第4話 その旅に目的地はありません
「あのぅ……旅に行きたいんです」
開口一番、その客は言った。
オシャレな髪型に黒縁の眼鏡をかけ、背筋を伸ばして座った真面目そうな男。小綺麗なチャコールグレーのスーツを着て、ライトグリーンのネクタイが几帳面に結ばれている。平日の旅行会社に来る若い男性客としては、スーツ姿は珍しかった。
「目的地はどちらですか? お客さまのご希望に合わせて、素敵なご旅行になるようお手伝いをさせていただきます」
結衣は、演技なしでもつくれるようになった営業スマイルを男に投げかけた。清楚で清潔なイメージを保つことが、接客で最も重要なポイントだ。
「……」
しかし、男は黙ったままだった。もしかすると、こういう状況が不得手な人なのかもしれなかった。カウンターで対面するだけで、不要な窮屈さを感じて緊張してしまう客は意外に多い。
「ご旅行は、おひとりですか? それとも、ご家族かご友人と?」
旅行会社を訪れる客の大半は、「いつ」「どこに」「何人で」「何泊する」といった条件を全部そろえてから来るものだ。たいていは、こちらが聞かなくても自分から説明してくれる。そうでない客は、かなりレアだ。
「……今はひとりですが、ふたりに増えるかもしれません」
「承知いたしました。――同行者は未定ですね? それで、どちらに行かれますか?」
おかしな客だと思いながら、結衣はパソコンに条件を入力していく。
「それが……特に、目的地はないんです」
「でしたら、私のほうでおすすめいたしましょうか。今ですと、やはり開通したばかりの北陸新幹線や北海道新幹線を利用してのご旅行が人気になっておりまして、どちらも観光ばかりでなくグルメも存分に楽しめますし――」
結衣は、6年間の経験で磨いたトークを駆使して説明した。ところが、男は結衣の話をまったく聞いていなかった。
「お客さま、ご気分でも悪いのですか?」
「いえ」
男はおそらく20代後半、もうじき28歳になる結衣と同年代ぐらいに見えた。だが、さっきからずっとソワソワしていて、妙に落ち着きがない。
「……大丈夫ですか?」
「心配させちゃって、すいません」
そう言う男の額には、大粒の汗が光っている。
「ご旅行のほう、どういたしましょうか? 同行者さまのご予定がハッキリされてないとのことでしたら、少しお返事をお待ちになったほうがいいかもしれませんね」
「その同行者なんですが……」
男は、ハンカチで汗を拭いながら言った。
「はい」
「実は、まだ誘ってもいないんです。ついさっき、見つけたばかりなので……」
この時点で、結衣はこの客を突き放すことにした。行先も同行者も決まってない状況なら、接客する意味もない。結衣は、男に1枚のパンフレットを差し出した。
「それでしたら、やはり目的地をお決めになるのが先決かと思います。こちらは弊社のインターネット部門のパンフレットで、サイトのほうには詳しい観光案内もございますから……」
「ありがとう」
「ぜひ、検索してみてくださいね」
これで、この男は立ち去ると結衣は思った。次の客が3組も並んで待っている今、目的地すら決まっていない男の相手に時間を取られて、本気の客を逃したくなかった。
しかし男は帰ろうとせず、おかしなことを言い出した。
「そういう感じの旅行じゃなくて、なんていうか……『人生の旅』みたいな感じの経験はできませんか?」
「はい?」
どう言うべきか、結衣は返答に困った。こんなケースの対応方法は、会社の接客マニュアルにも書かれていない。
「もっと……変なこと、聞いても、いいですか?」
男が、結衣の胸元を指差しながら言った。
「はい、何でしょうか」
「名札……村橋さんという名字ですけど、下の名前はもしかして……結衣さん?」
「そう……です……けど?」
結衣はうろたえながら、目の前の男が誰なのか、必死に記憶を探った。しかし、答えにはたどり着けなかった。
「やっぱり……そうだよね。この店の前を偶然通りかかって、君が見えた。ひと目で、結衣ちゃんだとわかったよ」
そして男は、ふたりの子どもが写った古い写真を取り出した。ひとりは10歳の頃の結衣で、もうひとりは――
「カズくん?
男は、眼鏡を外してうなずいた。あの頃と、まったく同じ笑顔だった。
「昔、俺たちは親の勤務先の社宅に住んでたよね。でも、会社がいきなり倒産しちゃって、みんな突然バラバラになった。連絡先の交換も、できないままだった」
その社宅は、北海道にあった。結衣の家族は東京に引っ越したのだが、カズくんの家族がどこに行ったのかは、誰に聞いてもわからずじまいだった。
「カズくん……私、ずっと探してたんだよ?」
自然と、結衣の頬を涙が伝っていた。
「俺も探したけど、ぜんぜんわからなかった。でも、今日やっと見つけたよ」
この再会の瞬間から、ふたりの新たな「旅」が始まった。
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