第10話 茜
夏休み最後の日、練習を終えた諏訪清涼のヨット部員達は、白い羽のような帆をはためかせながら、次々と湖畔の港へ戻っていった。夏のレース記録会も無事終了し、恒例の部員そろっての湖上での花火大会見物も済ませて、これで部活動もほぼ終わりだな、と守矢一彰は、係留ブイを引き寄せながら考えた。三年生は、これで部を引退し、本格的に受験勉強に取り掛からなければならない。振り返って考えるに、まあまあ有意義な高校での部活動が出来たと思う一方、これから当分、船に乗る機会がなくなるだろうと考えると少し、名残惜しい気もした。
汗を拭いながら、岸をに上がると、一彰は目を細めて、傾きかけた太陽が、茜色の光を放って、湖面に輝く一筋の道を描き、地平線の上に浮かぶ真綿のような雲を薄黄色から薔薇色へ、更に金色へと染め上げている様を眺めた。彼は、この湖の景色を日頃からこよなく好んでいたが、この時刻の風景をいつも一番美しいと感じていた。
その時、前方に泊まった疾風号から、一年生の藤森綾乃が、ひらりと身軽に岸に飛び移って、そのまま彼と同じように湖面を見渡しているのか、じっとその場に立ち尽くしていた。一彰は、なんということもなしに、彼女の薄手のパーカーの上から救命具を着けたその後姿を見るともなしに見ていたが、ふと彼女が振り返った途端、違和感を覚えた。それは、藤森綾乃ではなかった。誰だか知らない、見知らぬ少女の顔だった。真横から射す茜色の夕日が、彼女の透き通るように白い肌を照らし、俯いた拍子に睫が濃い影を頬に落としていた。こんな女子部員が居ただろうか、と一彰が戸惑っているうちに、まるで光の加減か何かが変わるように、それは、いつもの綾乃の顔に戻った。二年生の女子の誰かが、彼女の名前を呼び、綾乃は、顔を上向けると、
「はい、こっちにあります。今、持ってきます。」
とてきぱきと叫んで、駆けて行った。
一彰は、その場に根が生えたように、立ち尽くしていた。しかし、やがて内心の驚きが静まると、自分が何か見間違いをしたのだろう、と強いて我が身に言い聞かせた。おそらくは、光線か何かのちょっとした具合が、自分の目に何かそんな錯覚を起こさせたに違いなかった。
それっきり、彼は、その出来事を忘れてしまっていた。二学期に入ると、いよいよ具体的な志望校も決めなくてはならない。行きたい大学ではなく、行けそうな大学を考えるようになった。現実的になる時が来たのだ。部活に顔を出すこともなくなった。そもそも、ヨット部の主な活動時期は夏である。九月十月までは、それでもまだ訓練のために湖上へ出るが、十一月に入ると「自主トレ期間」と称される、各自の基礎体力作りが主になる。そのため、ヨット部は他の部と兼部している部員も多い。一彰自身、陸上部で長距離走もやっていた。タイムはそれほど出るわけではなかったが、持久力をつけるのには悪くないと本人は考えていた。それに、彼は諏訪湖畔の道路を黙々と走ることが楽しかった。けれど、それも去年までの話だった。今年は、そのかわりに黙々と英単語や、古典文法の活用を憂鬱な気分で暗記するのに、もっぱら時間を費やした。
それでも、昼食時だけは、引退後も一彰は、相変わらずヨット部の部室へ弁当を持参してみんなと食べた。他の三年生達も同様だった。その時間は、いい息抜きになったし、入学以来続けてきた習慣であり、卒業するまで続くのだ。藤森綾乃は、特に変わった様子もなかった。あいかわらず、いつもニコニコしてはいるが、控え目で大人しいから、三年の男子とは特に用でもない限り、それ程、話さないし、ましてや個人的な話しなどするはずもなかった。綾乃も昼食時には、部室に来ていたが、大抵、他の一年生の女子達と一緒に談笑しながら食べていた。
十月末のその日も、いつもと同じような昼休みだった。弁当を部室に持ち寄り、ヨット部員達は、それぞれ好き勝手に食べたり、喋ったりしながら時間を過ごしていた。一彰は、一応、気休めのために、申し訳のように日本史の年表を開きながら、弁当を食っていた。ここのところ、いまひとつ成績は伸び悩んでいた。日本史は、センターでは七割、欲を言えば八割欲しいところであるが、実際に過去問をやってみると七割も危うい。どうも、年代と人物名が特に弱い気がする。しかし、日本史には、藤原氏が多すぎるし、室町時代の将軍の将軍らは、名前が似すぎていてややこしいことこの上ない・・・などと、やや暗澹たる気持ちになっていると、
「先輩、日本史っすか?」
と机の向かい側に座りながら、声を掛けてきたのは、現部長の二年生だった。
「うん。さっきの授業、日本史だったんだ。」
「森田先生っすか?」
「いいや、吉川。」
「ああ、あの先生の授業、面白いらしいっすね。」
「うん、雑談が結構ね。歴史の逸話とか、そういうこと脱線してよく話してくれるから。でも、内容が些細なこと過ぎて、あんまり入試には役立たない気が。」
現部長は、アハハとお気楽そうに笑った。この時期の二年生は、入試が近づきつつある受験生の焦りと落ち着かなさを、まだまだ自分達には関係のない出来事として捉えているのだ。来年の今頃になったら、そう暢気にもしていられないぞ、とやや忌々しく思ったその時だった。不意に、部室の壁際に座っている女子の一人に、吸い寄せられるように目が行った。
彼女は、艶々とした黒髪をはらりとおかっぱにし、窓の外を見やるかのように、視線を空の方へとじっと注いでいた。その日は、天高く秋晴れの抜けるように青い空であった。それから、彼女は、何かに気付いたか視線を巡らせ、真っ直ぐに一彰を見た。二人の目が会うと、彼女は、唇の端を吊り上げ、微かに、しかし艶やかに笑った。まるで、彼の驚きも何もかもを見透かしているかのように。
この子は、誰だ?
一彰は、動揺しながら不審に思った。女子部員の友達が、遊びにでも来ているのだろうか? しかし、どこかで見覚えがあるような気もした。彼は、魅入られたかのように彼女の顔から目を離すことが出来なかった。そして、思い出した。夏休みの最後の練習の日、ヨットハーバーで見間違えたのは、確か・・・。
「おい。」
声を潜めて、彼は向かいに座った現部長に囁いた。
「あそこの女子、誰だ?」
現部長は、一彰の視線の先を追い、それから、なんだというような拍子抜けした声で、
「誰って、藤森じゃないっすか。ほら、疾風号に乗ってる一年の。」
と答えた。あからさまに怪訝そうな表情をしている。
「・・・・・。」
息が止まるような思いで、一彰は黙り込んだ。
「やだなぁ、先輩。もう後輩の顔、忘れちゃいましたか?」
いや、違う。忘れたのではない。顔が、違うのだ。あれは、藤森綾乃ではない・・・と思った時には、もう既に向こうに座っていたのは、いつもの綾乃だった。記憶にある通りの彼女が、隣に座った女子の話を、熱心に相槌を打ちながら耳を傾けている。
「あ、なんか、ちょっと・・・その、勘違いして。ただの見間違いだった。」
やっとのことで、そう言い訳するのが精一杯だった。しかし、決してそれは見間違いなどではないと、心の中の本能が、するどく彼に警告を発していた。あのヨットハーバーで見た時と、同じことが起こったのだ。藤森綾乃の顔が、一瞬、別人に変わったのだ。いや、一瞬どころではない。さっき、確かに相手も、一彰の視線に気付いていた。一彰が、見破っていたことを見抜いていたに違いなかった。だが、今はもう元の藤森綾乃に戻っている。どういうことなのだ?
脈絡なく、一彰の脳裏に、昼前の日本史の授業で、吉川先生が話していた内容が浮かんできた。どういう話の流れであったか、治承・寿永の乱に話が脱線し、そこから語った逸話というのが、源氏と平家、どちらに味方すべきか迷っていた諏訪氏の大祝が、梶の葉の軍配を祭神が白旗へ向かって振り下ろすのを夢で見たことから、それを神意と解して源氏方へ味方したというものだった。以来、諏訪氏は梶の葉を家紋としたという。
「それを神意と解して・・・。」
先生のその言葉が、鐘のように耳元で繰り返し鳴り響いた。梶の葉、綾乃、神意、という言葉が、頭の中で矢継ぎ早に繋がって、彼は自分でも何かよくわからぬままにぞっとした。梶の葉は、諏訪清涼高校の校章であるが、同時に諏訪大社の紋でもあった。藤森綾乃が運んだのは、確かに諏訪清涼の校章であったが、同時に浮島神社に参拝の後、送り出されたものでもあった。何より、彼女は、神の御籤を引き当てたのだ。それは、やはり、神意なのではなかろうか。
彼は、そそくさと席を立ちあがり、あっけにとられている二年生の現部長を無視して、窓際の一年生女子達が寄り集まっている方へとおもむろに近づいた。
「あ、あのさ、藤森。」
彼が声を掛けると、綾乃の周りの女子達の視線も一緒に、一斉に彼へと向けられた。それに、やや辟易しながら、
「ちょっと、話があってさ、いいかな?」
と、部室の扉の方を示すと、彼女は一瞬、怪訝そうな表情を浮かべたが、それでも、素直に立ち上がると、彼の後について、部室の外へ出た。
「えっと、最近、どうかな?」
彼が唐突に尋ねると、彼女は困ったように首をかしげた。質問が、漠然としすぎていたらしい。
「その、つまりね、最近、身の回りに何か起こったりしてない?」
「何か、って・・・。」
曖昧に彼女は、口ごもった。
「こう・・・何か、例えば、普通じゃないようなこと、とか。」
顔が変わったり、違う人間に入れ替わったりしてない?とはさすがに面と向かって本人に言えず、最大限、婉曲的な表現を使った。
「別に、起こってないと思いますけど。」
藤森綾乃は、やんわりと否定しつつ、しかし、何か気になるという様子で言葉を続けた。
「でも、どうして、先輩、そんなこと聞くんですか?」
当然の質問であった。けれど、一彰は、それに正面切って率直に答えるだけの決心がつかなかった。
「それは、そのう、あの籤を引いた後、夏に起こった不思議なことを、藤森は前に話してくれたけど、でも、それで、本当に終わったのか、気になって。もうすっかり、済んだのならいいけど、そういうのってよくわからないだろ? 物事が、終わったのかどうかなんて。まだ、続きがあるかもしれない。だから、身の回りによく気をつけたほうがいいよ。まあ、念のためにだけど。」
話しながら、我ながら歯切れの悪い、奥歯に物の挟まったような物言いだと感じた。藤森綾乃も、同様に思ったらしく、彼女は、静かに彼を見上げた。
「先輩は、まだ終わってないと思いますか?」
「俺には・・・俺には、よくわからない。でも、もしかしたら・・・終わっていないかもしれない。それに、籤は神意だから。」
「シンイ?」
「神様の意思、の神意。今日、日本史で吉川が、そんなような話をしてさ。諏訪の祭神の軍配の話。その軍配って、梶の葉だったんだって・・・うん、まあ、それはどうでもいいんだけど・・・。」
「・・・そうですか。」
綾乃は目を伏せ、何か深く考え込んだように、けれど、ただ短くそう言った。そこに一彰は、彼女の何の感情も読み取ることが出来なかった。
「とにかくさ、ちょっと気をつけてて。で、もし、何かあったら、すぐに教えてよ。」
そう伝えるのが、さしあたって、今の彼に出来る精一杯であった。
それきり、彼は、昼食時に部室を訪れるのをやめてしまった。弁当は、自分の教室で、級友達と食べた。食べながら、互いに苦手教科の問題を出し合ったりした。やはり、三年は三年同士、受験生らしく過ごした方がいい、部室に行くと、どうも気分がだらけてしまって、緊張感が失われる・・・というのは、言い訳で、心の奥底では、本当の理由がよくわかっていた。
彼は、藤森綾乃にまた会うことを恐れていたのだ。
だから、断固として、もう部室には行かず、下級生達に会いそうな場所へも行かなかった。ただ、その癖、教室移動や登下校時に大勢の清涼生らが行き来する中に、彼女の面影を探している自分に気付いて愕然とすることが何度かあった。そして、そんな時に彼が求めていたのは、藤森綾乃のそれではなく、あの僅かな瞬間に、ふと垣間見た、見知らぬ少女の面影なのだった。いつのまにか、その謎めいた少女は、彼の胸のうちに深く巣食い、棲み付いていたのだった。
十二月の二十三日は休日だったが、守矢一彰は、登校して自習室で終日過ごした。塾には通っていなかったし、家の自室では、どうしてもだらけてしまうので、休日もなるべく、朝から登校することにしていた。自習室には、彼同様に切羽詰った受験生達が、結構、大勢居て、ひきつった顔で問題集に向かっていた。センター入試まで、もう一ヶ月を切っていた。青息吐息である。
夕方、下校時刻になると、生徒達は、学校から追い出され、一彰も帰宅のため、上諏訪駅まで歩いた。改札を過ぎて、駅構内に入ると、ちょうど松本からの上り列車が到着したところで、下車した人々が、ぞろぞろとプラットフォームを歩いていた。その人々の群れに、何気なく目を向けた途端、彼の動悸が高まった。
彼女だ。
薄茶色の皮のコートを羽織り、それによく似合う、バックスキンのショートブーツ、白い毛糸の帽子を目深に被ったその顔は、一彰が秋以来、心の中でその面影を追い求めつつ、同時に恐れてもいた、あの少女の玲瓏なそれだった。やさしげで、懐かしく、穏やかな藤森綾乃の風貌は、そこにはもはや微塵も残ってはいなかった。
「あ、先輩!」
一彰を目敏く見つけると、彼女は嬉しげにそう声を掛け、足を止めた。
「よお。」
ぎこちなく答えて、彼はまじまじと彼女を見詰めた。相手は、臆する風もなく、平然と微笑み返す。
「学校ですか?」
「うん、自習室。おまえは、出掛けてたの? 家こっちだっけ?」
「ええ。松本に行ってたんです。友達のところで、クリスマス会があって。」
成る程、快活にそう言う彼女が手に提げている紙袋からは、サンタクロースの絵を描いた紙で、綺麗に包装された四角な箱が覗いている。しかし、一彰は、松本という言葉に引っかかった。そういえば、一時期、藤森綾乃が松本深志生と付き合っているという噂が流れたことがあった。噂の出所は、明らかで、夏に彼女を練習場の湖まで訪ねて来た音和生の男子が居たことから、部員達が面白がって尾ひれがついたのだった。その音和生との関わりについては、後に、綾乃は全て当時部長であった一彰に報告してくれたので、彼が諏訪までやって来た理由も、よく知っていた。そもそも、綾乃が松本の音和高校と関わるきっかけを作ったのは、自分なのだ。彼が配った籤を彼女が引き当て、それを受けて、彼女を連れて浮島神社へ参拝し、梶の葉の校章を、蜻蛉祭の最中の松本音和高校へ運ぶよう命じたのも、自分だ。しかし、それが、結果として何をもたらすことになるのか、その時の彼は深く考えていなかった。
そして、今になって、その後、藤森綾乃とその音和生との関係が、結局、どういうことになっているのか、急に気になりだした。音和生の彼氏が居る、という噂を綾乃は、笑って受け流していたようだった。それを、やんわりとした否定だと一彰は解釈していたが、今日、松本でクリスマス会をしたという友達は、その音和生なのだろうかと、彼は気を回した。けれど、真正面から聞くわけにもいかない。一彰は、一度だけヨットハーバーで見掛けた音和の男子生徒の姿を思い出そうとしたが、男にしては線の細い、華奢な背格好の印象しか覚えていない。
「先輩って、うち、どこなんですか?」
一彰がそんなことをつらつら考えているに、彼女は何気なさそうに、尋ねてきた。
「え、俺? 茅野だけど。」
「あ、だったら、初詣は、前宮ですか?」
「いや、うちはいつも本宮の方へ行くかな。でも、今年は、さすがにもうそれどころじゃ・・・行かないんじゃないかな。」
口を濁す彼に、
「今年だからこそ行かなきゃ、ですよ。」
なぜかここぞとばかり彼女は、強い口調で主張した。。
「だって、合格祈願しないと。ね、一緒に、行きませんか?」
「えっ!?」
「駄目ですか?」
「い、いや、駄目じゃないけど・・・。」
自分でもまだよく合点がいかないうちに、気が付くと、一彰は、正月に彼女と待ち合わせの場所と時間を決めて、初詣に行く約束をしていた。
「そうだ、これ、あげます。」
別れ際に、彼女は、紙袋からプレゼントの包みを引っ張り出すと、一彰の手に押し付けた。
「な、なんで?」
「ちょっと早いけど、クリスマスプレゼントです。あと、受験の応援。」
「い、いや、でも、悪いよ。おまえが、貰ったのに・・・。」
「みんなでプレゼント交換して当てたやつだから、中身が何かはわからないけど。」
ああ、あいつと二人っきりで会ったわけじゃないんだ、とちょっとホッとした隙に、気が付くとサンタの包装紙のプレゼントを受け取っていた。
「それじゃあ、先輩、また。」
という言葉を残して、軽やかな足取りで、改札を抜けてゆく彼女の後姿を見送っているうちに、アナウンスが彼の乗る列車の到着を報せて、一彰は慌てて歩き出した。
正月、一彰は、約束通り茅野駅の改札前で、彼女を待っていた。
改札口を、電車から降りてきた人々の群れが、ぞろぞろと通り過ぎる中に、着物姿の女の子が居て、目の前に立っていた。矢絣の羽織に、薄紫の小紋、小豆色の帯を胸高に結び、艶々とした黒髪に飾り紐で作った花を挿して、自分を見上げている姿に、一彰の心は震えた。その時の何とも言い表しようのない気持ちを、彼はどう受け取ってよいのかわからなかった。以前の藤森綾乃に対し、一彰は単なる部活の後輩として以上の感情は、何ら持ち合わせてはいなかった。しかし、今の彼女は、やはり綾乃ではなく、その存在が、どうしようもなく彼の心の琴線を震わせることを今更ながら自覚して、彼は深く慄(おのの)いた。けれど、真摯に思い返せば、あの夏の終わり、ヨットハーバーで夕暮れの茜色を照らして輝く湖面を眺めていた彼女の顔を一目見た時から、どうしようもなく自分は心を奪われていたのだ。ただ、今までそのことに気が付かなかったのに過ぎないのだ。
彼女は、彼の前で、丁寧に頭を下げた。
「明けましておめでとうございます。」
「あっ、ああ。おめでとう。」
もごもごと一彰は、呟いた。「着物、着てきたんだ。」
彼女は、雪の間に顔を覗かせた紅梅のように、にこりと笑った。
「折角、お正月だからって、お母さんが、着せてくれたんです。」
「そっか・・・。えっと、じゃ、行こっか。」
「はい。」
諏訪大社には、下諏訪の秋宮と春宮、茅野の本宮と前宮の四つの社があるが、二人がバスに乗って向かったのは、諏訪大社の前宮である。
素木造りの簡素な社は、古めかしく、神さびていた。普段は、どちらかといえば静かな、物寂しげな、どうかすると人々から忘れ去られたような風情の神社であるが、さすがに今日は、参詣の人がそれなりに訪れている。雪は、参道からは、綺麗に払われていたが、所々、黒々とした周囲の剥きだしの土の上には、残っていた。元旦も、よく冷えた。昼を過ぎた今も、まだ氷点下の冴え冴えとした空気が頬を撫ぜ、吐く息を、白くした。
神前で、彼女は、拍手を打つと、恭しく手を合わせ、長く拝んでいた。
「あんなに長いこと、何をお願いしてたの?」
再び歩き出してから、一彰は気になって尋ねてみた。
「そんなの、先輩の合格祈願に決まってるじゃないですか。」
当然でしょ、とでも言いたげに、彼女は答えた。そんなことをきっぱり断言されると、一彰は、ますます妙な気持ちになった。これじゃあ、まるで、この子は、自分のことが好きみたいじゃないか。いやいや、待て待て、自惚れるのも、いい加減にしろ、と慌てて一彰は、自分の妄念を打ち消した。
「そうだ、これ。」
勢いよく手を突っ込んだスタジアムジャンパーのポケットから、彼は一掴みのキャンディーを引っ張り出した。赤や紫や緑色のキラキラした包装紙にくるまれているそれを、一彰は、彼女に向かって差し出した。
「これは?」
差し出された手のひらから、赤い包み紙のをひとつ、指先でつまんで取りながら、彼女は、不審そうに、怪訝そうに、首を傾げた。
「ほら、おまえがくれたクリスマスプレゼント。あれの中身だよ。これが入ってたんだ。キャラメルとか、チョコレート味の飴だった。」
「そんなの、わざわざ気にしなくてよかったのに。」
色鮮やかな包み紙を剥く指先の桜色の爪が、精巧な作り物じみて見えた。彼女はつまんだ飴を口の中に放りこんだ。白い歯の間から、赤い舌が、ちらりと覗いた。
「いや、まあ、折角だから。もともと、おまえが貰ったものだし。」
言いながら、一彰は魅せられたように、彼女の口元から目が離せない。
「そういえば、あのクリスマス会でも、一人だけ、先輩みたいに私のこと、気付いてる子が居たな。」
まるでどうでもよいことのように、無造作に彼女は言ってのけたが、一彰は心臓が止まるほど驚いた。自分が、彼女の顔の変化に気づいていることを彼女が知っているとは思わなかったし、ましてや、彼女が自らそのことを言い出すとは、思いもよらなかった。しかし、彼女は、平然とした様子で、むしろ楽しげに固まっている彼を見上げた。
「先輩は、気付いてたでしょ? 最初から。」
「・・・・・。」
彼は、口が利けなかった。
「あの子も・・・、岩崎雅弥っていったっけ、松本深志高校の。どうしてだか、わかったみたい。どうしてかな? あの子と、先輩だけ。」
彼女は、深く考え込む風で言葉を続けた。「でも、それ以外の人たちは、他の誰も気付いてなかったな。人間って、不思議ですよね。すぐ目の前にあることにも、全然、気が付かないんですよ。きっと、頭から、私を藤森綾乃だと信じ込んで、ろくに見もしないのでしょうね。当たり前すぎて、あえて注意を払ったりしない、っていうか、始めっから、疑ってもないんでしょう。この世は、あの人たちが見慣れている通りのもので、それ以外の何ものでもないって、信じてるんじゃないのかな。だから、あんなに当たり前に、平然と見過ごせるのね。」
「それなら、なんで俺は、気付いたんだろう?」
低い声で、囁くように一彰は詰め寄った。
「さあ。」
平然と彼女は、笑った。「どうしてでしょうね。先輩は、どうしてだと思います?」
一彰は、その質問には、答えなかった。代わりに、思いがけない言葉が、彼の口を突いて出た。
「おまえのこと、茜って呼んでいいか?」
彼女は、虚を突かれたように、一瞬、押し黙った。その間に、一彰は、夏の終わり、ヨットハーバーで夕日に染まった湖面を眺めている彼女を初めて見つけた時のことを思い出していた。その時、彼女は煌く湖面に眩しそうに目を細めていた。空も水面も、それに向かい合う彼女の白い顔も、鮮やかな茜色に染まっている様が、ありありと瞼の裏に蘇った。。
「何故私をそんなふうに呼ぶの?」
「だって、おまえが藤森じゃないのなら、何か別の呼び名が要るだろう?」
一彰の言葉を心の中で吟味するかのように、彼女は少し首を傾げ、それから、
「いいですよ。」
と頷いた。
「先輩がそう呼びたいのなら、私は別に構いません。さ、お参りも済んだし、帰りましょ。」
「えっ、もう帰るのか?」
いささかびっくりして一彰は、尋ねた。この後、どこかで、お茶くらいは飲むだろうから、まずは駅前に出て、などと勝手に頭の中で一応の段取りをつけている最中だった。
「そうですよ。だって、受験生でしょ。早く帰って、さっさと勉強して下さい。」
「おいおい、初詣に行きたい、っておまえが誘ったんじゃないか。」
「だから、お参りは、もうちゃんとしたじゃないですか。合格祈願は、さっきしっかりしておきましたから、あとは、先輩が頑張るだけ。」
「こっちは、折角、わざわざ出てきてやったのに、神社に来ただけで終わりかよ?」
多少、文句を言いたい気分の一彰だったが、茜は笑って、
「私の着物姿、見られたじゃないですか?」
とだけ悪戯っぽく言って、取り合わなかった。前宮を通るバスの本数は、非常に少ないので、彼女はさっさとタクシーを呼んだ。
「いいですよ、私が払うから。お年玉、たくさん貰ったばっかりだから大丈夫です。駅まで千円くらいだし。」
そして、本当に二人は茅野駅まで戻ると、すぐそこで別れた。
「列車、来るまで、一緒に待とうか? まだ、だいぶ待ってないといけないぞ。」
改札前で、時刻表を見上げながら一彰が言ったが、彼女は断った。
「時間がもったいないですよ。一人で、電車くらい待てます。それより、先輩、学校で、また会えますよね?」
「ああ。センター対策の講座に出るつもりだから、休みが明けたら、またすぐ学校には行くつもり。」
茜は嬉しそうに、にっこりした。それだけで、周囲の空気がぱっと華やぐような笑顔だった。彼女は、これまになく、一彰に心を許したような様子だった。茜は、自分が藤森綾乃ではないことを彼に打ち明けたことで、ある種の緊張状態から解き放たれたようだった。少なくとも、彼にはそう感じられた。あなたは、私の味方ね?という声にはならない茜の甘く親密な囁き声が、耳元でそっと語りかけてくるような気がしてならなかった。それは、幻聴だと打ち消そうとしたが、それでも、なかなかその印象は、一彰の中から消えなかった。
氷姫 @mayukawaguchi
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