第六章:病に囚われ

 パパはまだ掛かるのだろうか。

 壁の時計を見やれば、診察室に入ってからもう一時間近く経っている。

 私は赤白のギンガムチェックのカバーを着けた本に再び目を落とす。

 買ったばかりのカバーは真新しいが、中身は紙面も黄ばんだ「ピノッキオの冒険」だ。

 ママが昔、幼いギタに読み聞かせた本だという。

 内容は私のメモリーにもインプットされているけれど、「待合室で時間潰しに本を読む付き添いの家族」というカモフラージュのために一定の時間的間隔を置いてページをめくっている。

 今、開いたページでは「子供の国」で遊び呆けていたピノッキオが友達共々小ロバに姿を変えられていた。

 このおとぎ話の世界では、心掛け一つで真人間の子供でもロバに姿を変えられて嬲り殺される一方、木彫りの人形でも真人間に改造されて生きられるのだ。

 ボーン、ボーン、ボーン……。

 とうとう壁の振り子時計が再び鳴った。

 パパが診察室に入ったのはちょうどこの振り子時計が二度鳴った時だから、一時間経った計算になる。

 私は本を閉じると焦げ茶色のマホガニー造りの壁時計を見詰めた。

 黒い金釘じみたローマ数字を刻んだ文字盤は三時を告げた後も告げる前と同じように二本の針を動かし続けている。

 これが真人間になったらさぞかし律儀な人となりだろうと思うけれど、この世界で私やこの壁時計が本当の人間に変わることはない。

 ギイイッ。

 ガラス戸の開く音がして、待合室全体にうっすら漂う消毒液の匂いに冬の路地の香りが混ざった。

 マホガニーの壁時計と同じ焦げ茶色の縮れた髪にハシバミ色の瞳をした、年の頃は四十前後の女が入ってくる。

「あ……」

 先に小さく声を上げたのは向こうだった。

 これは、ジーナ・グイーディでは。

 パパが見せてくれたアルバムで、大学時代のギタと一緒に映っていた機械工学部の助手だ。

 七年前の写真では三十歳そこそこだから、今の年配にも合う。

 相手は三十歳の女の装いをして二十二歳のギタの面影を借りた私を驚きと恐れの半ばする目で見詰めた。

 ふと、その瞳が和らいだ。

「クリスマスにも近付くと、寒くなりますね」

 そうだ、他人の空似、人違いだ。

「ええ」

 私たちは初対面でこれから特に深く関わることなく別れていく人同士の好意的な微笑を交わした。

 女が受付に向かうのをしおに私はまた本を開く。

“――きみはだれ?

 この問いかけに小ロバはぼんやりした目を開くとどもりながら答えました。

――ぼく……とう……しん……だよ。

 それからもう一度目を閉じると、息絶えました”

 挿し絵では藁の上に横たわった幼いロバに木彫りの少年が跪いていた。

 これはもう物語の終盤近く、ロバから木彫り人形の姿に戻ったピノッキオが別々に売り飛ばされた友達に再会する場面だ。

 本当は「ロメオ」という名前なのに小柄で痩せ細った体つきから「灯心」とあだ名されたこの少年は、ロバの体から戻れず、売り払われた他人の家で酷使されて死ぬ。

 怠け者で遊び好きのピノッキオとこの灯心で心ばえにそこまで差があるとは思えないが、そんな理不尽な顛末を迎えるのだ。

 だが、劇中で一度も家族のことを口にしないこの子には、人に戻ったところで、ピノッキオにとってのジェッペット爺さんのような待つ家族も帰るべき家も最初から無かったのかもしれない。

 カツン、カツン……。

 今度は診察室の方から聞き慣れた靴音が響いてきた。

「パパ……」

 私が立ち上がったところですぐ近くで息を呑む気配がした。

博士ドットール?」

 近くのソファに腰掛けていた先程の女がおずおずと立ち上がる。

「ヴィットーリ博士ですか?」

 榛色の目が半ば答えを知っている風に実年齢よりも一回り以上も老け込んで痩せ衰えたパパを見つめた。

 やはり、この女性はジーナ・グイーディだったようだ。

「お久し振りですね、ジーナ」

 パパは一瞬引きつった顔を温和な風に微笑ませると、支えに来た私を指し示す。

「こちらは娘のアンブラです」

 私も出来るだけ親しい笑顔を作った。

「初めまして《ピアチェーレ》」

 少なくとも私とこの人が直接顔を合わせたのは初めてだ。

「初めまして」

 相手はまるで古い機械のように抑揚のない口調で返す。

「この方は今は機械工学の教授をされているんだよ」

 パパは診察室に入る前よりも重く私の肩に捉まりつつ、飽くまで余所行きの穏やかな笑顔でこちらに説明する。

「凄いですね」

 私の中で彼女のプロフィールが「ギタの先輩で機械工学の助手」から「機械工学の教授」にアップデートされた。

「このお嬢さんは……」

 まだ教授としては若いジーナは言いかけてから気が付いた風に問い直した。

「いえ、お嬢さんと今はこの辺りにお住まいなんですか?」

 ヴィットーリ教授にはギタ以外の娘などいない。

 あなたは誰なの?

 何故、死んだはずのギタにそっくりなの?

 こちらを眺める榛色の瞳はそう語っている。

「ええ」

 パパは何でもない風に頷いて続けた。

「病気の治療のため、この近くのホテルに暫く滞在しています」

 嘘ではないが、全てを明かしてはいない。

「そうですか」

 グイーディ教授は専門家の目で何かを察したように私を見詰める。

「それでお嬢さんも一緒に」

「ええ」

 アンドロイドの私は極力無邪気に微笑んで頷いた。

 この人とギタは同じアンドロイドの研究をしていた。

 というより、グイーディ教授の方がより長く研究しているのだから、私の正体が察知されるのは時間の問題だ。

「私は以前と同じ所に一人で住んでおります」

 私やギタよりも年上だが、パパよりは確実に若い女は今度はどこかはにかんだ風に切り出した。

「よろしければ、いつでもおいでください」

 榛色の瞳はもう完全に私からパパに移動している。

「ご親切に」

「ジーナ・グイーディさん」

 パパが返すのと受付の事務員が掛ける声が重なった。

「お待たせしました。診察室にお入り下さい」

「それでは、また」

 女は急に現実に引き戻されたような、幾分老けた風な面持ちになると、診察室に向かう。

 何の傷病かは分からないが、ほんの少し右足を引き摺る歩き方だ。

 *****

「そういえば、彼女も若い頃から神経を患ってたな」

 病院から外に出てきたところでパパは思い出したように呟いた。

「向こうも私が随分老け込んでいてびっくりしただろう」

 路地を吹き抜ける冷えた風に苦く笑う。

「先に気付いたのはグイーディ教授でしょ」

 彼女がパパを肩書きで呼ぶように私も彼女を肩書きで呼ぶことにした。

「あの事故の時も、ジーナが真っ先に来てくれた」

 パパの灰色の目がクリスマス仕様のきらびやかな飾り付けをされた街を漂う。

 シャンシャンと鈴の音を模した曲も遠くから聞こえてくる。

「苦しい時に私たち一家のためを思って動いてくれた、数少ない一人だよ」

 あの人が思っていたのはギタやママではなくパパではないのか。

 それは聞き出せないまま、来る時よりもいっそう重くなった腕を引いて来た道を戻る。

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