第一章(3)

 ゴールデンウィークが明けた水曜日、通学時に津島さんと出会った。

「おはよう。この間はごめんなさい。恥ずかしいところを見せてしまったわ」

「気にしていないなんて言わない。相談には乗るから」

 津島さんと八坂さんと中島さんの間で何かのトラブルが起こったのは、休み前の八坂さんとのやり取りを聞けば明白だ。できることなら僕が力になりたい。好きな人にとっての王子様になることを決めたのだ。

「ありがとう。けど少し考えさせて」

 だからと言って不用意に首を突っ込もうとも思わない。しつこく構ったことで津島さんに嫌われたりでもしたら堪ったものではない。緊急でもないだろうし、必要とされるまで待った方がいいだろう。そう思っている間に、津島さんが話題を変えた。

「生徒会に入ったことは話したわよね。楽しくて、とてもやりがいがありそうよ。執行部も優しい人ばかりだし」

 お人好しな津島さんのことだ、多くの人の役に立てる仕事がしたいと望んで生徒会に志願したのだろう。その感覚は僕には理解できないが、それでも津島さんには頑張ってほしい。

「それと、会長からあなたへの伝言よ。偶には生徒会室に遊びに来てねって」

 随分気に入られたようだ。出会った当時の僕と会長は、姉さんの秘密を握っていた数少ない人間だったのだ。この流れは不自然ではないだろう。

「あと堤君の話になったら、稲田先輩が不機嫌になったのだけど、あなた一体何をしたのよ?」

「稲田先輩って誰?」

「執行部で書記の人よ。って、あなたが知らないわけがないでしょ。あの生意気なチビか、と呟いていたくらいよ。あなた稲田先輩に失礼なことでもしたのでしょ」

 顔は思い出せないが、津島さんが誰のことを指しているのかは分かった。

「ああ……あの偉そうな小役人のこと……いたっ……」

 呟いた瞬間、津島さんに小突かれてしまった。

「そういうところを直しなさい」

「あっちだって、僕のことチビ呼ばわりしたんでしょ」

「その後会長に拳骨されていたし、それとこれとは話が別よ。それにあなたの場合、陰口だけじゃなくて、本人に直接言いそうで怖いわ。というか言ったのでしょ?」

 言ったのだろうか。あまりにもどうでもいい人物のことなど忘れてしまった。

「さぁ……でも、どうせお互い生理的に合わないタイプみたいだから、別に嫌われてもいいし、迷惑にならない程度なら好きに言わせておけばいい」

 そこで津島さんは片手で頭を抱えて、大きく嘆息した。

「どういう神経しているのかしら? それで演劇部は上手くやっていけているの?」

「それは問題ないよ。演劇部の先輩は良い人ばかりだから」

 それで安心してくれるかと思いきや、津島さんは頭から手を放したものの俯いたままだった。小役人先輩のことを引きずっているわけではないのは分かる。

「真美ちゃんとは……どうなの……?」

 結局訊かずにはいられないのだろう。この間は津島さんが八坂さんのことを冷たくあしらっていたが、それは中島さんの話になったからであって、八坂さんのことを嫌っているわけではないことは分かる。むしろ津島さんは八坂さんのことをかなり心配しているようだった。

「騒がしい。苦手なタイプだ。けど、仲が悪いわけでもない」

「そう……それは良かったわ」

 そこでようやく津島さんが笑みを見せた。

「それにしても、嫌いとは言わないのね」

「まあ、相手にするのは面倒だけど、嫌いとはまではいかないかな。それと先輩に言われた。初対面なのに気軽に言い合える僕と八坂さんは、気が合っているんじゃないかって」

「もしかして好きになっちゃったかしら?」

 僕の気持ちを知っている癖に、津島さんが変な冗談を言う。

「それはない。恋人にするなら津島さんや高瀬さんのような知的な女の子の方がいい」

「そこで私だけ言ってくれていたら、少しは嬉しかったのに」

 出来ればそう言ってあげたかったが、僕はまだ高瀬さんか津島さんのどちらをより好きになるかを決められないでいる。当事者である津島さんに対していい加減に自分の心の内を伝えることはできない。ここはありのままを貫き通すべきだ。

「ごめん……。話を戻すけど、さっき僕は八坂さんのことは苦手だって言ったはずだけど、気が合っているというのは先輩が勝手に言っただけだし」

 僕の直前の発言を忘れるなんて津島さんらしくないミスだと思った。それとも敢えてからかってみたのだろうか。しかし答えはそのどちらでもなかった。

「苦手だって聞いたけど、それで好きではないとは限らないでしょ」

 なるほど、これは一理あると評価せざるを得ない。同じようなことを僕が言っていたのだから。僕は失礼な思い違いをしていたようだ。津島さんは僕が言ったことをしっかりと覚えてくれていた。

「興味の有無と好き嫌いの話に似ているってことだよね。苦手だけど好き、まあそういう状況もあるかもしれないけど、僕は八坂さんのこと好きとは思っていない」

「けど興味はあるのではないかしら?」

 確かにある。数日前に出来た。しかしそれは八坂さんの内面ではない。

「うん。君と八坂さんの関係を知りたい」

 不覚を取られたようで、津島さんは大きく目を見開いた。しかしすぐに表情を整えて、僕をしっかりと見据える。そういう姿勢でいてくれるとこちらも助かる。津島さんが求めてくれるなら、僕も気兼ねなく彼女を手助けできる。

「そうよね……。あなたには話しておくわ」

 再び前を向いて、津島さんが語り始めた。

「私と真美ちゃんは同じ学習塾で知り合ったの。けど、中学は別よ。真美ちゃんがこの前言っていたなっちゃん、中島奈津子という女の子のことだけど。あの子は私と中学も塾も一緒だったの。当時は三人で仲良くしていたわ」

 しかしその関係が破綻した。津島さんと中島さんに至っては絶交状態なのだろう。

「この高校に一緒に入ろうって約束して、その通りになったのはいいけど……高校に入る前の三月にね、ある事件が起きたの。それで今のように……」

 三月、つい最近のことだ。それにしても津島さんらしくない。歯切れが悪い。そもそも肝心なことを全然説明していない。

「それで、何があったの?」

「それは……嘘をついたの……真美ちゃんが」

 一応話してくれたが、意味が分からない。八坂さんが嘘をついて、どうして津島さんが中島さんだけを責めているのだろうか。そこを詳しく訊こうと思ったが、嘘という言葉からあることを連想した。僕の予想が正しければ、津島さんがこの話をしたがらないのは納得できる。

「間違っていたらごめん。もしかして、その事件は幽霊が関係しているの?」

 津島さんの視線が落ちた。どうやら正解だったようだ。

「そうよ。詳しいことは、今度話すわ。もう少し考えさせて」

 ずっと疑問に思っていた。どうして津島さんの幽霊に対する抵抗が強いのか。実際に幽霊が視えるとか言われて、それを信じられないと主張するのは分かる。しかし噂話まで頑なに拒絶するのは少しおかしいだろう。もしかしたら幽霊やそれに関する噂話で辛い思いをしたことがあるのではないか。そう考えていたが、どうやら事実だったようだ。そしてそれは、津島さんにとってはどうしようもなかったことなのだろう。津島さんが高瀬さんと大喧嘩した後、僕に打ち明けてくれたのはこのことだったようだ。さらに言えば、その事件からはまだ日が浅い。まだ当時の記憶が鮮明に残っているのかもしれない。

「分かった。さっきも言ったけど、いつでも相談には乗る。と言っても、幽霊関係の場合高瀬さんに相談した方が……」

「それはやめて。高瀬さんには言わないで」

 早い、と言おうとしたが津島さんに遮られた。その反応は意外だ。確かに高瀬さんと和解する前の津島さんなら得心がいく。いや、もっと厳しく言い捨てたかもしれない。しかし今の津島さんは高瀬さんのことをある程度認めているはずだ。たとえ幽霊を信じていなくても、高瀬さんの知識と経験が力になると思わないわけでもないだろう。

「津島さんが言うなら、今のところは。けど必要になったらそれも辞さない」

 今のところは、本当に津島さんのためになる選択が何なのかが見えてこない。だから、津島さんが干渉を拒むのならば、僕はそれに従う。お節介を焼いて津島さんの足を引っ張ってしまっては元も子もない。しかし津島さんにとって何が大切なのかを見極めることができたなら、たとえ津島さんが反対しようとも、僕はそれを実行する。

「それでいいわ。ありがとう」

 この重たくなった空気を変えるべく、何気ない会話に持ち込むか。それとも沈黙したままの方がいいのか。そう考えている間もなく、津島さんが話を続ける。思ったより暗い表情をしておらず、とりあえずは心配しなくてもよさそうだ。

「ところで堤君。全然違う話になるけど、あなたは嘘をついたことがある?」

 やはりその問いは八坂さんの件の延長線上にあるのではないか、と思うのは彼女が嘘をついたと聞いたからだろうか。いや、八坂さんの話が一因しているかもしれないが、そのことがなくてもいつかは訊かれるだろうと思っていたことだ。

「いや、こういう風になってからは意図的に嘘をついたことはない」

「でしょうね」

 姉さんを救おうとした時から、僕は嘘をつかなくなった。ありのままでい続けるためだ。嘘をついてしまったら、ありのままの自分の姿を保てなくなり、どうしたらありのままでいられるかを姉さんに伝えることができなくなる。だから僕は嘘を封印したのだ。

「少し前までのあなたはこう思っていたのでしょうね。嘘をつかなければ生きていけない白川さんの代わりに、嘘をつかない方法を見つけようとした、ってところかしら?」

「そうだよ」

 そのくらいのことは、津島さんなら容易に想像がついたのだろう。似たようなことは既に告白している。勿論、今は姉さんのあの頑張りが嘘だったとは思わない。津島さんもそれは分かってくれているだろう。

「でもこれからは、少しくらい嘘をつかなければ生きていけないと思わない?」

 そういう話になるだろうとは思っていた。何かができないと言うのなら、できるようになろうと言うのは自然な流れだ。その何かが嘘をつくことでなければ。

「とても優等生のセリフとは思えない」

「そうかしら? そもそも私は自分のことを優等生だと思っていないけど」

 そう言いながら津島さんは不敵に微笑む。

「どうしたの堤君? 私のことをそういう風にしか見てくれていないようでは、王子様にはなれないわよ」

 それはこれからへの期待と受け取るべきなのだろうか。確かに、津島さんは偶に冗談を言って人をからかう時がある。相手は高瀬さんになることが多いが、僕もないことはない。とはいえ、その内容は軽いもので、怒りを覚えるようなものは決してない。津島さんはそのことを言っているのだろうか。いや、まだ僕が知らない彼女の側面があるのだろう。

「津島さんは嘘をついたことがあるの?」

 僕の知らない津島さんを探るべく、僕は訊いた。

「あるわよ。他人を助ける善い嘘も、自分を守る悪い嘘もついてきたわ」

 津島さんが真剣な面持ちで言う。それこそ嘘をついた悪い子供を説教するように。

「堤君。それが普通なのよ」

 普通。そう、人が嘘をつくのは普通のことだ。考えてみれば当然のことだ。ただ、以前の自分ならば全然考えもしなかったことがある。

「僕は、その普通というものが分からない」

 最近自覚するようになってきた。いや今まで目を背けてきたことが、新しい友達ができたことによって認識せざるをえなくなった。特に春日さんとの会話でそれが顕著に現れている。

「ええ、そうよ。自分でそれが分かっただけでも進歩しているようね」

 僕の性格は普遍的ではない。しかし問題はそこではない。津島さんもそう思ってくれいているだろう。人の個性を無理矢理矯正させるような頭の悪い人間ではないはずだ。彼女が、いや僕や僕の友達が懸念しているのは、普通の人間がどういう風に物事を考えているかということを僕は理解していないということだ。今まで普通の人間のことを考えることは下らないと無視してきたので、いざ考えようとしても、どうして理解していけばいいのかが分からない。

「だから一回でもいいから、嘘をついてみなさい。できれば、自分を守る悪い嘘の方を」

「嘘をつく時の気持ちを理解するために、嘘をつけということ?」

「そうよ。こういうところはなかなか冴えているわね」

 高瀬さんが言っていたように、心霊現象を騙るトリックを見破るために手品を覚えるということなのだろうか。

「さすがに小さい頃ならあなたでもそういう嘘をついたでしょうけど、そんな小さい頃と今とでは感じることが全然違うでしょ。あまりにも悪いものだと、あなたを唆した私の責任が重くなるから、できるだけ軽いものでお願いね。嘘をつくこと自体は悪いことなのだから」

 最終的に難しい課題になったような気がする。悪くて軽い嘘って何だろうか。それはともかく津島さんのお陰で、自分の罪を再認識することができた。

「それができていたら、僕は姉さんを救えたのかな」

 姉さんがありのままを捨てていた時の気持ちを理解できなかった。もしかしたら僕は姉さんを救うために、姉さんと同じ道を歩むべきだったのかもしれない。そうすれば姉さんの気持ちを少しは理解してあげられたのかもしれない。

「ねえ、こう言っては悪いのだけど……」

 津島さんの声のトーンが落ちた。

「白川さんはもう亡くなっているの。だから彼女に縛られる必要は……ごめんなさい。でも、彼女のために自分を縛る必要はないと思うの」

 嘘をつかないことで自分を縛っている。津島さんの言う通りだ。自分を変えるにはこの呪縛を解かなければならない。そして、僕は一つ大きな過ちを犯したことに気づいた。

「だって、今堤君が好きなのは、私か高瀬さんなんでしょ?」

 僕はなんて女々しい人間なのだろう。好きな女の子の目の前で、以前好きだった女の子に対する後悔を漏らしてしまった。心の中で留めておけばよかったのだが、津島さんに慰めてほしい気持ちが表に出てしまったのだろう。

「ごめん……」

 そう言った直後、背中に大きな衝撃を受けた。津島さんが平手で思いっきり叩いたようだ。

「いった……」

 文句を言ってやろうかと思ったが、津島さんの満面の笑みを見てその気が失せてしまった。

「何謝っているの? もしかしてもう高瀬さんに決めちゃったとか?」

「そうじゃなくて、弱音を吐いてしまったこと」

「弱音くらい聞いてあげるわよ。それを糧にしてくれるならね」

 そうだ。僕の目標は、好きな女の子にとって本当の王子様になれるように自分を変えることだ。好きな人がその手助けをしてくれている。今は情けないところを見せてしまうことが多々あると思うが、必ずその目標を達成してみせる。

「ありがとう。頑張るよ」

 決意を胸に抱きつつ、僕は笑顔を返した。

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