第26話そうだ、未来のために戦うんだ。(前編)

 濡れてしまった制服を着替えるために、一度家に戻ってから水野さんの家に向かった。今は化粧もウィッグもしていない。久しぶりに男子の制服に袖を通した。

 修羅場になる可能性も十分にあるので、柑奈には家に残ってもらった。

「ここが……」

 水野さんに連れて来られたのは、木造平屋の横に広い豪邸の前。近所でも有名だけど、この前は駅の近くとしか言ってなかったからここが水野さんの家だとはわからなかった。

「ええ、父がそれなりに大きな会社を経営していて……」

「みずの自動車なんでしょ? それなりに、ってレベルじゃないじゃん」

「知ってたんですか?」

「いや、さっき水野さんを探して聞き込みしたときに知った」

「そうでしたか。創業者の曽祖父以来、代々家長がこの家で生活することになっているんです。一昨年に祖父が亡くなって、私の高校進学に合わせて引っ越して来たんです」

 なるほどな。水野さんに出会わせてくれたという意味では、水野さんの家の事情というやつに感謝しないといけないな。

「よし、行くか……」

 覚悟を決めて、外塀の中央に位置する古めかしい木戸の脇に取り付けられたインターホンを鳴らした。少ししてから内側から木戸が開く。

 姿を現したのは和装をまとった大柄な中年男性。黒々とした髪の毛を後ろに撫で上げてしっかり固めている。テレビで何度も見たことがある姿だ。

 どうやら社長様直々のお出迎えらしい。家を出る前に、水野さん確保の旨を約束通り事前に電話で伝えておいたから、俺達が来るのを待っていたのだろう。

「……ふむ」

 水野さんに冷たい一瞥をくれてから、値踏みするように俺を眺めた。にらんでいるわけでもないのに、妙に威圧感がある。

「協力に感謝する」

 会釈、というより頷くように首を動かしていった。殿様が家臣を労うかのような構図。しかしそれが様になっている。

「感謝してくれてるなら、そのお礼として一つお願いを聞いてもらえませんかね」

「……それのことか」

 水野さんの方をあごでしゃくって聞き返してくる。

「ええ、そうですとも」

「ふん、家の事情をペラペラと話しおって。君には悪いが、その件についての口出しは一切無用だ。恩ある人間を邪険に扱いたくはない。その辺で退いてもらえるかな」

「素直に従うようなタマに見えますか」

「……ふっ、道理だ。確かに聞き分けのよい人間がこのわがまま娘の隣に立っているはずもあるまいな」

 口元だけ歪めて笑う。逆に眼光は肉食獣や猛禽類を思わせるほどに鋭くなった。

「中でじっくり話をさせてください」

「君のたった今の言葉をそのまま返そう。従うと思うか?」

「拒否なさるならご自由にどうぞ。そうなればこちらは、『水野社長、娘さんの家出の件でお話しさせてほしいのですが』と大声で呼びかけ続けるだけですから。一晩中でもね」

 おそらく警察に連絡しなかったのは、警察が動かないからというのも嘘ではないだろうけど、世間体を気にしていたせいもあるんだと思う。

 大きな会社の社長としては、余計な噂によるイメージダウンは避けたいはず。それに万が一ゴシップ狙いの週刊誌記者に嗅ぎつけられれば、その噂は全国規模になる。 

 電車の中吊り広告とかに「みずの自動車社長、愛娘との確執」なんて見出しがに踊るかもしれない。

「生意気な小僧だ。いいだろう。話だけなら聞いてやる。中に入れ」

 くるりと背を向けたお父さんに続いて、俺と水野さんは豪邸の中へと入っていく。

木戸をくぐって塀の内側に入ると、そこには広大な庭が広がっていた。石畳をわたって家屋までやってくる。

 俺達が通されたのは、だだっ広い畳の部屋だった。俺と柑奈の部屋を足してもまだ足りないくらいだ。い草の香りで不思議と気分が引き締まる。部屋の中央部には座布団が六つ、三つずつ二列になって並んでいた。

 そしてそのうちの一つの上には、見知った人間が行儀よく正座していた。

「進藤さん?」

 俺は思わず声を上げていた。まさかここにいるとは思わなかった。

「む、その声は! 昨日の辺見くんですね?」

「え、ええ、そうです。どうしてここに?」

「お見合いをしに来たんですけど、お相手に逃げられちゃいましてね。お帰りを待っていた次第です。いやはや、すべては僕の不徳のいたすところですよ」

 なるほど、両親立ち会いのもとでお見合いということで六つの座布団なんだな。多分お見合いが中止になって進藤さんの両親は帰ったのだろう。それか初めから来なかったか。

「進藤くんはお前を心配して待っていてくれたのだぞ。きちんと謝らんか」

「……すみません」

 お父さんに促され、というか脅されて水野さんが謝る。

「いえ、お気になさらず。それより辺見くんこそどうしてこちらに?」

「見合いの件を知って殴りこみに来おったのだ。しかも中に入れなければ醜聞を広めると脅迫までしてくる始末。進藤くんはこの小僧を知っているのかね?」

「ええ、昨日彼が璃里花ちゃんと一緒にいるところにばったり出くわしまして」

「そうか」

 お父さんは苦々しげに顔をしかめたまま、進藤さんの隣の座布団に座った。

「話をするのだろう? さっさと座らんか」

 お言葉に甘えてお父さんの正面にどっかりとあぐらをかく。水野さんも俺の隣に腰を下ろした。俺の右斜め前に進藤さん、左隣に水野さんという配置だ。

「簡潔に用件を言え」

 と、簡潔に要求してくるお父さん。俺は頷いて、大きく息を吸った。

「璃里花さんと進藤さんの結婚の話を白紙にしてください」

「そうだろうな。理由を言ってみろ」

 ……理由か。水野さんが可哀想。娘の人生を支配しようとするお父さんが許せない。そんな義憤にかられてここまでやってきた。

 だけど改めてなぜかと問われてみて、一番最初に湧き上がってきた気持ちはそんな他人事ではなかった。

「俺が、璃里花さんと結婚したいからです」

「えええっ!?」

 よどみなく言うと、隣から素っ頓狂な声が飛んできた。

 ……あ、よく考えたら今のってどっからどうみても正真正銘のプロポーズだな。まったく嘘偽りない気持ちだから別にいいんだけど。来るべきときが来たらまた改めてしよう。

 あっけにとられていた水野さんはお父さんの視線に気づき、大声を上げたことを恥じるように口を抑えて佇まいを正した。

 お父さんは何も言わずに視線を俺に戻し、にやりと口元をつり上げた。

「時代遅れな思想を押し付けるなとかいうお節介な正論をぶってきたら、貴様に口を出す権利はないと一蹴して追い出すつもりでいたのだが。面白い。この私の前でそういうからには自分が璃里花の伴侶にふさわしいという自信があるのだろうな」

「ええ、璃里花さんへの気持ちなら誰にも負けません」

 お父さんが鼻で笑って腕を組む。

「世の中は気持ちだけでどうにかなるほど甘くない。肝心なのは能力よ」

 うっ、痛いところをついてくるな。いや、当たり前なんだけどさ。

「そうだな。学力がすべてとは思わんが、試しに直近の模試の結果を言ってみろ」

「ええと、その……な、七十二?」

 お父さんから目をそらして呟くように答える。

「七十二? なかなかの高偏差値ではないか。もちろん全国模試だろうな?」

「ま、まあ全国模試ではあるんですが……七十二というのは受験した三教科の中で一番高得点だった国語の点数でして。二百点満点中の」

 偏差値でいうと四十代だからな。なんかごまかそうとしてみたけど、やっぱり良心の呵責に耐えかねて正直に吐いてしまった。

 お父さんが額に手をやって目を伏せる。

「……まあ人の才能を計る尺度は学業に限らんからな。部活動ではどのような成績を残しているのか聞かせてもらおう」

 おお、それなら自信があるぞ。

「ベストタイムは四分一六秒です!」

「四分……というと陸上の千五百メートルか? 実は私も学生時代は中距離のランナーでな。確か先日の選手権の優勝者が三分代後半だったか。全国大会には出場したのかね?」

「いえ、学校から自宅までを全力疾走してかかった時間です。帰宅部ですから!」

 一瞬相好を崩しかけたお父さんが、額に当てていた手を拳に変えてプルプルと震わせながら下ろす。あらわになった額には太い血管が浮き出ていた。

 あれ? 駄目? やっぱり大会とかがないと駄目なのか。

「一応聞くが、部活動以外の何かに打ち込んで結果を出したりは?」

 どうしよう。ここで何か言わないとどう考えても終わる。なんでもいい。私生活の中でお父さんを感心させられるような、驚かせられるようなことはなかったか……。

「漫画を一日で百冊読破した、とか……?」

「私を馬鹿にしておるのかあっ!!」

 大喝一声。お父さんが立ち上がり、俺の視界の左端で何かが美しい弧を描いた。

 次の瞬間、頬にすさまじい衝撃を食らうと同時に俺は後方へ吹き飛んでいた。

 ドンッと後頭部を畳に強く打ち付けた瞬間、世界がぐにゃぐにゃと波打って無数の星が現れる。

 口の中に血の味が広がっている。しかしそれ以外は何もわからない。目の前の景色が次第に薄くなっていく。

 まもなく血の味も薄れ始め、ついに俺の視界は暗闇に閉ざされた。

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