第一章(2)
一年生が部活動に参加するために、学校では仮入部という期間がある。その期間内に、一年生は様々な部活動を見学して回り、どの部活動に入るのかを決めるのだ。この学校ではゴールデンウィークが始まるまでと結構長い。そのため入学してから三週間くらい経った今でも入部するのに問題はなかった。
部活動の話をしたその日の放課後、僕は早速演劇部に仮入部した。
活動日は月、水、金、土であり、活動時間は平日の場合は放課後から三時間であり、土曜日の場合は五時間である。公演や大会が近くなると活動日が増える。というか演劇部に大会があることは意外だった。
部員は現在五人である。三年生が二人で、二年生が三人だ。この学校ではあまり人気がないようだ。顧問の先生は月曜日には来ていたが、あまり部活動に顔を出さないらしい。また、その日来た一年生は僕を含めても三人だった。ただし、その内の一人は演劇部に入ることを既に決めているらしい。
初めは発声練習と台本読みを体験するのと、先輩の演劇を見学するだけだった。しかし水曜日に、演劇部に入ることを決めていた方の一年生が、もっと本格的な活動がしたいと言いだした。仮入部期間は今週末までであり、にもかかわらずその日来た一年生は僕と駄々をこねた奴の二人だけだった。先輩はこれ以上の新入部員は望めないと思ったようで、僕の了承を得た上で、金曜日から通常通りの部活動を再開することを決めた。
そして金曜日の放課後である。
「こんなことになるなんて聞いてないよぉ」
「いや、先輩はちゃんと説明していた。それに、我儘を言ったのは君だったはずだけど」
新入部員の僕と女の子、八坂真美(やさかまみ)さんは昇降口の前で身体を休めている。八坂さんが体育座りをしていて、必死に息を整えようとしている。その横に僕は立つ。
本日の部活動はランニングから始まった。約三キロメートル走った。それから腕立て伏せ、腹筋、背筋といった筋肉トレーニングを行った。これを毎回の活動日に行うと聞いた。演劇部といえども、いやむしろ、演劇部だからこそ体力作りが必要なのだそうだ。特にここの演劇部は部員が少ないので、兼ね役や裏方の仕事など一つの演劇で複数の役割をこなさなければならないので尚更のようだ。
今は十分の休憩時間である。
「つっつんは平気そうだね」
つっつん、とは僕のことらしい。以前に「その呼び方はやめて」と三回くらい注意したが、その内どうでもよくなった。
「疲れてないわけではないけど。運動部よりかは楽でしょ」
実際、長田君が所属しているバスケ部も今週から本格的な練習が始まったらしく、彼らは今ランニングから帰ってきたところだ。演劇部は、今日はもう激しい運動はしないが、バスケ部はこれからが本番なのだろう。
「でも、疲れるものは疲れるよぉ」
とはいえ今まであまり運動をしてこなかった文化系の人にしたら厳しい、と思わなくもない。文化系の部活動が、運動部のそれに比べれば遙かに温いとはいえ、しっかりとしたトレーニングを行うのは僕にとっても思いがけなかった。ランニングの最中に長田君に会ったが、
「お前、演劇部に入ったんじゃなかったのかよ?」
「だから、演劇部の活動中」
というやり取りがあった。演劇部がトレーニングをするという光景は、傍から見ても意外だったようだ。
「まあ、その内慣れると思う」
八坂さんは僕よりも少し身長が低く、華奢である。その見た目通り運動に慣れていない。それでも、週三回のトレーニングを続けていれば少しは体力がつくだろう。
「なんだよ。お姫様のくせに運動できるなんて、何かムカつく」
月曜日に初めて会った時から、八坂さんは僕のことをお姫様と呼んだ。《幻の呪い姫》のことは知らないようだが、やはり女の子のように見える男の子というものは、そういう皮肉を言われる運命なのだろうか。思い返してみれば、高瀬さんにも初めて話した時にお姫様と言われた。もう言われ慣れているのでやめさせる気はおきない。
「そう……」
いい加減相手にするのが面倒になってきたので、八坂さんから離れようとした。しかしそこに演劇部の先輩、二年生の女子である三好(みよし)先輩が近づいて来た。
「今日もそんな調子? 近くで見てたけど、もうちょっと仲良くしなよ」
月曜日はまだ仲良くなる努力をしようとしていた。何せ演劇部内での貴重な同学年なのだ。社交的になろうという目標もあるし、友好関係を築いておいたら部活動が楽しくなるかもしれないと思っていた。しかしそんな思惑がすぐに失せてしまうくらい、八坂さんは厄介だった。
まず、うるさい。高瀬さんも明る過ぎではないかと感じる時があるのだが、八坂さんは度を超えていた。何かと僕につっかかってくるのだ。僕を見るなり「きゃー。お姫様みたい」と黄色い声で言いだしたし、主に僕が女の子に見えることをネタにして冗談を言ってくる。それに怒ってしまえばこちらが大人気ないと思われる程度の軽い冗談だから始末が悪い。元々怒る気もないのだが、うっとうしいのは確かだ。あと、声が大きい。
「そうなんですぅ。つっつん今日も冷たいんですぅ」
「この子が面倒なだけです」
そこへ違う先輩、二年生の男子である神崎(かんざき)先輩と高城(たかしろ)先輩が寄ってきた。高城先輩が微笑みながら言う。
「おいおい堤君。こんな可愛らしい子に冷たくしちゃったら、可哀想じゃないか」
僕は、いつの間にか立っていた八坂さんに視線を向ける。そして彼女の足元から頭までを眺めてみた。確かに顔は良い方だと思うが、高瀬さんや津島さんの方がずっと可愛い。
八坂さんと目が合った途端、彼女が両手で胸元を隠した。
「今、じっと胸を見たでしょ。エッチ」
そういう八坂さんはそれなりに胸があるから腹が立つ。
「じっとは見ていない。馬鹿じゃないの?」
「ふーんだ。馬鹿って言う方が馬鹿なんですぅ」
「そう……」なんだか馬鹿らしくなってきた。そこで神崎先輩が口を開く。
「でも、出会ったばかりなのにこれだけ言い合えるのって、むしろ気が合っている証拠なんじゃないか?」
「変なことを言うのはやめてください」
確かに、気軽に会話を交わせないということはその人とは相性が悪いというのは分かる。僕と春日さんが良い例だ。だからと言って、好き勝手に物を言えるということがその人と相性が良いということを意味することにはならないだろう。むしろ、春日さんとは違う点で、八坂さんとは相性が悪いと思う。
「このお姫様、実はツンデレだったりして」
先輩が余計なことを言うから、八坂さんが調子に乗り出した。
「心配しないで。僕の辞書にツンデレという四文字はない。普通にデレるから」
この言葉には、三好先輩が愉快そうな反応を示した。
「えっ、堤君って好きな子いるの?」
「いますよ。同じクラスに」
さすがに二人いることと彼女達の名前は伏せておいた。しかし三好先輩が怪訝そうな顔をした。周りを見てみると八坂さんや他の二年生も驚いたような表情を浮かべている。いつの間にか話を聞いていた三年生の先輩、男子で部長である笹村(ささむら)先輩と、女子で副部長である嶋(しま)先輩も同じように唖然としている。そんな中、嶋先輩が言葉を発した。
「すごいね、この子。真顔で少しも照れもせずそんなこと口にするなんて……」
「だって、好きな子がいるなんて普通じゃないですか」
単に好意を寄せているというだけの話だ。好きな異性がいることなんて当たり前のことを恥ずかしがって隠す必要がどこにある。何も性的な内容まで及んでいるわけではない。下品な事を言い触らさないくらいの常識ならずっと持っている。
「まったく八坂さんもそうだけど、堤君も中々面白いじゃないか。二人だけだけど、今年は期待できる子が入ってくれたね」
この程度のことで面白いと評価されると言うことは、笹村先輩の表現が大げさなのではなく、やはり僕は普通とズレているのだろうか。このズレが修正する必要があるものかどうかは分からない。いや、おそらくこの程度のことならそのままにしておいても良いだろう。実際、迷惑には思われてはいないようだ。しかしこのズレを理解しておかないと、いつか致命的な失敗をおかすかもしれない。
「さあ、そろそろ部室に行こう」
笹村先輩がそう言って昇降口へ向かった。そして次々と先輩達が校舎に入っていく。僕もそろそろ動こうと思った時、八坂さんがその場に立ち尽くしていることに気づいた。
「何しているの?」
そう言いながら、彼女の視線の先に目を遣る。向こう側から一人の少女が出て来た。
「真美ちゃん……」
そう呟いたのは津島さんだった。微笑しているものの、その表情はどこか硬い。それでも彼女は八坂さんの方にゆっくりと近づく。対する八坂さんは俯いてしまった。普段喧しい彼女とは思えない、沈痛な面持ちをしている。
「祥ちゃん……」
「こうして話すのは久しぶりね。元気にしているの?」
「まあ、それなりに……」
久しぶりに会ったようだが、どういう関係なのだろうか。友人と考えるには、二人の態度がよそよそし過ぎる。しかし二人とも下の名前で、しかもちゃん付けで呼び合っている。友人ではあったものの、何かがきっかけでその関係が壊れてしまったのだろうか。
津島さんが一度僕を見て、それから八坂さんに視線を戻した。
「堤君が一緒にいるってことは、真美ちゃんも演劇部に入ったのね」
「そうだよ……」
「どう? 堤君と仲良くしているの?」
「仲良くしようとしてるんだけど、つっつん冷たいの」
八坂さんが面倒だ、とは言えなかった。先程の先輩とのやり取りと台詞は似ているが、元気さが段違いだ。そんな弱った八坂さんに追い打ちをかける気にはなれない。
そう考えている間に、津島さんが僕を見ていた。
「堤君。この子、今は訳あって落ち込んでいるけど、いつもはうるさいくらい明るい子だと思うの。けど、すごく良い子なのは間違いないから、仲良くしてあげて」
「津島さんがそう言うのなら、善処してみる」
津島さんが推薦するのなら考えないことはない。そもそも八坂さんのことを嫌っているわけではない。何か特別な事情を抱えているというのなら、興味がないわけでもない。
「そう。頼むわね」
そう言って、津島さんは八坂さんを横切った。しかし、津島さんが二十メートル程離れたあたりで、八坂さんが突然振り返り、大声を放った。
「祥ちゃん。待って!」
津島さんは立ち止ったが振り返らない。それでも八坂さんは続ける。
「なっちゃんも祥ちゃんのこと心配してたよ」
「それがどうしたの」
八坂さんは一瞬身を竦めたが、すぐに肩を張る。
「なっちゃんと仲直りしないの?」
「ええ。そうね」
段々と八坂さんの声に悲痛さが増してきた。それでも津島さんは動かない。
「今度私も手伝うから……」
「余計なお世話よ。私はあの子と和解するつもりはないっ!」
八坂さんが言い終える前に、今度は津島さんが大声を上げた。八坂さんはその場にへたり込む。そして力なく項垂れてしまった。
「あれは……全部、真美が悪いの。なっちゃんは全然悪くない。なっちゃんは……」
嗚咽をもらしながら、八坂さんは呟く。それが聞こえていないのか、それとも聞こえていて敢えて無視しているのかどうかは分からないが、津島さんは去ってしまった。
すかさず僕は八坂さんの方に駆け寄り、隣に腰を降ろす。
「顔を洗ってきなよ。お手洗いの前までならついて行くから」
なっちゃんと呼ばれる人物が原因で、津島さんと八坂さんの仲がもつれたことは分かったが、それ以外のことが全く見えてこない。だから余計なことは言わないでおいた方がいいだろうと判断した。とりあえず八坂さんと一緒に立ち上がり、昇降口に入る。憎らしいところはあるが、一応今の相手は涙を流している女の子だ。気安く触れずに、ただ彼女の横について歩いた。途中で先輩達に会った。戻りが遅い僕達を心配して折り返してきたようだ。八坂さんが友達ともめた、とだけ説明して、それからは女子である三好先輩に任せようとしたが、八坂さんがそれを拒否したので僕がそのまま付き添った。
しばらくして八坂さんが口を開いた。もう涙は止まったようだ。
「ねえ、つっつんは祥ちゃんと同じ中学だったの?」
八坂さんが僕について来てほしいと願ったのはそういうことだと思っていた。僕と津島さんは知り合いだと知ったのだ。彼女に関することを訊きたいのだろう。そして、そう訊くということは、津島さんと八坂さんは同じ中学の出身ではなかったのだろう。
「いや、高校で知り合ったばかり」
八坂さんが間髪入れずに質問する。
「その割には何だか頼られてたみたいだけど……仲良いの?」
「少し前にいろいろあって、それで親しくなった」
思い返してみると、おかしなことに巻き込まれたものだ。いや、僕が巻き込んだのだろうか。とはいえまさか幽霊に関わるなんて思わなかった。
「もしかしてつっつんが言ってた、同じクラスの好きな子って祥ちゃんのこと?」
「そうだけど、悪い?」
好きな人がもう一人いることは言う必要がないだろう。
「別に……」返事はそれだけだった。万全の時の八坂さんなら「つっつんみたいな女の子っぽい奴に、祥ちゃんは渡せない」というような下らない嫌みを言い出しそうなものだが、まだ僕をからかうまでには、調子が戻っていないようだ。お陰で僕の調子まで狂いそうだ。
「ねぇ、なっちゃん――中島奈津子(なかじまなつこ)っていう子が一年二組にいるんだけど、その子のことは知ってる?」
「いや、知らない」
自分のクラスメイトすらあまり覚えていないのに、他のクラスにいる人間など知っているわけがない。
「背はつっつんと同じくらいで、綺麗なんだけどちょっと地味で、眼鏡かけてて、巨乳な子なんだけど、見覚えはない?」
「ない」そう答えると、八坂さんの頬が緩んだ。
「折角、巨乳だって教えてあげたのに、興味なさそうだね」
「女の子をそういうことで決めないことにしている」
「うっそだぁ。つっつんだって健全な男子高校生でしょ。あっ、いや……つっつんはむしろ控え目な方が好きなのかなぁ。祥ちゃんあんまり胸ないし」
確かにそうだ。津島さんの胸の膨らみはお世辞にも大きいとは言えない。よく考えてみると高瀬さんもそうだ。身長は高いが胸は恵まれなかったようだ。待て。姉さんも胸は小さかったような気がする。僕が好きになった女の子に思いもよらない共通点があった。もしかして八坂さんの言っていることは当たっているのか。
「何、図星? きゃーいやらしー」
案外考え込んでいたようで、八坂さんにからかわれてしまった。
「違うよ。馬鹿らしい」
きっと偶然だろう。そう結論した。そもそも胸の大小で女の子の良し悪しを決めたりしないというのは本心だ。
それにしても、まだ眼は赤いものの、急に元気になったものだ。安心するのを通り越して呆れてきた。とはいえいつまでも湿っぽくされるよりかはマシだろう。まだまだ練習は始まったばかりなのだ。隣に泣き虫がいるようでは気分が悪い。
顔を洗った八坂さんは、先程の出来事が嘘だったかのように、明るく練習に励んでいた。
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