第6話 認識と錯覚

 翌日、学校で宗佑と小夜香と顔を合わせても、二人は心配そうで、雅弥に妙に気を遣っているようだった。あえて、綾乃の名前を出さず、その話題は避けてた。理由は、何となく察することが出来た。ここ数ヶ月の間、雅弥に綾乃のことをしつこくけしかけ過ぎたと反省しているに違いなかった。それで、とうとう彼が神経を参らせて限界を超えてしまい、綾乃が綾乃ではないという世にも奇妙な主張をし始めた、と考えている節があった。唯一、小夜香が雅弥に綾乃について言及したのは、写真のことだけだった。

「ほら、これ。」

放課後、棋道部の部室にまでざわざわやって来た小夜香は、アイフォンの画像を差し出した。「これと、あんたが持ってる綾野ちゃんの画像と比べてみたら?」

雅弥は、差し出された画像をしげしげと眺めた。それは、例の宗佑の家でのクリスマス会の日に撮ったもののようで、座卓の上にたくさん並べられた菓子を前に座っている、女の子の顔が映っていた。

「これが、一番、綾乃ちゃんが大きく映ってるやつだから。」

小夜香はそう説明するが、しかし、それはやはり綾乃の顔ではなかった。雅弥が、そう言うと、「だから、」と、イライラした口調で、小夜香は言い募った。

「あんたがそうだと思ってる綾野ちゃんの写真と比べてみたらいいでしょ。そしたら、一目瞭然、はっきりするじゃない。」  

「・・・俺、藤森さんの写真なんて持ってないもの。」

「はあ?」

心底びっくりした表情で、小夜香は目を見張った。「どういうこと?」

「いや、だから、藤森さんの写真、撮ったりしたことないから・・・。」

「だって、何回も会ってるでしょ? 諏訪湖でもデートしたじゃない。白鳥に餌やったりしたって、言ってたじゃん。」

冬の諏訪湖を徒歩で半周することを果たしてデートと呼んでいいのか、多少疑問の余地があったが問題はそこではなかった。

「そうだけど、別に写真は撮らなかったから・・・。」

まじまじと小夜香は、彼を見詰めた。

「ねえ、普通、好きな子の写真って、欲しいものじゃない?」

「・・・そう・・なのかもしれないけど、全然、思いつかなかった。」

正直に雅弥は、答えた。本当に、思いつかなかったのだ。考えてみれば、写真くらい撮らせてもらってもよかったのだ、という気が今更ながらした。綾乃も別に断りはしなかっただろう。しかし、もう遅い。小夜香は、溜息をついた。

「いい方法だと思ったんだけど・・・発表会の後、みんなでお茶した時は、私、写真、撮ってないのよね。衣装つけて、教室の子達と記念撮影してたら、電池切れになっちゃったもんだから。」

 そういうわけで、「写真を比較してはっきりさせる」という小夜香の目論見は成立しなかった。

 しかし、このことをきっかけに、雅弥の心にさざ波のように不安を広げるきっかけとなった。小夜香も宗佑も、偽の綾乃に対して何の違和感も抱いていなかった。自分だけが、綾乃を綾乃でない、と言い張っていた。綾乃の顔が違う、と主張した。しかし、もしかして、間違っているのは、ひょっとして自分なのではないか。

 自分の方が、綾乃に会った回数は、宗佑や小夜香より確かに多い。しかし、もともと自分は、余り人の顔を覚えるのは得意ではない。ひょっとして、何かとんでもない思い違いをしている可能性はないだろうか?

 この疑念は、何度も何度も彼を悩ませた。それに、あの日も、一瞬、綾乃が綾乃に見えた時があった。それが、またすぐ別人に変わってしまった。まるで、最初からそうであったかのように。あの女の子は、誰なのだろう? 綾乃なのか、綾乃ではないのか。自分が思う綾乃とは、一体誰なのか。自分が綾乃だと思っている女の子は、どこかへそっくり消えてしまったのだろうか。まるで、最初からそんな女の子など存在していなかったかのように。実際、もし、今、彼しか綾乃の存在を認識していないのだとしたら、それは、彼女はいないも同然なのではないのか。

 「僕は生まれた時から、自分はずっと同じ僕だと思ってたけど、本当はそうじゃないんじゃないか、って時々思うことがある」という弟の奈津樹の言葉が、ふと蘇った。

「一体、どこまでが僕は僕なんだろうって、区別が付かなくなるんだ。」

 奈津樹は、彼自身のことを言っていたのだろうが、もしかしたら、同じことが他人に対しても当てはまるのかもしれなかった。存在の不連続性と不確定性。なんだか、量子力学みたいな話だ。

 学校も、明日で終わりで、冬休みになる。第一棟と呼ばれる古びた旧校舎の一階を用もなくぶらぶらと歩きながら、雅弥は小林先生に会いたい、と願った。小林先生というのは、松本音和高校が、まだ旧制中学として創設された時の、最初の校長先生である。そんな昔の時代の人と、どういう訳か、不思議な巡り会わせで、雅弥は二度、話をしたことがあった。最初の時は、綾乃も一緒だった。小林先生ならば、今の自分に何か有益な助言を与えてくれるのではないか、という気が無闇とした。一体、どんな因果の歯車がくるくる回った結果なのかは知らないが、この夏の龍にまつわる不思議な冒険も、結局のところ、小林先生の意図に起因するものであったのだから、現在、彼が陥っている奇妙な状況も、先生になら説明がつくことなのかもしれないと、藁にも縋る思いで、雅弥は考えるのだった。

 けれど、僅かな期待を胸に、校長室の施錠されていない扉をノックして、「失礼します」と声を掛けつつ開けてみたが、室内は無人であった。まあ、世の中そんなに都合良くはゆかない。

 肩を落として、諦めると、そのまま後ろへ下がりかけたところへ、誰かとぶつかりそうになった。振り返ると、小林先生ではなく、現校長先生が立っていた。

「おや、君は。」

先生は、どうやら雅弥を覚えていたらしい。一度、校長室に鍵を返しに来た時に、居合わせたことがあるのだ。

「どうしたの? 何か、用事?」

「・・・いえ・・・。」

曖昧に、雅弥は首を振った。なんと返事をしたらよいのか、わからなかった。

 先生は、彼の顔をじっと見詰め、それから、おもむろに部屋の中を指して、こう言った。

「もし急がないなら、ちょっと寄って行きませんか。寄って、お茶でも飲んでいきなさい。」

気が付くと、彼は勧められるままに、校長室の応接用ソファに向かい合って座り、校長先生が淹れてくれた緑茶を緊張気味に啜っていた。それでも、久しぶりに入った校長室は、なんだか少し懐かかった。無言でいるのも失礼な気がして、ぽつりぽつり雑談していたが、ふとこんな質問が口を突いて出た。

「先生、人の顔が、急に違って見えることって、あると思いますか?」

脈絡なく唐突な質問に、先生は、やや驚いたような様子だったが、返事をする前に、しばし考え込む風だった。

「それは、あるでしょうね。実際、人の顔というものは、どんどん変わるものです。赤ん坊の時から年を取るまで、同じ人とは思えないほど顔が変わるでしょう。君だって、ほんの数年前、そうですね、小学校に行っていた頃とでは、随分、自分でも顔が変わっているでしょう?」

いわれて見れば、確かにその通りである。今、十五歳の雅弥は、四年前には小学生だったが、その頃は、今よりももっと丸顔だった気がする。更に遡って保育園の頃には、周囲から「ママそっくり!」と言われ、会う人のうちおよそ半数には、女の子と間違えられた。

「でも、君が言いたいのは、そういうある程度の時間の経過を伴った変化のことではないのでしょう?」

そう問われて雅弥は、頷いた。自分が知りたいのは、正にその点だった。

「その人の身に、何か非常に重大で大きな変化があった場合、もしかしたら、その人の容貌にまで影響を及ぼす可能性がないとは言えないでしょう。あと、それから、見る側の変化、ということもあるかもしれない。」

「見る側?」

「そう。今まで見えていなかったものが見えるようになる。そのために、何か違うように見えてしまう、ということもあるでしょう。人間の感覚による認識というものは、我々が思っている以上に恣意的なのです。人は、こうだと自分が思い込んでいるものを見る傾向があるのです。今、君と私は同じ部屋にいて同じものを見ている。しかし、それをどう認識しているのかは、おそらく微妙な違いがあるはずです。そして、それに加えて記憶というものも非常に危ういもので、時には無意識のうちに改竄され、自らを欺くことすらあるそうですよ。だから、余りあてにはならないのかもしれないし、全くの錯覚だった、ということすらありうるのです。」

「それじゃあ、一体、どうすればいいんでしょうか?」

暗い気持ちで、雅弥は呟いた。

「そうだね。まずは、客観的なものの見方をすること。ある程度の期間、継続して観察すること、記録すること。あと、観察者を増やす、というのも突破口になることがある。目の数が多ければ、それだけ発見するものも増える。」

雅弥は、先生が列挙した事柄を、慎重に注意深く、しっかりと頭の中に書き込んだ。

「なんだか、推理小説で探偵が主張する方法論みたいですね。」

「推理には、観察力と科学的思考が要求されるものだよ、ワトソン君。」

と言って、校長先生は笑った。雅弥も、思わず釣られて笑ってしまった。ほんの少しだけ、気持ちが楽になった。

 長野至誠高校の生徒である降旗康治から電話が掛かってきたのは、冬休みに入って最初の日の朝だった。学校に行かなくて済むので、今日は心ゆくまで眠ってやる、と決め込んでいたのが、携帯の呼び出し音で無理やり目を覚まさせられた。

「もしもし?」

半分寝ぼけながら、雅弥は返事をし、無理やり薄目をこじ開けて、画面に表示されている名前を読んだ。

「岩崎? 俺だけど。」

康治の不機嫌でぶっきらぼうな声がした。

「うん。」

「ちょっと、話があるんだけど、会えないか?」

「・・・えっ、ああ・・・うん?」

「だからぁー、」

電話口の向こうで、康治がイライラとした口調で繰り返した。「話があるから、これからこっちまで出て来い、ってこと。学校、もう休みだろ?」

「今から?」

ようやく少し、目が覚めてきた雅弥は、やや驚いて布団から身を起こした。康治とは、夏に会って以来、特に連絡も取っていなかった。それが、いきなり何事かと思った。

「まあ、別にいいけど・・・、でも、なんで?」

「聞きたいことがある。」

「何を?」

「姉貴のこと。」

「姉貴?」

今度こそ、本当にびっくりして、雅弥は鸚鵡返しした。「誰の?」

「俺のに決まってんだろ。なんだよ、おまえ、こないだ会ったっんじゃないのかよ?」

「・・・!?」

こないだ、とは一体、康治がいつことを指して言っているのか、雅弥は一瞬、理解できず、黙り込んだ。が、次の瞬間、ついさっき自分の携帯の画面に表示された「降旗康治」の名前と、クリスマス会の日に丸山家で会った降旗晶子の中性的な容姿、そして彼女の苗字とがようやく繋がった。

「それって、晶子さんのことか!? つまり、降旗さん・・・って、えっ! おまえのお姉さん?」

「そうだよ。なんだよ、おまえ、今頃、何言ってんの?」

呆れたように康治に言われて、雅弥は返事に窮した。「あ、いや、その・・・。」

丸山先輩の年上の彼女が、康治の姉だとは! だが、今更ながら、そうと考えてみれば、合点のいくことがいくつかあった。まず、そもそも二人の苗字が同じである。そして、雅弥は康治に今年、信大に入った姉がいて、松本に下宿していることを前から知っていた。それなのに、全く康治と彼女を姉弟として結びつけて考えていなかったのだ。宗佑たちは、知っていたのだろうか?などと考えているうちに、気が付くと、雅弥は康治と会う約束を一方的にさせられていた。

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