第4話 奈津樹が不思議に思うこと
「じゃあ、諏訪湖を半周以上歩いた挙句、結局、告白しなかったわけ?」
小夜香の怒気が、ぴりぴりと空気を震わせるのを雅弥は肌で感じた。運悪く、部室棟の前で、小夜香に捕まってしまった。彼女の憤怒が臨界点に達しそうだったので、雅弥は彼女を宥めにかかった。
「そういう雰囲気じゃなかったんだよ。何となく。」
彼は、空しく弁解した。
「ふうん。」
小夜香は、じろじろと雅弥をねめつけた。
「だったら、二人で半日も、一緒に居て何してたのよ?」
「散歩して、白鳥を眺めて、肉まん食べて、白鳥に餌をやって・・・。」
「馬鹿なの? あんた本気で馬鹿なの? そんなの告白してから、ゆっくりやればいいことでしょ?」
彼女は、溜息をついた。
「仕方ない。また、何か方法を考えてあげる。今度こそ、頑張ればいいから。」
「いや、俺は別に・・・。」
辟易気味に彼が辞退しようとする返事も待たず、小夜香はぷりぷりしながら行ってしまった。雅弥は、やれやれと棋道部の部室へ向かった。しかし、足を運びながらも、下諏訪の駅での綾乃の最後の様子が頭から離れなかった。彼女は、他人の気を引くために、殊更、思わせぶりな態度を取る種類の子ではなかった。万事につけて、率直である、というのが彼女の印象だった。その綾乃が、どうもこのところ奥歯に物の挟まったような、曖昧な言動をするのはなぜだろう? 雅弥が結論として得た答えは唯一つ、彼女はそういうやり方でしか、雅弥にそれを伝えることが出来なかった、ということだ。けれど、一体、彼女は、何を伝えたかったのだろう?
そんなことばかり考えていて、部室で棋譜並べをしていても、ちっとも手が進まなかった。他の部員達は、例によって隣で暢気に麻雀の牌をかき回している。部屋の中には、小さな電気ストーブが一つあるきりだが、高校生男子が狭い中にぎゅうぎゅうと寄り集まっているので、それ程、寒くはない。
数日が過ぎてからの放課後、雅弥は、宗佑からクリスマスイブの更に前夜である、二十三日にクリスマス会をやるから自宅へ来いと誘われた。一日早いが、休日の方が皆でゆっくり遊べるからよかろう、ということであるらしかった。雅弥は溜息を付き、つくづくと友人を見上げた。宗佑は、背が高いのだ。
「来るだろ?」
そこには、懇願の調子が入り混じっていた。
「クリスマスなんて、有賀と二人で祝えよ。彼女と。俺は、邪魔者にはなりたくない。」
宗佑は、深刻な顔をした。
「僕だって、出来れば無難にそうしたいよ。でも、首謀者は兄貴なんだ。」
雅弥は、きょとんとした。宗佑の兄である丸山蒼太は、彼らと同じ松本音和高校の三年生で、元生徒会長で、雅弥の所属する棋道部の元部長である。秋の役員選挙で引退し、部活の方の役職も後輩に譲って、現在は受験勉強に邁進中のはずであった。
「兄貴がどういう風の吹き回しか、うちでクリスマス会やろうって言い出したんだ。僕は、反対したんだけど、とりあえず小夜香に伝えろって言うから一応そうしたら、小夜香が兄貴の売りつけた喧嘩を買ったんだよ。」
「喧嘩って・・・。」
丸山先輩は、弟を溺愛する余り、彼女である小夜香に対して妙に風当たりが強い。嫁をいびる姑とか小姑をすら連想させる。しかし、勝気な小夜香である。反撃にも容赦がないことは、容易に予想された。
「綾乃ちゃんも、誘ったからさ。小夜香が、もう連絡したはず。な、だから頼む。」
最近、宗佑から頼まれごとばかりしている気がしつつ、雅弥は承知した。
「他にも誰か来るの?」
「兄貴も、誰か誘うって言ってたな。」
「ふうん。でも、先輩、来月には、センターだろ? そんなことしてていいのか?」
宗佑は、肩をすくめた。
「受験生にも、息抜きは必要なんだとさ。まあ、あの人、そもそも推薦狙いだけど。」
「余裕だな。でも、もともと頭、良いからな。」
その日は、部室に余り人がいなかった。卓も立たなかったし、早めに帰ることにして、自転車で校門を出た。寒風が吹きすさび、耳がちぎれるほどに冷たい。途中、駅前の丸善に寄ることにした。駅前は、クリスマスイルミネーションで賑やかに飾られ、点滅する電飾が街路樹に掛かって、キラキラと輝いている。
本をざっと一通り見て回ってから、文房具の売り場へ行ってみた。たくさんシールの並んだ棚の前に、彼は佇んだ。もし、宗佑の家で綾乃にまた会えるなら、いくつか良さそうなのを選んで贈るのもいいかもしれない、と思った。クリスマスなら、特にプレゼントを渡しても不自然ではない。けれど、売っているシールの数が余りに多すぎて、どれにすればいいのかさっぱりわからなかった。そもそも、先日、綾乃は気に入ったシールは自分でもう買ってしまった。ということは、ここに残ったそれ以外のものは、彼女には余り気に入らないかもしれない。そう考えると、急に詰まらなくなって、選ぶ気持ちが失せてしまった。
「あれ、雅君、何してんの?」
声がしたので振り返ると、弟の奈津樹が立っていた。
「えっ、いや・・・、別に。なっちゃんこそ、なんでこんなとこいんの?」
「だって、今日、レッスンの日だもの。終わったから、本、見てた。」
と、奈津樹は答え、言われて見れば、確かに弟は、肩から黒いフルートのケースを提げている。このすぐ近くのビルにある音楽教室に、週に一度、通っているのだ。
「あっ、そうか。」
「雅君、何か買うの?」
「ううん。見てただけ。お前は?」
「僕も、見てただけだよ。じゃあさ、ちょっとお茶してこうよ。」
「えっ、今から? 帰ったら、すぐ夕飯じゃん。」
「いいから、いいから。」
「だったら、アリオのお惣菜が、そろそろ半額になってるから、そこで唐揚げか何か買って食おうぜ。」
「僕は、甘いものがいいの。」
奈津樹に引っ張られて、二人は本屋の一階に併設されている喫茶店に入った。弟は、コーヒーとアップルパイを注文し、
「奢ってね。」
と、しゃあしゃあと付け加える。弟というのは、どうしてこうもちゃっかりしているのだろう、という疑問に首を捻りつつ、雅弥はコーヒーとミルクレープを頼んだ。
「雅君、クリスマスは、なんか予定あるの?」
「二十三日に友達の家に行くけど・・・。」
「うちの部も、学校で二十三日にクリスマス会やるって。やっぱ、みんな二十三日にやるね。」
奈津樹は、中学の吹奏楽部である。
「まあ、本番の二十四日や二十五日は、学校、あるからな。」
「うちは、今年どうするんだろう?」
「さあ。」
「もう、サンタも来ないしねぇ。」
昔は、岩崎家にもサンタクロースは来ていたが、さすがに中学生と高校生のところへは、もう来ない。そうなると、クリスマスもあまり盛り上がらないものである。
「クリスマスツリーくらい飾れば? また、ぐるぐる巻きにして。」
コーヒーを飲みながら、雅弥はからかった。
「雅君もママもよくその話するけどさ、僕、あんまり覚えてないんだよね。」
自宅にあったクリスマスツリーは、折りたたみ式で、枝の部分を幹に向かって開いたり閉じたり出来る。飾る時には、枝を広げ、仕舞う時には、枝を閉じると場所をとらない、という便利な造りであった。雅弥が、保育園の時に買い求めたものらしい。以来、毎年、クリスマスに飾っていたが、数年経つと、だんだん母も雅弥も飽きてきて、わざわざ飾るのがおっくうになってきた。ある年、ぐずぐずとクリスマスツリーを押入れから出すのを面倒がって、後まわしてしていると、まだクリスマスというものに夢一杯で、サンタを本気で信じていた奈津樹が、とうとう痺れを切らし、「自分が飾る」と言い出した。彼が、小学校二年生の時だ。
「一人でやるから、ママと雅君は来ないで。」
と、二人を部屋から追い出し、押入れから母が出してやった飾りとツリーの入った箱と一緒に閉じこもった。しばらくゴソゴソやっているようだったが、やがて、
「出来たから、見に来ていいよ!」
と、得意満面の奈津樹に部屋の中へと招き入れられた。そして、そこには金や銀のモールと点滅する電飾で、縛られたようにぐるぐる巻きにされ、てっぺんに星の刺さった一本の棒が垂直に直立していた。真っ直ぐに天井を向いた枝の先には、赤いサンタクロースの人形や、天使や、トナカイ、キャンディースティックの形のオーナメントが、提げてあったが。しかし、それは、どう見ても、「木」ではなく、「棒」だった。奈津樹は、枝を開かずに、いささかの疑念もなく、そのまま飾り付けしてしまったのだ。母と雅弥は、腹を抱えて笑い転げ、小さな弟は、憮然とした表情で憤慨していた。
「ママも雅君も、いっつもその話するけどさ、僕、あんま覚えてないんだよね。」
アップルパイをフォークでつつきながら、彼は考え込むように言った。
「時々、不思議に思うんだ。僕のことなのに、僕はちっとも覚えてなくって、他の人が僕のことを覚えてる。それって、変だと思わない?」
「小さい時のことなんて、俺も覚えてないよ。ちゃんと記憶があるのって、だいぶ大きくなってからだよ。みんなそうだろ?」
「それはそうかもだけど、僕が言いたいのはそういうことじゃなくてさ、僕は生まれた時から、自分はずっと同じ僕だと思ってたけど、本当はそうじゃないんじゃないか、って時々思うことがある。」
「じゃあ、別人だっていうこと?」
「ん~、そこまでは言わないけど、だって、身体は一貫して同じ僕な訳だろ? でも、記憶はない。勿論、小さい時だって、きっと何か考えてたはずなんだ。うんと小さい時でも、断片的には、覚えてることもある。遊んでた積み木の色だとか、ママが僕に向かって投げたボールだとか、映像みたいにして頭の中に残ってる。その時の気持ちとかもね。弾んだボールが地面をふわっと跳ねて、高く高く、僕の背よりも高く跳び上がって、僕は本当にそれが空まで飛んでいってしまうと思った。だから、泣いたんだ。でも、その一方で、『クリスマスツリーが棒事件』みたいに、周りから言われて、ああそんなことがあったような気もする、っていうぼんやりした気持ちになることもある。そうなると、一体、どこまでが僕は僕なんだろうって、区別が付かなくなるんだ。」
「なに、おまえ、最近、そんなこと考えてるの?」
「別にいつも考えるわけじゃないけど、時々、考えるね。」
奈津樹は静かにそう言って、少し大人びた顔で笑った。
その後、二人が揃って帰宅した兄弟に、母は少々意外そうに、
「なあに、珍しい。帰り道に途中で、一緒になったの?」
と尋ねた。
「丸善で会ったんだよ。」
と、雅弥は説明した。
「お腹空いた。」
と、奈津樹は答えた。
「ご飯ならもうすぐだから、先に手洗って、うがいしてらっしゃい。あ、そうだ、雅君、アルミホイルがもうすぐ無くなっちゃうんだけど。最近、ちっとも取って来てくれないから。」
雅弥が中学の時から通っている碁会所では、数ヶ月に一度、参加自由の囲碁大会があり、商品は、なぜかアルミホイルやラップなどの台所用品だった。そのため、母は、自分では買わずに、雅弥の持ち帰るそれらの品を消費するのを当然と思うようになっていた。
「ないと困るんだけど。」
「わかったよ。」
仕方なく雅弥は、頭の中で忙しく暦をめくった。
「二十三日に、碁会所で大会あるから、そこで貰えるかも。」
「お休みの日でしょ? 学校のお友達の床に行くんじゃなかったの?」
「それは、昼からだから。囲碁大会は、午前中だから大丈夫。碁会所から、直接行く。」
雅弥は請合った。
ところが、思いがけず、この母との約束のために、雅弥は、当日に綾乃を駅まで迎えに行く機会をふいにしてしまった。宗佑に、
「綾乃ちゃん、うちの場所知らないからさ、岩崎が駅まで迎えに行って、一緒に来てあげてよ」
と頼まれたが、雅弥はもう大会に申し込んでしまった後だったのだ。
「じゃあ、仕方ないね。小夜香に頼むことにするよ。」
宗佑は気軽にそう言ったが、雅弥自身は、折角の機会を逃した気がして惜しかった。クリスマス会は、他のみんなと一緒だから、綾乃と二人きりで話せる時間はほとんどないかもしれない。だが、今更、仕方がなかった。それに、とりあえず綾乃が元気そうな様子をしているのを直接、目で確かめられさえすれば、自分は安心できるだろう、とも思った。
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