第12話 伝えるキモチ

 教室を後にした煌太は、玲愛の手を引いて駅へと向かった。煌太の強い意志に惹かれ、玲愛も身を委ねるように後ろからついてくる。

 学校の最寄り駅から電車に乗りおよそ二十分。恵さんの住む最寄り駅へと降り立った煌太は玲愛に道を聞きながら恵さんの自宅へと向かった。

 玲愛は躊躇うことなく煌太に経路を教えてくれた。その際も、煌太の右手を玲愛が離すことはなかった。

 途中、玲愛が震えているのに煌太は気づいた。当時、見捨てられた女の子との再会。怖いわけがない。心臓を捻り潰されそうな苦しみを玲愛は味わっているのかもしれない。

 そんな玲愛に安心感を与えようと、繋いでいた手を強く握ってみる。一瞬、玲愛は驚いていたが、それに応えるように強く手を握り返して意志を示してくれた。震えもおさまっている。もう、大丈夫。そんな気持ちが頭をよぎった。玲愛は着実に前に進んでいる。

「ここ」

 玲愛の足が止まると同時に煌太の足も止まる。目の前には大きな一軒家が屹立していた。恵さんの名字であるだろう『白岩』と書かれた表札がある。

「ここが恵さんの家?」

 尋ねると玲愛はコクリと頷く。玲愛をインターホンの前へと押し出し、呼び出し音を押させる。ゆっくりと玲愛の手がインターホンへと伸びかけるが、押すのを躊躇ったのか手を下げてしまった。

 無理もないのかもしれない。昔の悪い記憶は拭い去れていないのだから。玲愛がどれだけの仕打ちを受けてきたのか煌太にはわからなかった。むしろ、わかってはいけないことだと思った。玲愛の心の傷は、実際に受けた本人にしか、わからないのだから。

 暫くして、玲愛の手が再びインターホンへと伸びる。今度は先程と違い、素直に手が伸びていた。インターホンが押され、チャイムが響き渡る。暫くの沈黙。玲愛と恵さんが対峙する瞬間が今まさに来ようとしている。玲愛が一番緊張しているはずなのに、何故か煌太のほうが緊張に飲まれそうになった。

 チャイムが鳴り終わる。しかし、恵さんや白岩家の人達が出てくる気配がなかった。

「いないのかな?」

 煌太は腕時計の針を確認する。十九時を過ぎたところだった。辺りは漆黒の帳が降り始め、周囲の住宅街の明かりと街灯が道路を照らす。

 しかし、煌太と玲愛の近辺は少し離れた街灯の明かりが微かに届く程度の明かりしかなく、二人の周りだけ闇に包まれている。

 言葉を発しない玲愛はインターホンに手を伸ばしたまま俯いていた。

 会えると思って玲愛はここまで来てくれたと思う。初めは嫌がっていた玲愛を説得して連れてきたのに。煌太は玲愛にかける言葉が中々見つけられなかった。

「少し待とうか。たぶん部活動で遅くなってるだけだと思うよ」

 咄嗟に思いついたように言葉を紡いだ煌太は、玄関口の石段に腰を下ろすと隣にもう一人分スペースを作り玲愛に座るのを促す。玲愛は暫く固まっていたが、煌太の声に導かれるかのように隣に腰を下ろした。

 六月中旬、梅雨の時期にしては湿度が低くとても過ごしやすい夜だった。たまに強く吹く風が少しだけ肌寒さを感じさせる。

「今から俺が話すことは独り言だから、あまり気にしないでほしい」

 突如語りだす煌太に視線を向けた玲愛は、直ぐに視線を真っ暗な道路へと移す。それを見た煌太は、ゆっくりと語りだす。

「俺は中学以前の記憶がないのがずっと嫌だった。記憶喪失なんて誰にも知られたくなかったし、他人と少しでも違うことが嫌だった。皆と同じ生活を送りたい、皆で笑って過ごしていきたい、その思いがどんどん強くなっていた。医院長先生からは障害者専門の高校があるからって進められたけど、俺は入るのが嫌だった。それで、通うことが決まっていた星屑高校を選んだんだ」

 堰を切ったように次々と言葉が口から放たれる。今まで我慢していたわけではなかったけど、喋りたい衝動を止められない。

「星屑高校で普通の生活を送りたかったから、はじめは神林や幼馴染の奏にも記憶喪失だと気づかれないように必死だった。部活動も入りたかった。だけど、人混みに入ると突然気分が悪くなり、頭痛が起こるようになった。体が……人を受けつけなくなってたんだ」

 両手で体を抱え込むように体育座りをする。まるで殻にこもる亀のように。

「そんな状態の時に、夕暮れの教室に一人でずっと席に座っている女の子に出会った」

 玲愛が煌太に視線を向けてくる。煌太はそれを感じながらもそのまま話しを続ける。

「その女の子は記憶を失くして迷走していた当時の俺に、どこか似ている気がした。自らの殻にこもって、周りとの関係を閉ざしているように見えた。だけど、その考えは間違いだった。周囲の人を誰よりも見ることができる視野の広さがあり、洞察力も優れている女の子だった。初めて会ったときは俺と同じで孤独な雰囲気を感じたけど、その女の子を知っていくうちに俺とは全く違う人だって気づいた」

「違う……私……」

 何か言いたげに玲愛は話そうとするが、黙り込んでしまう。

「いや、違くない。玲愛は心の優しい人だと俺は思う。そんな玲愛の事を嫌う人なんているはずがない」

 今から嫌われたかもしれない人と会うというのに、少しストレートにものを言ってしまったかもしれない。

「私は……友達少ないし、煌太とは違う」

 微かに瞳が潤んでいる玲愛は上目づかいで煌太の目をのぞき込んでくる。玲愛の綺麗で澄んだ瞳に思わず煌太は目を逸らしそうになるが、どうにか堪え言葉を絞り出す。

「友達はいるかもしれないけど、俺にはいないようなものだったから」

「……ごめん……なさい」

「いや、謝らなくていいよ。記憶がないのは仕方がないこと。事故前の俺が事故に遭ったのがいけないんだから」

 いつまでも過去の出来事にとらわれるわけにはいかない。大事なのは今を変える意志だから。

 自然と煌太は笑っていた。以前は誰にも打ち明けたくないことだったはずなのに、今は笑っていられる。そんな自分に驚きを覚える。

「だからさ」

 立ち上がって一歩前へと足を踏み出す。顔だけ玲愛の方に向け煌太は語る。

「玲愛が信じていた、一番の親友だった恵さんは必ず玲愛の元に戻ってくるよ! 必ず」

 少なくとも煌太はそう信じている。玲愛が話してくれた過去の話を信じているから。

「あの、私の家に何か用ですか?」

 聞きなれない声がする方に視線を向けると、制服姿の女の子が立っていた。街灯の明かりが届く範囲に立っているためよく顔立ちが見えた。

 眼鏡をかけていて、冷静沈着な態度を窺わせている。眼鏡の先に見える双眸はとても大きくパッチリとしていた。眼鏡を外したら地味な印象がなくなり、学園のアイドルを彷彿とさせる容姿を持ち合わせた美少女の印象を煌太は抱いた。

「も、もしかして、恵さんですか?」

「な、なんで私の名前を……荒手のストーカーですか、あなたは」

「ち、違います」

 よからぬ疑いをかけられてしまい困惑する。訝しい表情を晒す恵さんが、ツインテールにした黒髪を揺らしながら近づいてくる。

「も、もしかして私の正体をし――」

 近づく恵さんは突然言葉を発しなくなった。明らかに視線が煌太を向いていない。煌太の隣に視線を向けている。ふと横を見ると先程まで座っていた玲愛が煌太の隣に立っていた。

「れ……玲愛……」

「……恵……」

 二人はついに再会した。久しぶりの再会も、どこか重い空気が漂っている。

「お、俺達は恵さんに話があって来たんだ……って言っても話があるのは玲愛の方だけど」

 玲愛の視線は先程からずっと恵さんを凝視し続けている。言いたいことを考えているのか、怖がることもせずに、まるで獲物を狩る前のライオンのような静けさを保っているようだった。

「二人とも、家に上がってください。詳しい話は中で聞きます」

 静寂を破った恵さんはドアを開けると、屋内に通してくれた。

 家に入るなり、煌太達は二階にある恵さんの部屋に案内された。部屋に入ると、ほのかに良い香りが煌太の鼻を刺激する。

「少し待っててください」

 淡々とした声で喋る恵さんが一人一階へと降りていく。室内は煌太達だけとなった。

 恵さんの部屋は煌太の部屋にはない、ぬいぐるみ等のファンシーグッズがたくさん置いてあった。澪の部屋は何度か見たことがあったが、ここまで女の子らしい部屋ではなかった。目のやり場に困った煌太は、一緒に部屋に入った玲愛に視線を移す。

「玲愛はここに来たことあるのか?」

 首を縦に振る玲愛は、喋ることもせずに壁にかかっている写真を眺めていた。気になった煌太も玲愛の隣に身を移す。目の前にはランドセルを背負った小学生の写真が沢山飾られており、写真の多くはツインテールの女の子と綺麗な黒髪の長髪を纏った女の子が写っている。

 間違いない。これは小学生の玲愛と恵さんだ。確信した煌太は玲愛に視線を移す。玲愛は微動だにせずに、目の前に広がっている写真を見続けている。その姿は放課後の教室でひたすら机に向かっている玲愛と瓜二つだった。

 暫くして、恵さんは部屋に戻ってきた。先程までの制服姿とは違い、室内用の服に着替えてきたようだ。制服の恵さんも良かったが、私服もよく似合っていた。

「さてと。私に用ってことだけど、何?」

 高飛車な性格を思わせる態度に、煌太は萎縮してしまう。このまま話さないと何も話が進まない。かといって玲愛は口を開ける素振りをいっこうに見せる気配がない。

「えっと、玲愛と恵さんって同じ小学校だよね?」

「そ、そうよ。それがどうしたの?」

 強気な態度に煌太は躊躇する。

「いやーあそこに写真が貼ってあって、玲愛と恵さんかなって思って。二人は仲良かったのかなって思って」

「……嘘つかないでよ」

 恵さんの声が突然低くなる。

「玲愛から全て聞いてるんでしょ? 玲愛も黙ってないで、何か言ったらどうなのよ」

 重たい空気を取り除きたかった煌太の考えとは裏腹に、恵さんは冷めた言葉でその場を切りつけた。一方の玲愛は顔を下に向けたまま一向に話そうとしない。

「そうだね……嘘をついた。そのことに関しては謝るよ。ごめん」

 恵さんに向かって煌太は頭を下げる。

「玲愛から小学生の頃の話はほとんど聞いた。クラスの皆が玲愛を孤立させて、結局卒業まで誰も玲愛と関わろうとしなかったってことを」

 教室で玲愛から聞いたことを煌太なりに噛んで含めるように説明する。

「でも、玲愛が仲間外れにされるようなことをしたとは、どうしても思えなかった。玲愛は恵さんが一番の親友だったと言っていたし、親友の恵さんが玲愛を仲間外れにしたのには理由があるんじゃないかって俺は思った。恵さんの事を玲愛から聞いたけど、どうしても恵さんが玲愛を仲間外れにした理由が俺には判らなかった」

 玲愛の心の底に定着しているトラウマを克服するには今しかない。たとえ、どんな結末であろうと真実を知ることが大切だとわかったから。

「だから、恵さんの口から真実を聞きたい。本当に恵さんは玲愛のことが嫌いになったのか」

 恵さんに一番聞きたいことを力強く発言する。真意を聞くには今しかチャンスがない。

「……ごめんなさいっ!」

 煌太と玲愛に対して、恵さんは頭を下げた。先程までの傲慢な態度とは打って変わって全身全霊で謝る姿勢に煌太は虚をつかれた。

「私……こんなつもりじゃなかったの」

「じゃあ、どうして……」

 双眸から零れ落ちそうな涙を必死にこらえている恵さんは、一回大きく深呼吸をして、意を決した表情を晒すと、話し始めた。

「当時、私たちのクラスにいた矢野さんっていう女の子が、同じクラスの広澤君の事が好きだった。だけど、広澤君は玲愛の事が好きだったみたいで。矢野さんは広澤君に告白をしたときにそのことを言われたらしい。しかも、その時にもう一つ決定的なことを言われたみたいで」

「決定的なこと?」

「うん……広澤君は『頭の良い女の子が好きなんだ』って言ったらしい」

 低く冷めた声で話す恵さんは、どこか辛辣な表情を浮かべているようだ。まるで今から話す事には一切触れてほしくないような、そんな表情だった。

「玲愛は私たちと比べて本当に頭が良かった。常に学年一位の成績を取っていたし、皆から尊敬のまなざしで見られていたと思う。そんな時に矢野さんは広澤君に振られた。しかも、好きな人が玲愛で、その理由の一つに頭が良いことが入っていたから。矢野さんの成績は下から数えるほうが早いくらいだった。それで、腹が立っていたのか、矢野さんは玲愛を仲間外れにする計画を立てた」

 握り拳を作る恵さんは微かに体が震えていた。恵さんの態度に煌太は武者震いする。

「私は最初、本当に知らなかった。だけど、矢野さんに『玲愛と仲良くしてると、お前も一緒に仲間外れにする』って言われたの。私……怖くなって……矢野さんに逆らうとどうなるかなんて考えたくなかった。自分を守れればいいと思っていた……だから私は……玲愛を……」

 大量の涙が恵さんの頬を伝っていた。途中から声が掠れて言葉に詰まる恵さんは、気持ちを落ち着かせると煌太と玲愛をまっすぐに見つめ、答える。

「玲愛を裏切ることにしたの」

 一際大きな声が部屋に響き渡る。周囲の静けさが、恵さんが言った真実を際立たせているようだった。

「そんな……そんな理由で友達を辞めようって言ったのかよ」

 絞り出すように煌太は声を発する。

「そうよ。私は自分さえよければ良かったと思っていた」

「ふ……ふざけるな! 玲愛は――」

「煌太!」

 今まで黙っていた玲愛が大声を発する。煌太も恵さんも思わず視線を玲愛へと移す。

「もう……いい……もういいから……」

 恵さんの発言でどこか吹っ切れた様子の玲愛は、静かに言い放った。

「人は皆、自分が一番大切なんだから」

 冷徹な言葉を放つ玲愛は、威圧的な視線で恵さんを睥睨する。鋭い玲愛の視線に煌太は畏縮してしまった。

「玲愛……違うの。私は――」

「恵は私を裏切った。親友だと思っていたのは私だけだったかもしれない。だけど、最初から裏切るなら……」

 玲愛の呼吸が止まる。張りつめた空気が妙に違和感を覚えさせる。

 嫌な予感しかしなかった。今から玲愛が言おうとしていることが何となくわかってしまう。

 煌太は玲愛の姿を見れなかった。ただ俯くしかなかった。そして、玲愛は低く憂いを帯びた声で告げる。

「仲良くしてほしくなかった。優しくなんてしてほしくなかった」

 双眸に溜まっていた大量の涙が玲愛の頬を流れ落ちる。こんな玲愛を見に来たわけじゃないのに。煌太は自責の念に駆られる。

 玲愛はそのまま立ち上がると何も言わずに部屋の扉に手をかけた。

 このままで本当によかったのだろうか。何か言えることはないのか。自分は大切な仲間すら守ることが出来ないのか。

「私にとって玲愛は今でもかけがえのない友達だよ!」

 ドアノブに手を掛けていた玲愛の動きが止まった。声に導かれるように煌太も視線を向ける。視線の先で恵さんが立ち上がって玲愛を呼び止めていた。

「確かに、当時の私は玲愛を裏切った。裏切った後は周りから仲間外れにされることなく、いつも通りの日々が続いていると思っていた。選択した道は間違っていなかったって。だけど、卒業が近づくにつれて、心の中にすっぽりと大きな穴が開いている気がしたの。何か物足りないって。そこで初めて気づいた。私は大切な親友を失ってしまったってことに」

 恵さんもずっと自覚をしていたみたいだ。玲愛にひどいことをしたという事実を。

「中学生になってからも、ずっと後悔し続けた。玲愛と同じ中学だったら謝ることができたのかなって。いや、謝るだけじゃ償えないほど玲愛の心に傷を負わせたんだって。私が玲愛の所に行けばよかったのに……それさえもしなかった」

 恵さんは俯きながら話す。自らの過ちの重さで顔を上げることができないみたいだ。

「本当にごめんなさい」

 恵さんは顔を向けようとしない玲愛の背中に向け深々と頭を下げた。

「玲愛が私の事を嫌うのは当然だと思ってる。嫌われても仕方のないことをしたんだから。でも、今でも私は玲愛のこと……玲愛のこと、大好きなの。この気持ちは昔から変わらない。もし、もし玲愛が許してくれるのなら……もう一度、やり直せるなら……私と友達になってほしいです」

 恵さんは玲愛の事を嫌っていなかった。むしろ好意を抱き続けてくれていた。それだけでも玲愛の支えになるのに十分な威力を持っているはずだ。

「――お茶ごちそうさま。さようなら」

「玲愛!」

 玲愛を止めようと煌太は左手を掴む。その際にふと玲愛の表情が見えた。

 数秒間お互いの顔を見続けた後、玲愛は煌太の耳元で一言囁くと掴まれた左手を振り払い、ドアノブを回して一階に降りて行った。暫くして、玄関のドアがガチャっと閉まる音がする。

 煌太は玲愛が見せた表情に安堵した。恵さんには見えなかったかもしれないけど、玲愛はこぼれそうな涙を必死に隠して双眸を潤ませていたから。

「ごめん。玲愛も色々あって気持ちの整理とかつかないんだと思う」

 結局、恵さんに顔を向けずにそのまま先に出て行ってしまった玲愛の代わりに謝罪をする。

「大丈夫。すべて私の責任だったから。それより、玲愛をここまで連れてきてくれたのって、こ、こここ煌太君だよね?」

 下の名前で呼ぶのに慣れていないのか、噛みまくりだ。自分も玲愛の事を初めて呼ぶときはそうだったなと心なしか懐かしさを覚えた。

「そういえば、名前言ってなかったね。赤星煌太です」

 手を差し出して握手を求める。

「私は……白岩恵です」

 ぎこちない挨拶を交わし、握手にこたえてくれた恵さんは微かに目が潤んでいた。

「本当にありがとう。もう二度と玲愛には会えないんじゃないかって思ってたから」

 恵さんは玲愛に見せた時と同じく煌太に向かって深々とお辞儀をする。

「恵さんの気持ち、玲愛に伝わったと思う」

「そうだと良いけど……」

「コルクボードに貼ってあった写真。恵さんが来る前に玲愛はずっと見てた」

「えっ」

 驚く恵さんに真っ直ぐな視線を送り、煌太は頷く。

「嫌いな人の写真を部屋に飾ることはしないと思うし、恵さんが玲愛を嫌っていないってことが部屋に来てから十分伝わってた。玲愛にもきっと伝わってたと思う」

 玲愛は実際にどんな気持ちで写真を見ていたのだろう。人を良く観察する玲愛は恵さんに会った時から既視感を持っていたのではないか。様々な思いが煌太の中で徘徊する。

「あの、煌太君」

「はい?」

「その、できれば玲愛に渡してほしいです」

 言い終えた恵さんは煌太に紙片を差し出してきた。

 煌太は無言で紙片を受け取った。

「確かに受け取ったから。玲愛に渡しとく」

「ありがとう」

 屈託のない笑顔を見せる恵さんに、煌太は気持ちが高ぶるのを感じた。

「それじゃ、俺も帰るよ。今日は玲愛と話してくれてありがとう」

「こちらこそ、本当にありがとう。そして、すみませんでした」

 恵さんに見送られ煌太は家を後にする。これから恵さんは玲愛と会う機会が増えるはず。怖くて踏み出すことができなかった最初の一歩を踏み出し、超えていったのだから。

 先に駅へと向かった玲愛を追いかけ、煌太は最寄り駅へと歩を進める。六月下旬の夜風は少しじめっとしていたが、夏の始まりを感じさせない涼しさを保ち続けていた。

 駅に着く頃には二十時半になっていた。煌太はあたりを見渡す。丁度改札から出てくる会社員の波が過ぎ去った後のようで、駅前は閑散としていた。

 先程、恵さんの部屋で玲愛が囁いた一言が正しければ改札近辺にいるはず。改札に近づくと、言葉通り柱の前に玲愛はいた。煌太は玲愛の元へ歩いて行く。

「玲愛。どうして先に帰ったりしたんだよ」

 尋ねてみるも玲愛は何も答えない。玲愛はずっと夜空を眺めつづけていた。

「とりあえず、電車に乗ろうか」

 改札を通り抜けようとする煌太の袖が急に引っ張られる。

「玲愛!?」

「待って……切符買うお金ない」

「持ち合わせなかったのか?」

「煌太を待っている間、コーヒーたくさん飲んだ」

「もちろん、ミルクと砂糖入りだよな?」

「うん」

 屈託のない笑顔を見せる玲愛が妙に珍しく感じた。

 はぁーと大きなため息をつきながらも,玲愛の切符を買ってあげる。改札を通ると丁度電車が停車していて、煌太達はそのまま電車に乗り込んだ。

 帰りの電車内は特に突出して話す事もなかったのか、お互い終始無言だった。暫くして玲愛の最寄り駅に着く。煌太の最寄り駅から二駅手前の所だ。

「それじゃあ」

「また明日」

 ホームへと降りる玲愛を眺めながら、今日の事を再度振り返る。

 恵さんに会えた玲愛は本当に嬉しそうな表情を晒していた。帰るとき、照れ隠しなのか態度には決して示すことがなかったけど、煌太はしっかりと玲愛の感情を読み取ることができた。頬を伝う涙に暖かさを感じたのがなによりの証拠になったから。

「特急列車通過待ちのため、少しの間停車します」

 駅員のアナウンスが煌太の思考を現実へと戻していく。そういえば何か忘れている事があるような……。

「あー!」

 声を上げながら立ち上がる煌太に向け、周りの乗客が怪訝な視線を向けてくる。いたたまれない気持ちになりながら、煌太はホームへと降りた。

 大切なことを忘れていた。

 恵さんから託された、紙片。どうして忘れていたのか不思議なくらい煌太は後悔を覚えた。

 玲愛がまだいることを祈って急いで階段を駆け下りる。この紙片だけは今日中に渡さなければいけなかった。今日、渡さないと後悔する予感が煌太の脳裏をよぎる。

 階段を降りると、目に改札が映り込む。艶やかな黒い長髪を持った女子高生を必死に探す。

 そして、玲愛はすぐに見つかった。改札を丁度出たところにいた。

「玲愛!」

 名前を呼んだ。必死に叫んだ。振り向いてくれという思いを込めた。周囲の人が煌太を眺めてくる。普段は恥ずかしいと思うことなのに、何故だか今は全く恥ずかしくなかった。

 猛スピードで改札に飛び込んだ煌太は、勢い余って切符を入れそこねる。それと同時にブザー音がなり、煌太の進行を防ぐように、無情にもフラップドアが閉まる。

 終わった。脳裏によぎる最悪の結末。煌太の中では玲愛と恵さんが離れていく幻想が浮かんでいた。もうだめかもしれない……。

「何してるの?」

「えっ!」

 つんのめっていた体を起こすと目の前には玲愛の顔があった。

「その、玲愛に話があって……」

「ふーん。とりあえず、改札ちゃんと出なよ」

「そうだな……」

 周囲の注目をもろに浴びた煌太は、先程まで訪れることがなかった恥じらいが一気に襲い掛かってくる。顔が真っ赤になっているのが自分でもわかるくらい熱を帯びている気がした。

 改札の駅員さんに頭を下げながら切符を通した煌太は、待ってくれた玲愛に体を向ける。

「それで、話って?」

「ああ、そのことなんだけど……はい」

 恵さんから託された紙片を玲愛に手渡す。

「これは……何?」

「恵さんから玲愛に渡してほしいって言われたんだ」

「そう」

 知らない内容が書かれているであろう紙片。いったい何が書いてあるのか。

 手紙を受け取った玲愛はゆっくりと文面の書かれた内側を開く。暫くして、玲愛は元の形に丁寧に折り畳み、ポケットの中に閉まった。

「なんて書いてあったんだ?」

 聞こうと思っていなかったが、つい興味範囲で言葉が出てしまう。

「……煌太」

「なんだ……うわっ!」

 突然の出来事で目の前で起こっている現実が信じられなかった。煌太の双眸には艶やかな黒髪がなびくのが見えた。目の前から玲愛が消えた……いや、決して消えたわけではなかった。

 小柄な玲愛が煌太の胸にいきなり飛び込んできたのだ。

「え……れ……玲……愛?」

「このままでいて。お願い!」

 普段、静かな玲愛がここまで積極的な行動に出ているのに煌太は驚きを隠せなかった。小柄な玲愛の温かさが服の上から伝わってくる。

 ドクン。心臓の鼓動が早くなるのを感じる。玲愛に聞かれているかもしれない。

「今日はありがとう……煌太を信じて本当によかった」

 玲愛の目から涙が流れていた。恵さんからの贈り物は玲愛にどんな魔法をかけたのだろうか。今までに見たことのない笑顔を咲かせている。

「玲愛は頑張ったと思う。恐怖に立ち向かって必死につかみ取ったんだから」

「そんなことない。煌太が……導いてくれたからで」

「俺が行動に移せたのも玲愛から勇気をもらったからだよ。まっすぐな姿勢、自分の信念を貫き通すことの大切さを学んだから」

 煌太は玲愛のおかげで、玲愛は煌太のおかげでここまで来れた思っている。お互いが助け合っていけば、どんな困難も超えていける気がする。以前、山本先生に言われた言葉を思い出しながら煌太は玲愛の顔を覗き込む。

「何か、表情が明るくなったな」

「そんなことない。煌太の前だから……」

 顔を赤く染める玲愛につられて一旦引いた熱が再度上がってくる。よくよく考えると、今も玲愛と肌が触れ合う距離にいる。話すことにより薄まっていた異性への気持ちが一気に高まってくる。

 玲愛は自分の事をどう思っているのだろう。

 玲愛には迷惑なことなのかもしれない。おせっかいだと思われているのかもしれない。

 もし、玲愛が自分の事を好きなら――自分はどう返事をするべきなのだろう。

 ズキッ!

「……くっ!」

 突然の頭痛が煌太を襲った。目の前が暗くなり、まるで底なしの沼にずるずると落ちていく恐怖を感じる。

「煌……太?」

 異変に気付いたのか玲愛は煌太の顔を覗き込もうと、胸にうずめていた顔を離そうとする。

 ぎゅっ!

 玲愛に顔を見られない様に、いや、痛みに耐える為に咄嗟に煌太は玲愛の後ろに両手を回し、玲愛を自らの胸元にさらに引き寄せる。

 暫く治まっていたはずの痛みが再発するなんて。朦朧とする意識の中でしきりにおとずれる痛みが煌太を激しくむしばんでいく。先程まで聞こえていた玲愛の声どころか、周囲の音が徐々に遠くなっていき、しまいには無音の空間に包まれている違和感を覚えた。

――あれ、音が……。

――あれは……奏?

――どうして奏がここに……。

――今は玲愛と一緒のはずなのに……ここは……公園?

――どうして家の近くにあるはずの公園にいるんだ……。

――奏が何か喋っている。

――聞こえない、聞こえない、もっと大きな声で。

――え……今、泣いていた?

――待って、行くな、奏! ……奏――。

「……太! 太ってば! ……煌太!」

「あ……かな……玲――愛」

 今、確かに奏がいた気がする。目の前で、何かを話していた。

 これは山本先生が言っていた『PTSD』が発症したのかもしれない。今見えた光景が自分の記憶になかったってことは……。

「痛いよ……」

「えっ、あっ、その……ごめん」

 知らないうちに力が入っていたのか強く抱きしめていた玲愛を開放する。玲愛は乱れていた呼吸を整えると、煌太の顔を覗き込んできた。

 キラキラと輝く綺麗な瞳を潤ませながら上目使いで見てくる双眸は綺麗で、吸い込まれそうになるほど魅力的だった。

「今日の事、絶対に忘れない」

 力強く語る玲愛の表情は笑顔だった。玲愛の笑顔を至近距離で見た事のなかった煌太は、思わず不意を突かれてしまった。天真爛漫な素顔を晒す玲愛の笑顔が脳裏に焼きつく。目の前で笑ってくれた玲愛に、煌太も笑顔で応える。

 玲愛は煌太の前を横切ると、ゆっくりと歩き出して街灯の少ない道路へと消えていった。


 玲愛と別れてから一時間後、煌太は帰宅した。玄関で靴を脱いでいると、二階から足音をたてながら一目散に澪が駆け下りて来た。

「お兄ちゃん、遅い。お母さん心配してるよ。せめて連絡ぐらい入れないと」

「……ん、ああ……澪か……ごめん」

「夕食、食べるでしょ?」

「ごめん……食欲ないからいらないって母さんに言っといてくれるか?」

「それくらい自分で言わなきゃ。お母さん心配してるんだから」

「そうだよな……了解」

 年下なのに大人びている澪を見ると、自分が子供に思えてならない。

「それより、お兄ちゃん大丈夫? 顔色悪いよ」

 髪をかき上げながら煌太の額に手を当てる澪。本当に兄思いの良い妹だと煌太は思った。

「いや、大丈夫だから。心配かけてごめんな」

「うん……何かあったらいつでも言ってね」

「ああ……本当にありがとう」

 澪の頭をさすると煌太はリビングへと向かった。

 母には今日あった出来事は特に伝えず、部活動で遅くなったと伝えた。何か突っ込まれるのではないかと思ったが、連絡ぐらいしなさいと言うだけで、特に口うるさく言われなかった。

夕食を要らないと伝えたときは体調の心配をされたけど、食べたくなったら食べなさいと優しい言葉をかけてくれた。

 自室へ向かった煌太は、ベッドに大の字で倒れこんだ。

 今日一日だけで本当にたくさんの事があった。親友の神林に記憶喪失を伝えたり、玲愛の心に残っていたしがらみを取り除く手助けができたり。全てが煌太にとってプラスになる結果になった。素直に嬉しい気持ちがこみ上げてくる。

 ただ、一つだけどうしても気がかりなことが。

 煌太は額に手をあてる。先程起こった頭痛、そして最近頻繁に見えてしまう煌太の記憶に垣間見える幻想ともいうべき世界。あれはいったい何だったのか。自分の知っている記憶とは別の記憶が介入してきた。

 正直、怖かった。知らないという事実に戦慄を覚える。

 このままでいいのか?

 もっと追求したほうが良いのではないか?

 疲れているのか、瞼が非常に重たかった。今ならすぐに眠れそうな気がする。

 明日になれば、また違った考えが出てくるのかもしれない。

 だから、今は結論は出さないでおこう。

 煌太は、微かに見える光の中でまどろみの中に落ちていった。

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