回転する夏

第11話

 瀬名さんは図書館の正門前で息も切らせず待っていた。だまって僕からカバンをうけとってならんで歩く。

「あなたの勝ち」

「え」

「ほら、あなたのほうが先に図書館に入ってるでしょ」

 僕の足は一歩だけ先に建物に踏み込んでいた。瀬名さんがくすっとわらって、そよいだ風に髪を揺らした。彼女が僕に勝ちを譲ってくれたのがわかった。

 僕たちは受付に向かった。途中の詰め所にはいかにも元おまわりさん風の警備員が立っている。


 一般書架のあるフロアを抜けて研修室に入った。ここは学生証がないと入れない。

 研修室は静かだった。淡いベージュのカーテンが音もなく揺れている。打ちっ放しのコンクリートに金属製の書架がずらりと並んで、この部屋だけわずかにひんやりとしている。僕たち以外にだれもいない。

 まだ夏休みの中盤に宿題をもってここに来る学生は珍しいのかも知れない。来週ぐらいから、焦った学生でごった返すだろう。

 瀬名さんと僕は天板がひっかき傷だらけのテーブルに向かい合って座った。

 僕と瀬名さんはカバンから宿題のノートをドサリと取り出した。互いのノートの山を交換する。こうして互いにチェックしようというわけだった。僕は解析幾何がまだだったから、彼女に教えてもらうつもりだった。

「さあ、やるわよ!」

 そこから先はものすごい集中力で声もかけられなかった。



 図書館の正午のチャイムが小さく聞こえた。

「おなかの虫がなってるよ」

 僕はガラにもなく赤面した。朝ご飯を食べてないことがバレバレだった。

 瀬名さんはパタンと教科書を閉じて、僕もそれに習ってカバンに参考書をつめた。

 研修室からロビーに出た。ロビーには掲示板があって連絡事項とかイベントのポスターが貼ってある。その前に小さな白い丸テーブルと椅子がいくつか並べてあり、ここでは飲食できるのだ。食べ物を持っていれば、の話だが。

 瀬名さんはバッグからスティック状の栄養バーを二つ取り出した。欠食児童のために給食とは別に月曜と水曜日に配布されるやつだ。

「一つあげる。このあいだ学校で配られたときに食べないでおいたの」

「いいの?」

「私は一本あれば足りるわ」

 僕の心はためらっていたが、体のほうは正直で思わず手を伸ばす。いつだって食欲に勝ったことはない。特に甘いものには勝てない。

「瀬名さんは、もうすこし食べるようにした方がいいんじゃない?」

「人間の一生で食べられる量は決まってるらしいわ。背負い水ってきいたことない?」

「じゃあ、節約してるってことかな?」

「そう。ま、たまにはお寿司を思いっきり食べたくなることもあるけど」

「まだ汚染解除になってないよ」

「残念ね」


 瀬名さんと僕は可能な限りゆっくり食べた。十五センチに満たないチョコレート色のスティックを僕は前歯でほんの少しかじり、瀬名さんは小さなカケラを口に入れてはゆっくり溶かしているみたいだった。

「あっという間におわりそうね」

「今度は僕がおごるから」

「わたしが言ってるのは食事じゃなくて宿題のこと」

「ま、そんなに難しい問題じゃないし。幾何は別だけど」

「天才っ子ね」

「その言い方、いやなんだけど」

 僕は人よりちょっとばかり努力している凡人だ。彼女は違う。

「でも事実でしょ? あなたは成績優秀だから。将来が楽しみだわ」

「将来のことなんかわからないよ。タイムマシンがあれば話は別だけどね」

「あるかもよ」

「あのさ、今ここにはタイムマシンは存在しないよね」

「確かに」

「この時点でタイムマシンが存在しない、という歴史がある以上、未来からタイムマシンに乗って来た人はいないってことだろ」

「機械なんか使わないのかもしれない」

 彼女は食べ終えて、かわいらしくハンカチで口を拭いた。僕のはとっくにない。

「小学校のこと憶えてる?」

「余り憶えてないけど。運動会とか修学旅行とかの記憶くらいかな」

「でも、そのあいだの六年間は子供なりにたくさんのことを考えていたはずだわ。その子供はどこへ言ったんだと思う?」

「成長して、ここにいるだろ」

「あなたが殺してなければ」

「え?」

「あなたが完全に子供の頃のことを忘れて大人になったら、その子は殺されたのと同じ」

「極端すぎないか」

「大人でもいるでしょ。すごく大きな樹木なんだけど中は腐って空っぽとでもいうか。あの人たちはたぶん、子供だった自分を殺したんだわ」

「お年寄りはよく昔のことを覚えてるだろ」

「あれはフィクション。年寄りの繰り言は自分の都合の良いように改ざんされているの。これは科学的に証明されているわ」

 瀬名さんはバッグの中から水筒とコップを二つ取りだしてテーブルに置いた。

 僕は掲示板の上にある壁時計をみた。もう昼休みは終わりかけだったけれど、彼女はまだ話したいことがあるみたいだった。


「麦茶で良ければ、どう?」

 僕は無言で同意のうなずきを返すと、瀬名さんは慎重にコップにお茶を注ぎながら話を続けた。

「過去の自分と未来の自分の間で手をつないでるのが今の私。そんな気がする」

「じゃ、端っこには赤ちゃんがいて、反対側のはるか彼方にはおばあさんがいるわけだ」

 僕は珍しく持論を展開する彼女の話の腰を折りたくなかったから、話を引き取った。

「タイムマシンなんかなくても、手をつなげていれば、未来がわかるとか?」

「たぶん……ね。ちゃんとつながっていればね」

「途中で切れたら?」

「それね、いつも考えるの。大人の私が今の私を完全に忘れてしまったら、“いまの私”はどこにいってしまうんだろうって。そんなこと考えたことない?」


 唐突にカッちゃんが言った言葉を思い出した。

 ……遠くに明かりが見えると、そっちのほうに歩いて行くみたいにさ……

 カッちゃんはつながっていたんだろうか。僕に明かりは見えない。ないのかも知れない。

「瀬名さんは未来の自分と手を繋いでいるつもり?」

 突然、瀬名さんはだまった。

「……最近は全然。未来の私が今のわたしの事を忘れちゃったのかも」

「君のことなら僕が忘れない」

 つい口が滑って言った瞬間、自分で耳たぶまで赤くなっているのがわかった。なんてキザったらしいバカみたいな発言だ!!

 瀬名さんは顔色一つかえないで、まっすぐに僕を見つめている。

「あなたがそうしたいんなら……ずっと一緒にいてくれてもいいわ」

「それって、もしかして……」


 僕が理解に到達したとたん、頭の中で何かが爆発した。



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