第五章:忘れ得ぬ面影

「あの男は私を死に追い込まなければ気が済まないのさ」

 引き出しの奥から出した写真を眺めながらパパは呟いた。

「パパは死ななければいけないことはしてないでしょ」

 洗濯籠のフェイスタオルを伸ばして部屋干しの洗濯挟みで吊るす。

 うっすらと湿ったローズの匂いが広がった。

 お昼の用意の前に、籠に残った洗濯物は室内に干すことにしたが、幸い細々した物ばかりだ。

「そう説いたところでジャンニの心はもう変わらない」

 ジャンニ、と振り絞るような声で口にするパパの灰色の眼差しは古い写真に注がれたままだ。

 と、手にした一枚を静かに机の上に置いて立ち上がった。

「洗濯物が終わったら、そろそろ本当にお昼にしておくれ」

 古びた写真には今の私くらいの年頃のママと少し年上の気難しげな青年時代のパパ、そして、まだ少年のようにあどけない金髪の若者が並んで笑っていた。

 *****

「ここを出て、街中のホテルにでも移ろうか」

 食卓のパパがぽつりと呟いた。

「それは……」

 私はコンロ回りの油とソースを拭く手を止める。

 傍らのコーヒーメーカーからジュッと音がして甘い香りが辺りに漂った。

 いつもなら食べ終えて食後のコーヒーを出す頃合いだが、パパの皿にはまだペンネアラビアータが半分ほど残っている。

「費用は心配ない」

 自分自身にも言い聞かせる風にパパは微笑んで灰色の頭を横に振ると沈んだ声で付け加えた。

「ルカーニアも却ってその方が手を出しづらいはずだ」

 クロスを敷いたテーブルの上で握り締めた自分の左の拳を見詰めている。

 カタカタカタカタ……。

 クロス越しに拳と接した木造のテーブル板の小刻みに震える音がこちらまで響いた。

「それに何かあっても、街中の方が助けを呼べるからね」

 パパは今度は左手を開いて宙に浮かすが、その指先はまだ微かに震えている。

「街中に行けばもっと色々手に入りやすくなるね」

 パパもきっと病院に行きやすくなるけれど、そこは敢えて避けて話す。

「新しいお洋服とか」

 私が今、身に付けている服は全てギタのお下がりだ。

 この体は痩せも太りもしないけれど、誰が着ようが服が褪せて古くなるのは止められない。

「そうだね。沢山買おう」

 こちらに向けられた灰色の瞳が細くなった。

「お前は何を着ても映えるはずだ」

 街に出たら、二十九歳のギタが着る服を選ぼう。

「ジェラードジェラテリアにも行ってみたいな」

 ジェラードはパパがチョコレート、ママがバニラ、ギタがチョコチップ。

 アルバムにも、まだ若いパパとママと小さなギタが旅先のジェラテリアで笑って食べている写真があった。

 私は食べられないけれど、手の震えるパパに代わりに食べさせてやることは出来る。

「もっと寒くなる前にきっと行こう」

 パパは両の手を固く握り締めると、窓の外に広がる晴れた秋の森に向かって強く頷いた。

 *****

“Pietro Orsini《ピエトロ・オルシーニ》”

 私はボールペンで書き終えたフォームをパパに見せる。

「これでいい?」

「ああ」

 パパは頷いた。

 久し振りに着たスーツはまだ型も布地もしっかりしているが、中身の本人が痩せたために首回りがダブついて見える。

「ありがとう」

 ホテルのフォームを埋めるボールペンの筆跡に灰色の瞳が微笑んで奥が幽かに潤む。

 私の筆跡は七年前の研究ノートの途中まで綴られたギタのそれそのものだ。

 大学でアンドロイドの研究をして将来を嘱望されながら、二十二歳の若さで飛行機事故により行方不明になった、マルゲリータ・ヴィットーリ。

「お願いします」

「承りました」

 七、八年前の秋冬物のコートに身を包み、エメラルド色の髪を纏めて帽子に覆い隠した私にも中年のフロントウーマンは飽くまで平静に応対する。

「お部屋に案内します」

 制服姿のボーイの一人が笑顔でガラガラとパパのキャリーケースを引きながらエレベーターに私たちを導く。

 ホテルのスタッフたちってまるで接客用にプログラムされたアンドロイドみたいだ。

 もしかすると、客の中に私のような偽物の人間が紛れ込んでいるように、スタッフの中にも本物のアンドロイドが交じっているのかもしれない。

 *****

「お祖父ちゃん《ノンノ》も僕と同じ梨なんだね!」

 向こうのテーブルでスプーンを手にした小さな黒髪の男の子が大きな黒い瞳を更に丸くして笑う。

「そうだよ、昔から大好きなんだ」

 禿げ上がったお爺さんは皺の目立つ大きな手で孫息子のふさふさした黒髪の頭を撫でた。

「お祖父ちゃんがピーノくらいの時には、お祖父ちゃんのママがよく梨を剥いて食べさせてくれた」

 懐かしげに微笑みながら自分の皿に盛られた黄緑色のジェラードをスプーンでまた一口掬う。

「僕も毎日、梨、食べたいよう」

 ピーノと呼ばれた男の子は傍らの母親らしき、やはり豊かな黒い髪をした若い女性にねだった。

「生の果物は季節もあるから毎日は無理よ」

 こちらはキャラメル味らしい薄茶のジェラードを食べながら苦笑いする。

 この三人は恐らく血の繋がった祖父、母、孫息子なのだろう。

 全員とも快活そうな大きな黒い目をしている。

 私は湯気たつカプチーノの入ったカップにまた口を着けた。

 こうして時々飲んでいるフリをすれば、周囲にも怪しまれない。

 もっとも、周りのどのテーブルも楽しげな家族連れやカップル、あるいは友人グループだ。

 好きな味のジェラードを楽しみながらそれぞれの話題に興じていて、こちらに敢えて目を向ける気配はない。

「ごちそうさま」

 すぐ隣でパパが呟いた。

 手前の皿には、まだチョコレートのジェラードが半分ほど残っている。

「帰ろう」

 先ほどブティックで買った新しい服の入った紙袋を手に立ち上がる。

「パパ、私が持つよ」

 全部、私のために買った服なのだから。

「すぐそこまでだから大丈夫だ」

 半分残したジェラードの皿と少しも減っていないカプチーノのカップを残して、私たちは賑やかなジェラテリアを後にする。

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