第8話 冬の蛙
一度、確信を得ると、雅弥は自分でも意外なほど、もう心を揺らがせなかった。おそらく、本当は最初から、彼の真の心の中では気付いていたのだ。けれど、周囲の反応と、彼自身の一種の気後れと自信の無さが、雅弥の判断を鈍らせていたのだ。それを綾乃が書き送った、たった一行の短い走り書きが、彼に力を与え、背中を押したのだった。今や、彼には、一片の迷いも疑いもなかった。綾乃を見つけ出し、取り戻さなくてはならない。
ただし、決意を固めるのは結構だが、問題は、具体的にどう行動するか、だった。雅弥は、この前、校長先生に言われた言葉を頭の中で繰り返し反芻した。「客観的なものの見方をすること。ある程度の期間、継続して観察すること、記録すること。時々、視点を変えてみること。そして、慎重に考察を加える。思い込みを捨て、あらゆる可能性を排除せずにね。あと、観察者を増やす、というのも突破口になることがある。目の数が多ければ、それだけ発見するものも増える。」
年末の慌しい季節、年末から三が日にかけて、雅弥は東京の祖父母のところで家族で過ごし、松本へ戻ってくるまで、雅弥はずっと考え続けた。
帰宅すると、彼は綾乃のメールアドレスに、一通のメールを送った。
「あけおめ。今年もよろしく。初詣、もう行った?」
すぐに返事が来た。
「こちらこそよろしく。うん、行ったよ。」
「俺、まだなんだ。よかったら、一緒にもう一回、行かない?」
そう誘ってみると、あっさりと彼女は、承知した。雅弥は、自分が諏訪まで行くつもりだったが、彼女は松本まで行くと主張した。
「もうこっちではお参りしたから、折角なら違う所がいい」というのが、その理由だった。
「諏訪の下社に行ったの?」
と尋ねると、
「上社。部活の先輩と。」
と返事があった。結局、松本で会うことにして、時間と場所を約束した。
「じゃあ、明日ね。」
携帯を折り畳みながら、雅弥は、たった今、自分が約束を交わした相手は、綾乃なのか、それとも偽の綾乃なのか、どちらなのだろうかと難しい顔で考え込んだ。メールの文面からは、なんとなく綾乃ではないような気がした。勿論、根拠はなかったが。明日、会ってみればわかることだ。
とりあえず、手はずは整った。あとは、狙い通り確証を得られるかどうかだ。宗佑と小夜香が、うまくやってくれるといいのだが。
翌日、雅弥は約束の時間より大分早く、深志神社の境内で綾乃を待っていた。その日も、とても寒かった。年が明けて、いよいよ冬が本気を出したかのように。松本は、雪はそれ程多くは降らないが、その代わり、気温はひどく下がる。日中でも氷点下は当たり前である。そして、何もかもが凍る。
携帯が鳴った。ポケットから、取り出す。
「もしもし?」
「もしもし。今、松本駅に着いたところ。」
綾乃ではない女の子の声がした。
「うん。場所分かる? この前の有賀の発表会があった会場のすぐ隣なんだけど。」
「大丈夫。あ、バスが来たから切るね。」
と、電話は切れた。雅弥は、眉を顰めた。彼は、わざと小夜香のバレエの発表会があった会場を、市民芸術館とはっきり明言しなかった。だがそれにもかかわらず、偽の綾乃は、昨日、問い返すこともせず、無造作に待ち合わせ場所を承諾し、今も微塵も戸惑った様子はなかった。つまり、彼女は小夜香の発表会の場所を正確に覚えているのだ。あの時、来ていたのは、雅弥の記憶では、本物の綾乃であったにもかかわらず。
そう考えると、雅弥は少し混乱した。落ち着かなく、彼は境内を行ったり来たりした。三が日を過ぎてはいたものの、ほどほどに参拝客が行き来している。破魔矢やお守りを買ってゆく人々、神楽殿の向こう側で、ずっと熱心に顔を寄せて語り合っている恋人達。
彼は足踏みをして、凍えたつま先を少しでも暖めようとし、首をすくめてマフラーに鼻を埋めた。
それ程待たないうちに、彼女は姿を現した。正面の鳥居の側からでなく、バス通りから市民芸術館に沿って来た道のすぐ脇から入ることの出来る拝殿側から、いつもの皮のコートを羽織り、スェードのショートブーツを履いた彼女が、軽々とした足取りで玉砂利を踏みしめ、舞殿の前に立つ雅弥に向かって近づいてきた。
「あけましておめでとう、岩崎君。」
澄んだ、朗らかな声で、彼女は呼びかけた。
「おめでとう。」
ぎこちなく雅弥は答え、そこに突っ立ったまま、じっと彼女を凝視した。やはり違う顔だった。絹のようなつやつやと真っ直ぐな黒髪をおかっぱにして、珠を刻んだような顔立ちが、彼に向かって微笑みかけていた。
「どうしたの?」
その場を動かない雅弥を、不審そうに彼女は見やった。「お参りしないの?」
「その前に、訊きたいことがあるんだ。」
ポケットに両手を突っ込んだまま、雅弥は低い声で言った。
「へえ、そうなんだ。なあに?」
彼女の口調は、相変わらず気軽そうで何気なかったが、目には冷たい光があった。
「君は、誰?」
静かに、彼は尋ねた。
ゆっくりと、艶やかな大輪の華が咲くように、彼女の顔に微笑が広がった。
「何言ってるの? 私は私だよ? 藤森綾乃。」
「いいや、違う。」
ゆっくりと雅弥は、首を振った。「君は、藤森さんじゃない。」
「私が、藤森綾乃じゃないっていうなら、それじゃあ、誰だって思うわけ?」
落ち着き払って彼女は言い返し、嘲るように彼を見据えた。
「知らない。俺にはわからない。でも、君が藤森さんじゃないってことだけは、はっきりわかる。だから、聞いているんだ。君は、誰だ?」
彼女の口元から、ちらりと白い歯がこぼれ、それから細い喉を仰け反らせたかと思うと、声を立てて笑い出した。
「あはは、可笑しい。岩崎君、あなた、どうかしてるんじゃない? そんなこと、本気で言ってるの?」
「本気だ。」
頑固に雅弥は、言い張った。「本気で言ってる。君だって、本当はよくわかっているはずだ。」
笑い声が止み、初めて、彼女の顔色が変わった。頬に浮かんでいた微笑が、色褪せるように消え失せ、代わりに、冷ややかな、氷のような視線が、彼を突き刺した。
「そうかもね。でも、だからって、岩崎雅弥、あなたに何か出来るわけ? 確かにこの身体は、藤森綾乃のものだったかもしれない。だけど、今は、私のよ。この子は、私のよりまし。」
怒りを含んで、語気も荒く、彼女は言い放った。
「君は、誰だ?」
辛抱強く、雅弥は繰り返した。まるで、その答えが、全てを解決するための鍵であるかのように。
一歩、彼女は前へ進み出ると、雅弥の耳元に口を寄せ、囁いた。
「ねえ、あなたは自分が生まれる前のことを覚えてる?」
冷たいものが背中を走り、雅弥は、反射的に後ずさると、強く頭を振って無言のまま否定した。
「それなら、どうして私は死ぬ前のことを覚えていると思うわけ?」
感情を抑えた平板な声で、彼女は、そう詰め寄った。それは、何かをはぐらかすための謎掛のようで、それでいて、同時にひどく暗示的だった。雅弥は、なんと答えればよいのかわからず言葉に詰まった。
彼女の表情が、ふっと和らぎ、詰めていた雅弥との間合いを離した。
「少し、歩きましょう。」
彼女は、先に立って歩き出した。雅弥は、思わず身震いし、それでも、言われた通り、彼女の後に従った。彼女は、神楽殿の脇を通り抜け、正面鳥居に向かってぶらぶらと歩を進めた。手水舎の前で、彼女はふと立ち止まった。
「見て、ここ、氷が張ってる。」
水盤から足元に零れて、日陰になった地面に薄く氷が張り付いているのを彼女は指差した。そして、何を思ったか、すっと身体を屈めて手を伸ばし、凍った土を掘り起こすようにして、一掴みの泥土を握った。
「ほら。」
差し出して開いた彼女の手に、泥土にまみれて乗っていたのは、親指の先程の小さな一匹の蛙だった。彼女は、雅弥の薄気味悪そうに引きつった表情を楽しむかのように、クスクス笑った。そして、やおら、もう片方の手の指先で、蛙の頭部をつまみ、握り潰した。
「ああっ。」
半ば声にならない叫び声を上げ、雅弥は全身が総毛立った。彼女の白い手のひらの中で、潰されて頭部を失った蛙が、べっとりと濡れた土に汚れながら、ぴくぴくとのたうち、痙攣していた。
「ちょ・・やめ・・・一体、何して・・・。」
気色ばんで詰め寄る彼を、彼女は平然と眺めた。
「何? どうかした?」
笑って彼女は、両手のひらを彼に向かって差し出してみせた。捻り潰された蛙は、跡形もなく消え失せていた。彼女の手は、真っ白なままで、泥水の飛沫ひとつ、死骸の染みひとつ、付着してはいなかった。雅弥は、我が目を信じられず、混乱し、言葉を失った。
「・・・でも、今、確かに蛙が・・・。」
ようやっと、呟くようにそう言葉を漏ら彼に、少女は、小莫迦にしたように、せせら笑うように、
「夢でも見たんじゃない? こんな季節に蛙が、いるわけないでしょ。」
と言い放つと、そのままくるりときびすを返し、すたすたと鳥居をくぐって境内を出て行った。
「おい、待てよ。」
追おうとする雅弥に、彼女は、振り返り、怒りに歪んだ顔を向けた。
「もう帰る。付いてこないで。」
と声を荒げて怒鳴った。それは、なんだかまるで恋人同士が痴話喧嘩の果てに投げつけた、捨て台詞じみて境内に響いた。居合わせた数人の参詣客らが一斉に、好奇心の入り混じった注目の視線を向けた。ひるんだ雅弥はどぎまぎし、足が止まってしまった。そうしている間に、彼女は足早に道路を抜けて歩き去り、街角を曲がって見えなくなった。
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