パートナーシップ

灯火野

パートナーシップ


 たまに見る、夢がある。

 深い眠りに落ちたと思ったら、何か誰かが俺を呼ぶのだ。上の方からか細く小さな声で。もしくは、俺が誰かを呼んでいるような、そんな気もする。

 遠いところから、拍手、拍手、拍手。けれども、手は一本も見えてこない。映像が無い。暗闇という概念さえ、無かった。

 シン、と辺りは静まり返り、俺は少し緊張に体が締め付けられるのを感じる。

 深い、息遣いが聴こえる。安らかではなく、荒くもない。これは、腹式呼吸。

 金具のこすれる音がする。カチャリ、カチャリ、カコカコカコ。それが心地よく感ぜられるのは、木の温もりのせいだろうか。

 空気が震え、全員の鼓動が一足飛びに跳ね上がった瞬間。




 目覚めの電子音が鳴った。朝陽がカーテンからこぼれて、チラチラと顔にかかる。

 二LDKの部屋は、一人暮らしの大学生にはやや広すぎる。ついでに、不要な防音機能。インターホンはモニター付きで、二重窓。だだっ広いロフト収納。

 無意味に響き渡るこのやかましい音を止める。ため息が自然とこぼれた。伸びを一つ。

 ふらりふらりと黒い箱に近づいて、簡単な操作を行う。箱から流れてきたのは、いつものあの曲。気分でディスクを変えてはいるが、どれもこの曲が先頭に来るように編集してある。

『Over The Rainbow』――邦題は、『虹の彼方に』。

 憂いを帯びた長調には優しさばかりが溢れ、いっさいの束縛も無い。そう、あの虹の向こうには何があるのだろうという、明るく前向きな夢。誰かはこの曲を「自由の象徴だ」と評した。森の中の柔らかな光の中で語り合う、自然のようだと。

 そんな素晴らしい曲を、例えば俺ならこう評したい。

 この曲は、「罪からの解放」のようだ、と。

 薄い光と薄い影を持ち合わせた、曇りガラスのような柔らかさ。この上ない柔らかさに包まれるような曲。

 全てのものを許してしまうこと曲の愛の深さに、今日も朝から魅了されっぱなしだ。




「おはようございます」

 大学がない土曜日は、九時から十八時までアルバイトが入っている。俺は今日も、駅から徒歩五分の距離にある楽器店に裏口から入ってあいさつをした。

「あぁ、おはよう」

 ガラスのカウンターを丁寧に磨いている店長。その手には使い古しのポリシングクロス。これは元来楽器を磨くための布で、感触は眼鏡拭きをもう少し厚くしたような感じ。

 森野内くん、と店長が優しく俺を呼んだ。

「今日二件仕事が入っているから、頼むよ」

「はい、わかりました」

 俺はリペアルームに入った。




 楽器というものは非常に繊細で、状態が悪い楽器にいい音は出せない。奏者は常に楽器を思いやり、リペア師はいつだって慎重であれ――本にはそう書いてあった。俺も心からその言葉に同意する。

 今日の仕事は大変だった。一件目は、地元の中学校の吹奏楽部のテナーサックスで、大分扱いが酷い。その身は輝きを失い、塗装がはがれている。そればかりでなく、傷や凹みがかなり目立つ。よく言えば年季が入っていると言うのだろうが、底部の鋭角な窪みはどうにも言い訳できないだろう。

「ひでぇや……」

 まあ外見はともかく、と箱に入っていたメモを見る。本日の注文は「キイが動きません。ごめんなさい」だった。

 楽器を手に取る。む、と俺は口をヘの字に歪める。なんと、キイがトーンホールを塞いでくれない。これでは音階が出せないではないか。原因はすぐに分かった。そこのねじの締めすぎだ。

「だから『ごめんなさい』なのか」

 ちょっぴり肩をすくめる。あのメモの余白に書いておこう。

 勝手にねじを締めないでください、ちゃんと調節しておきました、と。




 もう一件、クラリネットの接続部分のコルクを数ミリ削って上管と下管を繋げやすくし、今度は店番に回る。今日も客はまばらで、売れたものは楽譜が三冊と用語辞典が一冊。

「不思議だよねぇ、森野内君」

「なんでしょう、店長」

 ふう、と息をついて、還暦をすぎていくらか経った店長は慈しみを持った眼差しで店頭のショーケースを眺めた。

「人間には、本当に音楽が必要なのだろうかって、この仕事をやっていても不意に思ってしまうことがある。音楽は決して形には残らないじゃないか。楽譜として存在していても、楽譜が生の音楽では決してない。どんなに録音とか再生技術が進歩してもね、結局音楽は“今” にしか生きられないはずなのだよ。

 それなのに実際は、数百年もの年月を経てもなお生き続ける曲もあれば、新しい音楽は日に日に作られてもいる。どうしたってこれは、人間がいつの時代にも音楽を欲し続けてきたからでなくて何と言う? 

 一本の木も、なんでもない鉱物も、私たちの体も声も皆、生きている証なのだよ。そしてそれは紛れもなく、音楽なのだよ。それを常に心に思いながら生きている人間は何人いる?世界の、日本の何パーセントだ?

 ……それなのに我々は、その身近さ故に気付きもしない。音楽は、生きているのだという事を。いや、違うな……。生きているものこそ、音楽なのだという事を、かな。

 そう思うと、この子たちがかわいそうであり、だからこそ、愛しいのだ」

 俺もつられて、「この子たち」を見つめた。ショーケースに並んだ彼らは、何とも誇らしげに体を輝かせて並んでいる。オーボエ、クラリネット、アルトサックス、フルート、トランペット、トロンボーン……。吹奏楽の花形とも言える、持ち味のある楽器たち。

 俺は、言葉を失った。店長のこの、言葉のエネルギーにはいつも圧倒されるばかりだ。




 自宅から自転車で二十分というところに神坂音楽学院という専門学校がある。俺はそこに通って、楽器のリペア――楽器の修理や調整のこと――を専攻している。

 この間の注文のように、小さなねじの締め具合一つで楽器の調子は全然違ってくる。いわば、音楽家の音楽を良くするのも悪くするのもリペア士の技術次第というわけだ。それが嫌な音楽家は自分でリペアを学んだりもするのだけれど。

 学校で学んだことはすぐに復習したくて、昼休みの間に俺は大学の楽器庫に立ち寄る。立ち寄って、一つ一つ楽器を手にとって眺める。

 楽器のほとんどは普段分解されてケースに収納されているものだから、俺が手にしているのは一台の楽器の個々のパーツ、というわけだ。

 大学の楽器はもちろんプロ(教授達のことだが)の手でリペアされているから、見るだけで勉強になる。新品と見間違えることもある。完璧だ。惚れ惚れする。吹けばもっと良く状態が分かるのだろうが……。

「おーい、誰だ、楽器庫にいるのは」

「すみません、すぐ出ます」

「ああ、またお前か。ふん、早く出ろ」

 俺が楽器庫侵入常習者である事は、学内では既知事項である。破壊したことはないので、今の所お咎め無しだが、万一そんな事があっても、少しの間学校を休めばいいだけだ。




「すまないね、今日は出張だ」

「は、はあ」

 大学も夏休みに入り、バイトは週五日出ることにした。店長は二つ返事で許可してくれた。

 ここで働き始めて二年と少々。持ち込まれた楽器の修理は日常業務だったが、出張は初めてだ。

「ほら、駅の向こうに桜並第二中学校っていう学校があるだろう。そこに行って生徒さんの楽器を見に行ってほしいのだが、具合が悪いかな」

 吹奏楽で夏と言えば、吹奏楽コンクールの時期だ。汗を流しながら楽器を手にする青春が目に浮かぶ。

「いえ、喜んで」

 リペア道具一式をひっつかんで、店を後にした。歩きながら振り返り、俺を見送る店長に手を振った。




 暑い。アスファルトに足が持って行かれそうな感覚にとらわれる。そのせいか、目的の中学は地理的にはさほど遠くないはずなのだが、首にかけっぱなしのタオルはもう洗濯物の生乾きみたいになっていた。

 しばらくすると、象の鳴き声が聴こえた気がした。プオー……パオ―……、という具合に。

「もうすぐだ、よし」

 一人で呟いて、また歩く。さっきの音は十中八九、ホルンの音だ。後の一二は……。

(……象、かな)




「気をつけっ。礼っ」

 きりっとした女子生徒の号令。それに続いて、こんにちはっ、と体育館いっぱいに響く声は心地良かった。  サワダ楽器の森野内です。今日は皆さんの楽器のリペアを行うために来ました。自分の楽器に不具合がある人は、その箇所が分かるようにメモに書いてケースに入れておいてください、と挨拶を済ませた瞬間、

「はいっ」

 と一際通った声で返事をする返事をする生徒がいた。ほかの生徒はやや気後れした様子で、

「……はい」

 と薄い返事がまばらに聞こえてきた。一番に返事を決めていたのは、先ほど挨拶をしてくれた部長さんのようだ。

「よろしくお願いしますっ」

 俺は軽く一礼をして、顧問に連れられて歩き始める。部長さんの首には、楽器を支える為のストラップ。

(なるほど、ね)




 通された部屋は、涼感の爽やかな空間だった。クーラーがばっちり働いている。

 パートごとに次々と生徒さんが入ってくる中、俺は密かに先程の部長さんの姿をチラチラと探していた。ストラップをつけている様子から察するに、サックス、バスクラリネット、ファゴットのいずれかだろう。

「失礼しますっ」

 耳が先に反応し、上目遣いに扉の方を窺う。

「木管低音部です。私の楽器だけですが、よろしくお願いします」

 と、恭しく両手で茶色いケースを差し出してきた。一人、か。

「あぁ、クランポンのバスクラね」

「はい」

「ん、じゃあ見ておくよ」

「はいっお願いします」

 手早く蓋を開けて、ざっと中を見る。メモが二枚。

「ジョイント部分のコルクが剥がれています。お願いします」と「足部がよく固定されません。お願いします」だった。なるほど……ね……。

 ……。

「ねえ、君、練習は?」

 じっと見つめられては、ちょっと集中できない。

「あっはいっ、バスクラはこれ一台しかないので、練習できないんです。なので……その……邪魔ですかっ」

 練習できない、と来たか。聞き捨てならないな。

「部長さん、朝練メニューは」

「えっ、朝練」

「そう。してないの?」

 いえ、そんなことは、と背筋を伸ばして淀みなく話す。

「朝は七時四〇分に学校着。音楽室の鍵を開け、楽器を二〇分ほど吹きます。最初は、最低音から最高音のロングトーンです」

「全員来てる?」

 部長さんが初めて言葉に詰まった。まあ、想定内だった。

「……いえ、上達していない者ほど、出席率は低いです」

 だろうね。厚さ一ミリほどのコルクを五ミリメートル角に切りながら、俺は思う。そしてそれを金具に貼り付けながら、言う。

「楽器が無くたってさぁ、呼吸練習とか他の練習方法もあるんだから。できないなんて言ってちゃだめだよね」

 沈黙。俺は楽器をいじっているからまだ良いが……部長さんを盗み見してみる。ぎこちない面持ち、いや、眉根を寄せて考え込んでいる。……しょげている?

 これだから中学生は……。

「今日は何時まで」

「は……何でしょうかっ」

 声、ひっくり返ってるよ。

「今日は何時あがりなの」 「ええと、十二時ですけど……」

 意識して蓋を丁寧に閉めて、部長さんを真っ直ぐに見つめて一息で言った。

「昼飯食ったらサワダ楽器に来な」

 これ直ったぞ、と呆気にとられている部長さんにバスクラを手渡す。

「練習メニュー、教えてやるよ」

 スローモーションのように表情筋が動き、部長さんは破顔した。

「ありがとうございます!」

 深々とお辞儀をして、この快適な空間を足早に出て行った。




「あぢ……」

 サワダ楽器に戻った俺は、すぐに奥のスタッフルームで昼食を摂った。摂りながら、こんな事を題字としてルーズリーフにまとめていた。

『一日の練習メニュー』

「お、森野内君、帰っていたの」

「あ、はい。つい先ほど」

 店長がルーズリーフを見つけた。

「ん? ……森野内君、楽器やるの?」

 思わず俺は首と手をブンブン振った。

「まさか! 昼過ぎにちょっとお客様が見えるので、その……」

 店長は俺の意をくんでくれた。ははぁん、なるほどね、といったような面持ち。

 そして、もう一つ。空気の混ざった唾をゴクリ、と飲みこんだ。

「店長、俺、今日行った中学の顧問……副顧問みたいなのをやってみたいんです」

「え? リペアじゃなくて?」

 言ってしまってから、後悔した。後悔、というより、まずい事言ったかな、という不安に駆られた。何せ、この店でリペア作業できる人材は俺一人だけだったからだ。

「い、いや、やっぱいいです。さすがにここを離れる訳にはいきませんよね」

 すんません、何でもなかったです、この話は無しって事で。後頭部を掻き掻き、なんだか慌てた口調になる俺。店長はその間、別に良いよ、とか、考えておくよ、とすら言ってくれなかった。正直、期待していた。それどころか店長は、

「君は頑張りすぎて空回りするタイプだからな。顧問はちょっときついかもしれないね」

 と、心の傷をを更に抉る始末だった。

「ごめんくださいっ」

「ほら、森野内君、お客様だよ」

 いつもの笑顔に戻った店長は、ちょっと待ってもらうように言ってくるね、と、スタッフルームをゆっくりと出た。

 俺は急いで自前の日の丸弁当をかっ喰らう。




「早かったなぁ、それにしても」

 体操着から一転、私服モードの部長さんは、すっかり「イマドキ」の女の子だった。

「お待たせしては悪いと思って……」

「逆に俺があんたをお待たせしちまっただろう」

 リペアルームに招き、先程のルーズリーフを渡した。いつのまにかそれは三枚もの分量になっていて、

「こ、これは……」

 と部長さんも言葉を継げずにいた。

「あー、繰り返すようだけど。俺は森野内潤也。一応近くの神坂音楽学院でリペア学科を専攻している」

 へぇーと聞き入っていた部長さんは、慌てて名乗り始める。

「わっ私は桜並第二中学校の吹奏楽部部長、佐倉鈴鹿と申します。に、二年です」

「え、二年? 三年じゃないの」

「あ……部長ですし、二年です。その、訳あって」

 部長さんはその「訳」を簡単に話してくれた。

「単刀直入に言いますと、私たちの一つ上の先輩方が一人もこの部に入部されなかったのです。それがなぜかという理由までは知りませんが……。まあ、無名の部活ですから。

 初めは戸惑うこともありました。何せ昨年の夏真っ盛りに二つ上の先輩方が部を去ってしまったわけですからね。一年生ばかりの部活というのはやはり少し、違うものです。

 ……ええと、そういう経緯であります」

「なるほどね。よく頑張ってるよなあ。大変だろ」

 この一言の直後だった。佐倉部長は下唇を噛み締めて大粒の涙を落とし始めたのだ。おりあしく、俺は差し出すハンカチを持ち合わせていなかったので、箱ティッシュを差し出した。何ともバツが悪かった。

 その白い薄紙を目に鼻にあて、一通り落ち着くのを待つ。佐倉部長は姿勢を正して、言った。

「すみません、はしたなくて……。

 本当に、どうしていいか分かりませんでした。他薦、多数決で決まってしまいましたし。

 部員の悪口を言うつもりはありませんが……いえ、私の力不足ですね。私の指示はあまりみんなに伝わらないみたいで。実は朝練も、二つ上の先輩方がいらした頃は皆、ちゃんと出席していたんです。……面目ないです」

 心細いよなあ。

 そんな具合にしか思えない。

「慰める訳でも何でもないが……時間、まだあるか?」

「はい」

「そうか。今から話すのはな、大学のダチから一度聞いた話だ。面白くも何ともないから、期待はするなよ」



*****



 そいつの友達――フミヤって言ったかな。フミヤは中学の頃、お前さんと同様吹奏楽部の部長だった。さすがに二年の後期からだったけどな。

 フミヤはもうすごい奴だったらしくて、技量とか表現力とかで奴に敵う部員はいなかった。あれはもう才能だって。先輩たちにも一目置かれる存在でさ、フミヤが部長に立候補して誰も文句は言わなかったよ。

 でも、先輩が去って数カ月もしないうちに、フミヤは気付かされたんだ。部内の空気に自分が馴染めなくなっている事にね。

 複雑な理由なんてこれっぽっちも無かったさ。フミヤの技量に皆、気後れしちまっていたわけ。フミヤは部長として皆の指導に力を入れた。実際、フミヤ自身他の部員の技量に満足していなかったんだ。けどな、人間の妬みってのはつまらないもので、無気力や反発を生み出した。フミヤが気を配れば配るほど、皆のモチベーションは下がってしまったのさ。お互いに、辛かっただろうよ。

 フミヤはなんとか引退まで部長を全うした。しかしその絶望は史哉を音楽から引き離した。楽器なんて触る事はおろか、目にもしていないとよ。一種のトラウマみたいなもんだろう。



*****



「……つまりその、何だ、あんまり頑張り過ぎるなって事だ。音楽人生を棒に振りたくなかったらな」

 佐倉部長はただじっと俺を見据えて、悲痛な心境を押し殺すように呟いた。

「悲しすぎます」

「そうかね」

「そうですよ! フミヤさんは部活が、いえ、音楽が好きだっただけじゃないですか! 部員の皆さんが勝手過ぎたのでしょう! そんなのって……」

 やっぱり中学生だな。そこが甘いんだ。

「好きだけじゃ、音楽はやっていけない」

「でも」

「音楽は一人でやるんものじゃない」

 佐倉部長の言葉尻にかぶせながら、俺は断言する。

「部長が可哀そうとか部員が悪いとか、そういう次元の話じゃない」

 覚えておきな。

「部長が一番やんなきゃいけない事は、部員を信じることだ」




 今日は疲れた。

 折角の一日のバイトにはほとんど出ずに終わってしまった。佐倉部長が帰ってすぐに店長に謝りに行った。店長は笑って、

「大丈夫、大丈夫。給料から引いておくから」

 なんて言うから驚いた。冗談だったらしい。本当に良かった。

 帰り道、あの話を思い出す。佐倉部長の顔を思い出す。いつか見た夢を思い出す。

「今日はためになるお話を、ありがとうございました」

 帰り際に佐倉部長は、深々と頭を下げてそう言った。

「俺はただ、友人の話をしただけだぜ」

 リペア道具の片付けながらの俺の返答で、二人の間には重く、晴れない沈黙が降ってきたのが分かった。

「フミヤさんって……」

 沈黙が破られたのも束の間で、「いえ、何でもありません」と部長はまた、黙り込んだ。

 そう、「何でもない」。俺の話の中のフミヤは、「何でもない」のだ。強く自分に言い聞かせ、俺は道端の小石を蹴った。側溝の鉄格子に当たったそれはカーンと明るい音を鳴らして、泥の底に落ちていった。そしてそのまま誰に拾われることもなく暗く湿った所に居続けるのだろう。

「森野内さん、楽器がやりたいんじゃないんですか?」

 何を根拠にそんなことを。俺は盛大にため息をつく。部長のこの言葉には、おどける気さえ起きなかった。彼女を強引にリペアルームの扉まで誘導して、抑揚もなく、言い放った。

「楽器なんて、やったことないっつーの。くだらないこと言わないでとっとと帰れ。じゃあな」




 バタリ。

 背中でもたれかかるように自室の玄関の扉を閉める。部屋では静寂だけが俺を待っていた。大学生の一人住まいにしては、やっぱり広すぎる二LDK。要らない防音。二重窓。

 抵抗が大きくて滑りの悪い、折りたたみ式の梯子を伸ばしロフトに上がる。この広い収納スペースにたった一つ、埃をかぶった茶色い箱がある。取っ手に手をかけて引っ張り出して、ロフトから降りる。埃が手につくが、気にならなかった。

 薄汚れたポリシングクロスでその箱を丁寧に拭く。大きさは、一メートル四方の半分くらいの四角。鍵を開け、蓋を開く。

 室内は異常な静けさに包まれていた。ただ、楽器を組み立てる時の独特な、木と金具のこすれる音が聞こえるが、この広い部屋に響くほどのものではない。不意に、店長の言葉が微かに蘇る。

(生きているものこそ、音楽なのだ)

 楽器を組み立ててしまってもなお迷いを抱えている俺の背中を、その微かな言葉がトン、と押してくれた。

 首にストラップをくぐらせ、ストラップに「これ」をひっかける。

 クランポン、バスクラリネット。B管。

 自分をだまし続けて封じ込めていたこいつが、さらに俺の心に迫ってきた。「忘れないで」「私はずっと、あなたの傍にいた」「あなたは私を愛していたでしょう?」

 それは哀願などでは決してなかった。これはこいつの、俺に対する切実で確かな、愛だった。

 深く深く、息を吸う。そう、腹式呼吸で。そして俺はただ、本能に従って吹くだけだ。

 『Over The Rainbow』和題は、「虹の彼方に」だ。




 あの日から佐倉部長は、毎週末にサワダ楽器にやってくる常連客になった。あの話を蒸し返す事は無い。

「どうだ、練習メニューは」

 いつもと変わらない景色、リペアルームで、俺と佐倉部長は一対一。彼女は毎度彼女の相棒と共にやってきて、部活の様子を事細かに教えてくれる。

「はい。森野内さんの豊富なメニューのおかげで、各々が自分に必要なメニューを行う事が出来てとても活気づいてきました」

 ありがとうございます、と丁寧に頭を下げられる。毎週のことなので、つい苦笑が浮かぶ。

 彼女の相棒は今まさに分解され、俺の手中にある。とはいえ、基本的な手入れは佐倉部長の手で十分丁寧に行き届いているので、楽器自体にはほとんど問題はない。一つずつキイを動かしていくと、カコカコカコと木が鳴った。

「それにしても、気持ちいいですね。みんなでやる音楽って」

 佐倉部長が突然感慨深くほろりと呟いた。その言葉に、自然と微笑ましい気持ちがホワンと生まれた。俺の口が、動き始める。

「そうだろ? 何十人もの仲間が同じ一つのものに向かって毎日毎日努力する。言葉にしちまったらそれだけなんだけど、それって凄いことだと思わないか。……俺はそう思うよ。ちょっと考えてもさ、そんな事なかなか無いもんな。

 そして音楽ってさ、努力の形そのものも美しいと思うんだ。練習の矛先が自分のためだろうが人のためだろうが、それは人それぞれだ。そんなことは実はどうでもよくてさ。その努力の結晶が、ついにはより壮大で、より繊細な『音楽』となってこの世に新たに生まれるんだぞ。凄いだろ?

 来る日も来る日も自分の相棒と共に悩み苦しむけれど、その相棒の重みが日常になり、その相棒の音色は自分自身なんだっていうあの感覚……」

 佐倉部長の顔は少し紅潮している。俺は多分、鼻息が荒い。

「絶対、味わってほしいと思う」

「……はいっ」

 俺は力強く、ケースに収納されたバスクラリネットを彼女に手渡した。彼女はいつもの快活な笑顔から一転、そわそわしながら俺にこう尋ねた。

「あのぉ……どうして私にここまでしてくれたのですか?」

 思わぬ質問に頬が緩んだ。答える気はあるのだけれど口で言うのが照れ臭い。仕方がないからいつも持ち歩いているリペア道具のケースから一枚の大判写真を取り出して、彼女に手渡した。

「これは」

 佐倉部長は幸せそうに微笑んだ。それは数年前の集合写真。下の方に題字が書いてある。「全日本吹奏楽コンクール 銀賞」。真ん中にいるタクトを持った燕尾服は、紛れもなく店長だった。

 そしてその隣にはちゃんと、満面の笑みでピースサインをしている俺が、クランポン製のバスクラリネットを首から下げているはずだ。

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