第3話  湖と白鳥

 翌日の土曜日、小夜香は一限目の授業が始まる前に、六組を来襲した。雅弥が、次の土曜日に、綾乃と会う約束を取り付けた、という報告を聞くや、彼女は、

「よし。」

と、力強く一言だけ言って頷いた。まるで鬼コーチが、選手の会心の一撃を見届けた瞬間のようだと、雅弥は内心、思った。

 金曜日までを、雅弥は、うわの空で過ごした。その日が楽しみなように思える時もあれば、まるで、歯医者の予約日のように感じる時もあった。

 十二月の最初の日曜日は、よく晴れていた。雅弥は、冬場は手動になる車両のドアを手で引いて開け、底冷えのする上諏訪駅に降り立った。改札を出ると、綾乃が待っていた。先週と同じコートの下に、今日はセーターとジーンズである。

 駅から湖の方へ向かって歩いてゆくと、すぐに湖畔公園に出て、芝の上から広々と湖面が見渡せた。水の中に何かを肩に担いだように見える姿の像が立っている。

「あれって、何を担いでいるんだろう?」

と、雅弥が何となく不審に思って尋ねると、綾乃は、首を傾げ、

「兜・・・じゃなかったかなぁ。お姫様が、兜を持って、湖を渡るお話だったような・・・。」

と、あやふやな口調で答えた。

「ほら、あそこに説明の碑が。」

彼女が指す方を見ると、確かに四角な石に彫られた『本朝二十四孝』の解説がある。その左手は。遊覧船の船着場で、巨大な白鳥型の遊覧船が停泊し、周囲には小さなボートが漕ぎまわっている。

「諏訪湖にも、姫が居るんだねぇ。」

小夜香の発表会の後で話題になった、白鳥のオデット姫のことを思い出しながら、雅弥は感想を述べた。

 それから、二人は公園を抜け、船着場を過ぎ、湖岸道路に沿って歩いていった。寒いので、どんどん歩いた。道路は一直線に伸び、迷いようもなかった。そして、すぐに彼らは、綾乃が日頃練習をしているヨットハーバーに着いた。

 停泊している船は、きちんと帆をたたまれ、帆柱だけが林立していた。雅弥は、夏にここで疾風号に乗った時のことを思い出した。それで、疾風号のことを聞いてみると、綾乃はすぐに小さなヨットの一つを指差した。

 近寄ってみると、帆柱の根元にセロテープで貼り付けてあった『渡』の朱文字を書いた木製の御神籤は、すでに取り去られていた。

「あの後、部長が、すぐに回収しちゃったんです。また、来年、使うからって。」

綾乃は、そう説明した。二人は、遠く対岸まで見渡しながら、鏡のような水面をじっと見詰めた。今にもそこから、白龍が水飛沫を上げながら、姿を現すのではないかという幻想にも似た錯覚を雅弥は感じた。彼がそう言うと、綾乃も深く同意した。

「疾風号で帆走していると、時々、湖の底にあの龍が居るんじゃないか、っていう気がして・・・。」

「冬の間、船はずっとここに繋いでおくの?」

「いいえ。今月中に艇庫へ移すそうです。じきにここも凍るから。遊覧船も、年が開けたら、春まで運休になるし。」

雅弥は、少し頭の中を整理して、どう話を運べばいいのか思考を組み立てた。先週、会った時、綾乃は何かを気にしていた。そして、そのことについて相談したかったにもかかわらず、とうとう言い出せなかったらしかった。その気持ちは、雅弥にもよくわかった。非現実的な体験を振り返って、それを言葉にして語るのは、とても難しい。実際に口に出して語り始めた途端、その実体はあやふやになり、行き場のない領域に雲散霧消してしまう。実際に起こった信じたことを語ることそのものは、とても簡単だ。ただ問題なのは、そこには決定的に現実感というものが欠如していた。彼らが体験したものは、そういう類のものだったのだ。綾乃が逡巡する理由も、おそらくはそういうことなのだろうと雅弥は考えた。

「あー。」

咳払いしながら、雅弥は声を出した。

「あれからね、よく考えてみたんだ。藤森さんが、言ってたこと。自分の身の回りで、何か起こってることはないか、って。」

綾乃は、湖面に浮かぶ疾風号からゆっくりと視線を彼の方へ移した。

「でも、何もなかったんだ。松本城のあの地下通路、あれは、その後、誰も使っていない。長野至誠の連中は、忙しいみたいだ。校長室も、あれっきり普通だし・・・。」

長野至誠というのは、雅弥達が通っている松本音和高校の長年のライバル校であった。校長室は、綾乃が音和高校の学園祭で、諏訪清涼高校の校章である梶の葉の紋を掛けた場所である。

「そうですか。」

綾乃の声はとても平板で、雅弥がそこに何かしらの意味を読み取ろうとしてもまるで歯が立たなかった。それでも、彼は懸命に話を続けた。

「でもさ、藤森さんは、何か気になったんでしょ?」

「私も、そうやって聞かれたんです。身の回りに何か・・・普通じゃないことは起こらなかったか、って。」

静かに綾乃が答えた。雅弥は、意表を突かれた。

「聞かれたって、誰に?」

「うちの帆掛け部・・・ヨット部の部長に、です。」

「なぜそんなことを聞いたんだろう?」

「それは、多分・・・、私が籤を引き当てたから。」

「籤って、あの『渡』の籤?」

いささか意外で、雅弥は問い返した。

「あの籤の意味は、もう解けてるでしょ? 藤森さんが梶の葉を音和に運ぶ合図で、それは、至誠が俺らに『飛龍吉祥』の書を渡す合図だった。」

「ええ。」

と、綾乃は、素直に同意した。

「私も、そう思ってて。全部、終わったつもりでいたら、部長に『身の回りによく気をつけたほうがいいよ』って言われて、それで、割と・・・かなり、びっくりして。」

そこまで言って、ふと綾乃は言葉を途切れさせ、何か考え込んだ。それから、唐突に、

「寒くなってきたから、歩きましょう。」

と雅弥を誘った。実際、しばらく立ち止まっている間に、つま先が凍えてきた。彼が大人しく従って後に付いてゆくと、綾乃は先に立ってヨットハーバーを離れ、湖に沿って歩き始めた。雅弥は、追いついて彼女の横に並び、歩調を合わせた。

「部長さんはさ、どういう意味でそんなことを言ったんだろう?」

雅弥は、遠慮がちに尋ねてみた。

「私も同じ質問をしたら、『籤は、神意だから』って。」

「シンイ?」

面食らって雅弥は、繰り返した。

「神様の意思、の神意。」

「ああ・・・、成る程。」

綾乃は、またしばらく黙って考え込んでいたが、

「本当は、部長だって、何も具体的なことはわかんないんだとは思うんです。」

と、続けた。

「私、部長には、あの後、何が起こったか全部話したんです。一応、報告しなくちゃ、と思って。」

「信じてくれた?」

心配になって、雅弥は尋ねた。

「わかりません。ただ、私の話を黙って全部聞いて、そうか、って言っただけだから。その翌日に、部長は、疾風号の籤を外したんです。だから、私、これで全部片付いたんだ、って思ったんです。」

雅弥自身、ほとんどそう信じていたし、実際、夏以来、全ては常識の範囲内で物事は進行しているように思われた。それなのに、綾乃の部長は、彼女に警告した。本人すら、具体的に何を指しているのかよくわからない警告を。

 二人の横を、ジョギングしている人が通り過ぎた。そういえば、さっきはウォーキングの人ともすれ違った。雅弥がそう言うと、綾乃は、この湖岸道路はマラソンのコースになっているのだと教えてくれた。

「マラソン大会もあるし。えっと、諏訪湖マラソンだか、何か、そんなようなのが。」

 二人は、そのまま無闇とてくてく歩き続けた。しかし、一体どこまで彼女は行くつもりなのだろう。こうやって歩いて行く先に何があるのか、雅弥は知らなかった。諏訪には何度か来たことはあったが、いつも父の車でだったので、土地勘はほとんどない。

「じゃあ、諏訪には何しに来てたんですか?」

と、綾乃が聞くので、

「白鳥を見て、片倉館で温泉に入る、っていうのがお決まりだったかな。」

と、雅弥は答えた。

「でも、随分前のことだよ。小学生くらいの頃。」

「白鳥、もう来てますよ。見に行きますか? だいぶ遠いけど。」

「場所、わかるの?」

「ええ。横川河口で餌付けしてるから、行けばたくさん居ます。」

それで、結局、二人は白鳥を見に行くことに決めた。ただ無意味に歩き続けるより、何か目的があった方がいい。どういうわけか、二人の頭の中からは、「歩かない」という選択肢は、すっぽり抜け落ちていた。雅弥自身は、歩くのが好きだし、綾乃も随分と健脚なようだった。ただ、それぞれが自分の考えにもっぱら耽って、あまりめぼしい話もしなかった。しかし、雅弥はあまり苦痛ではなかった。歩いていると、頭の中で色々な考えが、規則正しくきちんと整理されてゆく感覚がある。そして、今は、さしあたって何か考えなければならないようなことは、思い浮かばなかった。綾乃の相談は、とても漠然としていて雲を掴むようだったし、どう考えても心配する必要のあるものとも思えなかった。だから、彼は、湖の周囲を囲む山々を眺め、灰色を帯びた湖面の輝きに目を細め、隣を歩く綾乃の存在をすぐそこに感じるだけで、十分満足だった。

 二時間近く歩き続け、途中、天竜川に架かった橋を渡って、二人はようやく白鳥の飛来地にたどり着いた。白鳥の数は、思ったより多かった。そして、白鳥だけではなく、もっと小型の水鳥もたくさん混じっていた。

「あれは、アヒルなのかな?」

嘴の先の黄色い、茶色い水鳥を指して、綾乃は尋ねた。

「ううん、カルガモ。あの緑色の頭のは、マガモで、シッポの先が、ピンと上向いてるのがオナガガモ。」

と、雅弥がすらすらと答えた。

「よく知ってるんですね。」

「うちの父親が、そういうの好きなんだ。」

「それだから、ここへも家族で白鳥を見に来てたのね。」

納得がいった、という面持ちで、綾乃が頷いた。昼時はとっくに過ぎており、二人ともすっかり空腹だったので、近くのコンビニまで行って、あれこれ食べ物や飲み物を買い込み、それを持って再び岸に戻った。そして、白鳥達を眺めながら、肉まんを頬張り、ペットボトルの温かいミルクティを飲んだ。温かいものが胃の中に納まると、生き返るような心地がした。

「藤森さんも、ここによく来るの?」

「いいえ。」

「えっ、そうなの? ちゃんと場所を知ってるから、てっきり・・・。」

「湖の上から、教えてもらったんです。ヨットで帆走している時に、あそこが冬になったら白鳥の来る場所だって、先輩から。」

空腹がおさまると、二人はコンビニで買ってきた食パンをちぎって水鳥に投げた。白鳥達は、意外と腹を空かせていたようで、騒々しく白く長い首を伸ばし、争って食べた。カモ達は、身体が小さいせいか遠慮がちだった。時々、他にも白鳥を見に来る人々がやって来た。大きな望遠レンズの付いたカメラを構えている人もいた。

「白鳥って、どれもこれもそっくりだね。ああいう少し灰色っぽいのは、今年生まれた幼鳥だとわかるけど、それ意外のは、全部同じに見えるな。」

「黒鳥が混じっていたら、一目瞭然でしょうけど。」

と綾乃が答えたのは、彼女もまた、小夜香の発表会の後、皆で話していた時に話題になった『白鳥の湖』のオデットとオディールのことを思い出したからだろう。

 四時近くなって、太陽が僅かに傾いただけで、急激に空の色合いは薄れ始め、日差しの名残が寂しげに水面を光らせるようになった。二人は、これからどうやって帰るか相談した。岡谷の駅か、下諏訪の駅か、どちらが近いか、彼らが今いる場所からは、ほとんど同じ位の距離だった。

「藤森さんは、上諏訪の駅で降りるの?」

「ええ。」

「じゃあ、下諏訪駅まで歩こう。下諏訪の方が岡谷より上諏訪に近いし、一駅で済むでしょ。」

「でも、松本からは、一つ遠くなりますよ。」

「松本までの全体の距離に比べたら、一駅分の距離は僅かだけど、二駅と一駅の距離だったら、それは二倍になるでしょ。だから、その差は、より大きいと思う。」

と、雅弥は妙な理屈を捏ねた。本人としては、綾乃にしっかり気を遣ったつもりだった。つまり、一緒に並んで歩く時に、車道側を自分が歩くような類の心配りのつもりだった。ただし、それが綾乃に通じたかどうかは、わからない。

 二人は、再び歩き出した。途中、またひとつ橋を渡った時、綾乃が、

「これ、砥川です。」

と、教えた。

「この上流に中之島っていう中洲があって、そこに浮島神社が建ってるんです。」

「ああ・・・、ここがそうなんだ。」

七月の、音和高校での蜻蛉祭で、綾乃から聞いた話を思い出しながら、雅弥は欄干の下の水を覗き込んだ。浅くて、それほど大きな川ではない。船の上で、『渡』の朱文字が入った籤を引き当てた綾乃は、翌日、ヨット部の部長と浮島神社を参拝し、そこで『梶の葉』の紋を渡されたのだ。その話を聞いた学校の中庭での情景を、雅弥はありありと思い出すことができた。あの時、校舎に囲まれ、屋台や人々で混雑した四角な庭は、文化祭を楽しむ賑やかな喧騒に満ち、夏の眩しい陽光が溢れていた。綾乃は、水色の簡素なワンピースを着て、小麦色に日焼けした顔に困ったような表情を浮かべて、なぜ彼女が梶の葉の紋を音和高校の校長室に掛けることになったのかを、ぽつりぽつりと語ったのだった。あの時、あんなにも強く照り付けていた太陽が、今、同じ二人をこんなにも弱々しく照らしていることが、不思議だった。それは、まるで全く違う世界での出来事だったような気がした。

 下諏訪の駅に着いた時には、あたりはもう黄昏時だった。

「松本行きが、先に来るね。」

駅の時刻表を見上げながら、雅弥は確認した。

「僕が、先に乗っちゃうけど、大丈夫?」

綾乃は、黙って頷いた。二人は、改札を通り過ぎた。綾乃は、入ってすぐのフォームで、雅弥は、向かい側のホームへ行かなくてはならない。

「えっと、それじゃあ・・・。」

雅弥は、綾乃の方へ向きなおり、ぎこちなく言いかけた。

「ねえ、岩崎君。」

不意に、雅弥の言葉を綾乃が遮った。

「あっ、え? 何?」

どぎまぎしながら、雅弥は問い返した。

「私の顔、何か変わってないですか?」

予想もしない質問をされて、雅弥は心底びっくりした。

「・・・顔? 顔って、藤森さんの?」

「はい。」

綾乃は、真剣だった。そこには、微塵も冗談の気配は感じられなかった。そして、彼女はまっすぐに顔を彼に向け、じっと見上げた。

「よく、見て下さい。」

その声色はいつになく低く、思いつめていて、雅弥は言われるままに、しげしげと彼女の顔を見詰めた。仔細に、注意深く。既にほとんど日は落ちていて暗かったが、駅の照明が綾乃の姿をくっきりと照らし出していた。

 日焼けの褪めた肌の色も、珊瑚色の唇も、ふっくらした柔らかそうな頬も、綿飴のようにふわふわとした髪も、寸分の狂いもなく、それは雅弥の記憶にある綾乃だった。黒目がちの瞳を囲む睫が、ゆっくりと瞬きした。

「何も・・・、特に何も変わってない・・・と、思うけど。」

雅弥は、つっかえつっかえ、答えた。他に、何も言うべき言葉が見つからなかったのだ。綾乃は、黙って、頷いた。

「・・・それじゃ、またね。藤森さん。もう、行かなきゃ。」

そろそろ列車が来そうだったので、やむなく雅弥はそれだけ言い置くと、跨線橋の階段を駆け上った。階段を登っている間に、駅のアナウンスが二番線に長野行きの列車の到着を告げた。

 滑り込んできた列車のドアを開けて乗り込むと、雅弥は向かいの窓ガラスに額をくっつけ、反対側のプラットフォームを眺めた。綾乃は、線路の向こうから、こちらを見ていた。なぜか、その顔が、縋るように自分を見ているように感じられて、一瞬、雅弥はそのまま列車を飛び出して、彼女の所へ走って戻りたいような、わけのわからない衝動に駆られた。しかし、そう思った時、列車が、ガタンと揺れ、発車した。頼りなげな彼女の姿が、遠ざかり、たちまち小さくなって、闇の中に飲まれた。列車は速度を増し、あっという間に下諏訪の駅舎は遠ざかっていった。

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