第27話そうだ、未来のために戦うんだ。(後編)

 世界が暗闇に落ち、意識が淀みの底に沈んだ直後だった。

「……くん」

 遠くから微かに声が聞こえた。

 俺の大好きな声。その声をもっと聞きたい。そう思った途端、声が段々大きくなっていく。それに伴うようにして、景色も徐々に形を取り戻し始めた。

「……みくんっ……んみくん! ……辺見くんっ!!」

「あれ、水野さん……」

 視界の中心にある黒く滲んだ大きな塊が、水野さんの顔に変わった。気のせいか、その瞳は少し潤んでいるように見える。

「辺見くん? 大丈夫ですか?」

「ああ、うん」

 そう答え、なんとか体を起こそうとして頭部の鈍痛に顔をしかめる。

「う、動いたら駄目ですよ!」

 背中を浮かせた俺を水野さんが抱きかかえるようにして優しく押しとどめる。

 ……って、俺、今女装してないけど大丈夫なのか?

 そんな俺の心配をよそに水野さんはその姿勢のまま、正面で仁王立ちしているお父さんをキッとにらみつけた。

「いくら辺見くんがふざけた人だとしても、暴力に訴えるなんて最低です!」

 初めて聞く、水野さんの激しい怒声。

 それは多分、今この瞬間暴力を振るったお父さんだけじゃなくて、幼い日に暴力を振るっていたお父さんにも向けられているからこそなんだと思う。

 これは、あの日からこれまでの、すべての気持ちのこもった叫びなんだ。

「むう……」

 そんな水野さんを前にして、さすがのお父さんも動揺を隠せないようだった。眉間に濃いしわを寄せ、口を半開きにしたまま固まった。

 数秒の間続いた硬直から解けて、我に返ったお父さんが一つ咳払いをする。

「璃里花、お前、自分が何をしているかわかってるのか?」

「何って…………あ」

 あれだけ怖いと言っていた父親に真正面から啖呵を切ったことを理解して、声を上げる水野さん。そして、今度は自分の手元に目をやって。

「あ」

 普通に男の姿をした俺を、触れるどころか抱き上げている自分に気づいて再び同じような声を上げた。

 頬を赤らめ、慌てて手を引き抜こうとして踏みとどまる。頭を打たないように気遣ってくれたようだ。

 そっと俺の体を畳に横たえてから、改めて静かに手を引き抜く。

「ごめん、ありがとう」

「い、いえ……」

 だいぶ頭の痛みの和らいだ俺は、ゆっくりと体を起こす。一方でお父さんは難しい顔をして座布団に腰を落ち着けた。

 ――水野さんを結婚させたくない。だけど俺にはそれを食い止めるだけの能力がない。

 自分の無力さを思い知らされて初めて理解できたことが一つある。

 それは、不可能が目の前に立ちはだかったときとき、人に何ができるかということ。世の中の人たちが当然のように行ってきたこと。

 だけど、俺が考えようともしなかったこと。

 俺は、小さく息を吐きだしてからまっすぐ水野さんのお父さんを見つめた。

「お父さん」

「なんだ」

 呼びかけた俺を見つめる視線に、さきほどまでの鋭さはなかった。

「確かに俺には何もありません。勉強でもスポーツでも芸術でも、どの分野においても何一つ結果を残していません」

「それはもう聞いた」

 そう。俺はこれまで何もしてこなかった。目の前の楽しいことだけに取り組んで、何一つとして成し遂げずに生きてきた。何一つとして得ることなく生きてきた。

 それも一つの生き方だ。悪いことだとはまったく思わないし、何事もなければそのまま生きていくつもりだった。それでいいんだと思っていた。

 だけど今はもう、それじゃいけないんだ。

「それでも俺には――未来があります」

「なんだと?」

 今できないなら、これからできるようになればいい。今のことしか見ていなかった俺には、そんな当たり前のことすらもわかっていなかった。

 水野さんのお父さんに立ち向かうために、柑奈の問いに答えを出すために、俺は前を向かなくちゃいけない。「これから」を考えなくちゃいけないんだ。

「これから死に物狂いで勉強します。必ずお父さんに認めていただける存在になってみせます。進藤さんに追いつき、追い越してみせます。だからお願いです。時間をください。僕が今の進藤さんの年になるまでで構いません。どうか僕に、チャンスをください」

 畳に手をつき、深く頭を下げた。何かに対してこんなに真剣になったのは、柑奈をいじめっ子から救おうとしたとき以来だと思う。

「ふむ……」

 部屋にお父さんの呻くような声が響き、後には深い静寂だけが残る。俺は額を畳につけたまま、お父さんの返答を待った。

「社長、彼にかけてみてはいかがですか?」

 しかし聞こえてきたのはまったく予想外の声で、思わず勢い良く顔を上げてしまった。水野さんのお父さんも驚いたように進藤さんを見ている。

「悩んでいらっしゃるんですよね? 璃里花ちゃんの、辺見くんに対する心の開きようが想像をはるかに超えていて」

「君はなんでもお見通しか」

「僕は社長から色々とご相談をお受けしていますからね。社長が曲がりなりにも娘さんの幸せを願っておられること。結婚において本当に大事なのは経済的な豊かさではなく、愛情による精神的充足であると考えておられること。よく承知しております」

「曲がりなりとは手厳しい」

「これは失礼しました。しかし僕に預けようと考えられたのは、男性不信の克服をあきらめて経済的な安定を重視した結果の次善策だったわけですよね? それならばこうして実際に壁を乗り越えようとしている彼が現れた今、迷う必要はないと思いますが」

 つまり、娘の将来を心配して、将来有望な若者と結婚させようとしたということなのか? それなら確かに幸せを願ってるという言葉に偽りはないことになる。

 てっきり、一族に引き込んで次の社長に仕立てあげるために結婚を利用しようとしているのかと思っていた。

「だがこの小僧ではいくらなんでも将来が危うすぎはしまいか」

「彼はこれから頑張ると言っているではありませんか。駄目であったときのことはそのとき考えればいいのです。少なくとも、あまり性急に決める必要はないでしょう」

 進藤さんは柔和な笑みのまま、それこそ怒りわめく駄々っ子を諭すかのような優しい口ぶりで言った。

 そ、それよりなんでこの人は俺こっちの味方をしているんだ? 普通に考えたら俺は進藤さんのキャリアに立ちはだかる邪魔者以外の何物でもないのに。

 俺の素直な気持ちに心打たれたとか? いや、今どきそんなピュアな人がいるか?

 俺が困惑している間も考え込んでいたお父さんは、鼻から大きく息を吐いて目を閉じた。

「……当事者の君にそこまで言われては仕方がない。いいだろう。結婚の件はひとまず保留ということにする」

「ほ、本当ですか!?」

 思ってもみなかった展開に、つい大声を上げてしまう。どうなることかと思っていたら、まったく想定外の伏兵の助力のお陰でとんとん拍子にことが運んでしまった。

「ふん、せいぜい努力することだな」

 話は終わりだと言わんばかりに立ち上がって、見下すように言うお父さん。

「はい、頑張ります!」

 俺が力強く頷いてそう意気込むと、お父さんは黙ってその場を去っていく。進藤さんはなぜか俺に意味深な笑みを向けてから、お父さんに続いて部屋を出ていった。

「……ふう」

 これで終わったのか。なんだかまだ現実感がない。あと百発くらいは殴られる覚悟があったんだけどな。まあ体が持つかはおいといて。

 今眼の前で起きているのが俺の見ている幻でないことを確かめたくて、隣の水野さんの方を向く。水野さんも同じことを思っていたのか、呆然とした顔でこちらを見ていた。

 お互いにそうやって顔を見つめ合うこと数秒。急にわけもわからず笑いがこみ上げてきて、そのまま口から溢れだしてしまった。

「はっ、はは」

「ふふ」

 それにつられるようにして水野さんも微笑む。

 それでようやく大きな壁を乗り越えたという実感が生まれ、同時に大きな喜びが俺の胸をいっぱいに満たした。

「辺見くん、ありがとうございます」

 水野さんが目尻に喜びの涙を溜めながら言う。

「いや、俺なんて醜態晒しただけだし」

「でも、辺見くんが戦おうと言ってくれなければこうはなりませんでした」

 本当の意味で戦ったのは水野さんだし、とどめを刺したのは進藤さんだ。俺はきっかけを作ったにすぎない。

 でも水野さんが俺のために怒ってくれて、それが突破口になったと考えれば俺の存在もあながち無駄ではなかったと言えるかもしれない。

「何にしても、よかった」

「ええ、本当に」

 お父さんと進藤さんがいなくなった途端に、空気が柔らかく、温かくなった部屋の中、俺と水野さんはしばらくの間そうして達成感に浸っていた。

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