第12話
公園からアパートに戻って、いきなり吐いた。
二階の居室への錆びた階段をのぼる足が妙に重くてヤバいとはおもっていた。玄関近くのトイレでうずくまる。甘いにおいのする白い吐瀉物にすっと血の筋が混じっていた。
やばくないか、俺。
這うようにトイレを出るとむっと熱気が押し寄せた。
六畳に台所があるだけで、ろくに家具もないから帰宅するたびに虚無感がつきまとう。がらんとした部屋に真昼の陽が差し込んでいた。カーテンを閉めておくのを忘れていた。
俺は開けっ放しだったドアの鍵を閉め、いまは単なる物品箱になっている冷蔵庫の上に茶封筒を置いた。
カッちゃんは生きていた。
しかも社会的にも成功しているらしい。あの車と太った姿を見てもそうだ。
俺は今なにをしている?
無職。体もヤバそうだし、将来に希望はない。動員隊に行く体力もないだろう。行くつもりもないが。
あいつは怪我が治ってから、どんな努力をしたのかはわからないが自分の目指していた何かになることができた。ずっと自分を信じていたからだ。
でも今の俺には信じるものもない。信じてくれる人もいない。いや、昔から俺は自分の将来なんか信じていなかったような気もする。
将来の自分があるから過去の自分が努力できるのか、過去の自分ががんばったから未来の自分があるのか、わからなくなってきた。
でももし……過去の自分に会えるとしたら、俺はこう言いたい。幸せを掴んだら、それを絶対に守れ。戦えと。できるものなら伝えたい。
不毛な妄想をめぐらすうちに、めまいがひどくなってきた。
配給券を食料に替えてこなければ。俺は配給券を全部とりだした。
と、茶封筒から何かが落ちて干からびた台所のシンクにからんと音を立てた。小さなライターくらいのプラスチックのケースだった。カッちゃんが一緒に封筒に入れていたやつだ。
ずっと昔に売っていたフリスクのケースよりちょっと厚みがある。突起に爪をかけてあけてみる。中にはカプセル錠剤が二つ揺れていた。
手に乗せてみる。表面にはなんの記号もみえない。半分が緑、半分がクリーム色のカプセルだ。鼻に近づけるとわずかにかすかに青臭い。もしやこれは……。
大学時代に話をきいたことがある。
戦争から帰って来た自衛隊員が持ち込んだという噂もある。
戦争中のトラウマや大けがで記憶が失われた人に投与されていたらしい。別名、抗PTSD剤。記憶中枢に働きかけて、その人が封印した深い記憶を癒してくれるという。副作用もある。飲み過ぎるとそのまま還ってこれなくなる。だから規制されている。
あいつは俺が心のドツボにはまり込んだことを察して、この薬をくれたんじゃないか、と言う気がした。
あの事故以来、俺は生きているという実感がなかった。
心の奥底で黒々と根を張っているデッドゾーンがある限り、俺はずっとこのままだとわかっている。あの暗黒の蓋を開けて俺は過去と対峙しろ、ということなのか。
錠剤を手のひらで転がした。その手段がここにある。
しかし、空きっ腹に強力な薬を飲んで、どんな副作用があるか知れたものではない。
まず食料を調達。それから飯を食いながら考えよう。
またしても俺は食欲に逃げた。急に飢餓感が襲ってくる。
配給券引換所であらぬ疑いをかけられるのはいやだ。無精髭が気になる。これだけ伸びると水剃りはつらい。洗面台の奥を探ったが石けんのカケラひとつない。しかたなく、蛇口を開けカミソリをとって鏡を見た。
……?
のどから赤い斑点が耳たぶまで点々と散っていた。おもわず舌を出すと膿を頂にかぶった極小の火山のようなイボがばらばらと生えている。
治療法はない。
……カッちゃん、わかってたんだな。一目見て俺がダメだってのが。
いや、病気のことだけじゃなくて、俺の心がほとんどが腐って空洞なんだってことがわかったんだ。
俺は自分が何をすべきか解った。もう食事なんかどうでもいい。
俺は台所に戻り、茶碗にぬるい水を注いで、錠剤を握りしめた。俺はだめかもしれない。でも、ひょっとすると……。
全力で、すべてを賭けて、俺は念じた。今ここで死んでもいいくらいに。
……カッちゃん、俺は対価を払うよ。
過去の俺と手をつなげることができるなら。
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