春の微睡

緋夜子

春の微睡

もはや、我が一門に勝機はなし。

壇ノ浦の海の上で、平家の四男・平知盛とももりは女官たちの乗る舟でそう告げた。

女官たちの間から小さな悲鳴があがるが、多くの者は、どこか分かっていたような面持ちで視線を下げる。


「憎き源氏なぞの手にかかるくらいならば、いっそ海に身を投げましょうぞ」


少しの間の後に、真っ直ぐな声音があがった。

かつて、武家の出でありながら朝廷の権力を握り、頂点まで昇りつめた平清盛の正室・時子である。

年老いてはいたが、夫亡き後の平家を支えてきた彼女の瞳には、今もなお強い意志が宿っていた。


母である時子の言葉に、徳子は腕の中にいた我が子を抱く力を込める。

もう、ここまでなのだ。

平氏一門は、敗れ去った。

過去に摘み取ることをせず遠ざけた、源氏の若い芽によって。


時子は波に揺られる舟の中でゆっくりと立ち上がると、徳子の腕の中にいる幼い帝の前に膝をつく。

その表情はとても優しく、先程発した言葉が嘘のようだ。


主上おかみ。私と共に、良いところへ参りましょう」

「よいところ?どこじゃ?」

「海の底の都に御座いますよ」


無邪気に尋ねる幼子に、時子は笑みを崩さないまま腕を伸ばした。

母のしようとしていることに気付いて、徳子は慌てて声を上げる。


「母上さま、それは私の役目に御座います」


源氏の手にかかるくらいなら、自ら命を絶とう。

それはつまり、帝も共に海へと沈むということだ。

そしてその帝と共に行くのは、国母こくもである自分の役目のはずである。

しかし、時子は穏やかな表情のまま、ゆっくりと首を横に振った。


「あなたは生きるのです。生きて、一門の菩提を弔いなさい」


徳子は、母の言葉の意味を理解できず、眉を寄せた。


「何を仰るのです、母上。何故、私だけ…」

「あなたまで死んでは、誰が我らを弔うのです」


母の有無を言わさぬ口調に、彼女は閉口した。


「おそらく、源氏の輩は男たちを皆生かしてはおかぬでしょう。それは私のような年老いた女も同じ。女官たちはまだ若くはあるけれど、源氏の慰み者にされるやもしれません。しかし、国母であるあなたならば、源氏であろうと無下にはできぬはずです」


時子はそこでようやく、徳子へと優しい笑みを向けた。


「あなたは、生きなさい。我らの分も、そして帝の分も」


徳子の頬を、一筋の涙が伝った。

彼女は唇を噛み締めると、帝を抱いていた腕をほどく。

それを見た時子は、力の抜けた徳子の腕から帝を抱き上げ、凛とした様子で立ち上がる。


「そとへゆくのか?」


不思議そうに首を傾げる帝に、時子は憐れみを感じながらも頷く。


「ええ。少し騒がしくはありますけれども、私がお供致しますからご安心くださいね」

「ははうえは?いかぬのですか?」


徳子はさらに溢れそうになる涙を必死にこらえながら、じっと見つめてくるつぶらな瞳に笑みを返した。


「私も、あとから参ります」

「ならば、私はさきにいっておりますね」


帝を抱く時子が外へと出て行き、女官たちも涙を拭いながら、そのあとに続いていく。

徳子は腕の中に残る温もりが消えていくのを感じながら、そんな女たちをぼうっと眺めていた。

生きなければならない。

生きて、そして弔わなければ。


だが、独り生き残ったところで、己には何が残るのだろうか、と彼女はふと思った。

そして脳裏をよぎったのは、最後まで自分を見つめていた小さな瞳だった。


次の瞬間には彼女は立ち上がり、よろめきながらも外へと向かっていた。


外へ出た瞬間、徳子が目にしたのは真っ白な光だった。

太陽の光に目が眩み、彼女は顔をしかめる。

光にようやく目が慣れてきて彼女がようやく目にしたのは、海へ飛び込む瞬間の母の後ろ姿と、あどけない顔で自分を見つめる愛しい我が子だった。


言仁ときひと!!」


ひどくゆっくりに見えるその光景に彼女はたまらなくなって、我が子のいみなを叫び、後を追うようにして海に身を投げうった。



三月の海は、ひどく冷たかった。

冷たい水が鼻や口に入り、呼吸が苦しくなる。

深く沈んでいく母の衣を追い、徳子はもがきながら水の中へと沈んでいく。


しかし、意識を失いかけた刹那、彼女の髪を強く引くものがあった。

抵抗する力すら残っていない徳子はそのままずるずると引かれ、気づけば舟の上に引き上げられていた。

激しく咳き込んで器官に入った水を吐き出し、彼女は水を吸ってひどく重くなった単衣を引きずりながら、緩慢な動きであたりを見渡す。

そこで最初に目にしたのは、海風にはためく白旗だった。

彼女を引き上げたのは、紛れもなく源氏の武士なのである。

そのことに気付いた徳子は、もはや自ら死を選ぶ自由すらないことを悟って愕然とした。


平氏一門も、愛していた我が子も、何もかもを失って、それでも彼女は生き残った。

全て、この海の下へと沈んでしまった。


その事実を噛み締めながら、彼女は静かに泣いた。

声をあげることも、顔を伏せることもせず、一門が消えていった海をじっと見つめながら、ただただ涙を零すばかりだった。




それから徳子は、源義経ら源氏に守護されながら都へと戻った。

平家の棟梁であった平宗盛や、徳子の叔父にあたる平時忠も源氏の者らによって引き上げられ共に護送されたが、宗盛は斬首、時忠は配流の刑に処されることとなる。


しかし、徳子は罪に問われることはなかった。

時子の思惑通り、彼女は元とはいえ国母であり、その立場を尊重されてのことであった。

彼女の生活を助けるべく手を差し伸べた者ももちろんいたのだが、当の本人が望んだのは静かな生活だった。

彼女は出家したのち、都から遠く離れた大原の地へと移り住んだ。


「本当に、このような寂しいところでよろしいのですか?」


側に仕える女官が、不安そうに徳子に尋ねる。

庭を彩る紅葉をじっと眺めながら、彼女は静かな声で告げた。


「構いません。ここで静かに菩提を弔うことが、私の役目ですから」


たしかに、彼女の今の生活は、以前のものと比べることすらできないほど質素なものだ。

だが、この生活は、彼女自身が自ら望んだものでもある。

栄華を極めた生活が嫌いだったわけではないし、たしかにあの日々は幸せだった。

国母として多くの者にかしずかれ、思うままに暮らしていたあの生活は、今思えば本当に輝かしいものだったのだ。


それでも、徳子は気付いてしまった。

どんなに栄華を極めたところで、いずれは消えていくものなのだと。

平氏一門を大きくした父の清盛も病で死に、何人もいた兄弟たちも周囲を囲んでいた女官たちも、今となっては海の底である。

その様を目にしてしまった彼女には、もはや華々しさなど無縁のものだったのだ。


徳子が暮らす庵をしゅうとである後白河法皇が訪ねてきたのは、彼女が隠棲してから間もなくのことだった。

法皇はあまりに寂しいその暮らしに驚き、変わり果てた彼女の姿に声を失った。

単衣を着ていても明らかに痩せ細り、顔の輪郭も幾分か細くなった。

その姿が、彼女がこれまで歩んだ道の厳しさを物語っていた。


「このような姿でお会いするのは畏れ多くはありますが…都から遠く離れたこの地に、何用でいらっしゃったのでしょうか」

「何か不便などはないかと参ったのだが…必要なものがあれば何でも言うと良い」


そう告げた舅を、徳子はひどく冷めた瞳で見つめていた。

この男は舅ではあるが、言ってしまえば一門を滅ぼし、愛しい我が子さえも奪った元凶としても過言ではない。

だが、恨む気持ちは彼女にはなかった。


「今にして思えば、都を落ちてからの日々は、まるで地獄で御座いました」


少しの沈黙の後、淡々とした様子で、徳子は静かに語りだす。


「行く宛てもなく都を離れ、西国へ移れば武士に追われ、辿り着いた果ては海の上に御座いました。波に揺られて日を暮らし、空腹に耐え忍びながら舟の上で眠りにつくのです。明日のことですら、何も分からずに怯えるばかりでした。もはや、都での暮らしなど夢のまた夢…幻としか思えぬほどで御座いました。そして、独り残った今、私にできることは、一門の菩提を静かに弔うことのみに御座います」


そこまで語ると、徳子はどこか哀しげだが、わずかな笑みを法皇へと向けた。


「不便など、何一つ御座いません。むしろ、仏道への良い導きをして下さったことに感謝しております」


それから法皇は庵を去ったが、その後も何度か、徳子の元へと足を運んだ。

ひょっとすると、この取り残された平家の娘が、あまりに哀れに思えたのかもしれない。




一人になった徳子は、瞼を閉じて、己の歩んできた道を振り返る。

平家の棟梁の娘として生まれた彼女は、物静かで控えめな性格だった。

帝の元へ入内したことも、子を為したことも、その子が夫の亡きあとに帝となることも、父である清盛が望んだからと言っても過言ではない。

言われるがままの人生ではあったが、それでも徳子は幸せだった。

たとえ自分が、父にとって上へのし上がるための手駒に過ぎなかったとしても、そこに彼女は幸せを見出していたのだ。

しかし、自ら見出した幸せさえも、今となっては深い深い海の底である。


一門が栄え、国母として何不自由なく暮らしていたことはたしかに現実ではあったが、今となってはあまりに遠い景色となってしまった。

そして、今と比べものにもならないあの日々は、まるで春の微睡まどろみに似ている、と徳子は思った。

微睡の中で見た、淡い淡い、幸せな夢。

夢であったら、どれだけ良かっただろう。

もはや涙は枯れ果て、頬を流れる雫などない。


ゆっくりと瞳を開けるが、目の前の光景は何一つ変わらず、これが現実なのだと思い知らされる。

だが、それでも涙は流れなかったし、彼女の心は穏やかであった。

たとえ輝かしい過去が夢幻だったとしても、残された彼女がすべきことは変わらないからであろうか。


徳子は静かに息を吐くと、合掌して小さく経を唱え始めた。

栄華を極め、没落していった一門の菩提を弔うために。

歴史の波に呑まれ消えていった一門の、海の底での安寧を願うために。

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春の微睡 緋夜子 @hiyoko24

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