第9話 諏訪清涼高ヨット部元部長の来訪

 境内でなす術もなく立ちすくむ雅弥に、神楽殿の背後から二人の人影が姿を現した。一人は、ほっそりと痩せぎすで、やたら姿勢のよい女子、そして、それに寄り添うように付き従う、大柄な男子、小夜香と宗佑の姿だった。二人は、雅弥に向かって無理やり微笑んで見せたが、その顔色は、どちらも真っ青だった。

「ごめん。」

宗佑の第一声は、それだった。「おまえが、あんなに言ったのに・・・。でも、正直言って、信じてなかったんだ。信じるべきだったのに・・・まさか、あんな・・・。人が、本当に入れ替わってしまうなんて、信じられなくて・・・。」

絶句して、彼は言葉失ったように、空疎に黙り込んだ。

「いいんだ。」

弱々しく、雅弥は首を振った。「仕方ないよ。第一、俺だって、なかなか信じられなかったくらいだもの。」

それは、正直な本音だった。ついさっきまで、心の中のどこかに、依然として、自分の方が間違っているのではないか、という強い疑念がかすかに拭えずにいたのだ。しかし、もはや、そんな言い抜けは通用しなかった。校長先生は、正しかった。「観察者を増やす、というのも突破口になることがある。目の数が多ければ、それだけ発見するものも増える」。雅弥は、もっとも信頼できる観察者として、宗佑と小夜香を選んだ。そして、彼らもまた、はっきりと認識したのだ。綾乃が、綾乃ではないという事実を・・・。

「最初は、綾乃ちゃんだと思った。境内に入って来た時、そう思って、信じ込んでて、全然疑いもしなくて、違和感なかった・・・。なのに、あんたと話していて、あの子、さっき急に顔色変えて開き直ったでしょ。あの時、まるで仮面が剥がれ落ちるみたいに、わかったの。この子、誰?って。綾乃ちゃんじゃない・・・全然、違うって・・・まるで別人で。でも、一体、あの子、誰なの? 綾乃ちゃんは、どこへ行っちゃったわけ?」

ややもすれば震える下唇を噛みしめながら、小夜香は、放心したように、言葉を途切らせ、身震いした。

「俺らのしゃべってたこと、聞こえた?」

まず、それを確認したくて、雅弥は尋ねた。宗佑は、頷いて、片方の耳に入れていた小型のイヤフォーンをひっぱてみせた。

「それが、あんまり音が拾えてなくて。ところどころでは、聞きとれたけど。録音がうまくできてれば、そっちで聞きなおして、補完できるかな。」

偽の綾乃が現れた時から、雅弥は、自分の携帯電話を通話状態にしてあった。それを宗佑の携帯が受けて、小夜香と一緒に繋いだイヤフォーンをひとつづつ耳に入れて、雅弥達の会話をずっと聞いていた。神楽殿の陰で、二人が頭を寄せ合っていたのは、そういうわけであった。

「ここで、録音聞くのもなんだから、どっかへ移動しない?」

小夜香の提案で、三人は少し行ったところにあるココスへ場所を移した。小夜香のバレエを観た後、みんなで行ったのと同じ店だ。

 録音は、小夜香のアイフォンを借りて、雅弥が操作して実行したのだったが、やはりところどころ声が小さすぎて聞き取れなかったり、雑音が入り混じって何を言っているかよくわからない箇所があった。だが、それに雅弥が説明と補足を加えつつ、二人に会話の内容を話して聞かせた。

「だけど、どうして、こんなことが起こったんだと思う?」

全部聞き終わった後、宗佑が難しい顔で、半ば自問するように問いかけた。「そりゃ、音和高校に入って以来、というかこの面子で応援団の特別推薦枠委員に選ばれてから、およそ理屈に合わない目にばっかりあってきたけど、後から考えれば、全部、それなりに理由があってのことだったって、今ならわかる。だとしたら、これもそうなんじゃないか?」

雅弥は、同意の印に頷いた。

「俺も、そう思う。で、色々考えてみたんだけど、考えられるきっかけは、藤森さんが六月に湖の上で引いた籤なんじゃないかと思う。」

宗佑と小夜香は、怪訝そうな顔をした。

「でも、あれは、梶の葉の紋を音和に運ぶ合図だったんでしょ?」

「そして、龍が松本城から諏訪湖に渡るっていう予告でもあった。」

小夜香の問いに同意しながら、雅弥は続けた。

「藤森さんは、あのあと、ヨット部の部長に、身の回りに何か変わったことが起こってないか?って聞かれたんだって。それで、なんでそんなこと聞かれるのかと思って理由を尋ねたら、『籤は神意だから』って部長さんは答えたらしい。」

「じゃあ、何か変わったことって、つまり、綾乃ちゃんが、誰か別人に入れ替わってしまう、っていうことだったわけ?」

眉を顰めて、小夜香が呟いた。

「今になって考えてみると、結果的には、そういうことだったんだと思う。」

目の前から立ち上るコーヒーの湯気を見詰めながら、雅弥は暗い調子で肯定した。

「その部長さん、っていう人から、もっと詳しい話を聞けないかな?」

宗佑が提案した。「事情を話してさ、何か他に思い当たることとか、こういう場合、どうしたいいのか、何か対処法を知らないか、とかさ、聞いてみることは出来ない?」

「うん。」

のろのろと雅弥は、考え込みながら肯定した。「ただ、どうやったら会えるかな。いきなり清涼高校に行っても会えるかどうか。名前も知らないし。」

「ヨット部の部長、っていうことでわからないかな?」

と、小夜香が言ったが、雅弥は、首を振った。

「まあ、わからないことはないかもしれないけど、この夏に部長だったってことは、三年生ってことで、この時期、部活はもう引退してるだろ? 普通に考えて、受験生なわけじゃん。そしたら、学校に居るかどうかも・・・。」

「あ、そうか。」

しまったという顔で、小夜香が唸った。高校三年生は、人にもよるが、三学期はほとんど自由登校同然になる。私立大学の推薦などは、もう始まるところもあるし、志望校によってはセンターを受けたり受けなかったり、それぞれの受験の都合で勉強の仕方も異なることから、学校への出席もおのずと不規則になる。そうなると、三年生をこの時期、校内で捕まえようというのは、なかなか難しいことなのだ。

「一応、うちの兄貴にも聞いてみるよ。あの人、生徒会つながりで、他所の高校にも顔が広いから。名前だけでもわかれば、個人的に連絡を取る方法が見つかるかもしれない。」

宗佑が助力を申し出た。

「頼む。まあ、いざとなったら、諏訪清涼まで乗り込むしかないけど、出来れば、確実な方法が取りたい。明日から、授業も始まるし・・・。」

 しかし、思いがけない形で、雅弥は、その人物と出会うことになった。


 「おい、岩崎、お客だ。」

棋道部の部室の扉が、ノックもなくいきなりガラリと開いて、百瀬先輩がその坊主頭でいかつい顔を出した。彼は、応援管理委員会の新委員長であり、雅弥の中学の先輩であり、雅弥を応援団の特別推薦枠に選んだ張本人でもある。

「おまえ、どうして、電話に出ないのよ? さっきからかけてんのに。」

小言を言われ、雅弥は麻雀牌を握ったまま、ばつが悪そうに首をすくめた。

「すいません。マナーモードのままでした。」

授業中、携帯は鳴らないようにしておかなくてはならないのだが、雅弥は、放課後もついそのまま放置してしまい、時々、このように彼に急に連絡を取りたいと思った誰かに怒られる。

「まあ、それだから、直接、こっちへ来た方が早いと思って。」

それから、先輩は、雅弥の耳元に口を寄せると、小声で囁いた。

「おまえさ、諏訪清涼の守矢一彰って、知り合い? おまえに会いに来たらしいんだけど。」

雅弥は、片方の眉を吊り上げ、思案顔になった。

「その名前は知りませんけど・・・、清涼高校には、心当たりあるっす。ヨット部の人っすかね?」

「そこまでは、知らん。まあ、本人に直接聞いてみろや。」

「了解っす。あ、ねえ、吉川、わるいけど、ちょっと俺の代わりで打っといてよ。」

隣で暇そうに囲碁雑誌をめくっている友人に代打ちを頼んで、雅弥は、立ち上がった。

「ところで、先輩、今日、何かあるんすか? その格好。」

百瀬先輩の旧制高校生コスプレ、マントに学ラン、下駄、破れ帽は、私服の高校生達の間で、よく目立った。

「ん? ああ、応援練習だよ。」

「応援って、」何かありましたっけ?」

「何かって、センター入試に決まってるだろ。センター会場で、先輩方に全力のエールを送らにゃ。よかったら、当日、おまえも来い。」

「いや、遠慮しときます。」

軽口を叩きあっている間に、二人は応管の部室前に着いた。部室の前に、男子学生が一人、所在なげに立っていた。よく日に焼けた肌が、真冬の今もまだ褪めやらず、肩幅が広く、がっちりした体型なのが、ダウンジャケットの上からも見て取れる。太陽に晒されて脱色されたのか、毛先の茶色掛かった髪は長く、後ろで無造作に結んで束ねている。近づいてくる雅弥達の姿に気付くと、軽く会釈してみせた。

「あいつだけど、どうだ? 心当たりあるか?」

先輩が囁いた。「もし、何かややこしいことなら、手は貸すぞ?」

「いやいや、大丈夫っす。まじ、平気っすから。」

慌てて、雅弥は、先輩を制した。ここは、なるべく穏便にゆきたい。百瀬さんに、変な義侠心を出されて話をややこしくされては困るのだ。

「すまん、待たせたな。こいつが、うちの一年の岩崎だ。」

先輩は、雅弥の肩にがっしりした両手をずしんと置いて、男子学生の前に突き出すように紹介した。雅弥は、ぺこりと頭を下げた。

「ああ、どうも。諏訪清涼高校三年の守矢一彰です。すいません、いきなり。あの、ちょっと、話があって・・・いいかな?」

「あ、はい。」

雅弥は、頷いた。

「じゃ、俺は、これで。」

「どうも、お手数掛けました。」

守矢一彰が礼を言った。

「いや、なに。」

百瀬先輩は、軽く頷くと、破れマントの裾を翻し、『三百六十五歩のマーチ』のメロディーで、

「進級は、歩いて来ない。だから、試験に行くんだよ~。」

と口ずさみながら、悠然と立ち去っていった。

 清涼高校の三年生だという守矢一彰は、歩き去る先輩の後姿をやや唖然として見送っていたが、やがて我に返ると、雅弥に声を掛けた。

「えっと、岩崎君、ここじゃ、なんだから・・・。」

「そっすね。じゃ、えっと、こっちへ。」

雅弥はぎこちなく答えると、先に立って、連絡通路の途中にある、自動販売機が置いてある一角へ案内した。ここには、自販機の前にベンチも設置してある。

「あの、よかったら、何か飲みますか?」

ポケットの中の小銭を引っ張り出しながら、早口で尋ねた。一応、お客様なのだから、オモテナシしないといけないのではないか?と彼なりに必死に考えた末の精一杯な行動であった。

「いいよ、いいよ。俺が買うから。」

守矢一彰が、苦笑しながら財布を出した。

「え、いや、悪いっす。」

「まあまあ、三年が、一年に奢られるわけにはいかないし。」

そう言われるとそうかな、という気がして、結局、雅弥はホットの午後の紅茶、ミルクティを逆に買ってもらった。

 二人は、飲み物を手に、ベンチに座り、気まずい感じで、しばし無言で、飲み物を啜った。

「急にこんな風に押しかけてきて、びっくりしたかもしれないけど、あの、藤森のことなんだ。うちの帆掛け部、いや、ヨット部の一年なんだけど。知ってるだろ?」

「はい、知ってます。」

「俺は、ヨット部の元部長で、あ、ちなみに、俺、岩崎君のこと、前から知ってるんだぜ。藤森から話は聞いてたし、あと、一度、見掛けたこともある。夏に練習見に来てたことがあったろ? 諏訪湖のヨットハーバーに。」

「あ、ああ、あの時・・・。」

雅弥は、すぐ合点がいった。大勢のヨット部員達が、次々と船に乗って港へ戻ってきて、部外者の彼に物珍しげな視線が一斉に注がれてたのをよく覚えている。あの時は、きまりが悪かった。

「で、あのさ、先にちょっと聞いておきたいんだけど、岩崎君ってさ、藤森と付き合ってる?」

雅弥はミルクテクティにむせそうになり、それから、真っ赤になった。

「いや、付き合ってないっす。全然っす。」

「あ、うん、藤森も、そう言ってた。」

「・・・・・。」

雅弥の胸中も知らず、守矢一彰は、淡々と話を続けた。

「でも、一応、念のため、確認しておいた方がいいと思って。それに、藤森に会いにヨットハーバーまで来てるの見た部の女子連中が、すわ彼氏か?って、なったんだ。あの後、ミーティングが済んだら藤森は、すぐ荷物持ってさっさと行っちゃうし、明らかにどこかで待ち合わせしてるんだろう、って。」

「ええ、それは、まあ。でも、それは、色々、話さないといけないことがあって・・・。」

「うん、わかってる。」

弁解めいた雅弥の言葉を、彼はまあまあと制して遮った。「その辺の事情もわかってる。あの後、藤森から、全部聞いたんだ。龍のこととか、梶の葉を運んだ意味も。信じられない話だったけど、藤森は荒唐無稽なことを言って面白がるタイプじゃない。すごく真面目だ。そして、案外と負けず嫌いだな。大人しそうに見えるけど、レースの時には、いつも帆をめい一杯、限界まで繰り出して、コースをぎりぎりを狙って突てくる。攻めの走りをする子だ。ちょっと意外なくらいにね。思い切りがいいし、最後まで諦めずに粘る。そういうのって、数秒を争うようなレースでは、結構大事なんだ。」

「ええ。」

短く雅弥は、相槌を打ったが、だんだんイライラしてきた。なんだか、自分が知らない綾乃の一面を、殊更にひけらかされているように感じたのだ。この人は、一体、何が目的で、こんな話をするのだろう、と思った。

「どうして、こんな話をするのかと思うかもしれないけど、」

まるで、雅弥の思いを見透かしたかのように、諏訪清涼のヨット部元部長は、そっと笑った。「でも、一応、自分と藤森の間の立ち位置みたいなのを説明しておいた方がいいと思ったんだ。単なる、先輩と後輩。藤森のことを、俺は、結構、見所があって、いい乗り手になれると思っていた。根性があるし、やる気もある。それ以上でも、それ以下でもなく、単にそれだけだ。」

彼は、少し言葉を切り、しばらく考えをまとめようとするかのように黙り込んだ。そして、再び続けた。。

「ただ、あいつが渡りの御籤を引いた時から、少し気をつけてはいた。あの湖の上で籤を引くあれな、変な風習だとは思っていたけど、でも、俺が一・二年の頃は、ただの年中行事みたいなもので、大して気にも留めていなかった。占いというか、お遊び、みたいな感覚でさ。だから、本当に『渡』の御籤が出た時には、正直、慌てた。その後、学校へ戻って、部室にある指令書を大急ぎで読み返したぐらいだ。まあ、事前に、一応、読んではいたのだけど、まさか本当に出るとは思っていなかったからさ。」

「指令書?」

「ああ、そういうのが部にずっと前から伝わっていてね。ただの古いノートだけど。そこに、『渡』の御籤が出た場合にすべきことが、全て書いてある。それで、俺は、次の日、あいつを連れて、浮島神社まで出掛けていった。その辺は、知ってるんだろ?」

雅弥は、頷いた。

「藤森は、俺に言われた通りに役割をこなし、そして、その後のことは、岩崎君の方が詳しいよな? で、まあ、俺も藤森も、それで全部、片付いたと思っていた。一件落着、ってやつ?」

「・・・だけど、そうじゃなかった。」

雅弥は、そっと言葉を添えた。守矢一彰は、真剣な目をして雅弥を見詰めた。

「ああ、そうじゃなかった。俺は、茜に会った。」

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