第25話そうだ、話を聞こう。

 水野さんは、俺の腰くらいの高さがある筒状の遊具の中で膝を抱えて座っていた。制服姿でまったくの手ぶら。うつろな瞳を下に向けて唇を噛んでいる。

 普段はあんなにきれいな髪も、ほつれてはねてしまっていた。

 遊具の縁に寄りかかっていた柑奈が、俺の姿を見て目をぱちくりさせた。

「な、なんでそんなに濡れてるの? 大丈夫?」

「ああ、ごめん。制服濡らしちゃったな。水野さん探して池に飛び込んだんだよ」

「水野さんはいつから水棲生物になったの……?」

 確かに前後をきちんと説明しないと俺の頭がとち狂ったみたいだな。もともとかもしれないけど。ダッチワイフ騒動についてはあとでゆっくり話してやるとしよう。

「とりあえず、水野さんが無事でよかったよ」

「すみません、ご心配おかけして」

 声は弱々しいけど、具合が悪いということはなさそうだ。

「朝から何も食べてないんだって」

 俺を待っている間に少し話をしたのか、柑奈が水野さんの状態を教えてくれる。

「そうだろうと思って、これ」

 俺は右手に提げたビニール袋を掲げてみせる。道中で通りかかったコンビニで、あんパン一つと飲み物三つを買っておいたのだ。

「あんパン苦手だったら別の買ってくるけど」

「いえ、大丈夫です。むしろ好物です」

「よかった。それじゃあ、はい。飲み物も好きなの選んでいいよ」

「すみません。ありがとうございます」

 水野さんはうずくまったままあんパンと緑茶を手に取り、小さく頭を下げた。

「ほら、柑奈も。水野さん見つけたご褒美ってことで」

「やった。じゃあカフェオレで」

 柑奈にカフェオレを渡し、俺は最後に残ったオレンジジュースにストローをさした。

 水野さんは早速あんパンを食べ始める。脇目も振らず無心で頬張り続け、あっという間に平らげてしまった。一日何も食べなかったら誰だってそうなるよな。

 ゴクゴクとお茶を飲み、小さく息をついた水野さんの顔には少し生気が戻っていた。

 しばしの間、それぞれが飲み物を飲む音だけが響く、静かな時間が流れる。

 その沈黙を最初に破ったのは、水野さんだった。

「どうして、私が家を飛び出したことを?」

「お父さんから電話があったんだよ」

「そう、ですか……」

 呟いてなんとも複雑な表情を浮かべる。苦々しさ、悲しさ、申し訳なさ。そんな、いろいろな負の感情を見て取ることができた。

「どういう事情か、聞いてもいいのかな?」

「こんなご迷惑をおかけしてしまいましたし、話さないわけには行きませんよね」

 自虐的に笑って、気分を落ち着かせるように緑茶を飲む。しばらくどう切り出すか迷うような素振りを見せてから、おもむろに口を開いた。

「昨日、進藤さんに会いましたよね」

「え? うん、あのいけ好かない感じのやつね」

「はい。父は、彼と私を結婚させようとしてるんです」

 ああ、なるほど。結婚か……。

「――って、結婚!?」

 衝撃のあまり、言葉の意味を理解するのに少し時間がかかってしまった。

 結婚? 結婚って、普通に結婚だよな? 婚姻届を出して、指輪の交換をして、一緒にケーキぶった切って、一緒に暮らして……っていう。血痕……なわけないし、ケツコンプレックスの略でもないよな。

「そうです。男性恐怖症の私は放っておいたらいつまで経っても結婚できないだろうからと、お気に入りの進藤さんをあてがおうとしているんです」

「……え、その、水野さんはするつもりなの?」

 恐々としながら尋ねると、水野さんは俺をにらんで勢い良く首を横に振った。

「そんなわけないでしょう。昨日も言いましたけど、私は進藤さんが大の苦手です。進藤さんと結婚するくらいならまだ辺見くん――」

 そこまで言って慌てたように口をつぐむ水野さん。

「俺がどうしたの?」

「い、今のは忘れてください」

 視線を斜め下にやってぼそっと言う。

 もしかして、進藤さんとするくらいなら俺と結婚する方がまだましって言ってくれようとしたのか? 

 まだましって程度だとしても、どっちもあり得ないって言われなかっただけで大感激だ。こんなときじゃなかったら諸手を上げて大喜びするのに。

「とにかく、進藤さんと結婚なんてしたくありません。だからこうしてここにいるんじゃないですか」

「ああ、そういうことか。つまり、勝手な縁談への抗議の家出ってことね」

 自分が気に入っているからといって、娘の気持ちを無視して嫁がせるなんてとんでもないことだ。進藤さんの方としては、経営者一族の仲間入りができる上に十歳くらい年の離れた美少女を嫁にもらえるというのだから嫌がるはずもない。

「そうなりますね。今日は正式にお見合いをすることになっていたんです」

「お見合い? お見合いねえ……」

 親が娘の結婚相手を決めるだとか、お見合いだとか、とっくに絶滅した風習だと思っていた。俺が内心で辟易していると、柑奈が何かをひらめいたように手を打った。

「あっ、この前フォトスタジオから出てきたのって……」

「ええ、お見合い写真を撮らされていたんです。とっくに顔見知りだというのに、両親は形式張ったことが大好きなものですから」

 もうここまで来ると馴染みがなさすぎて異世界の話って感じがしてくる。

「それで今朝、お見合いなんて嫌だと父に言ったんですが……」

 憎々しげに言ってため息をつく。

「私の男性恐怖症は父が相手でも変わりません。というより、むしろ父のせいでそうなったんじゃないかと私は思っています」

「お父さんのせい?」

「私がまだ小学校三年生だった頃なんですが、夜中に目を覚ましたとき、父が激しく暴力を振るいながら母を叱責しているのを見てしまったんです。私自身は体罰を受けたこともありませんし、後にも先にも父が暴力を振るう姿は見ていないんですが、あまりにも恐ろしい光景だったので今でも夢に見るくらいよく覚えています」

「それがきっかけかもしれないってこと?」

「はい。ただでさえ厳しくて、子供の頃は常に恐怖の対象でしたから。笑ったところなんてまったく見た覚えがありません。漫画も、ゲームも、父が低俗と決めつけたものはすべて禁止。だから遊園地にも行ったことがなかったんです」

 そういうことだったのか。でも電話で話しただけではあるけど、確かにそういうことを言い出しそうな感じのする人だった。

 水野さんは自嘲するように笑ってから続ける。

「でも、今回は勇気を振り絞ってそんな父になんとか反抗してみたんです。しかし聞き入れてもらえないどころか逆にお説教が始まってしまって。そうなってからは萎縮するばかりで何も言えなくなってしまいました。それが腹立たしいやら情けないやらでたまらなくなって、家を飛び出してきたんです」

 説明を終えた水野さんは、抱えた膝に顔をうずめた。いつもはキラキラと輝いて見える背中が、さみしげに小さく見えた。

 ……こんなのやりきれない。

 水野さんの人生は初めから今まで、ずっとお父さんに振り回されているってことじゃないか。お父さんが原因で男性不信に陥り、その男性不信のせいで望まない結婚をお父さんに強いられる。こんな理不尽、絶対に認めるわけにはいかない。

「これからどうするか、何か考えってある?」

「……いえ、まったく何も考えていないです」

 下を向いたまま首を振る水野さん。

 多分、ラプレミディの店長さんが力になってあげてほしいと言ってたのも、これのことだろう。家のことって言ってたし。

 ――やっぱり言われるまでもありませんよ、店長さん。

「それなら決まりだ。お父さんと戦いに行こう」

 俺が言うと水野さんは弾かれたように顔を上げ、信じられないことを聞いたというような表情で俺を見た。

「た、戦う? そんなの無理ですよ。今言ったばかりじゃないですか。父の前に立つと体が強張ってしまって駄目なんです」

 水野さんが大きくかぶりを振る。言葉に滲むあきらめや絶望の色に、俺は思わず爪が手のひらに食い込むほど拳を握りしめた。

 冗談じゃない。水野さんにこんな顔をさせるやつを、放っておいていいわけがあるか。

「それなら俺が戦う。歯がたたないかもしれない。瞬殺かもしれない。でも不戦敗するよりはよっぽどいい。抵抗しないと、噛み付くだけ噛み付いて傷跡を残してやらないと、お父さんに自分の横暴を自覚させることすらできないんだから」

 鋭く言い放った俺を、水野さんがポカンと口を開けて見つめる。

「話を聞いて怒り狂った俺が水野さんの制止を振り切って乗り込んだ、っていう体にすれば水野さんが余計に怒られることはないだろ? さあ、行こうぜ」

 遊具の中で丸くなっている水野さんに手を差し出す。この前お化け屋敷の中で水野さんがそうしてくれたように。俺も、水野さんを暗闇の外へ導いてあげたい。

 強く、強くそう思う。

「おかしな人ですね、本当に」

 水野さんはくすりと笑ってそう言い、そんな俺の手を取ってくれた。

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