マヨイガの夜

千石柳一

マヨイガの夜

 遠野にては山中の不思議なる家をマヨイガという。マヨイガに行き当りたる者は、必ずその家のうちの什器じゅうき家畜何にてもあれ持ち出でて来べきものなり。その人に授けんがためにかかる家をば見するなり。


 ――柳田国男「遠野物語」六十三話より







 どこへ向かっているのだろう。

 どこへ行くつもりなのだろう。

 私は、いつからこうしてあてもなく歩いていたのだろう。

 夏至をとうに過ぎた九月の太陽は、思っていたよりも沈むのが早くて。

 今はもう、うっそうとした山の中、数歩先さえもおぼつかない。


(帰れないのかな……)

 足を止め、私はぼんやりと思った。そして、

(帰れないなら、帰れなくたっていいじゃないか)

 そうも、思った。


 私は去年の冬から、世の中の同じ立場の者たちと並ぶ形で就職活動を始めた。

 やるべきことはやってきたつもりだった。

 それでも、今のこの不況下と、厳しくなる雇用情勢である。

 大学も普通、資格もない、特に際立った経歴もない、ごく普通の人間が行きつく場所など、もはやないのだと嫌と言うほど思い知らされた。


 私はただ、普通に働き、普通に暮らしたいだけなのに。

 それさえ、満足にさせてもらえないほどに、自分の力は普通すぎて、それゆえに弱かった。

 もう何十社受けて落ちたのかも、数えるのが嫌でやめてしまって。


 気がついたら私は、まるで社会や現実から逃げを打つかのように、遠い北の地をさまよっていた。

 いつか行きたいと思っていた場所。

 まさかこんな、後ろ向きな気持ちでやってくるとは思わなかった。



 ここは、岩手県遠野。



 何日か適当に宿を取って、ふらりふらりとあちこちを眺め歩いた。

 世俗を離れ、美しい自然に抱かれている間だけ、東京に置いてきた現実のことを忘れられた。

 それでも、どのみち数日後には帰らなくてはならないのに。

 いっとき逃げを打ったところで事態は何一つ好転せず、それどころか悪くなるばかり、そんなことは分かっていた。

 ただ、分かっていても、逃げずにはいられなかったのだ。


 私は今、暗い山の中であてもなくさまよい、迷っている。

 このまま遭難して、帰れなくなったとしても、別に構わなかった。

 仕事が決まらなくて金を得られず惨めに餓死するのなら、このままここから出られなくなって餓死するのと何も変わらないと思った。


 私はもう、帰ることを早々に諦めていた。

 それどころか、もっと深く行ってみようとさえ思っていた。

 生を放棄した私は、なんでもしてしまえ、という自暴自棄な感情で動いていた。

 その衝動的な感情のまま、どれだけ歩いていただろうか。

 急に視界が開けて、私は目の前に一軒の家を見つけた。




 こんな山の中に山小屋ならともかく立派な門構えの家があるなんて思わなかったので、私は少しだけ面食らった。

 しかもその家には灯りがついていた。それならばこの暗い中で、もっと早くにその光を見つけることができたはずなのに、どうしてだか私は家の輪郭が見えるまで光に気付くことができなかった。

 変だなとは思いつつ、家のそばまで歩いていってみた。


 軽く押したら、鉄の門はすっと開いた。他人の家に勝手に入るなどほんの少し後ろめたかったのだが、興味のほうがはるかに勝っていた。

 なぜこんなところに家があるのだろう。

 家の住人は何を考えてこんなところに住んでいるのだろう。


 立派な、木製の扉の取っ手に手をかける。

 これもまた、軽く引くだけですっと開いた。

 まるで、訪れた人間を喜んで迎え入れるかのように。

 私は、山中の不思議な家に一歩入りこんだ。




 人の気配がしない。

 ごめんくださいと言ってみたが、返事もなし。

 明かりがついていたのだから、住人は少し出かけているのか、それともトイレかなにかだろうか。


 いや、違う。

 玄関に靴が一足もない。

 と言うことは、今は住人の誰も家の中にいないということなのか。

 私はますます不思議な気持ちになりながら、それでも好奇心のままに靴を脱いで、家の中へと歩を進めていった。


 次の間は普通の民家にありそうな居間だった。円くて丈夫そうな木製の、テーブルと言うべきなのかちゃぶ台と言うべきなのか、そのどちらとも言えないような中途半端な大きさの卓に、ご飯茶碗がひとつ、味噌汁をよそう碗がひとつ、魚を乗せるような角皿がひとつ、ちょっとした浅漬けなんかを盛るような小皿もひとつあった。ご丁寧に箸まで箸置きといっしょに置かれている。

 そしてそれら四つの食器はいずれも空だった。


 いよいよ妙だと思って私はその円卓を回り込むように抜けて、奥に続いている襖を開けてみた。ここまで来ると恐怖さえうっすら感じてくるが、それをはるかに凌駕するほどの興味が私の中で沸き起こっていた。


 襖を開ける。座敷だった。

 その座敷の中央で、鉄瓶が火にかけられている。

 その近くまで行って、屈んでそれをよく見てみた。古そうだが見事な鉄瓶だ。中で沸騰しているのだろう、口から湯気を吐き出し続けていた。

 その湯気を眺めながら、思う。


 人がいない家。それにしてはきれいな家。

 並べられた空の食器。

 勝手に湯を沸かす鉄瓶。


(なんだろう、ここは)

 人がいないにしては、あまりにも自然で、それが逆に不自然だった。

 もしや、この家には人がいないのではなく、私がこの家にいる人間を見ることができないのではないだろうか。

 すぐそこにいるのに、気がつかない――。


 徐々に徐々に、先ほどからうっすらと感じていた恐怖が増大していった。

 もはやこの家に対する興味は、この鉄瓶から吐き出される湯気のように消え失せていって。

 いまあるのは、ただ恐怖のみ。


 私は本能的に立ち上がった。

 湯を沸かすしている鉄瓶はそのままにして、開け放したままの襖から居間へと出て、そしてそのまま玄関へ――。

 早歩きの中、思った。

(ここにいてはいけない――)



「いいえ、いいんですよ」



 声がしたのは、居間を抜けた直後だった。

 ばっと振り向く。

 そこに、居間に、少女が座っている。

 長い黒髪が腰まで伸びていて、瞳は暗い緑色をしていた。

 ところどころに赤い花をあしらった、これまた暗い緑色の和服を着こんでいた。


(な、なんだこの女の子は)

 私は戸惑って、その場で文字どおり二の足を踏んだ。

 五秒前、帰ろうとして通り過ぎた時は、居間には誰もいなかったはずなのに。

 誰かがいた気配だって、その声がする直前まで感じ取れなかったのに。


 まるで最初からそこにいた少女を私が今気づいたとでもいうような自然さ、そして超然さがそこにあった。

 少女は座ったまま、ふいと顔を上げた。


「ここに、いていいんです」

 無表情のまま、ささやく。

 声は高く、優しい。

 そしてどこか、この世のものではないような、あるいはこの世の半歩だけ隣にあるような、そんな不思議な声色だった。


「きみは……この家の住人?」

 わけも分からぬまま、私はそう訊いていた。

 すると和服の少女は私の言葉にぽかんとしたようになってから、数秒置いてこくこくと頷いた。

「……それでも似たような……かんじです……」

 私は分かったような分からないような、そんな気分でいた。

 すると少女がすっと立ち上がり、突拍子もなく言った。


「あなた……だいぶ疲れているようですね……」

 少女は深い緑色の目で、上目遣いで、私の顔を覗き込んでいた。

「そう……心が疲れています……わたしには分かる……」


 なんだろう、この少女は。

 見た目からしてミステリアスだが、口調も、声も、そして言っている言葉も、どこか世俗を離れた深遠さがある。

 そして、なぜ私のことを知っているような口ぶりなのだろうか。


 自分で言うのもなんだが、確かに私の心はすさんで、疲れていた。

 だけどそれを、初対面の相手にまで悟られてしまうほど、露骨に表にそれを出していただろうか。

「いいえ……あなたのことを直接知っているわけではありません……ですけど、あなたはここに来た……それでじゅうぶんわかります……」


 少女はそこで息を吸い込んでから、その吸い込んだ息を細く長く吐き出すようにゆるゆるとささやく。

「ここは……欲望をすべてなくした人しか……来ることができませんから……」

「欲望?」

 暗い瞳が静かに閉じ、肯定の意を表した。


「人は、生きている以上、欲望を持ちます。食べ物が欲しい、お金が欲しい、身体の快楽が欲しい、名声が欲しい、立ち位置が欲しい、奥さんや旦那さんが欲しい……そういう欲望を持つものが人間ですから……でも、まれに欲望をすべて失った人が……そんな人が、この家にたまーに迷い込みます……」


 少女はまだ、ささやき声で語るようだった。私は黙って聞きに徹する。

「それは、心が疲れて、なにもしたくなくなってしまった人間……生きながら死んでしまったような人間……そういう人たちです……そしてあなたも、そうだったからこの家が見えたんですよ……」


 最後を上がり調子にして、少女は語り終えた。

 確かに私には欲望がなかった。

 何もしたくなかったし、死ぬなら死ぬで構わないと思っていた。

 生きながら死んだ人間――いや、死を待っていたとも言えるくらいだった、私は。


 それほどまでに、私の心は疲れ果てていた。

 そしてそんな人間でしか見つけられない、たどり着けないのがこの家だという――。

 少女はまた口を開き、囁いた。

「ここは……そんな心の疲れてしまった人たちの、お休みどころです……」




 私はその少女に促され、家のおそらく一番奥であろう部屋に案内された。

 そこは四畳半の和室で、私がそこに入ったときには布団が敷かれていて、それ以外には驚くほどに何もなかった。その少女に促されるまま私は布団に入り、少女は私のかたわらに静かに正座で座った。


「眠ってください」

 と、少女は言った。

「この家に迷い込んだ人は……みんなここで休んで、元気になって帰っていきます。あなたも……元気になって……」


 少女は仰向けの私の顔、私の眼にそっと手をかぶせて視界を遮った。

「目を閉じて……身体の力を抜いて……」

 私は言われるままにした。

 私の心は疲れていた。

 そう、疲れていたのだ。

(本当はただ、こうして心から安らぎたかったのかもしれない)


 少女の手が、顔や髪にそっと触れていくのを感触として覚える。

「だいじょうぶです……誰もここにはきません……わたしとあなただけです……」


 甘い囁きが、耳を撫でる。

 気持ちよかった。

 山奥の家で、少女と二人きりで。


 しがらみがほどけていくような、

 時が過ぎることさえ忘れていくような、

 この世から切り離されたような、

 そんな甘美な感覚に、私の心は徐々に浸っていく。


「あなたはもう……わたしの声さえも、とてもだるく感じています……」

 また、少女が囁いた。

 そうだった。

 いつの間にか身体がものすごく重たく、眠く、この少女の声も少し耳に苦しかった。


「それでいいんです……身体の力が抜けている証拠ですから……」

 やはり少女は、私の心が読めているのではないだろうか。

 不思議だった。

 けれどもはや、不思議だと考えることすら億劫だった。

 今は、とにかくこのまま眠りたかった。

 たとえ二度と起きることがなくても、かまわないから――。


「そう……こういうふうにゆっくり休むことができないから、心は疲れてしまいます。 ……でも、だいじょうぶ……この家でゆっくり休んだ人は、みんな元気になって帰っていきますから……」


 眠い。

 眠りたい。

 今すぐ眠って、休みたい。

 そして次の言葉を最後に、私の意識は完全に途切れた。



「安心して……眠ってね……」





 目が覚めた。

 私は草むらの上にあおむけになって、寝転がっていた。

 身体のふしぶしが痛い。

(いったい……)

 眠る前のことを思い出そうと試みる。

 確か、ふらふらと山の中を歩いていて、変な家を見つけて、入ったら――。


 そこからの記憶がない。

 なので、私にとっては何の脈絡もなく自分の身体が草むらに横たわっていた、という事実を釈然としないまま受け止めざるを得なかった。

 狐か狸に化かされたのか、それとも幻覚でも見ていたのか。

 とにかく身体を起こそうとして、上半身に力を入れた時だった。


(……ん?)

 右手に何かを持っていることに気づく。

 茶碗だった。どこの家庭にでもあるような茶碗。一か所縁が欠けている。

 私はどうもこの茶碗をつい最近見たような記憶がぼんやりとあるが、定かではなかった。


 なんだかここに捨てていくのも気が引けたので、私はリュックの中にそれを丁寧にしまい込んだ。

 それから、ややぼんやりする頭で、昨日のように歩き続けた。

 どこへ行くつもりでもなかったのに、なぜか結果としてまっすぐに下山していた。

 町が見えた。

 駅が見えた。

 なんとなく、思った。


(…………帰ろう……)




 家に着いた翌日から、不気味なほど激しく不自然な変化が起こった。

 まず私の携帯に、就活の折に通らなかったはずのあらゆる会社からひっきりなしに電話が掛ってきて、もう一度自分に会いたいと言われたこと。

 もう長くないと言われていた祖母の病が突如として快方に向かっていったこと。


 父親の仕事が爆発的に成功し、大金が家に入ってきたこと。

 就職して社会人になってからは、周りが驚くほどに早く出世していったこと。

 最高とも思える女性と出会い、相思相愛で結婚できたこと。


 なぜこんなにも、良いことが舞い込んでくるのだろうか。

 あるときそう思った私は自らの記憶をたどり、そしてあの日遠野で迷ったときのことを思い出した。


(遠野……迷った……変な家……知らぬ間に持っていた茶碗……もしかして……いやまさか……)




 そして、年月は流れた。

 私は妻とともに、十何年振りかという遠野の地に足を運んでいた。

 あの日のおぼろげな記憶のことは、今まで誰にも話したことはない。もちろんこの妻にもだ。


 それでも私は、あの日のこと、変な家を見つけたこと、そして気づいたら持っていたあの茶碗のことも、妻にすらずっと秘密にしたままだった。

 なぜか、誰にも話す気が起きなかった。


 今でもあの茶碗は、私の部屋の神棚に飾ってある。たまに誰かにあの茶碗はなんなんだと聞かれることがあるが、あいまいに誤魔化している。

 どうしても、あれが私に幸運を呼び込んでくれている気がしてならないのだ。


 ねえ、どこまで行くのよと、草を分けて先へ進む私の背中から妻の声が何度も飛んでくる。

 私は適当に進んでいた。

 あの時のように適当に進めば、またあの家にたどり着けるような気がしていた。

 しかし、どれだけ歩いても、どれだけ探しても、暗くなっても、家はついに見つからなかった。


 私は諦めてその辺の石に腰かけた。そばでは妻がぶうぶう文句を垂れている。

 それを聞き流していると、闇夜を駆ける風が、あたりの草を残らず鳴らして去っていった。

 涼しかった。


(もしかしたらあの家は、一度しか行けないのかもしれない)

 あの時のように闇に包まれ、なんとなくそう私は思った。

 そう思ったら、もうたどり着けなくてもいいか、とも思えた。




 山の中の、不思議な家。

 誰もいないのに誰かがいるような、不気味な家。

 もしたどり着ければ心が安らぎ、

 そこから戻ってくれば幸せがつきまとう。

 そんな家が、どこかにある。

 そしてそんな家は、どこにもない。




 マヨイガはいつだって、見つけようとする人間には見つけられない。

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