第10話 希望、なんか

 でも、こうやって俺のことは覚えていてくれた。

 俺はカッちゃんたちのことを思い出したことがあるだろうか。みんなで支え合っていた仲間を? 俺が佐々木や新井みたいになっていた可能性だってあるんじゃないか? それなのに……。俺は高校に入ってからずっと甘ったれた人生を送っていたのかもしれない。

「今のお前の望みはなんだ?」

「なんだよ唐突に」

「新しい就職先か、それとも自分で何かやりたいことがあるとか」

「ないな。もう。強いて言えば……」

 カッちゃんは丸い頭のてっぺんから落ちる汗を拭うのをやめて、俺の瞳をじっと見つめた。

 頭上に茂っている樹の枝がきっちり顔の半分に影を落としていて、異国のお面みたいにみえた。確かに一緒にワルどもにいじくり回された日々を送ったはずなのに、その瞳の奥底に哀れみがあった。

 どういうわけか知らないが、続く言葉が勝手にのどから転げ落ちた。

「やり直したい」

「本気か? 心の底から望んでいるのか」

「ああ!」

「……じゃあやってみろ」

 いつどこで、どんな風にやり直したいのかすら訊きもしないで、カッちゃんは軽く言った。そして中坊時代そっくりの笑みを浮かべた。いつも負けないカッちゃんの微笑みだった。

「それなりに対価は必要だけどな」

「もし取り戻せるなら魂だってくれてやるさ」

「ほんとうだな」

「ほんとうだよ。たぶん」

 俺は投げやりな返事をした。カッちゃんはなぜかじっと俺の目をまっすぐに見つめている。そのまま二人して少しの間、陽にあぶられていた。蝉の鳴き声だけが耳を通り抜けていく。


 急に蝉の鳴き声が絶えた。カッちゃんが静かに言った。

「気を悪くしないでほしいんだが……シュウのことだからそのうち仕事にもつけるとおもう。だけど当座の費用はかかるだろ? これ」

 俺の膝の上にバサリと置かれたのは配給券の束だった。

「ちょっとまて、どこで手に入れた」

「別にやましいことはしてねぇよ。ほら、ちゃんと政府公認のすかしもばっちりはいってるだろ?」

「いいのか」

「むかし世話になったしな。おっと、こんなブツをぺらぺら持ち歩いたら盗まれないとも限らん」

 俺はなにか“恵んでもらう”ということに抵抗感があった。

 一方で心底ほど欲しがっている自分が恥ずかしかった。昔に戻りたいなどと戯言をいってしまった子供っぽさもだが。

 カッちゃんは上衣からくたびれた茶封筒を取り出すと、素早く配給券を中に入れた。それからポケットからライターくらいの小さなケースを取り出すと、同じ茶封筒に押し込んだ。

「もし、その気があるなら試してみてくれ」

「なんだそれ」

「俺はお前を助ける。そう言ったろ?」

 しかし、俺は戸惑いより羞恥のほうが大きかった。たぶん俺の顔は夏風邪で熱っぽいというよりは、羞恥で顔が赤くなっていたにちがいない。

 俺は旧友に哀れみを施されたのだ。

 分厚い茶封筒は俺の手の中にある……施し物が。


 大きな手が俺の肩に乗った。

「もっと話していたいが、ここには長くいられないんだ」

 カッちゃんは重そうに体を持ち上げて、車に向かっていった。

 乗り込むと同時に車体が沈む。ちょっと無理な姿勢でドアを閉めかけた。

「そういえば、佐々木の奴がよろしくってさ」

 にやっとわらった口元に金歯が光った。

 俺が答えを返すより早く、やがて濃いスモークガラスが上がっていく。すっかり車の中に消えるまえに、軽く手を振った。

 そうか、佐々木と新井の奴も元気なんだ。二人ともうまくやってるんだ。それに比べて俺は……。

 俺は走り去るEV車が音もなくゆるゆると陽炎に溶けていくまで突っ立っていた。



 耳に蝉の鳴き声がよみがえった。

 たった今までそこにあった車と、その持ち主はいない。そこらに転がっていた俺の同類も姿を消していた。

 わずかに口の中に甘みがのこっている。ひょっとしてこれは夢だったんじゃないか、という気もしないでもない。

 あんなに太ってたっけ。一度だけあいつの父親にあったことがあるが、なんか似ていた。別れ際に一瞬何か別の姿に見えたのだが暑さのせいだろう。

 それが誰であろうと、今の俺のポケットには分厚い配給券の束が詰まっている。リアルだ。

 空きっ腹にいきなりアイスだったから胃が驚いて、すこし痛い。

 配給所に直行するのも芸がない。

 配給券をいきなり全部食料に替えたら怪しまれる。第一、もち運べる量じゃないだろう。ここは慎重に事を運んだほうがいい。

 急にまた恥ずかしくなかった。たった数分前まで感じていた羞恥が瞬く間に現物を目の前にしてどっかへいってしまい、俺は食料の算段をしている。


 子供が数人、図書館に向かう坂を登っていった。ちょっと昔を思い出しかけて、俺は心のデッドゾーンのフタをあわてて押さえた。自分でもここに来るべきではないとわかっている。しかし来ずにはいられない。

 ……白い菊の花がちらり、と脳裏をよぎったが、誰かがそれを摘んでいった。

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