異種族ラブ・メイカー~トリップ先は婚活世界~

逢坂一可

Episode01 月蝕の夜に



 恋、というのは活力のようだと思っていた。

 誰かに恋をすれば、周囲が目まぐるしく動く。

 どうにかしてあのひとに「かわいい」と思われたいと、化粧メイクの仕方を改めてみたり、髪型や服装を変えた。恋心のお陰かどんな面倒なことも総てやり通せる気がして、気が付いたら困難だと思われていた仕事が綺麗に片付いていて。

 恋をすることは、たのしい。

 名前を呼ばれることも、あのひとの声を聞くことだけでも、心臓が甘くときめいてくれる。この振動が心地いい。


 けれど、恋をしている時には気付かない。

 それが失われた瞬間、世界が色を失い、自身の時間すら止めてしまうということに。



 ぽちゃん。



 気付いたら、ひとりぬるま湯に浸かっていた。

 ああ、そういえば会社から帰って来たのだったか。ご飯の前にお風呂に入っておいた方が睡魔に襲われなくて済むと、電気を付けるのも忘れて窓から差し込む月明かりだけの浴室で茫としていたのだ。

 髪からしたたる雫が、浴槽に張った湯に波紋を広げる。――波紋の中央に、窓が切り取った夜空が映る。この都会では珍しいほどに、今日の星は夜空を彩っていた。



「きれい…。」



 明かりを付けなかったお陰で、湯船に映る数えきれない宝石のような星屑たちを見る事が出来た。星々の間に、煌々と輝く満月がそっと佇んでいるのも解る。

 金色に輝いていたそれが、端の方から厚い雲に覆われて。雲が風に流れて行くと――何故か月が消えていた。

 茫としていたからだろうか。雲が月を隠したと思っていたけれど、見間違いだったのかもしれない。



(何だろう。……気の所為かな。)



 失恋というものを久しぶりに経験してから数ヶ月、驚くほど私は通常運転だった。

 仕事で多少の失敗はあるけれど酷く落ち込むことなんてなく、あのひととすれ違ったとしても笑顔を振りまける。――けれどその反動なのか、こうしてひとりになると身体から総ての力が根こそぎ何かに吸い取られてしまう。


 あのひとを好きだとか、執着しているとかそんな感情はまったくない。

 私の中で既に過去の遺物となっているのは間違いなくて。

 それでも気にしてしまうのは、ひとりになった今でも何不自由なく生活しているという見栄を張っている所為だ。

 ――時々。本当に時々。

 少しだけ、胸の奥が痛い。



「恋……したいな。やさしい恋愛。」



 そう。

 ただそのひとだけを見つめて、そのひとだけに愛されて。

 お互いがお互いに触れるだけで、とてつもなく幸せになれるような。

 刺激なんてなくていい。冒険なんてしたくない。

 ただただ、息を吸うのと同じくらい平凡で地味で、やさしい恋がしたい。



「あとは浮気をしないひとがいい……なんて。」



 私は一体なにを呟いているのだろう。

 まるで願い事でもしているかのようじゃないか。

 ひとり虚しく小さく笑った時だった。

 

 夜空を映す湯船が揺れて、煌めく星々がカーテンのように波打った――瞬間だった。

 湯船の底が、ない。



「え……ぇええ――んぶ?!!」



 気付いた時には、全身が湯船に引きずり込まれるようにして凄まじい速さで落ちていた。

 飛行機で墜落したらこんな感覚なんだろうか。心臓を冷たい恐怖が豪風のように掠めて、口からは空気の泡が音を立てて逃げていく。何も見えない深淵を、今まで浸かっていたぬるま湯が満たしていて息をすることも出来ない。


 これは、夢なのだろうか。

 だって今まで、いつも通り湯船に入っていただけだというのに、その湯船の底が抜けて、身体ごとどこかに向かって落ち続けているだなんて、誰に言ったって信じてくれはしないだろう。


 肺に送る空気ももう尽きて、意識が朦朧もうろうとしてきた頃。

 身体をしたたかに打ち付けて、飛びかけた意識を無理矢理手繰り寄せた。



「い、たぁ…。」



 右肩がじんじんと痛みを訴えてくる。

 身体が咄嗟に反応してくれたのか、いつの間にか頭をかばっていたようだ。

 そこを抑えつつゆっくりと上体を起こして――止まる。

 身体が。思考が。時間までも止まったような気がした。



「ここ、なに…?」



 「どこ」とは、恐ろしくて言えなかった。

 だって私は、つい先ほどまで自宅の浴槽でお湯に浸かっていた。これは夢でもなんでもないはずだ。けれど、今目の前に広がっているのはどう見ても、うちの狭い浴室なんかじゃない。

 得体の知れない夜鳥の薄気味悪い声が反響する、月明かりがやっと届く木々生い茂る場所。――恐らく、森だ。



(え?森?森って…森ってなに?!!)



 どうして私は、こんなところにいるのか。

 慌てて立ち上がろうにも、腰が抜けたのかそれもできない。

 今まで湯につかっていた所為で、時折吹く風が、この状況に置かれた私の身体から熱を悲しいくらいに奪っていく。


 ザワザワとさざめく葉擦れの音が、胸に巣食った恐怖をどんどん煽っていく。

 ――ここは、どこで、何で、どうして。

 既にショート仕掛けていた私の思考が、煙を吹き出す寸前。

 聞きなれない声がした。下から。



「い、いってぇな…!ちょ、おい…何なんだ一体…っ」

「え……?!」



 男のひとの声だ。

 そう認識したとたん、私が寝そべっていた場所に慌てて目を落とす。

 上体を起こすために置いた手は、土の上にあるわけではなかった。

 衣服を纏った厚い胸板。腰を落ち着けていたのは、男のひとの引き締まった太腿の上。



(ど、どうしよう…!私、男のひとの上に乗ってる…!)



 痛い、と言っているから、きっと私の右肩とどこかをぶつけてしまったのだろう。

 謝罪したい気持ちもあるけれど、この一糸まとわぬ姿でいる自分自身をどう行動させればいいのか咄嗟に判断できない。


 下に敷いていた男性が、ゆるりと上体を起こす。

 それにともない、私の視線が彼の身体を伝って上っていって――目が合う。

 驚いたのは、それと同時だった。いや、目を見てと言うよりはお互いの姿を見て驚いた、と言った方が正確かもしれない。


 男の少し高めの声と、聞きなれた私の声が重なった。



「と、鳥…?!!」

「に、人間…?!!」



 その男は、宵闇にも生える白銀しろがねの髪と、星のように輝く鋭い金の瞳をしていた。

 純日本人の私としてはそれだけでも驚くことだけれど、一番はそれじゃない。

 彼の背に悠然と広がっている、一対の翼。

 髪と同じ白銀で、淡い光を伴っているようにも見える。

 驚愕する彼と同じ息遣いで、それはゆらゆらと揺れた。


 私は咄嗟に、「誰?」と呟いていたようだ。

 彼は何度かその金の瞳を瞬いて隠すと、その問いを咀嚼そしゃくした後に、戸惑いを隠せない様子で口を開いた。



「す、スヴェン……だけど。お前は、何なんだよ」

「え、えと……行方なみかた友鶴ゆづる……です」



 確実におかしい空気を漂わせた場違いすぎる自己紹介。

 私たちはお互いの名を名乗ったあと、しばらく時が止まったように固まってしまったのだった。




 ――自分が素っ裸だったことは、あと数秒後に思い出すことになる。



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