第3話 静岡のクモはデカい

「ぎゃぁぁぁーーーっ!!」


 竜也たつやが2階の自室でゲームをしていたら、階下から母親の叫び声がした。おそらく、キッチンだろう。


「タッちゃん! 出た! 助けてー!!」

 一瞬、泥棒でも入ってきたのかと思ったが、「出た」というキーワードがあったことで竜也は安心した。――ゴキだ。


 母親は大の虫嫌いで、脚が6本の昆虫だろうが8本のクモだろうが、もっと大量にあるムカデみたいな長いやつだろうが、見た瞬間に凍りつく。そして血相を変えて、息子を召喚するのだ。


「早く、早く来てよー!!」

 ほとんど断末魔って感じだよなと思いつつ、竜也はスリッパを引っかけてパタパタと階段を下りる。――こいつは、いざという場合の武器だ。


「どこ?」

 キッチンに着くと、そこには顔面蒼白がんめんそうはくの母親が汗だくで立ちつくしていた。手に持った殺虫スプレーを構えてはいるものの、怖くて近寄れないから噴射もできないのだ。


「そこ! シンク!」

 竜也が覗き込むと、は確かにいた。ちょうど狙いやすい場所に。


「だから、前にも教えたでしょ? こういう場合には、台所用の洗剤をかけちゃえば一発でご臨終なんだってば」


 その言葉どおり、竜也が狙いを定めて洗剤を目標に的中させると、敵は一瞬で動きを止めた。理屈はわからなかったが、窒息するからではないかと竜也は思っていた。


「ほら、もう死んだよ」

「そそそ……それ、そのままにしとかないでよね。ちゃんと何かに包んで、見えないようにして捨ててよね」


 もちろん、竜也は母親の希望を叶えた。亡骸なきがらをキッチンペーパーに包み、生ゴミ用のゴミ箱に放り入れる。――ミッション・コンプリート。


「こんなゴキ程度でビビってたら、この静岡じゃ生きていけないでしょ? ご当地名物のアシダカグモっていう、強烈にデカいクモがそこら中にいるんだからさ」


「ああもう、それは言わない約束でしょう! あんな大きいクモが家の中にいるなんて知ってたら、私は静岡になんか嫁いでこなかったわよ。お父さんは私の虫嫌いを知ってるのに黙ってたんだからね、あれは確信犯よ。絶対に許さないからね、絶対に!」


 確かに、たいていの人はアシダカグモにはビビると思う。体はさほど大きくはないものの、脚までを含めた大きさは人間の手のひらほどもあるからだ。母親が静岡に来て、あのクモを初めて見たときには卒倒したそうだ。


「うちにアシダカグモが出たのって3ヵ月ぐらい前だったっけ? でも、俺がちゃんと捕まえてやったじゃない。母親思いの、いい息子だよ」


 竜也が笑うと、母親は鬼の形相で反論してきた。

「高校生になってから、タッちゃんはホントに嫌味な子になったわよねえ。幼稚園までオムツして泣いてたくせに、なんでそんな風に育っちゃったのかしら……」


 そこは竜也の弱点だった。確かに、幼稚園までオムツをしてた記憶がある。

「まあ、その話はそのへんで……ね?」


 竜也は、母親が放った毒矢をうまくかわして、自室に戻ろうとした。ネットゲームの対戦相手を待たせてあった。


「ひいぃぃぃーーー!!」

 そのとき、背後からまた母親の悲鳴がとどろいた。


「今度は何? またゴキ?」

「違う。クモ!」


 まさかアシダカグモかと思って、母親が指さす方向を竜也が見ると、小さな黒いクモがいた。名前は知らないが、家の中でよく見かけるやつだ。体長は1センチにも満たないのに、10センチぐらいはジャンプできる敏捷さを誇っている。


「こんなの、いても気にしなきゃいいのに」

 竜也がため息まじりに言うと、母親がまた叫ぶ。


「どうでもいいから、早くどかしてよ!」

 母親の懇願を聞いて、竜也はティッシュを1枚抜き取って敵の殲滅せんめつに向かった。作戦は無事に成功し、小さな黒い生き物はティッシュにくるまれた。

「はい、終了」


 それを手の中でつぶし、竜也はゴミ箱に投げ入れた。――またもや、ミッション・コンプリート。

 しかし、母親は満足しなかったらしい。


「タッちゃん、今のクモ殺しちゃったの? ダメだよ、クモは殺さないで外に逃がしてって、いつも言ってるのに!」

「あれ、そうだったっけ? ごめんごめん。なんとなく、勢いでやっちゃった」


「……んもう、ホントに人の言うこと聞いてないんだからさ。魔法でもかけて、幼稚園児に戻しちゃいたいぐらいだわよ」

「はいはい。当時のボクは、ホントにいい子だったもんね」


 またオムツの話をされたら勘弁……と思って、竜也は2階へ逃亡を図ろうとした。もしかすると、対戦相手はもう落ちてるかもしれなかった。


「クモは、家を守ってくれてるんだから、殺したりなんかしたらバチが当たるのよ。今度からは、絶対に逃がしてね。――いい?」

 そんな迷信、誰が信じるか……と思ったが、今は素直に聞くしかなかった。


「了解」

 そう言い残すと、竜也はパタパタと足音を立てて階段を上がった。自室のドアを開けると、そこには自分よりはるかに巨大な生き物が待ちかまえていた。――アシダカグモだった。


 悲鳴を上げる暇もなく、竜也はその牙に心臓を貫かれた。

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