第7話 耳裂けの鹿

呼び出される方が、呼び出す方へわざわざ出掛けて行くという事に、何か納得がいかない思いを抱きつつ、それでも、雅弥は凍える寒さをこらえて、松本城まで自転車で走った。駅前や城の周辺は、そろそろ年末の慌しさで浮き足立っていた。パルコの自転車置き場に、自転車を預け、彼は城へ向かって歩き出した。千歳橋を渡ると、縄手通りや四柱神社付近には、門松や注連飾りを売る出店がいくつも設けられ、買い物客で賑わっている。ふと思いついて、ちょっと横道に逸れてたい焼きを買い、温かいのを齧りながら城まで歩いた。黒門から入って入場券を買い、天守に向かう。冴え冴えとした透明な空に、黒い天守が高く聳えている。

 観光客の姿は、それ程、多くはなく、まばらだった。月見櫓に入ると、雅弥はもの珍しげにうろうろしている見物客が居なくなるのを、さりげない風を装いつつ、辛抱強く待った。朱塗りの欄干から、縁の凍った堀の水が見下ろせて、白鳥がまだ水面を残した部分を悠々と横切ってゆく。ふと彼は、諏訪湖で綾乃と眺めた白鳥のことを思った。諏訪湖の湖面も、もう氷結が始まりつつあるかもしれない。

 見物人が部屋から立ち去ると、雅弥は素早く板の間の片隅にしゃがみこみ、四角く区切られた床板を跳ねあげると、ぽっかり開いた穴に身体を滑り込ませ、梯子に足を掛けた。音がしないように、そっと頭上で床板を閉めると、たちまち漆黒の闇になる。二つ、三つ・・十一、十二・・・梯子段を数えながら、慎重に手探り足探りで降りてゆく。程なく、地下まで降りたところで、ポケットから懐中電灯を取り出し、点灯した。そこは狭い廊下のような場所である。以前と何も変わらないのを確認してから、まっすぐ進むと、ばね仕掛けの隠し扉があり、そこを押してくぐり抜けると、そこはもう善光寺の戒壇巡りの通路である。人が来るとまずいの、雅弥は懐中電灯を消し、再びポケットへ押し込んだ。片手を壁に這わせて進んでゆくと、前方から薄明かりが射して小さな登り階段がある。そこを上がって行けは、もう本堂の奥だ。彼は何食わぬ顔で、善光寺の内部へ滑り込んだ。

 松本城から善光寺へ続くこの地下通路は、今のところ、松本深志高校の生徒と長野至誠高校の生徒の一部においてのみ、その存在が知られているが、原則、他言無用、秘密である。そして、もっぱら両校の間で、それぞれが旧制中学、師範学校であった時代より幾代にもわたって繰り広げられてきた熾烈な悪戯合戦に使用されてきた。何しろ、松本・長野間の数十キロの距離を、ほんの数百メートルに縮めてしまうのだ。双方の学校の生徒の往来に、便利なことこの上ない。けれど、物理的な法則には明らかに、著しく反している、と雅弥はことあるごとに頑固に主張を繰り返し、主に小夜香に煩がられている。

 百五十畳敷きの内陣にある弥勒菩薩の前で、むっつりした表情の降旗康治が、既に雅弥を待ちかまえていた。

「よお。」

雅弥が片手を挙げて挨拶すると、気短に彼は頷いた。

「わざわざ来てやったぞ。」

と、雅弥が念を押すと、

「わかってる。姉貴から、本来の目的以外でむやみに使うなと釘刺されてんだよ、こっちは。そのかわり昼飯おごる。蕎麦でいいか? 蕎麦でいいよな?」

返事も待たず、有無も言わせず、康治は雅弥を門前にある蕎麦屋の一軒に引っ張っていった。

「それで、お姉さんのことが聞きたいって、どういうことを聞きたいんだ?」

注文を済ませ、温かい蕎麦茶を楽しみながら、雅弥は尋ねた。蕎麦茶は、好きだ。薫り高くて、香ばしいところが良い。康治は、暗い顔をした。

「まあ、全般的に。色々と。」

ぶすっとしたまま、康治は具体性に乏しく、要領の得ない返事をする。

「何か、心配だったりするの?」

「そりゃ、心配するだろう。姉貴に大学生になって初めて彼氏が出来たと思ったら、相手は年下の高校生、それも音和生だなんてさ。」

激高する相手に雅弥は、やれやれと首を振った。

「いや、おまえ、それって、音和生に対して、偏見ありすぎ。」

「実際、信じられないよ。あの、姉貴が、至誠高校で過ごした三年間を、打倒音和に捧げたあいつが、どうしてよりにもよって、音和生なんかと・・・。」

康治の姉の降旗晶子は、三年間、長野至誠高校の応援管理委員会の特別推薦枠委員として過ごしたが、その間の過激な活動は、熾烈を極め、創造性と奇抜さに溢れかえっていたため、今だに母校では勿論のこと、音和高校においても伝説として語り草となっている。

「もう、卒業したじゃないか。お姉さんは、職務を全うし、今は、自由に青春を謳歌している。弟して、何の不満がある? むしろ、祝福してやれよ。」

とりあえず、雅弥は相手を宥めにかかった。別段、彼としては丸山先輩と降旗晶子が付き合おうがどうしようが、どうでもよかったが、さしあたって、目の前で燃えている怒りと不満の炎を鎮火する必要を感じた。

「年こそ下だが、丸山先輩は、音和高校の元生徒会長で、囲碁はアマチュアの六段、地元枠推薦で信大の医学部にだって現役合格ほぼ間違いないって言われてるんだぞ。一体、何が不満だ?」

「顔が気に入らない。顔が良すぎる。顔が良すぎるやつは、信用できない。」

驚くべき偏見に満ち満ちた三段論法で、康治が不満を表明した。彼は、夏に両校が参加した合同行事、「夜間遠足」で丸山先輩とは会ったことがある。

「きっと、女にもモテるに決まってる。なんか軽薄そうなやつだった。そんなやつと付き合ったら、姉ちゃんは、苦労するに違いない。弄ばれて、捨てられる。」

だんだん康治の取り乱し具合が増してきて、雅弥の手に負えなくなってきた。そこへちょうど折り良く、蕎麦が運ばれてきた。

「なあ、とりあえず、食おうぜ。」

そう声を掛けると、康治もしぶしぶ箸を取った。食事をしながら、康治は愚痴を言い、過度に姉を心配し、雅弥は、その合間に、相槌を打ったり、やんわりとたしなめたり、クリスマス会での様子を語り、安心させようとした。もともと、雅弥はこういった気配りを必要とされる方面は得意ではなかったから、余りその試みは成功したとはいえなかった。けれど、康治の方は、とりあえず、言いたい事をすべて言い、一度しか会ったことのない姉の彼氏を散々にこき下ろしたところで、一応、溜飲が下がったらしかった。彼をもっとも憤慨させたのは、姉がこの年末年始、長野市の実家へ帰省するのを拒んだことだったようだ。

「年が明けてすぐ、センター入試だし、それまで、勉強を見てあげないと。」

というのが、晶子の言い分だったそうだ。康治は、それで初めて、姉に恋人が出来たことを知ったのだという。

「センターなんて、自力で勉強しろよ。」

ぶつぶつと、康治は不平を言った。「そうじゃなかったら、塾に行け。」

内心、雅弥も丸山先輩が、センター入試の勉強のために誰かの手助けを必要とするとは微塵も信じてはいなかったが、その点に関しては、賢く口をつぐんでいた。その代わりに、ふと康治も、夏に藤森綾乃に一度だけ会ったことがあるのを思い出し、質問してみた。

「ねえ、この子、誰だか覚えてる?」

携帯の写真を差し出してみせた。それは、小夜香から貰ったクリスマス会の時の写真だった。康治は、じっとそれをしばらく眺めてから、曖昧に首を傾げた。

「う~ん、なんか見覚えがあるような、ないような・・・誰だっけ? 俺が知ってる子?」

「夏に、俺達が地下通路から松本城の月見櫓へ戻った時に、そこで待ってた・・・。」

「ああ、あの子か。確か諏訪清涼の生徒だったよな?」

「うん、そう。顔、覚えてるか?」

「覚えてるよ。可愛い感じの子だったな。」

写真を眺めながら、康治は銀縁の眼鏡の奥で、目を細め、幾度かふんふんと軽く頷いた。俯き加減になったその横顔は、やはり晶子さんとよく似ていた。顔の輪郭だとか、真っ直ぐな鼻梁、引き締まった口元だとかが、同じ素材で出来たようにそっくりだ。おまけに、この姉弟は、共に短髪・眼鏡なので余計に、共通点が多いのだった。

「確かか?」

改めて念を押すように、雅弥が追求すると、康治の自信は少しだけぐらぐら揺らいだようだった。

「まあ、あの時、夜で暗かったしな。一度しか会ってないし。でも、そう言われれば、ああ、あの子かって、思い出したよ。」

「そうか。」

つとめて落胆した風を見せまいと、何気なさそうに雅弥は了解した。「いや、いいんだ。ただ、ちょっと、聞いてみたかっただけだから。」

しかし、その写真に写っているのは、綾乃ではないのだ。

「その子が、どうかしたのか?」

康治は、不審そうな表情をしている。

「別に、どうもしない。確認してみただけだ。」

「ふうん。なんて名前だっていったっけ、その子。」

「藤森綾乃。」

ぎこちなく、雅弥は答えた。写真の見知らぬ少女を、その名で呼ぶことに抵抗があった。

 この後、康治は塾の冬期講習だというので、二人は蕎麦屋の前で別れた。

「なんか情報仕入れたら、教えてくれ。」

康治は、別れ際に勝手に雅弥を情報屋に任命した。

「情報って、例えば、どんな?」

「その丸山蒼太っていうのが、浮気したとか、姉貴を泣かしたとか、なんでも。」

浮気されて涙に暮れる降旗晶子を想像するのは、かなり難しかった。どちらかというと、そんな場合には、冷静に相手をやり込めてしまいそうな人だと雅弥は思う。

「そういう場合も、あんまりおまえの出番はなさそうに思うけど。」

一応、忠告してみると、康治は、顔をしかめた。

「まあ、何事も、備えあれば憂いなしだ。転ばぬ先の杖、というやつだ。」

そんな関係あるような、無いような常套句を二つ並べ立てて、適当に煙に巻くと、じゃあな、と康治はさっさと言ってしまった。

 雅弥は、善光寺に戻るために、山門へ向かって歩き出した。とりあえずは、蕎麦もご馳走になったことだし、今日は特に予定があったわけでもないので、まあ、いいだろう、という結論に落ち着いた。善光寺の境内に入ると、再び戒壇巡りのために、階段を下りた。暗闇の中を壁を伝って歩きながら、慎重に指先で隠し扉を探った。板のつなぎ目の間に、引っ掛かりの溝を探り当てると、指先で手前に引き、扉を開いた。そこをくぐり抜けて、数歩歩けば、月見櫓へ昇る梯子段がある・・・はずだった。

 最初は、歩数を数え間違えたのかと思った。けれど、予想した梯子が手に触れなかったことを不審に思って、懐中電灯をつけてみると、地下通路は前方へ向かって、まだまっすぐ伸びていた。行く先は、懐中電灯の光の輪の届かない向こうへ続き、杳として見えない。背中が、冷やりとした。どこかで、何かを間違えたのだろうか。今来たばかりの背後を振り返って照らしてみても、そこには狭い通路の果てに板の壁があるばかりである。そこを押して、隠し扉をくぐり抜けて、また戒壇巡りへ戻るべきか。しかし、戻る前に、もう少し進んでみて様子を見ようと彼は決心した。

 通路で歩みを進めるうちに、空気の匂いが変わるのを彼は感じた。それは、閉ざされた空間ではなく、外気の匂いだった。ひんやりと冷たくて、やや水分を含んでいる。顔に風が吹いた。足元の感触が、いつの間にか変わっていた。板張りの床が、柔らかく湿った土の地面に変わっていた。彼は、急いで背中のデイバックに入っていた運動靴を引っ張り出して履いた。そこはもう、懐中電灯なしでも薄明るかった。足元には、厚く積もって半分腐食した落ち葉に覆われた小道があった。いつのまにか、彼は木々に囲まれた細い道を歩いていたのだ。彼は戸惑いながら、周囲を見回し、歩き続けた。

 不意に目の前で林が途切れて、視界が開けた。そこにあったのは、池だった。彼は、余り大きくない池の畔に佇んでいた。池の表面は、もろい薄氷がところどころに張り付いて、数羽の鴨が所在なげに浮かんでいた。背中の羽に顔を突っ込んで、眠っているのも居た。その時になって、ようやく雅弥は、自分がどこにいるのか理解した。彼は、その池を見知っていた。

「千鹿頭池だ。」

彼は、呟いた。三月に卒業した彼の中学校の校舎は、この池を少し登った先に建っている。真っ直ぐ登るのは崖になっていて出来ないが、ぐるりと迂回した道がついている。舗装もしていない、獣道である。中学の時、彼は理科クラブに所属していて、先生に連れられて、仲間達と渡ってきた鴨を観察しに、この学校裏から少しくだった所にあるこの池へは何度となく通い慣れていた。それで、見覚えがあったのである。

 しかし、だからといって、彼は困惑しないわけにはいかなかった。松本城の月見櫓へ出るはずだった地下通路の出入り口が、なぜ数キロも離れた松本市内、それもこの千鹿頭池なのか。今まで、こんなことは一度もなかったのに、なぜこんなことが突然起こったのか、さっぱりわからない。

 冬枯れた唐松林は、寒々しく、侘しげだった。カラの群れが鳴き交わしながら飛び回る姿が、小さな点のように裸の枝の合間を縫って見え隠れした。どこもかしも、秋に落ちた枯れ葉が積もって溜まり、湿ったまま半ば朽ちていた。とりあえず、帰らなくては、と彼は思った。ここから自宅まで、歩いて二十分ほどの距離であるから、特に問題はない。ただ、自転車は、駅前のパルコの自転車置き場に置いたままになってしまったのが困る。明日、行きはバスで取りに行くしかあるまい。

 そうして、歩き出しかけた時、ガザガザと前方の茂みで音がして動いた。何かがぬっと突き出した。

 それは、一頭の牡鹿であった。立派な角をしている。

 鹿は、この周囲では珍しくはない。というか、むしろ一杯いる。学校の敷地周辺の山林をうろうろしているのだ。中学生の頃、理科クラブで学校周辺の斜面に赤外線カメラを仕掛け、鹿が通るたびにシャッターを切る装置でたくさん写真を撮り、クラブ活動発表で展示したほどだ。担当の理科の先生が、そういうことが好きな人だったのだ。それに、鹿は出現し放題であったから、結構な確率で写真が撮れた。

 居るのは、鹿ばかりではなかった。当時、雅弥と奈津樹が通っていた小学校から連絡網で、「熊が出たので登下校に注意してください」と回ってきたり、中学校から、「猪が出たので、出来るだけ保護者が付き添って登下校してください」だのの警告が来るたびに、母は目を剥いた。

 「結婚してすぐ、パパのお仕事でこっちに住むことになって、わあ、信州で自然に囲まれた素敵生活!とかって浮かれてたけど、今じゃ、もう、ママ、大自然でお腹一杯・・・。」

と、母は述懐したものだった。誰だって、わが子がイノシシに轢かれたり、熊に齧られそうになったなら、心配して気を揉むのは当然だろう。だが、幸いなことに、実際に、雅弥達が危険な目にあったことは、一度もなかった。それに、そういう意味では、鹿は大型ではあるが、危険な動物とはいえない。

 けれど、雅弥がぎょっとしたのは、その目の前に現れた牡鹿の左耳が、何かによって傷つけられ、大きく裂けて、血を流していたためだった。傷口は、まだ塞がっておらず、赤黒い鮮血が、ぽたりぽたりとしたたって、褐色の首筋を汚していた。

 人間と獣は、しばし、立ちすくんだまま、互いに怯えて動けずにいた。しかし、すぐに牡鹿は野生の機敏さでもって、軽く跳ね上がったかと思うと、素早くその身を茂みに躍らせて、林の奥へ逃げ去ってしまった。

 雅弥は、ようやく止めていた息をほっと吐き出し、早くも日の翳りだした小さな池の畔で身震いした。彼は、それをただ自分が不意の邂逅に驚いたためだけだと解釈した。けれど、心の底では、なぜかその牡鹿との出会いが、尋常ならざるものであるかのように感じていた。そうでなければ、なぜ自分は、善光寺の地下通路から松本城の月見櫓ではなく、この人気のない千鹿頭の池に導かれてきたのだろう? しかし、その時の彼には、そういったことまで細かく考えるだけの気持ちの余裕がなかった。彼はただ、夕暮れの中で足元から忍び寄る寒さに身震いし、速い歩調で斜面を下り始めた。早く、人の気配のある所へ行きたかった。舗装され、車が行き交う道路に出たところで、雅弥はようやくほっとした。張り詰めていた神経が、わずかに緩んだ。それでも、自分が異様なものを見たという印象は、なかなか身の内から消え去らなかった。

 その晩、夕食も入浴も済ませてから、雅弥は子供部屋で、自分の鞄や学校から持ち帰った体育館シューズだの、習字道具やらがごたごたと積み上げてある棚の片隅に、見覚えのある紙袋が載せたままになっているのに気付いた。引っ張り出してみると、それはクリスマス会の時に、皆でプレゼント交換をして、自分に当たった分の包みだとわかった。あの日、帰宅してから、そのまま中身を確かめもせずに、上の空でそこへ置いたきりにしてあったのだ。確か、宗佑が自分からのだと言っていた。雅弥は井上デパートの紙袋から、四角な包みを取り出すと、赤いリボンを解いて、包装紙をはがした。中から出てきたのは、子供の手のひらほどもある大きさのジンジャークッキーで、表面に色とりどりの砂糖衣で、クリスマスツリーや、キャンディーケーンの模様が描かれてあった。

「あ、それ、何? いいな。」

寝台に寝転んでアイポッドをいじっていた奈津樹が、目敏くみつけて目を輝かせた。

「こないだ、クリスマス会の時のプレゼント交換で貰ったんだ。」

「美味しそう! ねえねえ、一個、頂戴。」

ねだられるままに、雅弥は弟に透明のセロファンに個別にくるまれたクッキーをひとつ放ってやった。奈津樹は嬉しそうに起き上がって、早速、セロファンを剥がしにかかった。

 雅弥は、リボンをくるくると巻いてまとめ、それから、トナカイやトナカイとサンタの絵が描いてある緑色の包装紙を取り上げて、丁寧に畳もうとした。

 その時、彼の手が止まった。包装紙に、何かが貼り付けてあった。

 それは、四角な黄色い付箋であった。色々大目に書き込めるように、通常のものより少し大きめの品である。それには、見覚えがあった。確かクリスマス会の日、宗佑が物理の問題集や筆記用具と一緒に応接間の低いテーブルの上に載せていたものだ。けれど、彼の目を釘付けにしたのは、そこに書かれている文字とシールだった。震える手で、彼は包装紙から付箋を剥ぎ取ると、繰り返し、それを読んだ。そこには、たった一言、「私を見つけて下さい」とだけ書かれていた。署名は、なかった。しかし、そこに貼ってあるヨットのシールを彼は知っていた。小夜香の発表会があった日、帰り際に駅前の丸善に寄った時に、綾乃が選んだ三種類のシールの一つだった。リボンとヨットと猫のシール。図案化された帆と白い船体、マストのてっぺんに翻る小さな旗。雅弥はこの種の記号的な造形に関してだけは、正確な記憶を持っている。人の顔を覚えるのは苦手な癖に、不思議な程、記号やマークといった図像的な形は、ちらりと目にしただけでも、脳裏にくっきりと焼きついたように覚えられるのが、彼の少々風変わりな頭脳の特質である。

「雅君、どうかした?」

奈津樹がもぐもぐとクッキーを頬張りながら、不審そうに声を掛けた。「なんか変な顔してるよ。」

 しかし、雅弥には奈津樹の声が、ほとんど耳に入らなかった。ただ、黙って付箋を眺め、そこに書かれた文字を繰り返し読んだ。

 綾乃は、やはりどこかに居るのだ。そして、自分を見つけ出すように、彼にそのどこかから必死に訴えているのだ。雅弥は、そう悟った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る