扉の傍でしゃがみ込んで聞き耳を立てた。

「祥ちゃん。なっちゃんとはもう仲直りしたんだ」

「ええ。この通りよ」

 八坂さんは津島さんと普通に会話していた。分かっていたことだが、昨日津島さんに大嫌いと言ったのは八坂さんの本心ではなかったようだ。

「昨日は本当にごめん。あんなに取り乱して」

「もういいわよ。私も悪かったわ」

「あの……お茶を用意しました」

 順調に言葉を交わしている。もう心配することはないのではないか。

「高瀬さん。戻ろう。きっともう大丈夫だ」

 僕は小声でそう提案したが、高瀬さんは首を横に振った。

「津島さんの答えを聞くまで待とう」

 津島さんの答え。それが何を意味しているのはすぐに察した。八坂さんが霊能者であると津島さんが認めるかどうかだ。確かにその回答いかんで再び八坂さんと対立するかもしれない。

「真美は自分が霊能者だって証明できなかったし……。トリック見破られちゃたし、でも、あんなこともう一度しろと言われても無理だし……」

 最後の方は、かなり聞き取りにくくなっていた。昨日のことを鮮明に思い出して、元気を失いつつあるのだろう。と思いきや次の瞬間、八坂さんの大声が響いた。

「でも、あの夜は真美が引き起こしたんだって。信じてほしいの」

「ええ、何だかそうみたいね」

 津島さんが認めた。八坂さんが霊能者で、三月のラップ音の引き金になった霊能者であったということを。先程僕達に宣言した通り、八坂さんを受け入れた。僕と高瀬さんはお互いの顔を見て首肯した。これ以上盗み聞きする必要はないだろう。元よりそんなものは最初からなかったかもしれない。僕達はここから退散しようと振り返った。

「あっ」突然の出来事だった。高瀬さんがバランスを崩したようで、僕の方へ倒れこんでくる。僕は彼女の肩に手を添えて、何とかその動きを止めた。

「ちょっと……」

 危うく唇が触れ合うところだった。おそらく五センチも離れていないだろう。お互いの鼻はついている。彼女の生温かい吐息が唇の隙間を縫って口内に入る。これはまずい。すぐに離れないといけないと思っているが、身体がうまく動かない。もっとこうしていたい誘惑が襲いかかってくる。

「あなた達、そこで何をしているの?」

 その声で金縛りが解けた。僕と高瀬さんは扉の方へ振り向く。視線の先で、津島さんが仁王立ちしていた。その後ろから八坂さんと中島さんが顔を覗かせている。いや後ろの二人のことは考えないでおこう。今の問題は津島さんだ。明らかに憤った表情で僕達を見下ろしている。首を傾けずに視線だけをこちらに寄越しているところがさらに怖い。とにかくこれ以上彼女の機嫌を損ねないように何かを言うべきだ。

「いや、これは事故で」

「事故じゃなかったら、二人とも張り倒しているところよ」

 津島さんは口だけを動かして、重々しい声を落としてくる。

「「盗み聞きしてごめんなさい」」

 僕と高瀬さんがそう言うと、津島さんは呆れたように大きく息を吐いた。

「まあいいわ。心配してくれたわけでしょうし……。そろそろ呼ぼうとしていたところよ。ちょうどいいわ、あなた達も入って」

 どうやら津島さんの怒りは静まったようだ。僕と高瀬さんは立ち上がり、リビングに入った。そこで八坂さんが声を掛けてきた。

「高瀬さんだったよね。気をつけてよ。つっつん、こんな見た目だけど中身はケダモノだから」

 また余計なこと言う。しかし先程の出来事を見られてしまっては、何も言い返すことができない。実際高瀬さんとの距離が小さ過ぎて頭がどうにかなりそうだった。

「あはは。今のはあたしが悪かったんだから、堤君にそんなことを言ったら悪いよ」

 そう言いながら、高瀬さんは僕に微笑みを投げかけてきた。

「それにしても危ないところだったね。ファーストキスを堤君に奪われるところだったよ」

 実は既に僕が高瀬さんのファーストキスを奪っていたことを彼女は知らない。高瀬さんを霊媒として姉さんと交霊した時、僕と高瀬さんはキスしたのだ。やはりあれがファーストキスだったようだ。不可抗力だったとはいえ、責任を感じざるを得ない。

 高瀬さんは恥ずかしそうに僕の顔を見つめている。

「もしかして、堤君もまだなのかな? だとしたら危なかったね」

 どうしよう。正直に言ってしまうべきか。いや、それは危険だ。当時意識がなかったとはいえ、いや意識がなかったからこそ、自分がキスをしたことを知ってしまったら、高瀬さんはショックを受けるに決まっている。最悪、怒ってここから出て行ってしまうかもしれない。姉さんとキスをしたと言おうか。一応嘘ではない。そう考えたが駄目だ。高瀬さんなら真実を導き出してしまうだろう。

 僕は津島さんを見た。彼女は、僕と高瀬さんがキスをしたことを知っている。その津島さんは笑いを必死に堪えようとしているようで、こちらを見ないようにしている。しかし口元が緩んでいるのが隠れていなかった。とにかく真実を暴露しようとする様子はない。

「堤君、どうしたの?」

 これ以上黙ってしまえば、怪しまれてしまう。僕は決心した。

「キスはまだしたことない」

 僕は嘘をついた。高瀬さん――好きな異性に嫌われたくない一心で出た嘘だった。紛れもなく、自分を守るための悪い嘘だ。これで、津島さんから与えられた課題を達成した。しかも津島さんにその様子を見届けられた。

「そうなんだ……」

 不審に思われていないようだ。津島さんがどんな表情を浮かべているか気になったが、僕は窺うことができなかった。

 こうして僕達はリビングのテーブルに集まった。今度のテーブルは背の高いので僕達は椅子に座る。僕がいる側には津島さんと高瀬さんがいて、向かい側に八坂さんと中島さんがいる。中島さんが僕と高瀬さんのために追加のお茶を用意して、話は再開された。

 津島さんが話し始める。

「堤君と高瀬さんがいることを黙っていてごめんなさい。でも最後まで隠そうとしていたわけじゃないの。折を見て、ここに来てもらうつもりでいたわ。ただいきなり大勢で迎えたら真美ちゃんが驚くと思って。それに、真美ちゃんがここに来た時はまだ仲直りできていなかったでしょ。だからまず私となっちゃんだけで話すことにしたの」

「いいよ。そんなことで謝らなくても。それより続きを話そう」

 八坂さんはかなり落ち着いていた。さっきも僕のことをからかっていたくらいだ。機嫌は悪くないのだろう。これならばいろいろと話が聞けそうだ。

「そうね。それで、真美ちゃんが霊能者だって信じることにしたってことだけど」

「そうだよ。それは嬉しいんだけど……どうして急に信じてくれるようになったの? ここにつっつんと高瀬さんがいることが関係してるの?」

 僕はおまけなのだが、その通りだ。津島さんが続ける。

「そうよ。実はなっちゃんの部屋に幽霊がいたようなの。それで今さっきまでその子と話をしていたの。もう霊界に行ったからここにはいないけど」

 八坂さんは、嬉しそうに相槌を打った。

「そうなんだ……。高瀬さんがそうしてくれたの?」

「そうだよ。それがあたしの仕事みたいなものだから」

 高瀬さんが答えると、八坂さんは彼女にお辞儀をした。

「ありがとう。助けたいと思ったけど、私の力じゃ無理だったから。高瀬さんがいなかったら、あの子はずっとあのままだったよ。本当にありがとう」

「どういたしまして」

 そこで八坂さんは視線を落とした。

「助けてあげたってことは、あの子のこと少しはなっちゃんから聞いてるよね。本当に、何年も前にここで親に虐待されたって子だったのかな?」

「その子だって断定はできないけど、あの子に虐待痕があったのは確かだよ」

 高瀬さんの性格上、曖昧な言い方になったが、八坂さんが思っている通りの答えだったのだろう。こちらからは目が見えないくらい、八坂さんは俯いてしまった。

「本当に……高瀬さんがいてくれて……よかったよ……」

 そして八坂さんは顔を上げた。少し泣きそうな感じがしたが、それでも決意の溢れるような凛とした表情をしている。

「どうして真美が、霊能者だって信じてほしかったか、話すね」

 関節を鳴らずというトリックで演劇部に迷惑をかけてまで、また霊能力のプロを騙すなどという無謀を冒してまで、自分が霊能者であると津島さんに信じてほしかったのには、それ相応の理由があるはずだと思っていた。話の流れから察するに、件の少女の虐待死が関係しているのだろう。僕達は黙って八坂さんの言葉を待った。

「つっつんには以前にちょっと話したけど、今は全部話すね。実は真美、十年くらい前になるかな、アパートだった時のここに住んでたの。例の虐待事件が起きた部屋の隣にね。その時は、真美小さかったから、隣で大変なことが起こったくらいしか知らなかったの。ただ……」

 八坂さんは一拍置いてから告げた。

「その事件の後だったと思う。その時から夜中に奇妙な音が鳴るようになったの。原因は不明で気味が悪くなったのと、ちょうどお父さんの仕事の都合で引っ越ししたの。何年か経ってからお母さんにあのアパートでのことを聞いたの。他の住人にも奇妙な音は聞こえてたらしくて、虐待で亡くなった子供の幽霊の仕業なんじゃないかという噂があったらしいの。その時はそうだったんだ、怖かったなあ、としか思わなかったけど、なっちゃんに出会って、心霊現象のことをいろいろ教えてもらってから思うようになったの。じゃあ、あのアパートの幽霊は誰の力を借りて音を鳴らしていたんだろうって。それでもまさか真美がそうだとは全然思ってなかったよ。でも……三月にあんなことが起こってしまって……。なっちゃんの家に来た時は気付かなかったけど、もしかしたらあの時住んでたアパートと同じ場所なんじゃないかって思って住所を調べたらその通りだった……」

 幼い頃に、三月で起きたラップ現象と同じようなことを同じ場所で経験した。だから自分は霊能者であると思った。そう考えれば辻褄が合わないことはない。

「だから祥ちゃんとなっちゃんに言ったんだ。真美が霊能者で、心霊現象を引き起こしたんだって。それでああなっちゃった……」

 そこで津島さんが質問した。

「ねえ、どうしてわざわざそのことを教えようとしたの? そんなこと言う必要ないじゃない。そうしたらあれは家鳴りか何かで済まされたと思うし、私達がいがみ合うこともなかったわ」

 正論だ。たとえ自分が霊能者であったとしても、そのことを告白する義務は八坂さんにないはずだ。黙っていれば、誰も傷つかずに済んだだろう。

「でも、言わなかったらあの子は苦しんだままだったよ。心霊現象に詳しいなっちゃんに相談すれば、あの子を何とか助けてあげられると思ったの」

 同じアパートに住んでいたから、親近感を覚えたのだろうか。それでも相手は幽霊だ。津島さんは落ち着いた口調で八坂さんに応じる。

「今更、その子が幽霊だから見捨てなさいとは言わないわ。けど、怖くなかったの? 自分が霊能者だって言って、私やなっちゃんが真美ちゃんのことを恐れるんじゃないかって。実際なっちゃんは怯えちゃったじゃない。私だって、全く怖くないとは言えないわ。いくら幽霊のことに詳しくなっても、所詮私達は普通の人間よ。友達が霊能者だと知ったら、恐れられたり嫌われたりするかもしれないって、そういうことを考えなかったの?」

 津島さんは冷静そうに振る舞っているが、彼女の心情までもそうだとは思えない。津島さんは今、必死に八坂さんの気持ちを探ろうとしているのだろう。

 対する八坂さんも、言動の上では荒れる様子は見られない。

「考えたよ。けど、真美はあの子を放っておけなかった……」

「真美ちゃんは勇敢ね……」

 津島さんは暖かい笑みを浮かべて、八坂さんを見つめている。

「私もそんな勇敢さがあれば良かったわ」

 対する八坂さんは目を見開いている。誉められたことに喜んでいるとは思えない。単純に、何かに驚いている様子だ。

「祥ちゃん……もしかして……」

「何かしら?」

 そう津島さんが訊いた途端、八坂さんは目を逸らした。

「いや、何でもないよ……」

 それからすぐに八坂さんは正面に向き直った。

「とにかく、真美が霊能者だって証明したかったのは、祥ちゃんとなっちゃんを仲直りさせたかったっていうのもあるけど、あの子を見捨てたくなかったからなの。どうしても何かの間違いだったということで終わらせたくなかったの」

「そう……」と呟きながら、津島さんは俯き加減になった。

「ごめんなさい。もっと真美ちゃんの言葉に耳を傾けるべきだったわ」

「いいよ。謝らなくて」

 元気いっぱいな八坂さんの声に、津島さんの顔が一気に上がった。

「だって今、祥ちゃんはちゃんと聞いてくれたから。真美はそれで満足だよ」

 そして八坂さんは満面の笑みを振りまいて、こう告げた。

「だからまた仲良くしよう」

 それで津島さんの表情が綻ばないわけもなく、八坂さんに負けないくらいの晴やかな笑顔を見せていた。普段の津島さんは遠慮がちに小さく笑う。そういうのも素敵だとは思うが、やはりこれ以上ないくらい喜びを表に出す津島さんの方がすごく可愛いと思った。

「もちろん。これからもよろしくね」

 また三人で仲良くする。その願いは今叶ったようだ。

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