番外編:ピュグマリオンの眼差し

「おかえりなさい」

 モニカは新たにルージュを引き直したばかりと知れる鮮やかなローズ・レッドの唇で告げる。

 これは彼女の波打つ栗色の髪と吊り気味のエメラルド色の瞳を引き立てるにはうってつけの色だ。

 派手やかできつめの姿に反して優しげな香りが漂ってくる。

 これはこの前買い与えた鈴蘭すずらんの香水の匂いだ。

 モニカの姿を目にする度に、これが自分の手に入れたものだ、昔望んで得られなかった面影と比べても一般にはより美人の形容に相応しいとさえ言えるだろうと誇らしくなる。

 同時に、この顔にはマレーアの包み込むようなふくよかな優しさがどうにも乏しいのだともの寂しくなるのだ。

「ただいま」

 私は何も気付かない年老いた善良な夫の顔で答える。

「今日は遠くまで出たのでね」

 化粧直ししたばかりの若い妻は労るように伴侶の言葉に微笑んで頷くが、それが実際のところ、彼女が先刻まで他の男との逢瀬を楽しんでいた後ろ暗さを隠した挙動であることをこちらはとうに知っている。

「夕飯はもう食べたかい?」

 化粧と香水の匂いしかしない家の様子からまだ食べていないことは明らかだが素知らぬ体で問う。

「まだ」

 六十近い私の娘ほども年の離れた妻はあどけない調子で続けた。

「目抜き通りに新しく出来た日本料理のお店に行かない?」

「そうしようか」

 若く美しいモニカは同じように若いが貧しい男と逢い引きして楽しんだ後は空腹で帰ってきて老いた夫にはご馳走をねだるのが常だ。


*****

「あっさりしておいしい」

 モニカは本当に満足した時に浮かべる赤ちゃん猫じみた笑顔で告げた。

「ああ」

 “ショウユ”という大豆を発酵させたソースを主として用いる日本料理には中華料理や韓国料理といったアジアの近隣地域の料理とは似ていて異なる枯淡な味わいがある。

 食後に出る緑茶にはこちらのカプチーノやエスプレッソともまた肌合いの異なるしっとりした苦味があった。

「日本にはまだ行ったことない」

 モニカはふと寂しい面持ちで呟いた。

「今度のバカンスで行くかい」

 君が一緒に行きたいのは私ではないかもしれないけど。

 そんな皮肉は胸の内でだけ付け加える。

東京トウキョウ京都キョウト沖縄オキナワ

 今まで自分が訪れた街の名を挙げる。

 この国にローマやフィレンツェ、シチリアがあるように、日本にもそれぞれ趣の異なる都市があるのだ。

「あなたはどこが一番良かった?」

 思いがけず真っ直ぐに見つめてきた相手のエメラルド色の瞳には潤んだ光が宿っていた。

――私のどこが良かったの?

 そんな問い掛けをこの年若い、時には幼くすら見える女から突きつけられている気がした。

 右腕を義手にした男が功成り名遂げて迎えた若く美しい、しかし貧しく教育もない妻。

 世間が自分たち夫婦をそんな秘かな冷笑混じりの目で眺めていることを私は知っているし、それはモニカも同様だったのだろう。

 今更ながら気付かされた、というより薄々知っていて目を逸らしていた自分を責められた気がした。

「そうだね」

 七年前、マレーアの乗った飛行機が墜落し、“行方不明者”という名の還らぬ人になった。

 ピエトロの妻になり娘のギタまで儲けた彼女のことは吹っ切れたというか、それで良かったのだと了承したつもりだった。

 だが、あの優しい面影がもう永久に失われた事実に自分でも驚くほど胸が裂かれるのを感じた。

 もう我が心は完全に死んで何事にも動じることはないと思っていたのに、マレーアが自分と同じこの世界に生きているというだけでまだ歪な形でも辛うじて生かされていたのだ。

 墜落事故の調査団のトップとして海に墜ちた機体の、それ自体が巨大な翼竜の撃ち落とされた死骸じみた残骸を目にしながら、マレーアが墜ちてゆく機体の中で陥った地獄のような恐怖と絶望、死に至るまでの凄まじい苦痛が思い浮かばれてきて、さながら拷問のような時間であった。

 部下たちから離れ、独りふらりと入ったカフェのテラス席でエスプレッソを飲みながら、この調査の仕事が済んだら引退しよう、しかし、後どのくらいでこれは終わるだろうかと考えていた。

 抜けるように青い空からは眩しい陽射しが照り付けている。右手が義手の男の老いて疲れた姿まで晒し上げるように。

 と、そこに若いウェイトレスが出てきて隣のテーブルを片付け始めた。

 質素な服を纏ってはいたがすらりと長い手足に豊満な乳房と臀部が滑らかな曲線を描く体つきをしており、束ねた豊かな髪は陽射しを受けて琥珀じみた栗色に輝いていた。

 マレーアもああいう髪をしていた。

 だが、これはきっと振り向けば似ても似つかぬ不器量な、せいぜいが十人並みくらいの女だろう。

 そんな皮肉と諦めの入り混じった気持ちで眺める。

 カップのエスプレッソはもう残り少なかった。そろそろもう仕事に戻らなければならない。

 視野の中でウェイトレスがこちらの視線に気付いた風に振り向く。

 豊満な体つきに反して化粧気のない、淡いピンクの唇をした小さなその顔はまだ少女のように幼く見えた。

 しかし、猫じみた吊り気味の大きな瞳は過去の面影と同じ鮮やかなエメラルド色に輝いている。

 今、目の前に妻として座るモニカはそんな風にして自分の前に現れたのだ。

「どこもそれぞれ魅力的だけど、京都が一番ゆっくり過ごせたよ」

 モニカと結婚する前に訪れた、日本の古い都であるあの街ではふとお店に立ち寄ればほとんどどこでもかぐわしいお香の匂いがした。

 ささくれだった心をゆったりと優しく包むような香りだ。

「そう」

 ローズレッドの口紅が剥げて地の淡いピンクの唇に半ば戻った妻は潤んだ瞳のまま寂しく笑って続けた。

「じゃ、次の休暇はそこで」

 

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