第2話 亡き王女

 プログラムによると、小夜香は前半に一つ、それから、休憩を挟んで、後半に一つ出番があるらしかった。雅弥は、ほとんどバレエの知識などないに等しかったから、詳しいことはよくわからないが、最初に小夜香が出てきたのは、現代風の作品で、ぴったりとした全身タイツに長い髪をそのままひとつに結び、ほとんど打楽器だけの曲に合わせた踊りだった。それが果たして、上手なのか下手なのか、よくわからなかった。ただ、その身体的な柔軟性の見事さには感嘆した。彼女が片足を高く上げて、ぴたりと静止すると、まるで一本の棒のように真っ直ぐだった。あまりに直線的で、生身の肉体ではなく、一種の幾何学的な概念が視覚化したような錯覚を覚えるほどだった。

 けれど、華やかなチュチュで装い、いかにもバレエといった趣で、可憐に踊る作品もたくさんあった。そうかと思うと、まだ赤ん坊らしさを多分に残した幼児クラスの子供達が、オレンジ色の南瓜パンツを履き、まるまるした手足でぴょんぴょん飛び跳ねながら、シンデレラの馬車に変身する場面もあった。それから、もう少し年齢が上の女の子達が、花冠を頭に被り、淡い色合いの薄物を身に付けて、ひらひらと妖精の踊りを舞ったりした。

 次に、小夜香の出番になった時、幕の上がった舞台には、古風な黒衣を纏った四人の乙女の姿が、あるいは俯き、あるいは跪いて、一枚の静止画のように浮かび上がった。やがて、静かに始まった音楽に、雅弥は聞き覚えがあった。とても、有名な曲だったからだ。ラヴェルの『亡き王女のためのパヴァーヌ』だった。

 踊りは、ゆっくりとした動作で始まった。全てが抑制された動きの連続だった。パッセのひとつひとつ、シャッセのひとつひとつがひそやかであり、ポーズは彫像を思わせた。初めのうち、四人の踊り手はそっくりで、どれが小夜香なのか、雅弥にはよくわからなかった。全員が、黒の薄紗のベールが、半ば顔を覆っていたせいで、余計に分かりにくかった。が、やがて、三人が背後に下がり、一人、すっと前に出てきた踊り手が居た。それが、小夜香だった。体つきに、なんとなく見覚えがあった。彼女がソロで踊る間、背後の三人は、膝をつき、祈るような、嘆くような姿勢で、影絵のようにひっそりと蹲っていた。そして、彼女達が、再び、立ち上がった時、いつのまにか、腕に白い衣装の小さな女の子を三人で抱えていた。その子は、目をしっかりと閉じ、腕を眠るように頬の下に重ねてじっとしていた。その時になってようやく、雅弥は、この踊りが曲の題名の通りに幼い王女の死を悼んでいるのだという事に気が付いた。

 まどろむようなホルンの音色が、ゆらゆらと夢と現の間を彷徨う中、生と死の境を横切る不吉な影のように、小夜香は最後に幼子の前へ頭を垂れた。

 照明が明るくともって、拍手が鳴り響き、観客に答えて、踊り手たちは、深々とお辞儀をした。王女役の小さな女の子も、にこにこしながら手を引かれて、舞台から挨拶をした。宗佑が、素早く座席から前に走って、花束を差し出した。進み出た小夜香は、優雅に膝を折って受け取った。白百合の花束は、黒衣に良く似合った。

 それからすぐに全ての演目が終わり、人々はぞろぞろと会場から出口に向かって列を成して歩き始めた。

 「よかったら、ココスで待ってって、小夜香が。ほら、向かいのとこにある、あそこの。」

宗佑が、携帯の画面を確認しながら、雅弥と綾乃に伝えた。三人は、市民芸術館の前の道を渡った向かい側にあるココスに入った。三人は、ドリンクバーであれこれ飲みながら、小夜香を待ちつつ、だらだらと雑談した。

「綾乃ちゃんは、今日は、部活、休んでよかったの?」

コーヒーに入れた砂糖をかき混ぜながら、宗佑が尋ねた。

「ええ、最近はもうほとんど自主トレみたいな感じなんです。競技シーズンは、終わったから、春までは割りに暇で。」

「そっか。湖だって、そのうち凍るものね。練習なんか出来ないよね。」

「だから、冬の間は、体力作りとか、あと、兼部してる人も結構いるし。私はしてませんけど。」

湯気の立つココアのカップで、両手のひらを暖めるようにしながら、綾乃は答えた。宗佑は、今度は雅弥の方へ話を振った。

「岩崎も、今、暇なんだろ?」

「うん、試合、負けたから。初戦敗退。Aチームは、勝って全国だけど。あと、丸山先輩は、個人戦でも全国だし。」

雅弥は、Bチームとして囲碁の大会に出ていたが、あっけなく負けた。彼の腕前は、アマチュアの二段といったところだが、全然、歯が立たなかった。一方、五段・六段の棋力で固めたAチームは、勝ち抜いて全国大会出場を決めた。棋道部の部長であり、宗佑の兄であり、かつ元生徒会長の丸山蒼太は、個人戦でも全国に出る。  

「おまえも、吹部の方の大会は終わったんだろ? 暇なんじゃないの?」

そう尋ねると、宗佑は首を振った。

「いやいや、これからアンサンブルの方のコンクールがあるから。僕、フルート四重奏で、出るからさ。そっちのオーディションが今月なんだよ。結構、忙しい。」

そのうち、大きな布製の肩掛け鞄をかついだ小夜香が、すたすたと店の中に入って来て、ぐるりと店内を見回した。宗佑が、手を挙げて合図した。

 小夜香はすっかり化粧を落とし、しかし、髪は舞台用にひっつめて結い上げたままで、整髪料をたっぷりつけた髪が烏の濡れ羽色につやつやと光っていた。

 「お疲れ!」「久しぶり!」「舞台、すごく綺麗でした。」「来てくれて有難う。」

などという挨拶が、しばし、テーブルの周囲を飛び交った。

「あれ、花束は?」

小夜香が鞄しか持っていないのに気付いて、雅弥は尋ねた。そもそも、あの花束のために、綾乃を誘うことになったのだ。

「先に親に持って帰ってもらった。早く水に挿してあげないと、可哀想だから。ね、今日の舞台、どうだった?」

「うん、なんか死神みたいだった。」

ついうっかり思ったままを口にしてしまい、雅弥は小夜香に睨まれた。

「死神って、何!? あれは、宮廷の侍女達に扮してたんだけど?」

「あ、いや、その・・・。」

まごまごと雅弥は、言葉に窮した。彼が言いたかったのは、あの舞台を観ながら浮かんできた漠然とした印象だった。空を飛ぶ鳥の黒い翼が、死の谷へふと影を落とすように、幼く無防備な者が黄泉の世界へあっさりと逝く。そんなまだ読んだこともない物語の一節が、心に浮かんだのだった。しかし、勿論、彼は、そうした精巧で複雑な情景を描写しうるだけの言葉をまだ持たない。

「でも、私、本物のバレエをちゃんと見るのって初めてだったけど、楽しかったし、素敵だったな、って・・・。」

綾乃が、横から助け舟を出した。小夜香の表情が、少し和らいだ。

「今日のは、全部、創作バレエで、クラッシックではなかったんだけどね。」

彼女は、そう説明した。

「クラッシックって?」

急いで雅弥は尋ねた。なるべく、話題を逸らさねばならない。

「古典バレエのこと。有名なのだと、『白鳥の湖』とか、『眠れる森の美女』とか、『くるみ割り人形』みたいな。」

「あ、『白鳥の湖』なら、知ってる。昔、小学生の時、漫画で読んだから。」

と、綾乃。

「漫画?」

訝しげに小夜香が尋ねた。綾乃は、頷いた。

「主人公のオデットが悪魔のロッドバルトに攫われて、白鳥にされるお話。それが漫画になってて、あ、こういう内容なんだって思って。」

「へええ、漫画でもあるんだ。知らなかった。」

小夜香は、意外そうである。

「でも、舞踏会に来た偽者の黒鳥に騙されちゃうんですよね、王子が。なんで騙されるのかなぁ、って不思議で。だって、白鳥と黒鳥でしょ? 見れば、わかりそうなのに。」

綾乃の疑問に小夜香は、声を立てて笑った。

「うん、わかる。変だよね。黒鳥のオディールは、ロットバルトの娘で、オデットにそっくりっていう設定だけど、じゃあ、なんで二人はそんなに似てるんだ、っていう話になるじゃない? だから、私、オディールは、オデットとロットバルトの間に生まれた娘じゃないかと思うのよね。母親と娘なら、そっくりでも当然じゃない。」

「えー、そりゃまた、新解釈だね。本当にそうなの?」

と、尋ねる宗佑に、小夜香は頭を振った。

「さあ、知らない。でも、そうだと仮定すると、色々すっきり説明できるのよね。どうして、オディールが父親の命令に素直に応じてオデットと王子の中を邪魔しようとしたのか。誰だって自分の母親が他所の男に靡いたりしたら普通、イヤじゃない。それに、顔がそっくり、っていう設定も納得がいくじゃない。」

彼女の理屈は、それなりに筋が通っているようにも思えたが、そうなると御伽噺(フェアリーテイル)が、一気に昼ドラめいてくるなと雅弥は思った。

 結局、無駄話をしながら、お茶を飲んでいるうちに、お腹が空いたと小夜香が騒ぎ出し、それぞれ食事を注文して、なんだか早めの夕食のような感じになった。実際、十一月の日の入りは早く、気が付くと窓の外は、とっぷりと日が暮れてもう暗い。

 綾乃が、そろそろ帰らなくてはと言い出したのは、七時を過ぎた頃だった。

「じゃあ、駅まで一緒に行く。自転車、駅前に置いてあるし。」

雅弥も立ち上がった。意味ありげに、にやにやしながら見送る小夜香と宗佑を席に残したまま、二人は外に出た。暖房の効いた室内から、いきなり外の冷気に晒されて、彼らはたちまち震え上がった。身を縮めながら、早足で駅に向かって歩き出す。

「電車の時間、大丈夫?」

「調べてあるから、大丈夫です。駅前でちょっとお買い物もしたかったから、余裕見てあるし。」

街灯の明かりの下、綾乃の吐く息も白い。

「えっ、買い物って、どこで?」

「丸善、行きたいな、って。駅のすぐ近くにある、あそこ。」

「あ、だったら急いだ方がいいかも。あそこ八時までだから。」

煌々と明かりの灯ったビルに二人が入ったのは、閉店の十五分前だった。綾乃は、本を見るのかと思ったら、入ってすぐ左の文房具の方へ行く。何を探しているのかと思ったら、シール売り場を熱心に見ている。

「あ、岩崎君は、本とか見てていいよ?」

隣にくっついている雅弥に気付いて、綾乃が言った。

「いや、別にいいんだ。ここなら、僕は、いつでも来られるし。」

「そう。」

雅弥が眺めていると、綾乃はたくさんある中から、お菓子の形や、リボンの形、それとヨットと猫のシールを選び出し、会計を済ませた。

「シール、好きなの?」

「集めてるの。あと、ノートとか手帳や持ち物に貼ったり。」

駅に向かって再び歩き出しながら、綾乃はそう説明した。駅前の改札で、彼女はもう一度、頭上に掲示されている時刻表を注意深く確認した。

「あと、何分?」

「まだ、十五分あります。」

綾乃は切符を買ってから、そのまま改札を通るのかと雅弥は思って見ていたが、彼女は何か言いたげに改札口の前でもじもじと立ち止まっていた。

「・・・?」

不審そうに雅弥が、黙っていると、思い切ったように彼女は言い出した。

「あのこと・・・、夏の時のこと、なんにも話しませんでしたね。」

「ああ・・・。」

ようやく、雅弥は合点がいった。綾乃が言うのは、この夏、彼らが体験した現実離れした出来事のことだった。もしかしたら、彼女は、今日、雅弥達と会って、その話題が出ることを期待していたのかもしれない。

「そういえば、話さなかったね。でも、僕達、あんまりあのことには、最近、話してないから・・・。」

「最近は、特に何も起こってないから、ですか?」

思わず、雅弥は、彼女を凝視した。綾乃は、真剣な表情をしている。どうやら、冗談で言っている訳ではないらしい。

「・・・藤森さんの方では、どうなの? 何か起こってるの? 」

答える前に、彼女は一瞬、躊躇い、何か迷う風だった。

「わかりません。よく、わからないんです。」

呟くように、彼女は答えた。

「それで、ちょっと相談してみたくて。でも、具体的に何が、っていうわけじゃないから、どう切り出したらいいのかわからなくて・・・。」

彼女の言葉が途切れ、駅の構内を行き来する人々の雑踏の中で、二人の間にだけ、沈黙が落ちた。

「ねえ、来週の土曜日って、暇?」

唐突に、雅弥は尋ねた。

「今日は、藤森さんが来てくれたから、今度は、僕が行こうかな、って・・・あの、もし、良かったらだけど。」

綾乃は、ホッとしたように頷いた。二人で大急ぎで時間と待ち合わせ場所を決めてから、綾乃は改札口を通り、それから一度振り返り、手を振った。それから、茅野行きの普通列車が到着するプラットフォームへ降りていくのを、雅弥は見送った。

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