第29話エピローグ

 水野家での戦いが集結してから五日後の昼休み。あの日以降も普通に女装は続けている。俺が吹っ飛んだときは気が動転していたから大丈夫だっただけで、普段の状態ではまだ駄目そうだという水野さんの意見を反映してのことだ。

 それと、悩みに悩んだ末に結局進藤さんを頼ることに決めた。柑奈に本気を見せると言ったばかりなんだ。できることは全部やるべきだよな。

 そして明日がとうとうその初日。正直言って、かなり身の危険を感じるけど勇気を出して行ってこようと思う。

 そのための英気を養うのが目的というわけじゃないけど、今日は前の約束の通り水野さんがお弁当を作ってきてくれることになっていた。

「はい、どうぞ」

「ありがたくいただきます……!」

 平伏しながら恭しく弁当を受け取る。

 早く食べたいけどできるだけ長く食べたい。そんな葛藤を抱えているせいでプルプルと震えてしまう手で蓋を開け、箸を持ち、高速で卵焼きを掴み、そして一旦静止した。

 落ち着け、落ち着け。もっとゆっくりと食べるんだ。今卵焼きを摘んだときの速度ではすべてが一瞬で終わってしまう。自然に、焦りすぎず焦らしすぎず。

 ……よし、そろそろいいだろう。

 待て、を解かれた犬のような気持ちで卵焼きを弁当箱から持ち上げた瞬間。

「あ、待ってください」

「な、なに!?」

 水野さんにストップをかけられた。意識が完全に自分の世界に没入してしまっていたのでめちゃくちゃびっくりした。

「ちょっと貸してください」

「い、今更返せって言われても返さないよ!?」

「そんな子供みたいなことしませんよ」

 弁当箱を懐に引き寄せて警戒する俺を見て苦笑する水野さん。俺は訝しみながらも言う通りに手渡した。弁当箱が手から離れる瞬間、言いようのない寂しさが俺を襲った。

 ……お願いだからちゃんと返してくださいね?

 受け取った水野さんは自分の箸で、たった今俺が食べようとした卵焼きを摘んだ。

な、何をする気なんだ! 俺の目の前で全部食べてしまおうというのか!?

 俺の心配をよそに、水野さんは箸を持った手を弁当箱の直上で止めた。そしてちらちらと、視線を俺の顔と卵焼きの間で往復させる。気のせいか顔が赤くなっているような。

「どうしたの?」

 煮え切らない態度に気が逸って尋ねてみる。水野さんはそれに応える代わりに、大きく一つ深呼吸をしてから意を決したように頷いた。

「へ、辺見くん」

「は、はい」

 うつむき気味に名前を呼んでくる。やけに緊張感に満ちた声につられて俺まで緊張してきた。何を言い出すのやら、と大きくなった心臓の鼓動を数えながら待っていると――。

「あ、あーん」

 水野さんが、そんな声を発しながら卵焼きを俺に向かって差し出してきた。

 え? ええっ? えええっ!? これって、まさか……。

「は、早くしてください。ま、まあ婚約破棄の件のお礼のつもりですから、少しでも長く私に恥ずかしい思いをさせたいというのが辺見くんの希望であれば、今回ばかりは甘んじて受け入れることにしますけど。あまり長いと落としてしまいそうです」

「は、はいっ!」

 水野さんに急かされ、俺は慌てて水野さんの箸にかぶりついた。

「……ぐはっ」

 甘い。なんて甘いんだ。甘すぎて頭がおかしくなりそうだ。もちろん卵焼きも甘い。だけど何より水野さんにあーんをしてもらったという事実が甘すぎる!

「ど、どうでしょう?」

「あなたが女神か」

 卵焼きを飲み込んだ俺の視線は、きっとどんな聖人にも劣らない敬虔な信仰心に満ちていたと思う。そうだ、璃里花教を作ろう。俺が宣教師になって、世界に水野さんの素晴らしさを教え広めていこうじゃないか。

 水野さんは視線を地面にやったまま、紅潮した頬のままもじもじしている。可愛すぎてやばい。これはもはや罪だね。罰として俺が死にそうだね。

 ふと、水野さんが手にしている弁当箱、つまり俺に渡してくれた弁当箱が気になった。水野さんの自分のお弁当箱と、柑奈に渡した弁当箱とはタイプが違う。

「……お弁当箱が二つしかなかったから買ってきたんです」

 俺の視線に気づいた水野さんが機先を制して説明してくれる。

「そこまでしてくれるなんて……」

 感激しすぎて涙が出そうだ。

「考えていることが顔に書いてありますよ。こうやって弁当箱に食材にと、どんどん出費させればいずれはお金がなくなって体を売るようになるに違いないから、もっと俺のために弁当を作らせよう。と思ってるんでしょう」

「どんな外道だ、俺は!」

 非難がましいような、はにかんでいるような、もはやお馴染みになった複雑な表情を浮かべた水野さんは、わざとらしい咳払いを一つ挟んでから続ける。

「しかし辺見くんがそんな外道でも、大きな恩があるのは紛れも無い事実。恩人の要求となれば従わざるを得ません。せっかく買ったお弁当箱を使わないのももったいないですし、これからもたまにでよければお弁当作ってきてあげますよ」

 これってもしかして、めちゃくちゃ遠回しだけど「また作ってきてあげる」って言ってくれてる……?

 あ、やばい。意識が遠のいてきた。幸せすぎて昇天しそう。

 成仏の危機を覚えた俺は素早く立ち上がり、ベンチの背もたれに頭を繰り返し打ち付けた。痛みよ、我を現実につなぎ留めたまえ!

「ふう、ふう……」

「大丈夫ですか?」

「ああ、もう大丈夫。お弁当、これからもお願いします」

 頭を下げ、謹んでお願い申し上げた。

「ええ、でもそう簡単に性サービス嬢に身を落とすと思ったら大間違いですからね」

「思ってないから!」

 むしろそんなことになりかけたら俺が臓器を売ってでも水野さんを支えるさ。

 りんごのように色づいた顔を明後日の方角に向けて照れを隠す水野さん。それを見ているだけで、なんだか温かい気持ちが胸を満たしていく。

 ――ああ、やっぱり俺はこの人のことが大好きだ。こういうよくわからない悪態まで含め、水野さんが愛おしくて愛おしくて仕方がない。

「あの、もう一回だけあーんしてくれない? さっきちょっと慌てちゃって堪能しそこねたからさ」

「……あと一回だけですからね」

 頬を染めたままため息をつく。出血大サービスだな。それくらい、とりあえずは進藤さんと結婚しなくて済んだことが嬉しいということかな。

 今度はミニハンバーグを摘んだ箸を遠慮がちに突き出す。

「……はい、あーん」

「あーん」

 水野さんがじれてしまうんじゃないかってくらいゆっくりとした動きでハンバーグを口にする。うん、おいしすぎて思わず体が踊りだしそうだ。

 苦笑する水野さんの「変な人だな」とでも言いたげな視線を浴びながら、俺は静かに口の中の幸せを噛みしめるのだった。

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愛しの彼女は我が妹がお好き 小林コリン @colin

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