心の奥の雨の森

関谷俊博

第1話

教室がざわつき始めた。

 始業のチャイムが鳴っても、岡嶋先生が、教室に入ってこなかったからだ。

「遅いな。どうしたんだろう?」

 となりの席の香代子に、ぼくは言った。

「今日は自習になるわ」

 香代子がぼつりとつぶやいた。

「岡嶋先生はお休みよ」

「どうして、そんなことがわかるのかな」

「だって夢にみたもの」

 香代子が言い終わるか、言い終わらないうちに、隣のクラスの島崎先生が、慌てた様子で教室に入ってきた。

「一時限めは自習にします」

 島崎先生は教壇に立つと言った。

「岡嶋先生はインフルエンザでお休みです」

 クラス中がざわめいた。

「すごいな」

 ぼくは声をあげずにはいられなかった。

「正夢か!」

「小さな頃からときどきあるの」

 香代子は言った。

「小さい頃、角のタバコ屋のおばさんが死ぬ夢をみたから、お母さんに言ったら、すごく怒られたわ。そんなこと言うもんじゃないって」

「怒られるよ、それは」

「だけど、そのおばさん。次の日、心臓発作で本当に死んじゃった」

「へえー」

「普通の夢とは違って、細かいところまで、クッキリとしてるの。だから正夢ってわかるのよ」


 やがて、二時限目になり、三時限目になっても、かわりの先生は来なかった。

「今日は一日、自習かな」

 ぼくは伸びをして言った。

「どうなっちゃってるのかしら? まったく」

 香代子が口をとがらせた。

「かわりがいないんだよ、きっと」

「それなら早く帰してくれればいいのに」

「そういうわけにもいかないんだよ。授業時間はきっちりと教室にいる。たとえ授業がなくてもね。学校はそういう場所なんだ」

「まったくロクでもないわね」

「まあ、学校はロクでもないところさ。だけど、しょうがないだろう。そうなってるんだから」と、ぼくは言った。


 あくる日は、たくさんの先生が、かわるがわるやってきて、授業を進めた。

 授業がすべて終わって、ぼくが教室を出ようとすると、うしろから声をかけられた。

「瀬尾くん!」

 振り返ると、香代子だった。

「これ、落ちてたわ」

 香代子がぼくに手渡したのは、一枚の写真が入ったパスケース。

「大切なものなんでしょ。名前が書いてあった」

 ぼくは、じっと写真のその人を見つめた。

「だれ? その人」

「亡くなった母さんなんだ」

「きれいな人…。きっと優しかったんでしょうね」

「覚えていない。母さんが亡くなったのは、ぼくが本当に小さい頃だったから」

「そう」

 香代子はつぶやいた。

「じゃあ、お父さんが一人二役をこなしてるのね」

「それはどうかな」

 ぼくは言った。

「父さんか…まあ、いるにはいるけどね」

「いるにはいるって何よ? 仕事が休みの日はいっしょにいられるんでしょう?」

「そうでもないよ」

「いられないの? どうして?」

「父さんには今、好きな人がいるんだ。だから土日も、ぼくはほとんどひとりさ。父さんはその人に会いに出かけてしまうからね」

 ぼくが言うと、香代子はしばらく黙った。

「それで良く平気ね。私だったら、そんなのたえられない」

「別に子どもじゃないんだし…大人のおつき合いには、口を出さないようにしているんだよ」

「瀬尾くんて、大人なのね」

「違うよ」

 ぼくは首をふった。

「あきらめてるんだよ」

「あきらめてる…」

「何かを期待しても、がっかりさせられるだけだもの。それなら最初から期待しない方がいい」

「ふうん」

 香代子は、くっつきそうになるぐらい、顔をぼくに近づけて言った。

「がっかりさせられる位なら、最初から期待しない方がいい。小説のセリフみたい。クールでハードボイルドな感じ」

「そんなんじゃないんだよ。本当に」と、ぼくは言った。


 数日後、インフルエンザが治った岡嶋先生は、学校に戻ってきた。

 香代子はなんだか様子がおかしかった。

 ぼくか話しかけても「ええ」とか「そう」としか言わない。

 だけど、そう答えた後に、何か言いたそうに、じっとぼくの顔を見るのだ。

 放っておくつもりだったけれど、ある日、たまらなくなって、ぼくはたずねた。

「きみはぼくに何か言いたいことがあるんじゃないかな?」

 すると香代子は、ぼくの顔をまたじっと見つめ、やがて口を開いた。

「瀬尾くんはとても親切。だけど、冷めてるのね」

「まあ、ほめ言葉と受け取っておくよ」

「ほらね。とってもクール。だけど、それはうわべだけ」

「きみは何が言いたいのかな?」

 少しいらいらしながら、ぼくは言った。

「瀬尾くんには、何か特別なものがあるのよ」

「はあ?」

「瀬尾くんは特別なのよ」

 ぼくも香代子も、しばらく黙った。

「きみは何か勘違いしてるんじゃないかな」

 ぼくは辛抱強く言った。

「ぼくは至ってふつうだし、きみが言うような特別なものなんて、何もないよ」

「夢をみたの」

 香也子は言った。

「森にいる夢。そして、夢の中で、私は知っているの。あ、これは、瀬尾くんの心の奥にある森だって」

「心の奥にある森…」

「瀬尾くんの心の奥には、森があるの。深い深い森よ。迷い込んだら出てこれないほどの奥深い森。そして、そこでは、いつも雨が降っているの」

「やっぱり、勘違いしてるよ、きみは」

 香代子は構わず話を続けた。

「私は必死で探すんだけど、瀬尾くんは見つからないの。そこには、ただ森があるだけなの。そして、雨が降っているの」

「探してくれて光栄だけれど、たぶん見つからないよ。ぼくは逃げ足がはやいしね」

 ぼくの冗談は香代子に通じなかった。まあ、確かに面白くもない冗談だ。

「木の葉の合間からは、雨の雫が落ちてきて、私は思うの。ああ、冷たいなあ。瀬尾くんはどこへ行ったのかなあって。いつもそこで、目が覚める」

「きみの正夢はすごいけど、その夢には意味なんてないと思うよ」と、ぼくは言った。やれやれ。どうしてぼくは、こんな話に、つきあっているんだろう。

「瀬尾くんは、いつもそうして冷めてるように見えるけど、それは本当の瀬尾くんじゃないって、私は思うんだ」

「繰り返しになって悪いけど、その夢に意味なんてないんだよ。本当に」

 ぼくは肩をすくめた。


 翌朝、ぼくが自分の席につくと、香代子は開口一番に言った。

「今日の体育はサッカーよ。瀬尾くん、気をつけて。瀬尾くんが怪我をする夢をみたの」

 また、香代子の正夢か。

 なんだか、嫌になってきた。

「とにかく気をつけてよ。ねっ、瀬尾くん」

「気をつけるよ」

 ぼくは、そっけなく言った。


 結局、香代子の夢は、正夢になった。

 その日の体育は、サッカーだった。

 試合は一進一退。どちらも決め手に欠けていた。

 試合終了間際、ぼくの前にいいボールがまわって来た。

 ヘディングシュート!

 のつもりだった。

 ところがボールは、あっさりと脇をすり抜け、ぼくはゴールポストに激突。ひどく頭を強打した。


 幸い怪我は、額を少し切っただけですんだ。

 保健室から、教室に戻ってきたぼくに、香代子は言った。

「だから言ったじゃない。気をつけてって」

 その言葉に、ぼくはカチンときた。

「人にあれこれ言われるのは、あまり好きじゃないんだ」

 ぼくはきっぱりと言った。

「ぼくはぼく。きみはきみなんだ。そんなふうに指図するのは、もうやめてもらいたいんだよ」

「指図なんてしてないわ。アドバイスよ。受け止め方の問題だわ」

「ぼくにとっては同じなんだ。ぼくがきみに指図したことは、一度もないだろう? きみもぼくに指図すべきじゃない」

 香代子はかまわず言った。

「今日の国語の授業。瀬尾くんがさされる夢をみたから、良く勉強しておいた方がいいわよ。よけいなおせっかいかもしれないけれど」

「よけいなおせっかいだよ、完全に」と、ぼくは言った。


 あくる日、授業が終わって、ぼくが教室を出ようとすると、香代子がまた声をかけてきた。

「瀬尾くん。自転車に乗ってはダメよ」

「どうして?」

 香代子は言いづらそうにうつむいた。

「夢に見たのよ…」

 また夢か。香代子の夢の話には、もううんざりだ。

「どんな夢だよ!」

「それは…」

 香代子は言いよどんだ。

「ぼくが自転車に乗るのは、ぼくの勝手だろ。きみにそれを止める権利はない!」

 ぼくは言い放った。

 完全に頭にきていた。


 うちに戻ると、父さんがぼくを待っていた。

 となりには、若い女の人が、父さんに寄り添うように座っていた。

「智之。父さんはこの人と結婚しようと思うんだ」

 ぼくは、あらためて、女の人を見た。本当に若い女の人だ。たぶん、大学を出たばかりの島崎先生と同じぐらいだろう。

「これからよろしくね。智之くん」

 女の人が頭を下げた。

「父さんは、母さんを忘れてしまったのかな?」と、ぼくは言った。

「忘れてはいない。それに言っておくが、この人を母さんと呼ぶ必要はない。それでも、これから生活を共にする家族だ。一応、紹介をしておく」

 ぼくは黙っていた。

「だめか? だけど、父さんはもう決めたんだ」

「いや、父さんが決めたことなら、それでいいんだ。ぼくが口をはさむことではないよ」


 なぜなんだろう?

 大人のおつき合いには口を出さないと心に決めていたのに、ムシャクシャした。

 ぼくは、うちを出て、自転車にまたがった。

 とにかく、自転車を思いきりこいで、この気持ちを追い払いたかった。

 ぼくはペダルをぐっと踏みしめて、自転車をこぎだした。

 どこに行くあてもなかった。

 この気持ちを忘れられる所なら、どこでも良かった。


 ぼくは無茶苦茶に自転車を走らせた。

 頭にさっきの父さんの言葉が響く。

「父さんはこの人と結婚しようと思うんだ」

 気に食わなかった。

「父さんはもう決めたんだ」

 しゃくだった。

 そんなふうに、自転車を走らせて、交差点を渡ろうとしたときだ。

 大型トラックが信号を左折してくる!

 慌ててさけようとしたが、気づくのが遅かった。

 トラックに自転車ごとぶつかり、ぼくは空中で一回転。目の前が白くなった。


 気づくと、ぼくは森にいた。

 木の葉の合間から、ぽたりと滴が落ちてきて、ぼくの頬をぬらした。雨…雨だ…ここは香代子が言っていた、雨の森なのだ…。

 木々の根もとには、苔がびっしりとはりついて、光っていた。

 とりあえず、ぼくは前に進むことにした。

 とは言っても、どちらが前かはわからない。深い深い森だった。

 手探りで進むうちに、足下が踏み固められて、いつのまにか歩きやすくなっていることに、ぼくは気がついた。

 道。確かに道だ。森の小道が奥へと続いている。ぼくは、この道にそって、進むことにした。

 雨はしきりに降り続いている。

 少し行くと、木々の合間から、ちらちらと白いものが、見えかくれする。

 やがて、その正体がわかった。

 人だ! 白いワンピースを着た女の人が、ぼくの行く手に立っているのだ!

 女の人は、ぼくを見て、微笑んでいた。

 そして、その人の顔は…写真でしか見たことのない、あの人…。

「智之。あなたを待っていたわ」

 母さんは言った。


「母さん…ここは…ここはどこなの?」

 ぼくはたずねた。

「ここはあなたの心の奥にある森」

「ぼくの心の奥にある…」

「そして、ここは向こうと繋がっているわ」

「向こう…向こうって?」

「母さんがいる世界」

 そう言って、母さんは森の奥を指さした。そこにまばゆい光が見えた。

「智之。これ以上、先へ進んでは駄目よ」

「なぜ?」

「戻れなくなる」

「戻れなくなる…もといた場所に戻れなくなるという意味なんだね」

 母さんはうなずいた。

「そう。もとの世界に戻りなさい。智之」

「戻りたくなんかない!」

 ぼくは首をふった。

「あっちはロクでもないところさ」

「しかたないわね、智之。こっちへいらっしゃい」


 母さんは、ぼくの手をとると、先へと進んでいった。

 道を脇にそれて、少し行くと、ひらけた場所に出て、そこに家があった。

 平屋の小さな家だ。

 母さんが家のドアを開けた。

 そこには、小さなキッチンと、テーブルがひとつ置かれていた。

「時間がないから簡単なものしかできないけれど…」

 キッチンに立つと、母さんは料理をつくりはじめた。

 ぼくはテーブルに座って、母さんの後ろ姿をながめた。てきぱきと動いて、とても手際が良かった。

 やがて、テーブルに並んだのは温かいシチューとパン。

 ぼくと母さんは、テーブルをはさんで、向かいあった。

「母さんの手料理、始めてだね」

 シチューを口に運びながら、ぼくは言った。

「おいしいよ、とても」

「良かったわ」

「一度、母さんとこうしてみたかったんだ」

「母さんもよ、智之。大きくなったわね。父さんはどうしてる?」

「父さんは…父さんは忙しいみたいだ」

「大人のおつき合いには、口を出さないようにしているのよね」

「なんだ。母さんには全部わかってるんだね」

 母さんは黙って微笑んだ。

 それから、母さんと少し話をした。学校のこと。香代子や友達のこと。

 やがて、ぼくはそれに気づいた。

「母さん…手が…」

 母さんの手がすきとおっている。テーブルクロスの模様がすけて見えるのだ。

「わかるでしょう、智之。もう時間が来たの」

 母さんは、スプーンをテーブルに置いて、ぼくをじっと見つめた。

「私はずっとここにはいられない。あなたもいつまでもここにとどまるべきではないわ」

「嫌だ!」

 ぼくは首をふった。

「連れてって!」

 すると、母さんは微笑んだ。

「小さい頃、あなたは手のかかる子だった。夜泣きがひどくて、母さん、とても困ったわ」

「知らなかったよ」

「だけど、智之。それが本当のあなたなんでしょう。熱い心を持った駄々っ子のように、本当はもっともっと自分を試してみたいのよね」

 母さんの姿が次第に薄れていく。こんなふうに、こんなふうに、母さんは行ってしまうのだろうか。こんなふうに、こんなふうに、また別れなければならないだなんて。

「こんなに豊かな森を心に持つあなただもの。智之が行きたいのは、空と海の向こう。もっとずっと先なんでしょう? やってみなさい、智之。母さん、見ててあげるから」

 ぼくの肩に、母さんはそっと手を置いた。薄れてはいても、その手にはしっかりとした温かさがあった。

「行ってらっしゃい、智之。お友達が待っているわ」


「瀬尾くん!」

 気がつくと、香代子がぼくの顔をのぞきこんでいた。

「意識を取り戻したようです」

 白衣を着た医師が、脇に立っていた。

「智之!」

 父さんも脇に立っていた。

「おまえの心臓は一度止まったんだ!」

「瀬尾くん! 良かった!」

 香代子は泣いていた。

「本当に本当に良かった!」

 身体のあちこちが、しびれるように痛んだ。きっと麻酔が切れかかっているのだろう。

 もっともっと先へ進んでみたい、とぼくは思った。奥深いこの世界のもっと先へ。空と海の向こうへ。

 母さんが見てくれているのなら。

 いつかぼくが帰るべき場所。

 そこは…心の奥の雨の森。

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心の奥の雨の森 関谷俊博 @Tomoki3389

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