禁煙
相楽山椒
禁煙
最初に禁煙を決心したのは、二十歳の夏。
当時付き合っていた彼女が煙草嫌いで、やめないと別れると言われたので我慢した。しかし、彼女のいないところでは喫煙を続けていたわけで、当然いつかはばれるわけで、やっぱり別れたら元の喫煙状態に戻っていた。
こんなものは禁煙のうちに入らないだろう。
二度目は独り暮らしをはじめ一時的に金銭的困窮に陥った折、いの一番に減らすべき支出が嗜好品代ということで、やむを得ず禁煙を決心した。しかしこれは単に自分では煙草を買わないというだけであって、友人たちから「もらい煙草」をすることになるという非常に不本意な結果に終始したため、やはり禁煙をやめた。
もちろん、これもまた禁煙していたことにはならないだろう。
三度目は煙草のパッケージに大きく「健康被害に対する注意書き」が書かれた時だった。こんな格好の悪いものを持ち歩けるか、ハードボイルドがこんな注意書きを書いたパッケージのタバコを吸っていては様にならないではないか。
そう言い聞かせて煙草とは縁を切ることにした。しかし、意地を通したところで誰が褒めてくれるわけでなし、なあに人間プライドなんてものは捨てるためにあるのだと気がついて再びコンビ結成。
この時は、注意書きの書いていない古いパッケージをしばらく捨てる事が出来なかっただけだった。
そして四度目。煙草の値段が格段に跳ね上がった時だ。四百四十円もの金額を毎日浪費するわけにはいくまい。一ヶ月に換算すると一万三千二百円、以前ならば九千六百円だったのだ。
その差額、三千六百円。なんだ、たった三千円あまりか、別にたいした金額でもない。またもや契約を更改してしまった。
結局俺は何かの誰かの為にでないと煙草をやめることが出来ないのではなく、やめたくないのだ。最後の禁煙を断念した時に「何のために煙草をやめるのか?」という問いは愚問だと、もはや迷うことはないと決心した。
あるときは愛のため、またあるときは金のため、プライドのため。考えてみれば大袈裟なようだが、生きてゆくのに割りと大事なものをかなぐり捨てても喫煙を選択している。煙草とは俺にとってそれほど大切で捨てがたいものなのだろう、切っては切り離せないものなのだと。
しかし、どうやら神様はまだこんな俺のことを試したいらしい。いつものように遅い残業から帰宅してきた俺は珍しく笑顔の妻に迎えられた。何かあったのかと訪ねると、妊娠したことを告げられた。
俺は風呂上りにベランダから春の月を愛でながら、子供が出来たことの喜びを噛み締め至福の一本に火をつけた。
やれやれ、また俺は何かの為に約束できないことを決心している。月明かりに揺らぐ紫煙は春の柔らかな夜風にかき消されてゆく。大きく息を吸うと心地よい草木の芽吹く匂いがした。いや、そんな気がした。
俺はもう一度月を見上げまだ長いままの吸いさしの煙草を草履の裏でもみ消して、妻が食事の用意している食卓へと戻った。
これを五度目と語る日が来なければ、きっとそれはそれでいいことなのだろう。
禁煙 相楽山椒 @sagarasanshou
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