第28話我が愛しの妹に誓って。
「本当に大丈夫なんですか? 脳震盪は気をつけないと命にかかわることもありますよ?」
玄関で靴を履いている俺に、水野さんが心配の声をかけてくれる。
「うん、帰ったら安静にしておくから。それじゃあまた明日、学校で」
「はい。今日は本当にありがとうございました」
深く頭を下げる水野さんに片手を上げて応え、俺は家屋を出た。
敷地の外に出ようと軽やかな足取りで石畳を歩く。入ってくるときは、足の裏に石が張り付いているんじゃないかと思うくらい心も足も重かったのに。
「おーい、辺見くん!」
中程まで渡ったところで、背後から男の声が飛んできた。振り返ってみると、小走りで俺を追いかけてくる進藤さんが見えた。
「どうしたんです?」
俺の前に立った進藤さんは、上がった息を落ち着けながら口を開いた。
「一つ辺見くんに提案がありまして」
「提案?」
「はい。もし辺見くんさえよければ、これから僕が君に勉強を教えてあげたいと思うんです。どうでしょう? これでも僕は東宮大学の法学部を次席で卒業しています。お力になれると思いますよ?」
東宮大学。最難関の国立大学だ。その法学部で次席ともなれば、俺からしてみれば雲の上の更にまた上というような存在だ。願ってもないチャンスだと言える。
……しかし、さっきからどうにもこの人の態度が腑に落ちない。
「それはありがたいんですが……どうしてそこまで助けてくれるんです? さっきもお父さんを説得してくれましたし。進藤さんとしてはおいしい話だったんじゃないですか?」
尋ねてみると、進藤さんは何か含みのある笑みを浮かべる。なんだかものすごく不気味な感じがした。今までの好青年風の雰囲気が跡形もない。
「僕が君に一目惚れしたから、と言ったらどう思いますか?」
「……はい?」
今この人なんて言った? 一目惚れ? 俺の何に一目惚れしたというんだろう。別にこの人の前で何かの才能を発揮した覚えはないし。
……まさか。いや、まさかな。
「昨日お会いしたとき、一瞬にして心を奪われてしまいました。実を言うと、昨日お食事に誘ったのは辺見くん目当てのことだったんです。普段はあんな無神経な真似はしないのですが、つい舞い上がってしまって」
「ちょっと待って! ちょーっと待ってください!」
「なんです?」
「ひ、一目惚れって……俺に恋愛感情を持ったってことですか?」
「え? もちろんそうですよ。といっても元々そういう趣味があったわけじゃないんですが。なんて可愛い女の子だろうと思っていたら、実際は男の子だったというわけでして」
も、もしかしてあのときあんなに落ち込んでいたのはそのせいなのか……?
「悩みました。ものすごーく悩みましたよ。相手は男。しかも璃里花ちゃんにゾッコン。二重の高い壁を前にして、僕も一度はあきらめて逃げ帰りました。しかし家に帰ってからも君のことが忘れられず、もしもう一度会えたらそのときは……と心に決めたんです」
そう熱く語る瞳は、確かに恋の炎に燃えて爛々と輝いていた。
「そして迎えた今日ですよ。君がこうしてやってきれくれた。歓喜の叫びを我慢するのが大変でした。しかも目的は僕と璃里花ちゃんの結婚の白紙撤回。これはもう、辺見くんこそ僕の運命の人だという神の思し召しとしか思えません」
ちょっと頭が痛くなってきた。頭を打ったのとは無関係の痛みだ。
「確かに璃里花ちゃんとの結婚は魅力的でしたが、今の僕の気持ちは君にあります。だから僕の方としてもお父さんを説得して当然なんですよ」
そこで一旦言葉を切って、悩ましげに腕を組む。
「ただ、やっぱり男の子に戻った君を見ても、あのときのような胸の高鳴りは感じませんでした。だから、もし君が女装してくれさえすれば、僕は無償で君の家庭教師を引き受けたいと思っています。いや、むしろ僕の方からお金を払ってもいいくらいです」
そして改めて、「どうです?」という風に首をかしげて俺を見つめる。
うーむ。確かに東大法学部の次席が家庭教師についてくれるのは助かるけど、これはなんかいろいろとやばい匂いがするぞ。主に貞操的な意味で。
とりあえずもう少しゆっくり考えないと、取り返しの付かないことになりかねないような気が……。
「すみません。少し考えさせてもらっていいですか?」
「ああ、もちろんですよ。じゃあ、これ。僕の名刺です。気が向いたらいつでも連絡してください」
「ど、どうも」
差し出された名刺を受け取ってポケットにしまう。
「それじゃあ、俺はこれで……」
「ええ、また会えることを願っていますよ」
朗らかに笑って手を振る進藤さんに背を向け、再び石畳の上を歩き出した。
いやはや、まさか俺の女装姿に惚れる人がいるとは。しかもその相手が俺の好きな人の婚約相手ときた。どんな天文学的確率だよ。できれば宝くじで……って前もこんなこと考えたような。
でも多分進藤さんの後押しがなかったら水野さんのお父さんを翻意させることもできなかっただろうし、ある意味俺の女装が水野さんを救ったと言ってもいいのかもしれない。
うん、そういうことにしておこう。
木戸を開いて水野家の敷地の外に出たところで、ようやく肩の力を抜くことができた。すっかり夜はふけてしまったけど、なんとなく清々しい気持ちを覚えて大きく伸びをする。
「あ、仁くん」
そこに突然聞き慣れた声が聞こえてきて、俺は思わず驚きの声を上げそうになりながら顔を向ける。
「柑奈。どうしてこんなところに」
「心配だったから来ちゃった」
柑奈は照れ笑いをして頭をかく。心配しすぎだなんて、ぶん殴られて意識失いかけた身としては口が裂けても言えないな。
「それで、お話はどうなったの?」
「いろいろあったけど丸く収まった」
「本当に!? よかったー!」
嬉しそうに破顔する柑奈と連れ立って帰路につく。住宅街の路地は街灯もまばらで、なんだか妙に気持ちが落ち着く。
「なあ柑奈」
「うん?」
「こないだの遊園地のときの話さ、俺が水野さんのこと本気なのかって」
「ああ、もう。忘れてって言ったのに」
困ったように笑って手をパタパタ振る。
「いや、俺にとっても大事なことだからちゃんと考えたんだ。一応聞いてくれよ」
「そっか。わかった」
柑奈は優しく微笑んで、前を向いたまま背筋を伸ばす。
「この前柑奈に言われるまで、結婚のことなんて考えてもみなかった。でも実際に考えてみてやっぱり結婚したいって思った。でもそうやって口で言うだけじゃいつもの軽口と一緒だ。あれだけの覚悟を見せてくれた柑奈に対する答えとしては全然足りてない」
「そんなことないよ。それだけ聞ければ十分だって」
「いや、十分じゃない。これからは、きちんと結婚を意識してるんだってことを行動で示したいと思う」
「行動?」
「そう、勉強だ」
俺が言うと、柑奈は不思議そうに首を傾けた。
「勉強? どうして勉強なの?」
「水野さんのお父さんを説得する中でさ、水野さんと結婚したいって言ったんだ。そしたらお前じゃ将来が不安だって言われたんだよ」
「そりゃいい大人から見ればそうだよね」
「ああ、だから言ってやったんだ。これから頑張ってお父さんを安心させられるくらいの人間になるって。そのために今の俺にできるのは勉強だ」
「なるほどね」
今の俺には柑奈を本当の意味で納得させることはできない。だからこれから納得させられる人間になる。それが俺の出した結論だ。
「勉強の大嫌いな俺が、水野さんとの結婚のために必死で勉強する。それをちゃんと続けていければ、柑奈にもわかってもらえるんじゃないかと思う。だから見ててくれ」
「そっか……」
柑奈は小さく息をついて空を見上げた。夜空を瞬く星を映しこんだ黒い瞳は、月夜の湖面のように光って見えた。
「だからもし応援してくれるなら、俺が本気なんだって心の底から納得できたそのときにしてくれるか?」
「うん。そういうことなら、まだしばらくは頑張っちゃおうかな」
こちらを向いて、くしゃっと笑う柑奈。笑顔で細められた目からは、どんな気持ちでその言葉を放ったのかを読み取ることはできなかった。
だけど、なぜかその表情に本気で少しドキッとさせられてしまった。柑奈相手にこんな気持ちを持ったのは、生まれて初めてだ。
……多分、俺の柑奈に対する見方も少し変わったんだろうな。
それくらい、この一週間ちょっとの間にいろいろなことがあった。
間違いラブレターをもらって、柑奈の気持ちに触れて、水野さんと一緒に昼ごはんを食べるようになって、水野さんの代わりに働いて、みんなで家で遊んで、遊園地に行って、柑奈にキスされて、水野さんのお父さんと戦って。
水野さんへの気持ちだって変わった。ただ恋がしたいという漠然とした気持ちから、水野さんその人への気持ちに。そして、晴れて友達未満から友達に昇格できた。
友達未満から友達というとなんでもないことのように聞こえるけど、水野さんが心を許す人の少なさを考えればすごい進展だ。恋人になることが優勝だとするなら、友達になるだけでもベストフォー進出くらいの快挙だ。
俺と水野さんの関係も、水野さんと柑奈の関係も、柑奈と俺の関係も、まだまだ恋人には程遠い。だけど今はそれでいい。そんなに急に恋人になれるはずがないんだから。少しずつ、少しずつ距離を縮めていけばいいんだ。
変わったのは二人との関係だけじゃない。俺自身の根本的な考え方も少しずつ変わり初めている。少しずつ、未来に目を向けられるようになってきた。
これがきっと、大人になるってことなんだろうな。
今はまだ未熟な何かの種。いや、まだ種すらまかれてないのかもしれない。
だけどいつかは大きな花を咲かせ、何かを実らせる。できるかはわからないけど、やらなきゃ何もできない。
俺のため、柑奈のため、そして水野さんのため。俺は必ず何者かになる。
そう夜空の星々に誓って、妹と家路を歩んだ。
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