風を追う人

kii

風を追う人

 日が傾くにつれて、昼間の暑さがようやく緩んできたので、夕食前に、散歩に出ることにした。

 ねぎを刻む妻の包丁の音を聞きながら、裏口から通りへ出てみると、街路樹でカナカナ蝉が鳴いていた。町はずれの小山に、ちょうど夕日が沈むところで、西の空は鮮やかな茜色に染まっていた。

 隣の三毛猫が、門柱の上で、目を細めて風にヒゲを遊ばせているのを眺めながら、大通りへ出てみようかと考えていると、男が、角を曲がってやって来た。背が低く痩せていて、ぼさぼさの髪に小さい麦わら帽子を載せ、しかも白衣を着ている。医者? 往診先のお宅を探しているのだろうか。

 男は、跳ねるように数歩進んでは、やや鳥に似た顔を仰向け深々と匂いを嗅ぐと、うつむいて首を振り、今度は数歩戻ってまた鼻を上に向けるといったふうだった。一体何をしているのか、考えているうちに、ついにそばまでやって来た。三毛猫がそそくさと退散するのが、目の片隅に映った。見知らぬ人を好まない猫は、物陰から成り行きを見守るつもりなのだろう。

「あの」

 警戒心に好奇心が勝った私は、思い切って口を開いた。男はぴたりと動きを止め、こちらに向き直ると、帽子を上げて会釈した。

「これはこれは、ご主人、いい夕方ですな」

 男性にしては甲高い声だった。細くて釣り上がり気味の目に、鷲鼻が目を引いた。

「本当に、風が涼しくてありがたいですね」

 私が答えると、男はこくこくと、忙しなく頷いた。

「お見かけしないお顔ですが、どちらかお探しですか」

 男は一瞬ぽかんとした後、少し恥ずかしそうな笑みを浮かべた。

「いやなに、風を追っているだけでして」

 風を追っている?

 今度は、私がぽかんとする番だった。口を開けたまま男を見詰めていると、彼は嬉しそうに頷いた。

「驚かれるのも無理はありません。これは太古の地球を研究するための、画期的な方法なのですよ」

「では、学者さんなのですか?」

「ええ、まあ。私は、『太古の地球研究所』の所長をやっております。今そこで、カンブリア紀の風を見つけたので、ここまで追ってきたのですよ」

「カンブリア紀の風?」

 いささか胡散臭げに私は問い返した。しかし男は胸を張った。

「間違いありません。確かに三葉虫の匂いがしましたからね。なのにそこで……」たった今曲がってきた角を指し示し、「強烈な焼魚の匂いがしてきて、見失ってしまったのです」

 男は肩を落とした。角の家の換気扇からは、先ほどから香ばしい煙が排出されていた。

「それは……大変ですね」

 予想外の成り行きだった。大真面目な男の様子に、笑わないように気をつけながら、私は言った。「後学のために伺いたいのですが、風を見付けたあとは、どうするのですか」

 男はくすっと笑った。そんなことも知らないのか、とでも言いたげに。「もちろん、追いかけるんですよ」

「追いかける?」

「そうですよ。追いかけます、立ち止まるまでね。いくら風だって、吹きっぱなしってわけにはいきませんからね」

「……なるほど」私は用心深く相槌を打った。「立ち止まったら?」

「訊ねるんですよ、礼儀正しくね」

「……訊ねる?」

「そうですよ。カンブリア紀の風には、カンブリア紀のことを訊ねます」

 私が全く理解していないことを見て取った男は、鷲鼻をふくらませると、噛んで含めるように説明を始めた。

「いいですか。風はいつでも吹いている。どこでも吹いている。太古の地球でも、やっぱり吹いていたに違いないのです。だから、風は何でも知っているのですよ」気持ち良さそうに目を閉じ、鼻を上に向け、「太古の空の色、海の色、おひさまの温かさも、今とは違っていたのかもしれない。恐竜はなぜいなくなったのか、人はどこから来たのか……」

 それは私も知りたい。でも、風に訊くなんて、一体どうやって……。

 私が尋ねようとすると、突然男が飛び上がった。

「何と! これは始祖鳥の匂い。まさしくこの間すれ違った、ジュラ紀の風……」

 男は鼻を上げたまま、私を一瞥すると、早口に言った。「探していた風が見つかりました。それではどうぞ、良い晩を」そして、私が挨拶を返す間もなくせかせかと歩き出した。右へ、左へ、戻って、進んで。

「……おお、今度は三軒先の、カレーの匂いが邪魔をする……」つぶやく声を最後に、角を曲がって見えなくなった。

 いつしか蝉の声も止んで、気が付けば夕陽は沈み、空は、西の藤色から東の藍色へと、美しいグラデーションを描いている。

 車の下から、隣の三毛猫が大あくびをしながら出てきた。薄暗がりに緑色の目を光らせて、前肢を伸ばし、おしりを上げて伸びをする。

「聞いたかい、今の話。始祖鳥の匂いなんて、どうして知ってるんだろう」

 私の足元に座り、後肢で耳の後ろを掻いている猫につぶやいた。猫はふるふると身を震わせ、抜け毛を私のズボンに撒き散らすと、するりと門の下をくぐってうちへと帰って行った。

「あなた、ごはんよ」

 妻の呼ぶ声が聞こえた。

「今行くよ」

 私は応えて、うちに入った。

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風を追う人 kii @kii

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