第13話
「あなたがそうしたいんなら……ずっと一緒にいてくれてもいいわ」
「それって、もしかして……」
俺の前に女の子が座っている。真っ白なポロシャツとプリーツの入った茶色のスカート。まぎれもなく俺の母校の夏の制服だ。
少し赤みがかった大きな瞳。目の周りだけが白く、頬の当たりだけがうっすらと赤いのはサングラスを付けていたからだろう。いたずらっぽく笑っている。
「どうかしたの?」
手を差し伸べて丸テーブル越しに俺の指に触れた。いつも心の波風をすぐに感知するあの鋭い目つきに変わっている。
俺は左手で頬に触れた。無精ヒゲなんかない。半袖ワイシャツに黒い学校ズボン。テーブルの下にはカバンがある。中は宿題ノートで一杯のはず……そんなはずはない。
暑さで頭がおかしくなって、自分が高校生だと思い込んだおっさん即逮捕、という悲しい状況じゃないのか。
「ちょっと……びっくりした」
自分の声とは思えない、高い声だ。煙草を吸う前はこんな声だったのか。
あのとき俺はそう答えたんだろう。これは単に薬で脳内再生している記憶じゃないのか。いや、それにしては現実感がありすぎる。
じゃあ、やっぱり目の前にいるのは俺の同級生、かつ家庭教師にして初恋の人、瀬名知亜紀……。
「なぜ、泣いてるの」
俺が応えるより早く、涙が頬を転がった。
「ひょっとしてさっきの話で中学の頃を思い出したのね?」
「いや、そうじゃなくて」
「私がつまんない話をしたばっかりにフラッシュバックしたんでしょ? ごめん」
俺の支離滅裂な記憶では、確かに図書館に一緒に行って勉強して、昼ご飯の栄養バーを二人でかじったところまでは覚えている。麦茶を飲み終わると、館内時計が小さなチャイムで一時を知らせた。俺はあのとき……。
瀬名さんは俺の顔をのぞき込むように言った。
「今日はもうやめようか?」
「うん」
まったく同じに俺は返事をした。
だめだ! 今やめたらダメなんだ。でも、声が出ない。立ちあがれない!!
彼女は水筒をカバンに詰め込んですっと立ちあがった。俺を気遣うような目線は変わらないまま言った。
「夏休みはまだ二週間もあるんだし、宿題もほとんどおわってる。明日にしましょ」
俺の体は意志に関係なく自動人形のように立ちあがり、カバンを肩にかけた。
足は図書館の出口に向かっている。もう当たり前のように瀬名さんが俺の右横にならんだ。けれど俺にはなんのときめきもない。図書館の玄関から外のまぶしい世界が目に飛び込んできた。
外に出ると、どっ、と熱い日差しが俺と彼女を射した。図書館の前にある白い石畳からの照り返しがまぶしい。
「ねぇ、また競争しよっか?」
いつかと同じように彼女は言った。俺の必死の努力もむなしく、歪んだ笑みを浮かべたまま口が勝手に動く。
「こんどは自分の荷物は自分でもたなきゃね」
「いいわよ。こんどは手加減しないから!」
彼女は僕から荷物をとると走り出した。図書館の浅い階段を飛び降りた拍子に、スカートと髪がシンクロして揺れる。あのとき俺はただ見とれるだけだった。でも今は……。
走ったらだめだ!!
びっくりするようなスライドで、スカートを翻す白い足が軽快に動いて遠くなっていく。ゆるい坂道をまるで飛んでいるみたいに。
その場に放り出してもいいのに、俺は自分のカバンをしっかり握ったまま走る。でも空気は熱を帯びていて、荷物は重すぎる。
叫ばなければいけないのに、俺は顔にはあのときと同じアホみたいな笑みを浮かべているはずだ。
坂道をあっという間に下って瀬名さんは図書館通りの車道を渡ってしまっている。俺は何かの人型の乗り物に乗っているみたいに、同じ動作を繰りかえす。前の足をうしろへ、うしろの足を前へ。
どうかそこを動かないでくれ、お願いだ。でないと地獄が……。
重いはずの鞄を揺らしながら、公園通りにでた。瀬名さんはとっくに道路の向こう側で、手をふってぴょんとかかとを上げた。
「シュウ君、はやく!」
俺が道路の左右を確かめようと車線にそって目を動かしたとき、カバンが何かにぶつかった。と同時に背後から太い腕が俺の首にからまる。
「よお、シュウじゃねぇか」
その声はカズオ……アクマ王だった。いつ見てもねむそうな顔とくさい息は忘れるはずもない。
「あれ、お前の彼女かぁ?」
俺はもう条件反射でガキの頃のように身を硬直させている。カズオが爆発寸前なのがわかった。
「いいよなぁ。中学一のクズが高校生になって、彼女までいるなんて、なぁ」
彼女が心配そうにこちらを見ているのが視界の片隅に見えた。動いたらダメだ。こいつに関わったら……。
「よっ!」
いきなり腹にパンチがめり込む。
「あいさつ代わりだ。どんな手を使って入学しやがったんだよ? 俺なんか動員隊で北海道送りだったんだぜ。それまで休みなしで牛の世話だ。盆休みがおわったらまたド田舎行きだぜ?」
俺の口はまたしても勝手に動く。
「自業自得だろ」
瀬名さんが見ているから、つい強気に出たのだ。そして彼女はこちらに戻ろうとしている。
気づけよ、俺!! 何をおびえてるんだ? いつまでもビビってんじゃねぇよ!!
俺は絶叫した。
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