第13話 過去と未来の境界線

 寒さで目が覚めた。重い体をゆっくりおこした煌太は携帯を手に取る。時刻は早朝五時を過ぎたところだ。気づいたらいつの間にか寝てしまったらしい。いつもなら、もう少しと二度寝に入るところだったけど、早く寝たおかげか目がぱっちりと開いている。

 今日は早く登校しよう。煌太は布団から出ると、そのまま風呂場に向かった。

 シャワーを浴びながら、昨日の出来事を改めて振り返る。様々なことがあったが、やはり記憶に残っているのは玲愛との別れ際に起こった『PTSD』の後遺症。これは自分の身に変化が起きている事を如実に表しているのかもしれない。もしかしたら、記憶を取り戻す予兆めいたものなのかも。

 風呂から上がった煌太は、簡単に朝食の準備を済ませる。赤星家の朝ご飯は、基本的に個々の自由に任されている。パンでもご飯でも食べたければ自由に食べて良いことになっている。今日はパンでも食べようか。

「あれ、お兄ちゃん。早いね」

「おはよう。澪。お前も早いな」

 まだ眠い体を無理やり起こしてきたのか、澪は目をこすっている。

「澪、昨日はごめん。それと布団、かけてくれてありがとう」

「いいって。お兄ちゃん昔から布団掛けないで眠るもんね」

「そうだったっけ?」

 澪の発言に違和感を覚えながら煌太はパンをほおばる。最近、澪は布団を掛けに来てくれたことがなかったきがする。

「私、お風呂入ってくる」

「あ、シャンプー無くなりそうだったから新しいの補充しといた」

「んーありがとう」

「あと、眼鏡。外せよ。つけっぱなしで寝ないほうがいいぞ」

 あくびをした澪は煌太に言われて眼鏡を外すと、そそくさと風呂場へと消えていった。

 いつもの赤星家の光景。特に何も変わらない平和な時間が流れている。こんな光景を落ち着いて感じることができるのも、数ヶ月の間に起こった、様々な出来事を経験してきたからなのかもしれない。

 記憶喪失になってから、どこか切羽詰まっていた煌太はただひたすら記憶を取り戻すことに固執していた。記憶を取り戻せば普通の生活を送れると思っていた。でも、今はその考えに違和感を覚えるようになった。

 家を後にし、駅へと向かう。この光景も、煌太にとって既に見慣れたものとなった。

 電車に乗って、いつもの通学路を歩く。何も変わらない。この後、学校に着いたら自分の席について、皆が来たら会話して、先生が来たら授業を受けて、お昼を食べて、また授業を受け、帰りのHRを終えたら、部活動。そして、帰宅。変わることのない時間をこれからも過ごしていける。

 目の前に訪れる事をひたすら成し遂げてきた数ヶ月。改めて振り返るとよく理解できた。今まで難しく考えすぎだったのかもしれない。そして、煌太は気づいた。

 既に、普通の生活を送っていたということに。


「おはよーこうちゃん」

「おはよう、奏」

 いつもより一時間早く学校に着いたのにも関わらず、既に奏が煌太の席に座っていた。

「早いな。何かあったの?」

「ううん、何もないよ。ただ、早く目が覚めちゃって……こうちゃんも早いね」

「俺も早く目が覚めたからさ」

 他愛のない会話。今日はいつも以上に高校生をしている気がする。気分の持ちようでここまで違うのかと新鮮な驚きを感じる。

「あのさ、奏」

「何?」

「中学生の頃、家の近くにある公園で俺達って何かあったのかな?」

 思い切って昨日から気になっていたことをぶつけてみた。

「どうしたの? 急に」

「実は、身に覚えのないことが映像となって急に蘇ることが最近あって。その時に見えたのが公園で二人で話している光景で、奏が……その……涙を流してたから気になって……」

 見えてしまった事が事実かどうかわからなかった煌太は、奏に真意を問う。奏は躊躇う素振りを見せつつも、煌太に真実を話してくれた。

「こうちゃんが言った事は間違いじゃないよ。高校受験合格発表日の夜、たしかに私は涙を流してた」

「そっか。なら、俺は奏に酷いことしたんだよな……」

「違う!」

 真っ向から煌太の発言を奏は否定した。

「酷いことはされていない。むしろ、私は嬉しくて涙が出ちゃったんだよ」

「え……」

 自らの思い違いに煌太は困惑する。あの時見えた光景は、悲しくて出た涙ではなかった。

「そっか。何か俺、勘違いしてたかもしれない。嬉しかったのなら、よかったよ」

 煌太は安堵した。悲しませていなかった事実を知れてよかった。『PTSD』は今後も自分の記憶を取り戻すための重要な鍵になる気がした。

「あのね、こうちゃん」

「うん?」

「……やっぱり、なんでもない」

 奏は俯いたままだった顔を上げると、煌太に満面の笑みを見せる。笑顔の奏が目の前にいる現実に煌太も自然と笑みがこぼれた。

「今日からサーチ部の活動、始まるんだね」

「そうだな。部長の玲愛がしっかりしてくれれば良いんだけど」

 一年生にして部長の大役を託された玲愛は、部長会など部の長としての仕事をしなければならない。必然的に他の生徒との関わりが増えてくるはずだ。今までの玲愛だったら、二倍……いや十倍にまで膨れ上がるほど、心配していたのが本音だ。

「もう大丈夫だと思う」「もう大丈夫だと思うな」

 奏と煌太の声が重なる。前にもよくあったことだけど、考えていることが奏とも似ているのかもしれない。

「こうちゃんもそう思ってるんだね」

「ああ。玲愛の事は昨日ですべて解決したと思うから」

「昨日……何かあったの?」

「ちょっとな……」

 玲愛と恵さんの事は奏には言わなくても良いだろう。

「でも、もう大丈夫。昨日ですべて蹴りがついたから。あとは玲愛の気持ち次第だけどね」

 玲愛の気持ちは大きく変化した。良い意味で変化できたと煌太は確信している。

「それじゃ、私の努力は無駄だったのかなぁ……」

「努力って、何か奏もしたの?」

「ううん、何でもない」

 じゃあねと奏は手をふり、自分のクラスに戻っていった。奏が何を隠しているのかわからないけど、笑顔を晒しているので悪いことではなさそうだ。

「あれ。早いねー、赤星」

「あ、上坂。おはよう。お前も早いな」

「おはよう。朝練終わりなんだ」

 スポーツをやっているだけであって爽やかな笑顔が眩しい。

「あのさ、昨日はごめん」

「ん? 何か謝られることされたっけ?」

「その、黒瀬さんのこと……私、見てるだけしかできなかったから」

「何も知らないのに何か言えるわけないと思う。別に上坂だけのせいじゃないし」

 玲愛の抱えていた問題は吹聴するものでもない。玲愛も悪いところはあったと思うし。

「私たちは、黒瀬さんを正直クラスメイトとしてみていなかったと思う。いてもいなくても一緒の人間としか思っていなかった」

 無関心だったと上坂は俯きながら声を振り絞った。

「でも、奏がすべてを話してくれたから。みんなの誤解は解けたはずだよ。少なくとも私はその一人だから」

 奏が何か言い残したらしい。先程の努力とはこのことなのかもしれない。上坂と話している間、続々とクラスの皆が登校してきていた。皆それぞれの空間で会話を楽しんでいる。

「あ、黒瀬さん!」

 上坂の声に思わず煌太は後ろを振り向く。玲愛が自席に鞄を置くところだった。

「おはよう」

 上坂は煌太に見せた笑顔で玲愛に挨拶をする。昨日までの対応とは別人だった。

 玲愛は話しかけられたことに驚きを隠せないのか、上坂から視線を逸らしている。周囲の会話が上坂に同調するかのように一瞬で静まった。皆が玲愛と上坂の会話に視線を送っている。

「……おはよう」

 小声で囁く玲愛の声が教室内に轟く。確かに今、玲愛は発言した。今まで、クラスメイトと話す素振りを見せなかった玲愛が発言した。気づいたら煌太は、右手で拳を作り小さくガッツポーズをしていた。玲愛がクラスメイトとの間に作っていた距離を一気に縮めた瞬間だった。

「おはよう。黒瀬さん」

「黒瀬さん、今度勉強教えてくれない」

「お、俺も教えてくれ!」

 息を飲む思いで視線を送っていたクラスメイトが、皆玲愛の元に駆け寄ってくる。以前、数学の授業で玲愛が助けてくれた時の事を煌太は思い出さずにはいられなかった。

「みんなの反応が……どうして……」

「だから、奏から聞いたって言ったでしょ。みんな奏の熱弁に心打たれたのよ。玲愛は決して悪い人じゃないって」

 生徒で溢れかえっている玲愛の隣から抜け出してきた上坂が得意気に話す。奏の努力は、玲愛とクラスメイトの溝を埋めるには十分すぎるほどの特効薬だった。お蔭で玲愛の席はクラスメイトで溢れかえっている。

「私、本当の事を知れて良かったと思ってる。赤星が黒瀬さんを庇う理由が何となくわかった」

「ああ。玲愛は凄い奴なんだよ」

 皆の前で笑顔を見せることが、どれだけ凄いことか。

「まあ、私にはこれくらいしかできないけど。あとは、赤星が頑張らなきゃね」

「え、何を?」

 聞き返した煌太に対して、茶化すような笑顔を見せた上坂は再度玲愛の元へ向かっていった。

 玲愛はクラスメイトに見せたことのない笑顔を、今見せている。

 これから、もっと話をする相手が増えるだろう。もっと楽しいことが待っているだろう。俺は……どうなんだろう。


「煌太!」

 十六時過ぎ、掃除を終えた煌太は静まり返った教室に戻ると玲愛が話しかけてきた。

「あれ、みんなは?」

「山本先生に連れられて先に保健室に行った」

「そっか。それじゃ、俺達も早く行こうぜ」

「うん……あの!」

 鞄を肩にかけ、保健室へ向かおうとしていた煌太を玲愛が威勢の良い掛け声で止めた。

「ん? どうした?」

「昨日は……わざわざありがとう」

「いや、俺の方こそごめん。恵さんから託されたもの、昨日のうちに渡せてよかったよ」

「メールアドレスが書いてあった」

「そうだったんだ。それで、恵さんとはメールしてるのか?」

「うん。今朝もメールした」

 恵さんは本格的に玲愛との間に穿たれた大きな穴を埋めるみたいだ。二人には是非とも仲直りをしてほしいと切実に思う。

「煌太によろしくって、恵が言ってた」

「そっか。了解。今度メールするときに、俺もよろしく言ってたと伝えといてよ」

「うん!」

 すると玲愛は携帯を取り出して早速メールを打ち始める。こうして玲愛がメールを打つ姿を教室で見ることは、今まで一度もなかった。でも、今は目の前で玲愛が携帯を使っている。

 確実に玲愛に変化が訪れていることが、煌太は嬉しくてたまらなかった。

「それで、煌太に質問なんだけど」

「ん? 何?」

 メールを打ち終えた玲愛は、鞄に携帯をしまうと目線を煌太に向ける。

「昨日の事なんだけど……いきなり抱きしめたのって……その……何かあるのかなと思って」

「昨日……」

 玲愛との駅前の出来事を思い出す。すっかり忘れていたが、記憶の中の自分は確かに玲愛を抱きしめていた。当然、玲愛は煌太が好意を持っていると認識してもおかしくない状況だった。

「あれは……その……ちょっと――」

「私は嬉しかったよ」

 煌太の発言にかぶせるように玲愛は言い終えると、笑顔を見せ何も言わずに煌太の手を取る。

「煌太は……どうなの?」

 玲愛の突然の行動に、煌太は思わず虚を突かれる。小さな手から伝わってくる熱が、必要以上に玲愛のことを意識させた。玲愛の問いに応えなければいけない。

「そ、その……俺は同じ部活の仲間として玲愛を尊敬してるし、前にも言ったように友達だと思ってる。だから……その……嫌いじゃないし……好きだよ。でも、好きと言っても……」

「そっか……わかった。ありがとう」

「え、あ、うん……なんか……ごめん」

 うまく言うことができなかった。気持ちが玲愛だけに向いているのか今の煌太にはまだ判断ができなかった。

「私は、負けないから」

「えっ、負けないって……」

「行こう。保健室に」

「……うん」

 煌太の手を引いて玲愛はそのまま歩き出す。

 記憶を失くした当初は、普通の高校生活を過ごせれば良いと思ってきた。勉強したり、部活動に入部したり、誰もが青春時代に経験する当たり前を求めてきた。

 でも、今は当たり前以上の経験をしている。自らの考えの上を行く出来事に驚いている。こんな充実した日々を送れるのも、サーチ部のメンバーや支えてくれた人達に出会えたからなのかもしれない。

 事故の後遺症として今も残り続ける記憶喪失や不安障害だってそう。今すぐに記憶が戻ることはないかもしれない。だけど、サーチ部の仲間と一緒にいる今は、記憶を失わなかったら訪れる事が無かったのかもしれない。不安障害だって必ず治る時がくるはずだ。

 過去を取り戻す事よりも今を大事に生きていくことも十分有意義じゃないかと今なら言える。今の自分には帰る場所があるのだから。

 保健室のドアを開けると、待ちかねたように山本先生、奏、吉野が座っていた。

「二人とも来たわね」

「こうちゃん。遅いよ」

「黒瀬部長も。こっち、こっち」

「それでは、サーチ部の再開を祝して」

「「乾杯!」」

 保健室はいつも以上に賑わっている。このメンバーといれば、この高校で過ごしていれば、身に降りかかっている障害なんてどうでもいいことに思えてくる。

 今は目の前にある時間を精一杯生きよう。精一杯楽しもう。

 たとえ、過去が戻ってこなくても。

 未来がどうなるかわからなくても。

 目の前には今というかけがえのない時間が待っているから。

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過去と未来の境界線 冬水涙 @fuyumi

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