第七章:新しい年

「まだ大学はお休みですか。おや、今からでもそちらにお邪魔してよろしいので? それでは、娘と伺います」

 語る声はしっかりしているが、パパはまるで重たい荷物でも持たされたようにホテル備え付けの電話の受話器を両腕で抱えている。

「ではまた後ほど」

 震える両手で受話器を置くと、カチャリと嘘のように軽い音が響いた。

「グイーディ教授?」

 パパはメモも何も見ずに相手の電話番号を押した。

 少なくとも私が作られた五年前からはずっと連絡を取っていないはずなのに。

「彼女の家に行くよ」

 促す風にパパはこちらの肩を叩く。

「もしもの時の為にもジーナにお前のことを話して頼もうと思う」

 決定権は私にないのだ。

 クローゼットに向かうパパの背中が低く呟いた。

「ルカーニアのことも伝えなくてはいけない」

 *****

「家族同然の付き合いだったんだよ」

 タクシーの車窓を流れる午後の街の風景を眺めながらパパは飽くまで穏やかに語る。

「クリスマスも一緒にパーティをしたりね」

 クリスマスも新年も過ぎ、平素の装いを取り戻した街がガラス一枚隔てた向こうを緩やかに通り過ぎていく。

 気温は低いが、今日は風もなく穏やかな天気だ。

 冬特有の高い青空に真綿じみた雲がぽつぽつと浮かんでいる。

「彼女も両親を早くに亡くした人だったからね」

“ヴィットーリ夫人は母親のように親身に付き合って下さった方でした。何より私の優秀な後輩であり、妹のような存在だったギタを失ってしまったことが辛く受け入れ難い”

 この前、病院からホテルに戻ってパパが見せてくれた事故直後の学会の機関誌にも当時は助手だったジーナ・グイーディは綴っていた。

「バーリの家を出る際に彼女にはお礼の手紙と幾ばくかの金を一緒に送ったよ」

 これは初めて聞く話だ。

「向こうからすれば色々世話したのにいきなり音信不通にされたんだから、随分不義理な話だったろうな」

 小舟じみた雲がめいめい離れて漂う一月の空の下、車は閑静な住宅街に入っていく。

 *****

博士ドットール

 マンションのロビーに足を踏み入れた次の瞬間、ソファーに腰掛けていた女が立ち上がって駆け寄って来る。

「こんにちは」

 この人、急に七歳くらい若返ったみたい。

 パパの隣から挨拶しつつ、私はグイーディ教授の姿を改めて眺めた。

 四十歳になる彼女の服装も髪型もこの前、会った時から大きく変わったわけではないが、化粧が念入りに施された顔は全体に色鮮やかで、表情も何となく若やいで見えるのだ。

 ほんのりローズの匂いがするのは多分、香水だろう。

「こんにちは」

 私に目を向けて挨拶を返すと、茶色とも緑ともつかない瞳はいくらか陰って急に本来の年齢に戻ったような気だるい声になる。

「こちらです」

 ジーナはパパのもう片方の腕に手を添えると、私に向かってエレベーターを指し示した。

 *****

「お二人ともコーヒーでよろしいですか?」

 ラベンダーの香りがほのかに漂う、セピア色のカーテンを開けた窓からはセルリアンブルーの海が見える部屋。

 グイーディ教授はパパと私の顔を念を押す風に交互に見やる。

「私の分だけで結構です」

 パパはジーナに取られた方の腕をさりげなく外すと、微かに震える手で私を示した。

「この子はアンドロイドなので」

 パパの語る声はそれまでと何も変わらなかったが、それを耳にした女の榛色の瞳にはガラスが割れるような震えが一瞬、駆け抜けた。

「分かりました」

 大丈夫、知っていたからという風に私たちに向かって頷くと、グイーディ教授は部屋の中央に置かれたワインレッドのソファを指し示す。

「お掛けになって」

 こちらの返事を待たずに女は右足を僅かに引き摺りつつ足早にキッチンに向かった。

 *****

「今日は寒いしここまでいらっしゃるのは大変でしたよね」

「いやいや、タクシーですぐでしたよ」

 キッチンから聞こえるグイーディ教授の声とパパが会話するのをよそに私は窓際の写真立てに目を走らせる。

 一番古い写真は恐らく十歳のジーナと両親らしき二人の写真だ。

 焦げ茶色の髪をお下げに結った勝ち気そうな少女が真っ赤なワンピースの胸にシルバーのメダルを提げ、小さな自作のロボットをこちらに見せている。

“十歳の時、初めて参加したロボットコンテストで準優勝”

 これはパパも見せてくれた学会誌にも載っていたグイーディ教授のプロフィールだ。

 次の写真は恐らく十八歳で、大学入学前の卒業旅行で撮ったものだろう。場所は私のメモリに入っている情報と合致するならば、日本の京都の瑠璃光院るりこういんだ。

 まだ緑色の楓が黒い額縁に収まったような風景を背に、心なしか青ざめて固い表情の若いジーナが独り映っている。

 実の両親を亡くしたのはこの頃だろうか。

 次は私にも見覚えのある風景だ。パパがもともと住んでいたバーリの家の、クリスマスの飾り付けをした居間に、パパとママと八歳くらいのギタと、そして若い女子学生のジーナが並んで笑顔で映っている。

 私はパパの話だけで一度も行ったことのないバーリの家に、彼女は恐らく親しく出入りしていたのだろう。

 そして、次の写真は……。

 ふわりと温かに甘いコーヒーの香りがして、トレイに二つのカップを載せた四十歳のジーナが近付いてくる。

「本当にあなたには何も出さなくていいの?」

 目尻に若い時の写真にはない皺を刻んだ寂しい笑顔で告げると、彼女はパパと自分の前にお揃いのコーヒーカップを静かに置いてソファーに腰掛けた。

「大丈夫です」

 極力明るい笑顔にして控え目に答えると、ジーナは念入りに化粧を施した顔に老けた寂しい笑いを浮かべたままパパに告げる。

「ギタそのものですね」

「私から見たあの子の特徴や行動パターンをプログラムに入れましたから」

 パパはコーヒーカップを両手で包み込むようにして取り上げながら答える。

 また手が震えているようだ。

 そう見て取ったところでパパは写真立てに目を向けた。

「ディーノとはまだ付き合いが?」

 並んだ写真立ての中の一番新しい写真には三十代半ばのジーナと二十代半ばのディーノが並んで映っている。

 青空の下に広がる向日葵畑を背にした、今より少しだけ若い二人は仲の良い姉弟のように寄り添って硝子板の向こうからこちらに切なげな眼差しを返した。

「ええ」

 ジーナは素直に頷いて続けた。

「この前、大尉に昇進したそうです」

 アルフレード・スフォルツァはどうやら亡父と同じ軍人になり、現在の階級は大尉のようだ。

 私の中で、本物のギタが知り得なかった彼の近況が記憶される。

 つと、斜め向かいに座したジーナが目線をこちらに向ける。

「彼もまだ独身なの」

 乾いた、しかし、重たい声だ。

 カチャリとパパはコーヒーカップを両手で受け皿の上に置く。

「ルカーニアは、君の所には……」

 カップから離れた両手はまだ微かに震えていた。

 磨き上げられたエボニーブラックの木材の卓上は老いて骨と皮ばかりになったパパの灰色が勝った白い手の動きを浮かび上がらせる。

「あの人なら事故の直後に一度お会いしたきりです」

 グイーディ教授は榛色の瞳をじっとパパの手に注いだまま固い声で続けた。

「あなたの行方を訊かれてこちらが知りたいと答えたらそれっきり」

 セットしたばかりらしい焦げ茶色の髪の頭を横に振ってジーナは苦笑いする。

「私なんか探っても何も出てきませんしね」

 乾いた声で付け加える。

「あの人の目にもそれ以上関わるだけの価値はなかったんでしょう」

 自分より一回り以上若い――外見だけなら二回りほども若く見える女の言葉に黒いテーブルの上で震えていたグッとパパの痩せ衰えて萎びた両手が握り締められた。

「実は、今日お伺いしたのは……」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

アンブラの翼 吾妻栄子 @gaoqiao412

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ