第5話 見知らぬ顔
十二月二十三日の昼を少し過ぎた頃、雅弥は自転車の前籠にたくさんかさばる荷物を積んで、碁会所のある源池(げんち)から、宗佑の家のある開智までぐいぐいペダルを漕いだ。前籠の中には、「クリスマス囲碁大会」の参加賞としてもらったアルミホイルや、賞品としてのラップに箱ティッシュ、そして、プレゼント交換に使う箱入りチョコレートと、母の差し入れである手製のパウンドケーキのずっしり重い包みもあった。数日前に降った雪は、もうほぼ溶けて、路肩の日陰に少し残っているきりだった。
「みんなで交換するから、誰に当たっても大丈夫な物にして。」
という宗佑の指示があったので、雅弥としては、大いに迷った。困った挙句、母に相談すると、
「お菓子にしなさい。」
と断言された。「それが一番、無難だから。」
「・・・じゃあ、開運堂の老松とか?」
老松は、雅弥の好物で餡を包んで松の実が散らしてあって美味しい。
「いやいやいや、クリスマスでしょ? そういう渋い感じの和菓子じゃなくてねぇ、もっとこう、何と言うか華やかなさあ。」
結局、母に「上等な」チョコレートを選んで買ってきてもらった。赤い包装紙に金色のリボンがかけてあった。
宗佑の家は、松本城からそれほど遠くない古めかしい平屋の家屋である。玄関で呼び鈴を鳴らすと、
「いらっしゃい。」
と宗佑が扉を開けた。通された応接間らしき部屋のソファには、小夜香の濃紺のコートと一緒に、見覚えのある薄茶色のバックスキンのコートが無造作に投げ出されていた。もう綾乃も来ているらしかった。
「みんな、支度を手伝ってくれるって、少し早めに来てくれたんだ。今、台所にいるよ。」
「おうちの人は? 挨拶しないと。」
「親は、今、離れの方に行ってる。離れは隠居部屋になってて、じんちゃんが住んでるんだけど、今日は俺らがこっちで騒いでるなら、昼飯はじいちゃんとこで食うからって。」
ソファーの前の低いテーブルの上には、開いた物理のセミナーの問題集と資料集が、シャーペンや消しゴムなどの筆記用具や付箋の束と共に置いてある。
「何、おまえだけ、一人でここで勉強してたの? なんで、みんなと台所じゃなくて、ここに居るの?」
雅弥が尋ねると、宗佑は肩を落とし、色々書き込める少し大き目の黄色い付箋の束から、神経質な手つきで付箋を一枚剥ぎ取った。
「なんで、って、この前の期末で物理が爆死したからだよ。そして、台所に居たたまれなかったからだよ。」
「・・・丸山先輩と有賀か?」
「兄貴がニンジンや椎茸を飾り切りしながら、隣で葱切ってる小夜香に、葱の切り口は斜めにとかこうるさく口を挟むんだ。小夜香がにっこり笑って、はい、って返事するんだけど、目が笑ってなくて、超怖い。それに、どっちにしたって、四人も居たら、台所は満員だし、僕がうろうろしてたって邪魔なだけだよ。」
どうやら、兄と彼女の間での板ばさみによる緊張感に耐え切れず、逃げ出してきたらしい。
「四人?」
「ああ、兄貴の知り合い・・・っていうか、」
と、宗佑は声を潜めた。「彼女。」
「まじか!」
雅弥は目を丸くした。弟の奈津樹をして、かつて「なにそのチートキャラ」と言わしめたほど、丸山先輩は、顔、勉強、スポーツの全てにおいて秀でた、雅弥の知る限りでもっとも女子に持てそうな人材であったにもかかわらず、彼女が居るという話は聞いたことがなかった。
「音和生か?」
「いや。」
宗佑は、首を振った。「信大生だよ。」
「年上かよ!」
尚更、雅弥はびっくりした。宗佑の説明するところによると、先輩は信大医学部の地元推薦枠志望なのだが、そのための大学での説明会に何度か参加していて、前年の地元推薦枠の学生が体験談を語る企画があり、その時、高校生達の前で話をしたうちの一人がその彼女だったという。
「それ、いつの話し?」
「秋頃みたいだ。」
「先輩、やるなぁ・・・。」
二人が顔を寄せ合って小声でコソコソ話しているところへ、女の人が彼らの居る応接間へひょいと顔を出した。
「宗佑君、食堂においで、って蒼太が呼んでるよ。あ、はじめまして。」
雅弥の顔を見て、彼女はそう挨拶した。短髪で、理知的な顔立ちに、銀縁の眼鏡をかけた、中性的な雰囲気の人だった。Tシャツの上からよれよれのダンガリーシャツを羽織り、細身のジーンズを履いている。
雅弥は、慌てて立ち上がった。
「どうも。岩崎です。こんにちは。」
「降旗です。さ、宗佑君もこんなとこにいつまでも隠れてないで、おいでおいで。」
さっさと先に立って歩いてゆく彼女の後に、二人は神妙についていった。
和室に長方形の炬燵がある部屋に、鍋の支度が出来ていて、小夜香がせっせと皿やコップや箸や椀を並べている。「クリスマス会」と銘打っている割に、献立内容は寄せ鍋で、完全にクリスマスとは関係がない。「クリスマス囲碁大会」と同じくらいの脈略の無さである。おまけに、畳敷きの座敷に炬燵である。思いっきり和風である。
「まあまあ、いいじゃない。兄貴の話じゃ、西洋のクリスマスも、キリスト教以前の宗教観がだいぶ混じってるらしいもの。起源は、太陽が一番弱まる季節に、太陽の復活と再生を願うお祭りだったとかんなとか。クリスマスツリーの起源もね。だから、日本でも年末年始の祭事の一つと考えておけば大丈夫だよ。」
と、宗佑はいい加減な主張をする。
丸山先輩は、お玉を握ってせっせと鍋から灰汁をすくっていた。
「あっ、岩崎君、久しぶり。」
鍋から顔を上げて、にっこりした。相変わらず、水も滴る良い男ぶりである。
「ども、先輩。お久しぶりっす。」
一方、小夜香は、ちらっと雅弥の方へ目をくれると、無言のまま軽く頷いて見せた。しかし、宗佑とは、目を合わせずに、ぷいっと横を向いた。その時、野沢菜を盛った鉢と、櫛形に切った柚子の皿を載せた盆を手に、見知らない女の子が入ってきた。生成り色のセーターに格子柄のスカートをはいて、抜けるように色が白く、真っ直ぐな黒髪をおかっぱにしている。他にも誰か参加者が居たんだ、と雅弥は思った。
「ありがとう。」
小夜香が、彼女から盆を受け取った。「綾乃ちゃん、そこ座って。ほら、岩崎、綾乃ちゃんの隣、行って。」
えっ、と雅弥は、戸惑った。綾乃? そういえば、綾乃は、どこに居るのだろう? しかし、女の子は、小夜香に言われた炬燵の場所に座り、雅弥を見上げると嫣然と微笑んだ。
「こんにちは、岩崎君。」
雅弥は、咄嗟に言葉が出なかった。誰だ? これは誰だ? 混乱しながら、雅弥は必死に考えた。これは、小夜香たちが、彼をからかおうとして仕組んだ、手の込んだ冗談なのだろうか?
けれど、誰もそんな素振りは微塵も見せず、さっさと座る場所を決めて、飲み物を注いだりし始めている。雅弥も突っ立っているわけにもいかず、とりあえず、その知らない女の子の隣に腰を下ろした。
「綾乃ちゃん、何、飲む?」
「あ、じゃ、ウーロン茶を。」
「はい、どうぞ。」
「ありがとう。」
小夜香と彼女のそんな遣り取りを、雅弥は目の前で信じられない気持ちで眺めていた。
「岩崎は?」
尋ねられて、雅弥は思わず口ごもった。
「え、あの、じゃ、コーラ。」
コーラの入ったコップを差し出しながら、小夜香が不審そうに声を潜めて聞いた。
「あんた、どうかした?」
「・・・どうって・・・。」
「なんかさっきから顔色悪いけど、気分でも悪いの?」
本当に、心配そうな様子だった。
「いや、ううん。」
反射的に否定はしてしまった。だが、そう言われると、なんだか急に部屋中の空気が薄くなったように感じられ、胸が苦しくなった。
「それじゃあ、とりあえず、乾杯しようか。」
その時、大声で丸山先輩が音頭を取って、みんなは手にしたコップを差し上げて、「乾杯!」と声を合わせた。
大学生の降旗さんは、話が上手な人で、大学での生活や講義のこと、風変わりで面白い先生方や「銀嶺祭」と呼ばれる学園祭のことなど色々聞かせてくれた。丸山先輩が所々で合いの手を入れ、冗談を言ったりした。小夜香も大分、機嫌を直したようで楽しそうにしている。その隣で、宗佑がほっとした表情で、せっせと鍋に具材を放り込み、時折軽口を叩いたりしていた。みんな和やかで、寛いでいた。
「はい、どうぞ。」
綾乃ではない女の子が、肉団子や野菜、豆腐をよそって椀に入れたのを、雅弥の手に渡して寄越した。
「お腹空いてないんですか? 全然、食べてないですけど。」
熱い椀と彼女の顔を、雅弥は黙って見比べた。
「ポン酢にします? それとも、胡麻ダレ?」
楽しそうに、彼女は言葉を続ける。
「君は・・・。」
擦れた声で、雅弥は囁いた。誰なんだ、と言おうとしたが、喉が締め付けられるようで、声が出ない。
ゆっくりと、嘲るように彼女は、微笑んだ。口元から、白い歯がちらりとこぼれたが、無言のまま、雅弥を見据えた。
自分が、見破っていることを、彼女は知っているのだ。
「松本って、案外、雪は降らないんだね。ちょっと意外だったな。」
降旗さんが、向こうでそう話してる声がする。
雅弥の隣で、見知らない少女は頷いた。
「ほんと、そうですね。今日、電車で来る途中、塩尻を通ったら真っ白だったのに、松本に来たら、雪、なくて。」
「ね、峠を越えると、気象が変わるよね。綾乃ちゃんは、おうち、どこ?」
「上諏訪です。降旗さんは?」
「私は、長野市。あそこも松本よりは、雪、多めかな。日本海側だし。」
「先週、松本もちょっと降ったんだけど、もうほとんど溶けちゃったからねぇ。あ、そろそろ饂飩、投入しようか?」
と、宗佑。
寄せ鍋が、ほぼ底まで浚えられ、出汁と野菜の切れ端しか無くなった頃、みな満腹して、箸を置いた。
「先に片付けてさ、それから、プレゼント交換しようか。」
丸山先輩の提案で、みなはせっせと台所に食器を運び、小夜香と丸山先輩が皿を洗い、降旗さんと綾乃ではない女の子が洗うそばから拭いていった。
雅弥は、宗佑と座敷で炬燵の上を台拭きで綺麗にして、空になったペットボトルをまとめた。二人きりになったその隙を狙って、雅弥は思い切って宗佑に言ってみた。
「なあ。」
「うん?」
「あの子って、誰?」
宗佑は、きょとんとした。
「誰って、誰のこと?」
「今日、来てる、俺の隣にさっきずっと座ってた・・・あの女子。」
「綾乃ちゃんのこと?」
信じられない、という表情で、宗佑は友人をまじまじと見詰めた。「おまえ、一体、何言ってんの? あの子は、綾乃ちゃん、諏訪清涼高校一年、藤森綾乃。そうだろ?」
「いや、違う。」
必死で雅弥は言い募った。「藤森さんじゃないよ。全然、別人だ。」
「綾乃ちゃんじゃないって言うなら、じゃあ、誰なのさ?」
「それは・・・、知らない。」
そう雅弥が口ごもったところへ、小夜香が、空のゴミ袋を振り回しながら入ってきた。
「ねえ、空になったペットボトル、これに入れて。まだ中身が残ってるのは、冷蔵庫に・・・っていうか、あんたたち、どうかした?」
押し黙っている二人を交互に見比べながら、小夜香は当惑気味に尋ねた。
「岩崎が、綾乃ちゃんが、綾乃ちゃんじゃないって言うんだ。」
宗佑が説明した。
「は?」
訳がわからない、というように、小夜香が顔をしかめた。
「だって、私、綾乃ちゃんの携帯にいつものメアドで連絡して、今日、うちの親に乗せてもらって駅前まで迎えに行って、そしてここまで来たんだよ。他の子なわけないじゃん。」
「でも、顔が・・・。」
「顔?」
「うん、顔が違う。」
頑固に雅弥は言い張った。宗佑と小夜香は、互いに視線を交わし、それから雅弥をどちらも心配そうに見やった。二人は、真剣に雅弥がおかしくなったのではないかと気を揉み始めているようだった。
「・・・あの、さ、綾乃ちゃんに、告白告白、って私、随分、うるさく言ったけど、もし、そのう、あんたがどうしても気が乗らないのなら、無理して・・・。」
おずおずと小夜香が言いかけた時、ケーキの載った皿を捧げ持った丸山先輩が、コーヒー茶碗やポットを抱えた降旗さんと、偽の綾乃を連れて和室へ入ってきた。
「ケーキは、いろんな種類があるよ。」
上機嫌で丸山先輩は、宣言した。
「僕が作った苺ショートケーキと、岩崎君が持ってきてくれたパウンドケーキは全員、食べられるけど、晶子さんが差し入れてくれたケーキは、全部種類が違うから、じゃんけんで争奪戦にしよう。一番勝った人から好きなのを選んでく。」
晶子さんというのは、降旗さんの名前であるらしかった。
「まさか蒼太が、自分でケーキを焼いちゃうとは思ってなかったから。」
降旗さんは、けらけら笑った。
「でも、ケーキ屋さんでどれを選ぼうかなって迷ってると、並べてあるの全部、美味しそうに見えてくるでしょ。だから、六種類、全部違うのにしたんだ。モンブランとレアチーズケーキとチョコレート味のとシュークリームと・・・。」
言いながら、彼女は白いボール紙のケーキを箱を開けた。おおっという歓声が上がった。
「これ、写真撮らせてね。」
小夜香がアイフォンを出して、気合を入れてお菓子を撮影した。
それから、みなでじゃんけんをして、勝った順にケーキを選んだ。そして、コーヒーを飲み、甘いものをフォークでつつきながら、トランプのカードを配り、大富豪をして遊んだ。手元のカード越しに、雅弥は時折、ちらりと偽の綾乃を盗み見た。彼女は、にこにこと朗らかにゲームに興じているように見えた。雅弥は、彼女が気になって、集中できず、出す手札を間違えてばかりいた。
一番最後の勝負の順位に従って、持ち寄りのクリスマスプレゼントを選ぶことになった。
「ここに入ってるから、中を見ずに手探りで選ぶこと。ただし、出てきたのが自分のだった場合は、選び直しね。」
丸山先輩は、大きな紙袋をガザガサさせながら説明した。中には、贈り物の包みが六つ入っているとのことだった。
雅弥は一番最後だったので、選ぶまでもなく、一番最後に残った包みを渡された。トナカイとサンタの絵が描いてある緑色の包装紙の上から、赤いリボンがかけてある。
「あ、それ、僕からのやつだ。」
と、宗佑が言った。
「ふうん、中身は何?」
気がなさそうに、雅弥は尋ねた。
「それは、見てのお楽しみ。」
「あ、そ。」
上の空返事をしながら、雅弥は炬燵の脇に、包みを置き、何気なく頭を上げ、そこで目に入ったものにハッとした。
まだ五時前だったが、日没の早い冬の西日は、もう弱々しかった。逆光になった窓からの夕暮れの日差しが、窓を背に座っていた綾乃の顔を薄暗く縁取っていた。それは、紛れもなく、本物の綾乃だった。翳り始めた室内でも、珊瑚色の唇、ふっくらと柔らかな頬の優しげな顔立ちを、少し俯き加減にして、綿菓子のようにふわふわとした髪が囲んでいるのが、はっきりと見て取れた。雅弥は、驚きの余り、一瞬、声も立てられなかった。
その時、席を外していた丸山先輩が、座敷に戻ってきた。
「藤森さん、うちの親、そろそろ出るって。いいかな? って、なに、ここ暗いよ。電気、つけなよ。」
先輩が照明のスイッチを入れた途端、ぱっと眩しい明かりが灯って、部屋の片隅に漂っていた薄闇をたちまち追い払った。
「あ、はい。お願いします。」
彼女は、頷き、立ち上がった。その時には、もう、既に本物の綾乃は消えていた。雅弥の前に、落ち着き払って立っているのは、抜けるように色の白い、絹のように滑らかな黒髪に、取り澄ました表情を浮かべた、今日ずっと雅弥を悩ませた彼の見知らぬ少女だった。
「それじゃ、有難うございました。とっても、楽しかったです。」
礼を言って頭を下げると、彼女は、応接間から丸山先輩が持ってきて渡した綾乃のコートを羽織り、荷物を入れた鞄を提げて、先輩の後についてさっさと出て行ってしまった。雅弥には、目もくれなかった。後で、小夜香が教えてくれたところによると、丸山家の両親が、夕方、松本駅前まで所用があって車で出掛けるので、そのついでに彼女を駅まで送る手筈になっていたのだという。
取り残された形になった四人は、急に静かになった座敷で言葉少なに卓上に散らかったトランプを片付けた。
「コーヒー、もっと淹れようか?」
宗佑が訊くと、
「うん、いいね。」
と、小夜香が同意した。
「じゃ、手伝って。」
二人はいそいそと連れ立って、台所へ行ってしまった。
「あはは、仲良いわね、宗佑君と彼女さん。」
降旗さんが、皿に残ったパウンドケーキを一切れ指で摘みながら、雅弥に向かって悪戯っぽく片目を瞑ってみせた。雅弥は、返答の仕様がなくて、曖昧に肩をすくめた。
「この干し葡萄と胡桃のパウンドケーキ、岩崎君のお母さんが作ったの?」
「ええ、まあ。」
「お土産にケーキ焼いてくれるお母さんなんて、素敵だね。うちの母親だったら、せいぜいお萩とかだもん。」
「単に、暇なんですよ。」
「おやおや。生意気なこと言わないの。」
雅弥は、まだいく切れか残っている苺のショートケーキを眺めた。
「丸山先輩の方が、すごいですよ。何でも出来る人だとは思ってたけど、まさかお菓子作りにまで職人技駆使しちゃうとは思いませんでした。」
「ああ、あれねぇ。信じられないよねぇ。来月に、センター入試控えてる人間の行動とは、とても思えないよ。」
うんうん、と降旗さんは同意した。しかし、彼女も、医学部の推薦合格者である。丸山先輩並に頭が良いに違いないはずである。
「いーえー、とんでもないっ。去年の今頃なんて、私、不眠不休でがり勉してたよ。不安すぎて、センターまであと何日って、カレンダー睨みつけながら、夜中にわなわな震えてたもん。その後、きーっとなって、弟にヘッドロックかましてたな。」
「なんでまた、そんなことを!?」
「そうすると、落ち着くから。で、それで正気に戻って、また赤本に取り掛かるわけ。」
澄まして彼女は答えたが、しかし、彼女の弟は難儀であろう。
「だからさ、私なんかは、極めて一般的かつ繊細な受験生だったってこと。蒼太のやつが変なのよ。」
そこへちょうど戻ってきた丸山先輩が、ひょいと顔を出した。
「また、僕の悪口言ってるでしょ、晶子さん。」
言葉では咎めつつも、その表情はあくまでにこやかである。
「悪口じゃなくて、事実でしょ。」
「そうやってしらばっくれて。ちゃんと聞こえてましたよ。」
「だって、この時期に、あんまり落ち着き払ってるから。」
「でも、センターでしょz? なんでそんなに大騒ぎする必要あるかな?」
本当に不思議そうに先輩は、反論した。
「あれ、マークシートだし、過去問七~八年分を三回繰り返せば、十分、必要な点数は取れでしょ? それに、推薦に必要な内申が決まる学校の試験は、範囲狭いから点取りやすいし。範囲がない一般入試の方が、うんと大変だと思うな。」
「理屈の上では、その通りだけど、大抵の人は、わかっててもなかなか実行出来ないの。出来たら、そもそも苦労しないの。」
ぴしゃりと彼女は、決め付けた。
「蒼太は、そういう人の弱さというかもどかしさみたいなものを、わかってないよね。でも、普通はそうなんだってこと、頭の片隅に置いておいたほうがいいよ。たとえ、知識としてだけでもいいから。」
その口調には、意外な程の真剣さと心配と、そして、微かな苛立ちとが込められていた。
「僕が、他の人を傷つけないように?」
丸山先輩が、穏やかに尋ねた。それは、皮肉ではなかった。降旗さんは静かに首を振った。
「まあ、それもあるけど、それよりも、君がいつか一人になってしまったら悲しいからだよ。」
先輩は、黙って彼女に向かって唇の端で微笑んでみせただけで、あえて反論しなかった。雅弥は、少し、その場に居合わせているのが居心地悪かった。台所の方へ、抜け出した方がいいかも、と考え始めたところで、、ふと先輩は、雅弥へ話の矛先を向けた。
「そういえばさ、今日来てた子、諏訪清涼の藤森さんって、岩崎君の好きな子だって、宗佑のやつ言ってたけど、そうなの?」
「えっ・・・、いや、あの・・・。」
思いがけず直球の質問を投げかけられて、雅弥はうろたえた。丸山先輩は、そのあたり、もう少し如才ない人かと思い込んでいたので、予想外というか、不意を撃たれた。
「なんかさ、今日、ずっとあの子のこと見てたじゃない。でもさ、岩崎君を見てて思ったんだけど、好きって言うより、」
先輩は、何か考え込むように言葉を続けた。
「むしろあの子のことを怖がってるみたいに見えたけど。
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