終章

終章

 気がつくと、クローネの姿はなかった。

 彼女はどこへ行ったのかと訊ねようとしたところで、カルが気を失った。血を失いすぎたのだと、仏頂面のヤトナが言った。

今、カルは、サーグリム城にある救護室のベッドに横たわっていた。

「元気そうだね」

 訪れたユディスを見て、カルはふわりと笑った。

 戦は、ファイラム軍の勝利であった。二人の〈吐息ブレス〉が倒されたことがどう影響したのかはわからない。だが、あれからさほど時をおかず、レシス軍は城の包囲を解き、撤退を始めたのだと言う。敵の総大将オル・エシンは、もともとこの戦そのものがカルを殺すために仕掛けられた罠であったことも、あるいは知っていたのかも知れない。彼は、レシス王がファイラムに叛旗を翻したことについても、当初は批判的であったと聞く。

 ユディスは、カルもろともレイガンに担がれて城に入った。最初は自分で歩けると頑強に主張したところ、それならばまずはお前からだな、とヤトナに精気を吸われ、足腰が立たなくなったからである。

 いちおう隊長で、女性でもあるユディスには、粗末だが別に一室が割り当てられた。戦の最中だったらこうはいかなかっただろう。

 ベッドで寝ていると、生き残った傭兵たちが、何組かに分かれて次々とユディスをおとなった。ユディスは、彼らを放置して《響》を追ったことを詫びたが、誰一人としてそのことに文句を言う者はなかった。

「そんなことよりも、誰も倒せなかったあの化物を、隊長が一騎討ちで討ち取ったってんで、俺ら全員鼻高々なんでさァ。指揮ひとつとっても堂に入ったもんだったし、あんたはいい隊長だって、みんな言ってます」

 禿げ頭の傭兵が、照れ臭そうに言った。

「だから、はやく良くなってくだせえ」

「大したことありません」

 くすぐったさを感じながら、ユディスは答えた。ユラルの軍で、ユラルの戦をともに戦った。だが、そんな彼らに認められるのも悪くないと、今は思える。

「それよりも、カルのようすはどうですか?」

「やっぱりコレが心配ですかい?」

 小指を立てて、禿げ頭はニヤリとした。

「なっ……ち、ちがう!」

「まあまあ、今さら隠さなくたって」

「だから違うと――」

「あの兄さんも、命に別状はないみたいですぜ。ただ、傷はたいしたことないかわりに、なんかえらく衰弱してるってんで、しばらくは絶対安静だそうですが」

「そういや、すげえ美人が看病してたよな?」

「ば、馬鹿野郎! 隊長の前だぞ!」

「そうか、すまねえ……でも、何モンだったんだろうな……いくさ場でも見たような気もするし……」

 いちいち訂正するのも面倒になったので、ユディスはそれ以上何も言わなかった。

 動けるようになるとすぐにカルを訪ねた。身体にだるさは残っていたが、歩き回る分には問題なかった。

「元気そうだね」

 カルはふわりと笑った。彼の傍らには、予想通りファラの姿があった。

「クローネのことですが――」

 ユディスが言いかけると、カルが手を上げて制した。

「ファラ」

「なあに? カル」

「ちょっと、枕元に飾る花を探してきてくれないかな」

「わかった。どんな花がいい?」

「ファラの好きなやつでいいよ。ゆっくりで構わないから」

 ファラがぱたぱたと出て行くのを、カルは目を細めて見送った。〈吐息〉の話を、カルはファラに聞かせたがらない。

「クローネはどうなりました?」

「きみが放心している間に、地面から泥が湧き出して、彼女を包み込んだ。泥はすぐに地面に吸い込まれるように消えていって、あとには何も残らなかった」

 デナリスが来たのだとすぐにわかった。なぜ黙って見ていたのかとなじろうとしたが、カルに言うのは筋が違うと考えて思いとどまった。

「まだ、立てませんか?」

「傷を治した分の取立てとばかりにヤトナに吸われたからね。ほんと、容赦がなくて困る」

 カルの笑い声に暗さはなかった。

「どうしてそんなふうに」

 ユディスは声をつまらせた。

 相手を生かすことが、より残酷な運命を相手にもたらす場合があるということを、クローネの一件でユディスは知った。そういう選択をしたことを、カルはどう受け止めているのだろうか。クローネのことだけではない。これまで彼が倒してきたすべての〈吐息〉と、彼らの器となった人々の命や業、喜びも苦しみも含んだ記憶の一つひとつを、カルは背負ってきているのだ。

 カルの行動は時に非情である。だが、それはカルティオン・ライルという人間が非情であることを意味しない。

「強いですね。まぶしいくらいに」

 すべては、あの少女のためなのだろうか。

「そんなことないよ。おれは、ノーザパイドを戦いの道具としてしか使えない。この剣の力は、人と人が理解し合うために使われるのが本当なんだとおれは思う……ユディス、きみがクローネを理解し、憎しみを乗り越えたようにね。おれがそう出来ないのは、結局のところ、エゴにとらわれているからだ。この――」

 カルはそう言って、自分の前髪をつまんだ。

「《シン・ラの印》を、なんとかして否定したいという欲求にね」

「そんなものは迷信です。あなたとファラさんがいたという一座のことも、不幸な偶然だった……それだけのことで」

「ヤトナもそう言ってくれたよ。もっとも、ヤトナの場合、たかが人間にそんな大それた力があるわけないって言い方だったけどね。でも、おれはそんな言葉だけじゃ納得できなかった。おれのせいで不幸になったやつが、目の前にいるんだから」

 カルは少し顔を伏せ、それからユディスを見つめた。強く、まっすぐで、穏やかさの中に様々な色の入り混じった目だった。

「おれは証明したい。おれのような人間にも、誰かを幸せにできるってことを」

「あなたは、私を救ってくれたではありませんか」

「いや。おれは単に、自分のエゴにきみを巻き込んだだけだ。疲れていたんだよ。だから、こういう言い方をすると不愉快かもしれないけど、おれに似た立場のきみに出会った時、すごく嬉しかった」

 カルは自嘲気味に笑った。

「誰かに、見ていて欲しいと思ってしまったんだ」

「ヤトナ様は? ファラさんだって……」

「ヤトナは、仮にも神様だしな。人とは結局のところ、異質なんだよ。そこがかえって気楽なこともあるけどね。ファラは……あいつが元に戻っても、おれのしてきたことを、話せるかどうかわからない。だって、そんなことをしたら、あいつは絶対に自分を責める」

「それは、そうかもしれませんが……でも」

 ユディスは口をつぐんだ。詮無いことだと気づいたからだ。ファラが元に戻るとしても、それはまだ先の話。カルが重荷を背負って苦しんでいるのは、今なのだ。

「ユディス、お別れだ」

 一瞬、何を言われたかわからず、ユディスは呆然とした。

「きみにはもう、〈吐息〉と戦う理由がない。おれのエゴに付き合う義務も」

「な、何をいきなり――」

 と、そこへ、ぱたぱたという足音とともにファラが戻ってきた。

「カル! お見舞いだよ、お見舞い!」

「……調子ハ?」

 ファラに続いてやってきたのはレイガンだった。

「まあ、ぼちぼち」

「お前に、会いたイという者がいルのダが」

「ん、ここに来るのか?」

 レイガンはそれには答えず、いきなりカルの身体を肩に担ぎ上げた。

「わ! な、何?」

「あはははははははは」

 なぜか嬉しそうに笑うファラ。どこかに向かって歩き出したレイガンの後を、ユディスは慌てて負いかけた。

「ここダ」

 二階に上がってふたつほど角を曲がったあたりで、レイガンは立ち止まった。両開きの扉のある部屋。レイガンが扉を叩くと、中からいらえがあった。

「よっ」

「アーク?」

 中に入ると、そこに立っていたエウ・マキスの少年が片手を上げた。肩のほうは、もうすっかり良いようだ。優秀な治癒術師がついていたのだろう。奥には、椅子にまっすぐ腰掛けているラーナシア侯の姿もあった。

「ついさっき着いたところさ」

 ミルゼイユ自ら輜重隊を率いてきたのだと、アークが言った。

 レイガンはカルを脇に下ろした。

「大丈夫ですか?」

 カルはなんとか自分の足で立っていたものの、明らかにつらそうだった。しかし、ユディスが手を差し伸べると、彼は首を横に振った。

「この人の前で、無様な姿は見せられないよ」

 カルはミルゼイユに視線を向けた。

「報告はレイガンより受けた」

「彼も、あなたの部下だったのですね」

 部屋に入った瞬間に、ユディスはからくりを理解した。驚きはあったが、意外ではなかった。ユディスとカルの監視と、その実力を測ること――それが、レイガンに与えられた任務であったのだろう。

「不覚でアった」

 敵に操られ、カルを傷つけてしまったことを、レイガンは恥じているようだった。

「命に背いたのでないのなら、いちいちとがめだてはせぬ。刺客とは、失敗の代償を自らの命で支払うもの。たまたま運があって拾った命なら、それを活かすすべを考えよ」

 ミルゼイユの言葉に、レイガンは黙ってこうべをたれた。

「カルティオン。〈吐息〉の一人を、わざと逃がしたらしいな。申し開きはあるか?」

「いいえ」

「もう一度同じことをすればその時は斬るぞ。このまま我が許で働く気があるのならだが」

 どうやら、カルは刺客として合格ということらしかった。

「おれの出した条件はどうなりますか?」

「〈吐息〉に関する情報は、最優先で回してやろう。それでどうだ?」

「……わかりました。よろしくお願いします」

ラーナシア侯の組織力を利用すれば、〈吐息〉にまみえる機会は格段に増える。より過酷な道を、彼は歩み続けることになるだろう。ユディスがそんなことを考えていると、カルと目があった。

「それで、おれのほうはいいとして、ユディスは――」

「待って下さい!」

 ユディスは、カルとミルゼイユの間に割り込みながら叫んだ。

「私も、このままラーナシア侯の許で働かせて下さい」

「ユディス!」

「こちらとしては、そのつもりだが?」

 ミルゼイユの鋭い視線が、問いかけるようにユディスに投げかけられた。

「ユディス、きみはもう――」

「これで終わりなんて、言わないでください、カル」

 ユディスは振り返って、カルの手を取った。

「独りでもいいなんて、言わないでください。そんなふうに生きるのは間違っています。私もずっと独りで……それがどんなにつらいことか、よく知っています。だから、私があなたを見ています。けっして離れず、あなたのそばで、ずっと……」

 必死の訴えは果たして通じたのだろうか。カルは、あっけにとられたように目を丸くしていた。皆、黙ったままユディスを見ていた。彼らの間に漂っている妙な空気に、ユディスは気づいた。

「ええと……これってつまり、愛の告白? そんな重大な瞬間に、ぼくたち居合わせちゃったわけ?」

 アークが頬を指でかきながら言った。

「え? あ、あの……これはつまり……」

「な、なんと言うか、大胆なのだな、アルフィヤとは。うむ。初めて知った」

 ミルゼイユも、自分を無理やり納得させたような顔でうなずいた。ユディスは、自分のしでかしたことの大きさに蒼白になった。

「ち、ちがいます! そういうことでは――」

「なにが違うってんだよ。今のはどう考えも、そうとしか聞こえなかったぞ」

 必死に弁解しようとすればするほど泥沼にはまっていく気がした。助けを求めてカルを見ると、その腕にファラが自分の腕を絡ませ、きつい目でこちらを睨んでいた。

「やっぱり、そうだったんだ」

「あ、あの……だからそうではなくて……」

 ユディスがカルと一緒に行くと言ったのは、孤独な戦いを自らに課そうとするカルを支えたいと思ったからであり、アルフィヤの一人として、素霊を喰う〈吐息〉はやはり放置できないと考えたからでもあった。

 だが、それを説明しようとしても、周りから言葉に頭の中は真っ白になり、舌もうまく回ってくれなかった。レイガンが、黙って部屋から出て行くのが見えた。ユディスも同じようにしたかったが、状況的にそれもまずいように思えた。

 こんなかたちで良いのか。せっかくの一大決心が、こんな冗談のような流れのまま受け止められてしまって果たして良いのか。

 今こそノーザパイドを使ってくれ、と心の中でユディスは絶叫した。

 この真意を読み取って皆の誤解を解いてくれ、とカルに対して切に願った。

 涙がにじんできた。けれども、肚の底からはなぜか笑いがこみ上げてきた。

「笑おうか、ユディス」

 計ったようにカルがそう言い、微笑んだ。重さを感じさせない、ふわりとした笑み。

 ふっ――と、くちびるから空気がもれると、あとはもう止まらなかった。

 声をあげて、笑う。

もうどうでも良かった。誤解はいずれ解けばいい。もしかしたら、誤解ではない部分もすこしはあるのかも知れないとちらりと思ったが、それは、まあ――

 いずれまた戦いが始まる。笑える時には、笑っておくに限る。

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