鍵をあける

宇苅つい

鍵をあける

■■1


まいの毎日は、絵本の世界みたいだね」

 優一兄ちゃんに、そう言われたことがある。床に寝そべってラムネ菓子を食べながらマンガを読んでいた時だ。意味わかんない、と思ったので、

「どこら辺が?」

 って訊いたら、お兄ちゃんは私を含めた四角い空間を手で切り出すような格好をして、

「この辺が」 と言った。そして、私の口元を指差して、

「特に、この辺かな」 とも言った。

「ベロが真っ青だよ、舞」 って笑われた。

 ベロが青いと絵本だろうか。小さい頃読んだドラゴンとお姫様の絵本では、ドラゴンの舌は青かったけど、あのおとぎの世界と私の毎日はぜんぜん違う。それに、どうせならドラゴンよりもお姫様に私はなりたい。


「つまりね」

 私の顔つきから、見当違いの方向にものを考えていると判断したのだろう。お兄ちゃんがもう一度口を開く。見ると、お兄ちゃんのベロもうっすら青みがかっていた。ラムネ、分けてあげたもんね。

「毎日、宝の鍵を探してるのがね、ファンタジーだってこと」

 そうかな。ファンタジーなのかな。

 お兄ちゃんの言う、『宝の鍵探し』のことを絵本風に説明したら、きっとこんな感じになるだろう。


 舞ちゃんとお母さんには、二人だけのお遊びがあります。

 おうちに帰ると舞ちゃんは、ランドセルを置いて、テーブルの上を見るのです。そこにはお母さんからのいつものお手紙が置いてあります。


『舞ちゃん、おかえりなさい。

 今日のおやつはチョコレートです。さあ、どーこだ?』


 舞ちゃんのうちにはお父さんがいません。だからお母さんが働いています。学校から帰って一人さみしい舞ちゃんのために、これはお母さんが考えた遊びです。宝探しのゲームです。舞ちゃんは毎日一本の鍵を探します。黄色い布製のおさるさんキーホルダーが結ばれているのが目印です。それは、お母さんの鏡台の一番上の引き出しの鍵で、鍵の掛かったその中にお菓子が入っているのです。

「お母さん、今日はどこに隠したのかな?」

 舞ちゃんは考えます。昨日は花瓶の裏でした。一昨日はぬいぐるみのクマ吉くんが小脇に挟んで持っていました。

「苺のチョコレートだといいな」

 舞ちゃんはお部屋の中をくるくるぐるぐる見回します。お母さんはあんまり難しい場所には鍵を隠さないんです。高い戸棚の上だとか、そういう危ない所にも隠したりしません。だから、たいていは十分もあれば見つかります。


 今日はクッションの裏でした。舞ちゃんは鍵を開けてチョコレートを取り出します。ちゃんと苺の味でした。


 うん。そうそう。小さい頃は、お母さんの隠し場所ももっと単純だったんだけどなぁ。

 私は、腕組みを解いて回想を終了する。やっぱり何年も続けていれば、ゲームは次第に複雑化していくものらしい。マンネリを防ぐためか、それとも純粋にゲームを楽しむためなのか、お母さんの鍵の隠し方はどんどん巧妙になっていく。

 本日の鍵の在りかは、なんと梅干しを漬けた容器の中。何重にもラップでぐるぐる巻きにされた上、ビニール袋に入ってたけど、救出したおさるの鍵はスプラッタ・ミイラさながらだった。もちろん、ラップを取り去ればおさるは無傷なワケだけど。でも、それにしたってやっぱりねぇ。


「あれはムゴいよ、お母さん」

 私は、お仕事から帰ったお母さんに抗議する。ムゴくて、しかもグロかった。なんて気の毒なおさるさん。

「前に、みそ壺に入っていた時、色や臭いの移りそうな場所に隠すのはやめようね、って約束したでしょ?」

「あら、そうだった?」

 お母さんは澄まし顔で玉子をボウルに割り入れている。

「舞ちゃん、そこのコロッケ、つぶしちゃって」

 テーブルの上があごでさされる。パックに入ったコロッケは三個で百円。これをくずして溶き卵と混ぜて、塩こしょうして、バターたっぷりのフライパンでジューと焼く。コロコロ・オムレツは特売コロッケの日の我が家の定番メニューだ。今日はカレーコロッケだけど、それもまた味が変わってとっても美味しい。

「お母さんだって、さすがにおトイレには隠さないわよ。非衛生的だから」

「鍵を食べ物の中に入れるのだって、非衛生的なんじゃない?」

「梅干しには殺菌作用があるのよ。平気よ」

 そういう問題だろうか? 私はコロッケをぐじゅぐじゅつぶす。


「お母さんね、いつもお仕事しながら、舞ちゃんが鍵を探しているところを想像するの。一生懸命探してるだろうなとか、ついでに出しっぱなしの洗濯物を片付けてくれてるだろうな、とか」

 鍵探しゲームは、我が家の環境維持にも大いに貢献している。普段から整理整頓を心掛けていないと、お母さんがどこに鍵を隠したのか、ほんとうに分からなくなっちゃうからだ。例えば、本棚の本の配置が昨日と違うなと感じたら、鍵はたいていそこにある。今日の隠し場所だって、梅干し容器の下に敷かれた新聞紙についている赤い汁染みの輪っかと、底面の位置がかなりずれてたから気づいたのだ。そういうのに私は目聡い。

 長年鍛えられた私の空間記憶能力は我ながらなかなかのものだと思うし、整理整頓術だって大人顔負けなものだ。お母さんはそういうオマケも期待して、宝探しゲームを続けているのかも、と思ったりする。棚の埃が気になればさっと化学雑巾でお掃除もするしね。


「でね、鍵を見つけた時の舞ちゃんの表情を思い浮かべてみるのよ。にんまりな満足顔とか、喜色満面の笑顔とか。今日は仏頂面で赤い汁の滴るビニール袋をつまみ上げている舞ちゃんを想像したわ。お母さん、吹き出しちゃったわよ。課長さんに睨まれちゃった」

 ジュワーっとフライパンに玉子が流し込まれる。私が口を尖らせたら、お母さんが笑った。

「そうそう。その顔、その顔!」

 むぅー。


「怒らない、怒らない。舞ちゃん大好きよ」

 出来上がったまん丸オムレツに、お母さんはケチャップで大きなハートを描く。大きすぎてお皿まではみ出しててゆがんでる。

「愛情が溢れ出してるの図」 って、お母さんが言うから、

「いびつな愛だね」 って言ってやった。

 じゃあ、舞ちゃんも描いてみなさいよってケチャップを渡されて描いてみたら、私のハートも不格好だった。二重ハートのオムレツをお母さんと二人で食べた。


■■2


「おーい、いるかい」

 優一兄ちゃんが来た。お兄ちゃんはお母さんのお姉ちゃんの志織おばさんの子どもで、つまり私のイトコになる。ウチのマンションから走って十分の隣町に住んでいる。

「あのさ、はす向かいの藤枝さんのお爺ちゃんが亡くなって、ご近所総出で手伝いに借り出されてるんだ。それで、母さんが今日の夕飯は外で食べて来いだって」

 週に二日あるお母さんの遅番の日は、私は夕飯を志織おばさんのところで食べる。今日がその日なのだった。


 優兄ちゃんがジーパンのポケットからお札を三枚出してヒラヒラさせる。

「ほら、軍資金三千円せしめたからファミレスに行こう。舞はハンバーグランチでしょ? チョコパフェも食べていいからさ、代わりにハンバーグとご飯、半分分けてね」

 優兄ちゃんは中学三年生で、食べ盛りの受験生で、頭が良くって、だのにマンガ本を沢山持っていて、私はよく借りて読んでいる。

 でも、優兄ちゃんが三年生になってからは、お母さんに「優一くんのお勉強の邪魔しちゃダメよ」って言われているので、ご飯の時間にさっとお邪魔して、なるべくささっと帰るようにしているのだ。


「あ、そうだ。これ、『幸福家老』の上・下刊」

 今度は、お兄ちゃんのジャンパーのポケットからマンガ本が取り出される。

「優兄ちゃん、これ読んだの?」

「うん」

「お兄ちゃん、受験生だよね?」

「舞よ、『人は勉強のみに生きるにあらず』なのだぞ。お前も受験生になれば分かる」

「この前はゲームも買ってたよね?」

「人はマンガのみに生きるにもあらず」

 優兄ちゃんは朝、新聞配達のバイトをしている。お金持ちであらせられる。だから金銭面に問題はないようなんだけど。でも、イイのかな? 私は優兄ちゃんが勉強してる姿を一度も見たことがナイ……ような気がする。これでどうしてウチの親戚一優秀だ、なんて言われているのか、私は時々不思議になる。


「舞、首をひねってる暇があったら、さっさとファミレスに出掛けよう。僕はもの凄く腹が減った」

 そう言って、優兄ちゃんはお台所で地団駄踏んだ。


 おなかの虫の鳴る音がした。優兄ちゃんだ。断じて私のおなかではない。

「香澄おばさん、まだこの遊び続けてたのか。二人ともよく続くなぁ」

 こっちの部屋は見たの? と訊かれて、見たと答えた。優兄ちゃんが戻ってくる。

 ダイニング・テーブルには、いつも通りお母さんからのメッセージが置かれている。


『舞ちゃんへ


お帰りなさい。今日はお母さんは遅番の日です。

志織おばちゃんに、この前のおつけものとっても美味しかったと伝えてください。お礼の塩コンブと借りていたタッパーを紙袋に入れておきます。忘れずに持って行ってね。

体操服はきちんと洗たくカゴに出しておくこと。鉢植えにお水をあげること。


今日のおやつはクッキーです。さてさて、鍵はどこかな?』


 いつもの宝探しゲームである。今日に限って、なぜだかちっとも見つからない。

 私が小学一年生の夏に始まったこのゲームは、もうじき五年生になろうという今でも、毎日欠かさず続いている。お友だちと遊ぶ約束をしている日なんかは、少し時間が長引くと、焦れて「ウギャーッ」と叫びたくなる時もある。

 もういい加減、小さい子どもじゃないんだから、こういうの私はやめちゃいたい。でも、お母さんにとって、私はやっぱり子どもだし、お母さんの思う理想の子どもっていうのは、このゲームを楽しむ子なんだろうな、って思うから、やめようよとは言い出せない。

 だって、お母さんはお仕事から帰ってくると、いつも真っ先に鏡台に行って、引き出しの中が空っぽなのを確かめているから。にっこり笑って、「美味しかった?」って訊くから。

 だから、今日だって見つからないと困るのだ。黄色いおさるさんキーホルダーのついた鍵。


「前に、舞がどうしても見つからないってわんわん泣いた時があったよね? あの時は結局どこにあったんだっけ?」

 なりゆきで、いっしょに鍵探索をさせられている優一兄ちゃんが訊いてくる。むぅ。そういう言い方は気に入らない。

「わんわんなんて泣いてないもん。ちょっと涙が出ただけだもん」

 その日もお母さんは遅番の日で、私が夕飯の時間になってもやって来ないのを心配した志織おばさんがウチに電話を掛けてきた。それで、「鍵が見つからないから、今日はご飯はいらないです」って言ったのだ。そうしたら速攻で優兄ちゃんが自転車飛ばして来てくれて、いっしょに鍵を探してくれた。


「あ、思いだしたぞ。あの時は舞の黄色い傘の中に入ってたんだった。僕、見つけた時、『保護色だよ~~~、おばさん、勘弁してぇ~』って叫んだんだよ。そうだそうだ」

 優兄ちゃんが玄関にドタドタ走っていく。

「私の傘、今は赤だよ」

 後をついていった私の言葉は、お兄ちゃんの耳には入らなかったらしい。透明な使い捨て傘も含めて五本ほど入った傘立ての中身をひっくり返さんばかりの勢いで検めている。やっぱり、ナイ。失望の色を濃くした優兄ちゃんのおなかの虫が、切ない声でキュルルーって鳴いた。


 時計が七時を回ってしまった。

「優兄ちゃん、もういいよ。早くご飯、食べに行こう」

「イヤだ」

「だって、見つからないし」

「イヤだ。おばさんに負けるのは」

「勝ち負けの問題じゃないし。第一、お兄ちゃんは受験生だし、おなかの虫も鳴ってるし」

 私に賛成するように、おなかの虫がグーとなる。

「舞、受験生に一番必要なものを後学のために教えてやる。それは決してあきらめない不屈の根性と闘志だよ」

 お兄ちゃんがえらそうに言う。それって一瞬、正論っぽいけれど、多分使う場所が間違ってる。


「鍵が見つからなかったからって、お母さんは叱らないと思うし、クッキーが腐っちゃうワケでもないし」

 どちらかと言うと、お兄ちゃんをこうやって足止めしていることの方がよっぽど叱られるだろうと思う。

「でも、舞は今までずっと、鍵を見つけてきたんだよね?」

「……まぁね」

「数年間たゆまず続くということは、例えどんなことだろうと偉大な功績なんだぞ。皆勤賞を逃すな。どこか見落としてるんだ。絶対にある。よし。捜査の基本・その一、先ずは振り出しに戻れ」

 お兄ちゃんが、だかだかキッチンに戻っていく。



 その後、鍵は拍子抜けなほどいともあっさりと見つかった。なんとお母さんの手紙の置かれたテーブルの上、志織おばさん宛の紙袋の横に堂々と置いてあったのだ。手紙を見る目線をちょっと横にずらしたら、すぐに視界に入る位置に黄色のおさるさんがいた。やっと見つけてくれたんですねぇ、舞ちゃん。ウキキって感じの丸い目玉で。

「盲点だ。目の前に我が物顔にありすぎて、かえって全然気がつかない。ミステリーの原点だなぁ」

 お兄ちゃんがヘンなとこに感動してる。

「あのね、でもね、これってね」

 私はお兄ちゃんから鍵を受け取りながら言う。

「ん?」

「……ううん、なんでもないの」


 これって、そういうのを狙ってわざとここに置いたんじゃないような気がする。

 朝、お母さんはいつも通りに鏡台の引き出しにお菓子を入れる。おサルのキーで鍵を掛ける。それから、おばさんへのお返しを用意して、その後、私に手紙を書いて……。

 そうしてるうちに、お母さんはもしかして、肝心の鍵を隠すのを忘れちゃったんじゃないかしら。数年間、ずっと続けてきたことを今日だけ忘れてしまったんじゃないかしら。他のことに気を取られて。


 少し前から、気になっていることがあった。

 私は鏡台の引き出しを開ける。クッキーを取り出す。その時、否応なしに目に入る鏡台の上に置かれた化粧品の数が、いつの間にか増えたと思う。お母さんのお化粧時間は念入りになった。それに、遅番じゃない日でも、時々お母さんの帰りが遅い。


「優兄ちゃん、クッキーあげる」

「舞は食べないの?」

「いらない。ご飯の前だし」

「そっか」

 お兄ちゃんはむしゃむしゃクッキーを食べ始める。二枚入りの小袋が二つだったから、すぐさまペロリ、だ。

「じゃ、ファミレス行くか」

「うん。……あのね」

 私はお兄ちゃんの服の袖を引く。

「ん?」

「お母さん、この頃とっても楽しそうなの」

「いつもおばさんは楽しそうだよ」

「いつもよりも楽しそうなの」

 最近のお母さんは、とってもきれいだ。なんだかむっとしちゃうくらいきれいなのだ。お母さんが鼻唄を歌いながらお化粧してるのを見ると、私はどうしてだかひとりぼっちな気がしちゃうのだ。お母さんは目の前にいるのに。


 お兄ちゃんが私の顔を見て、そうして大きく頷いた。

「おばさんが楽しそうだと舞はさみしくなるんだね。じゃあ代わりに僕が受験生らしい不幸顔でいてやるから、取りあえずそれで中和するってことで手を打たない?」

 そう言って、思いっきりなしかめっ面を作ってみせる。

「やめてよ。お兄ちゃんがそんな顔しても、ぜんぜんらしくないからね」

「おばさんだってらしくはないよ」

「そうだね」

 ……アレレ? むりやり納得させられてしまった。



 ファミレスでハンバーグを食べた。チョコパフェはパスした。気分じゃなかった。ブラックコーヒーの気分だった。そう言ったら、お兄ちゃんは二人分のコーヒーを注文してくれて、でも、私には不味くてぜんぜん飲めなかった。お兄ちゃんが美味しそうに飲むので羨ましかった。いいなぁ、私も中三になりたい。うかない顔をしていても、受験生だからで済みそうだし。


■■3


「お前のお母さん、昨日、デートだったんだぞ。ウチのお母さんが見たんだぞ」

 同じクラスの新田くんがそう言ったのは、朝、学校に着いて、下駄箱で靴を履き替えている時だった。横には子分の池本くんもいる。

 チビの新田便所虫。影で女子からそう呼ばれている。とにかくイヤな奴だからだ。今もイヤな顔してる。えっと、前にお母さんとデパートに行った時、下りのエスカレーターで女子高生が転んだの。スカート丈の超短い子が多いので有名な学校の制服で、案の定その人のスカートはまくれ上がって、それでパンツが丸見えだった。その時に、それを見てたサラリーマン風のおじさんがね、二ヤーって笑ったの。目が細まって黒目しかない人みたいに見えて、私はお母さんの手を思わずぎゅって握っちゃった。


 新田便所虫も黒目ばっかりの細長い目で、私のことをジロジロ見てる。池本くんの肘を掴んですすっと彼に寄り掛かった。頭を池本くんの肩に置く。

「こんな風に腕くんで、しなびれてたって。うっひょー」

 それを言うなら、「しなだれて」だろう、便所虫。

「デート、デート、ひゅーひゅー」

「ちょっと、やめなさいよ、男子!」

 いつも、いっしょに登校する小島結花ちゃんが怒鳴った。

「いいから行こう、結花ちゃん」

「舞ちゃん、だって下品よ、こいつら」

「相手にしちゃダメだって」

「お前の母ちゃん、アッチッチだー」

「チュウ、チュー、ぶっチュウ、アッチッチー」

 私は廊下を早足で歩く。結花ちゃんが慌てて追ってくる。便所虫どももついてくる。リコーダーを銜えて吹き始めた。他の学年の子が私たちを見てる。曲になってない調子外れの音の羅列が、私のことをはやし立てる。朝っぱらからこいつらは、どうして便所虫なの。さわやかな朝の光に申し訳ないとは思わないの?

「うるさい。あっちに行ってよ!」

「怒った怒った、倉橋が怒ったー」

「耳、真っ赤だぞー」

「泣くぞ、泣くぞー」

 便所虫に泣かされるか。私だってもう十才なんだぞ。二桁の大台に乗ってるんだぞ。次の桁は百才なんだぞ。

 リコーダーが振り回された。それが新田くんの手からスポッと抜けて、一直線に窓ガラスに命中した。透明な世界が砕け散った。一瞬の出来事だった。


 幸い誰も怪我はなかった。結花ちゃんに残ってもらって、私は走って職員室に行った。

「先生、窓ガラスが割れました!」

 担任の片岡先生にそう告げる。先生は私が予想したようにぱっと立ち上がるでもなく、逆に椅子の上で片膝をゆっくりと反対の足に組み直した。

 先生の後ろは窓で、植木鉢の赤い花が咲いている。昨日、日直の用事でここに来た時はまだ全部つぼみだったのに。先生が口を開く。

「倉橋、今なんて言った?」

「え? 窓ガラスが割れたんです、けど」

「違うだろう。窓ガラスを割りました、だ」

「はい?」

 私の言ったのと違ってるっけ? っていうか、ガラスが割れてるんだけどな。廊下に破片が飛び散っちゃってるんだけどな。危険なんだけどな。窓辺の花の土はカラカラに乾いているように見えた。誰かお水をあげるといいのに。

「窓ガラスが一人で勝手に割れたのか? 違うだろう。割った生徒がいるだろう? 当然だよな。そういうのはガラスが割れたと言うんじゃない。ガラスを割ったと言うべきなんだ」

「が」じゃなくて、「を」だ。そういうのを「責任逃れ」と言うんだぞ。分かったか!


 片岡先生はホームルームの時にも同じ文句を繰りかえした。私と結花ちゃんと池本くんは教壇の前に三人並んで立たされた。全員、鼻の頭を指の先で弾かれた。窓の一番近くにいた新田くんは怪我はしていなかったんだけど、髪の毛やシャツにガラスの破片がついてるかもしれないからって、まだ保健室に残されている。どうして私が鼻を弾かれないといけないの? 結花ちゃんなんか、ホントのホントにとばっちりだ。でも、先生は私が何か言おうとすると、「反省もしないで、すぐに言い訳をしようとする」って言うのだ。「ガラスを割りました」って三回言えって怒鳴るのだ。「ちゃんと声を揃えて言わない限り、今日の授業はやらないからな」って脅すのだ。


 クラスメートのみんなの目が前に立つ私たちを居たたまれなくさせる。最初に池本くんが言って、結花ちゃんが泣きながら先生の望む言葉を言った。先生が私のことを睨んでる。


 池本くんが私をチロッと盗み見た。結花ちゃんが私の肘をこっそり小突く。

 教室中の目という目が私を見ている。喉の奥がイリイリする。自分が職員室にあった赤い花になった気がした。



 結局、私は一時間目の授業を教壇の横でずっと立って聞いていた。黒板じゃなく、座席の方を向かされていたし、手元に教科書もなかったから、先生の授業はちんぷんかんぷんだった。クラスメートの目が時々私の顔を見る。じっと見てる子もいたし、ちょっと見てすぐに目を逸らす子もいた。結花ちゃんと目があったとき、私はなんでかニッと笑ってしまったんだけど、結花ちゃんはお化けでも見たみたいな顔つきになって、大急ぎで下を向いた。池本くんは一度も私を見なかった。


 休み時間に私は許されて席に戻って、体操服に着替えた新田くんも戻ってきた。養護の先生に髪の毛を洗ってもらったんだろう。ドライヤーで乾かしたての髪特有のふわふわ頭になっている。私の横を通る時、シャボンの匂いが漂った。

 片岡先生は新田くんにも「を」と「が」の違いを説明して、三回言うように促したけど、驚いたことに彼は頑として無言のままだったので、二時間目の授業では新田くんが立ちんぼだった。自分がガラスを割った張本人のクセにずうずうしい奴。私は授業の間中、ずっと新田くんを睨んでいた。目つきを険しくしてずっと睨んでいるのって、目の玉がすっごく痛くなるんだっていうことを学んだ。新田くんも同じ事が分かっただろう。あの子もずっと私のことを睨み返していたんだから。

 今日の二時間目の授業は、時間割だと算数の時間だったけど、私と新田くんにだけは保健体育だったらしい。


 お母さんが帰ってきた時、私はベッドの中で頭からお布団を被っていた。しばらくして、コンコンとノックの音。私はお布団のもっともっと奥に逃げ込む。縮こまる。

 ドアが開いた。お母さんの覗き込む気配。電気のスイッチが入れられたのが分かった。

「舞?」

 私はぎゅっとお布団の端を握りしめる。今、お母さんに会いたくない。

「どうしたの?」

 お母さんが訊いてくる。

「舞ちゃん?」

「……鍵、見つけられなかった」

 お布団を被ったまま答える。そう。初めて見つけられなかった。お母さんとの大事なゲーム。ずっと続けてきたのに。

 お母さんの重みでベッドの端がギシリと沈んだ。優しい手がお布団を挟んで私の背中の上にある。

「そう。……今日は難しかったかな?」

「うん。すごく難しかった」

 嘘だ。私は探さなかったのだ。お母さんの手紙も読まなかった。今日のお菓子を私は知らない。


 私の絵本の毎日が終わっちゃう。

 何かが少しずつ変わっていくの。私の背丈が急ににょきにょき伸び始めて、お兄ちゃんは春には高校生になる。お母さんが見知らぬ女の人みたいにきれいな顔で笑ってて、私が鍵が見つからないよって言っているのに、お母さんはやっぱり笑顔のままで。そして、ガラスが一枚砕け散った。砕けたのはホントウに学校のガラス? それともなにか別のもの?



「舞ちゃん」

 お母さんの手が背中を撫でる。

「……」

「お母さんね、舞ちゃんに会って欲しい人がいるの」

 その言葉に、背中が勝手にビクンと震えた。

「舞ちゃん、知っていたのよね。お母さんに好きな人ができたこと」

 ポンポンとなだめるようにお布団に当るお母さんの手。

「舞ちゃんは頭がいいもんね。すぐに分かっちゃうよね」

「……どうして、ずっと教えてくれなかったの?」

 お母さんの手がふっと止まった。

「だって……」

 震えるかぼそい声。

「だって、お母さんだって怖かったのよ。世界が変わってしまいそうで、足を踏み出すのが怖かったの」


 それは不思議な告白だった。 お母さんも怖いの?

 ねぇ、みんなが見えない明日に怯えているの?


 その夜、私とお母さんは手を取り合って二人で泣いた。

 たくさんたくさん泣いて泣いて、泣き疲れて、一緒にベットに横になった。お母さんの目は真っ赤で、私のまぶたも腫れぼったくて重かった。

「お父さんの死んじゃった夜のこと、覚えてる?」

 鼻を啜りながらお母さんが訊く。

「……うん」


 黒い服の人たちがぞろぞろとおうちの中を行き来していて、私も黒いお洋服を着せられてて、小さな私は目の前を通る人達を、上目遣いでずっとじっと見上げていた。

 急にワッと騒ぎが起こった。

 お父さんのお棺が祭壇から落ちていた。お母さんが引きずり降ろしたのだ。

「イヤよ、ずっと一緒にいるって約束したのよ。死んだからってなんなのよ。私はこの人の傍にいる!」

 お母さんがお父さんにしがみついて、たくさんの人が二人を引き離そうとしたけれど、お母さんは離れなかった。揉みくちゃになって、結っていた髪もぐじゃぐじゃになって、帯もほどけた。それでもお母さんはお父さんの体に

っていた。私は部屋の隅に立ちつくしたまま、それを瞬きさえ忘れて見ていたと思う。覚えておかなくちゃ、この目に焼き付けておかなくちゃって感じた。私はお父さんとお母さん、二人の間に生まれた子どもだ。


 やっと、みんながお棺からお母さんを遠ざけた時、お母さんの着物の片袖は千切れていて、襟は大きくはだけ、片方のおっぱいも露わだった。お父さんのために備えられたたくさんの白菊が無数の足に踏み荒らされて青臭い匂いがたちこめていて、私は今でもお母さんと一緒にお風呂に入る時、その白いまろやかな胸を見ると、あの日の匂いを思い出す。


「あの時、放心してる私の膝に舞ちゃんが抱きついてきたのよね。そうして二人でずっとずっと泣いてたのよね。泣き疲れて抱き合ったまま眠ったの」

 ちょうど、今とおんなじに。お母さんとクスクス笑う。

「お母さん、きれいだったよ」

「鬼が出たと思ったって、後で優一くんに言われたのよ」

 優兄ちゃん、ひどいこと言うなぁ。でも、否定する気にはなれない。あの時、お母さんは鬼だった。この世の者ならぬ存在になって、そしてお父さんを見送ったのだ。


「……お母さん」

「はい?」

「新しい好きな人がね、もしもお母さんより先に死んじゃったら。お母さんはまた鬼になる?」

 お母さんはずいぶんと長く考えていた。目を閉じてじっと思っている。祈っているようにも見える。そうして、目を開けると頷いた。

「なるわ」

「そっか」

 私はスンと鼻を啜って笑う。「コワイね」って言ってやる。新しいお父さんにはうんと長生きしてもらおう。

「お母さんは、やる時にはやる人だからね」

 そう言って、お母さんも笑った。


■■4


「お呼びだてしたのは他でもありません」

 先生がコホンと咳払いする。

「反省の色がぜんぜん見えないんですよね、二人とも」

 面談室。私の横にお母さん、それから新田くんのお母さんと新田くん。二組の親子の前には長細い机を挟んで先生がいる。わざわざ親を呼ぶような話じゃないのに、片岡先生は呼び出した。


「どうしてつかみ合いのケンカになったのかも、本人たちの口からは話して貰えませんしねぇ」

 今の言い方だと知ってるんだな、と思う。結花ちゃんか池本くんを問い詰めたんだろう。どうせ。

「ああはい。それ、結花ちゃんのお母さんからお聞きしましたけど」

 と、お母さん。結花ちゃんちとは家族ぐるみのお付き合いだから、そうだろうなぁ。

「それで、先生。どうして、私はわざわざ呼び出されたのでしょうか?」

「はぁ?」

 先生が妙チクリンな声を出した。

「子供のケンカで、いちいち親を呼び出されては困ります」

「ち、ちょっと、倉橋さん」

「それとも、事の始まりが親同士の問題のようですから、今後に禍根を残さぬよう、先生の立ち会いの下に忌憚なく意見を交わせ、と。そういう意味に受け取ってもよろしいでしょうか?」


 そこで、お母さんは体ごとくるりと右を向いた。真っ向から新田くんのお母さんと向き合うと、膝に置いていた右手を顔の位置までついっと上げた。中指だけがピンと立ってる。

「人の恋路に陰口するのは勝手だけど、せめて下世話ネタ話くらい子どもに隠れてやれよな、ババア!」

 シンとした。先生も新田くん親子も、ぽかっと口を開けている。私もものすごくびっくりした。

 お母さんはすっと手を下げると、にっこり笑った。

「こちらからは以上です。ではどうぞ、そちら様もなんなりと」

 新田ママは「あ」とか「う」とか、目をシロクロさせたままだ。右端に座る新田くんが真っ赤な顔で母親の腕を握った。

「お母さんにババアって言うな。怒るなら僕を怒ればいいだろ!」

「あら? キミは自分のお母さんの悪口を言われたら、ちゃんと腹が立つのね。良かったわ、話の通じる子で。だったら、どうしてうちの舞が怒ったのかも分かるわよね。それじゃあこれでご破算ね」

 新田くんが黙った。


「うっわー、僕もその場にいたかったなぁ」

 優一兄ちゃんが羨ましそうな顔をする。

「香澄おばさんは、やる時にはやる人だからなぁ。なにせ、僕の初恋の人だもんなぁ」

「え! そうなの? 知らなかった」

 お母さんに続いて、今度はお兄ちゃんの爆弾発言だ。マジびっくり。

 私はお兄ちゃんの顔をまじまじと見上げる。お兄ちゃんも私の顔をじっと見る。

「……あのさ、お母さん再婚しちゃうよ」

「うん」

 初恋の人が余所の男にさらわれるのに、そんなにあっさりでイイのだろうか。お兄ちゃんは解らない人だ。


 今、私はお兄ちゃんと家までの道を歩いている。夕焼け空がきれいで、だけど家の方角は夕陽と反対になるので、オレンジ色が見れないのがつまらなくて、私は後ろ向きに歩いている。お兄ちゃんがコケるぞ、と言う。


 今日のお母さんからの手紙には、


『舞ちゃんへ

 お帰りなさい。カゼがはやっているそうです。すぐに手を洗ってうがいをすること。マヨネーズが切れているので、スーパーで買って来てください。

 今日のおかしはスーパーで舞ちゃんが好きなものを選んでね。おだちんをマヨネーズ代と合わせて三百円、いつもの所に入れておきます。

 さあ、はりきって鍵を探そう!』


 とあって、私は鍵を探し出すと、近所のスーパーにやって来たのだ。

 そうしたら、お兄ちゃんがいたのでびっくりした。中学生の下校時間にはまだ早すぎる時間である。「どうしてここにいるの?」って訊いたら、私服姿のお兄ちゃんは陽気な声で「ナハハ」と笑った。

「風邪気味だったから、今日は学校を休んだんだ」

「えー、受験生なのに?」

「違う。受験生だから!」

 こじらせたらヤバいだろう。もう追い込みの時期なんだから。

 お兄ちゃんは自分の台詞に自分自身で「うんうん」と相づちを打っている。

「じゃあ、どうして外にいるの? 病院に行った帰り?」

「いや、風邪は昼まで寝てたら治ったんだ。で、今日は水曜日だろ? 週刊キャプテンの発売日だったと思いだして、それで散歩がてら買いに来た」

「えー、病気なのに?」

「違う。病気にも関わらず!」

 このマンガにかける情熱、大いなる愛を讃えなさい。

 胸を張るお兄ちゃんに言ってやる。

「見下げるべきだと思うな」


 お兄ちゃんは「愚か者!」と私の頭を軽く小突いた。ついでみたいに頭を持って、ぐるんと反転させられる。後ろ歩きが正面歩きに戻ってしまった。そろそろ後ろ向きにも飽きていたから、まぁイイけど。

「舞が見下げるべき正当な相手は、クラス担任だよ」

 ああ、そうでした。そういう話だったんでしたね、そういえば。すっかり忘れておりました。


「小学生相手に、揚げ足取りしていい気になって。そんなくだらない優越より、先ず『怪我人はいないか?』って訊くべきだよな。教師ならずとも人として」

 お兄ちゃんはこういう理不尽なことが大嫌いなんだそうだ。将来は正義の味方になりたいのだそうだ。私が物心ついた頃からそう言っていたような覚えがある。

「よし。その担任、僕が闇討ちしてやるよ」

 普通、正義の味方を目指す人はそういう不穏な発言はしないものだと思うけどね。お兄ちゃんは時々こういうコワイコトをさらりと言う。ちゃんと止めておかないと、本当にやってしまいそうな気がして、首と両手を同時に振る。

「ダメだよ、そんなの」

「そっかー、ダメかー」

 優兄ちゃんはマヨネーズと漫画雑誌の入った袋をブンと振った。それは前方にいる見えない敵の脳天を直撃したみたいだった。見えない誰かが今、瞬殺されたんだなぁと思う。


「舞がダメだって言うなら、担任を闇討ちするのはやめとこう」

 正義の味方は子どもを裏切らないからさ。

 お兄ちゃんが振り返って、チカリと笑った。その顔は夕陽を浴びて、本物の正義の味方みたいに見えたのだった。


 私は五年生になって、優一兄ちゃんは第一志望校に合格した。

 私の名字は大沢に変わった。お母さんは仕事を辞めて、専業主婦になったので、お菓子を使った宝探しゲームはもうやらなくなっちゃった。


 だから、もうファンタジーの国の住人じゃなくなったんだと思うのに、お兄ちゃんは相変わらず、

「舞の毎日は、絵本の世界みたいだね」

 なんて言ってる。

「表紙がしっかりした絵本だ。更にカバーも掛かったね。とても大切にされてるね」 だって。


 そうか。私が絵本なのか。私はこれから幾つの鍵を探し、開けて、どんな大人になるんだろう?

 今、おさるのキーホルダーは私のランドセルの横で揺れている。

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鍵をあける 宇苅つい @tsui_ukari

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