思春期少年の小さな冒険2
夜道をのんびり歩くのが、これほど素晴らしいことだとは思わなかった。
何もかもが俺の目に真新しく映って飽きることがない。
毎日数えきれないほど見ている面白みのない景色は、夜になることでその姿を180度変える。
例えば桜。
桜の木は、到来する春に喜びの声をあげながら勢いよく花を咲かせる。花びら達は、春独特の包み込むように優しい風に吹かれて木から離れ、一枚一枚がひらひらと自由に宙を舞い、あたりを薄桃色に彩る。
昔の人たちもその美しさに魅入り多くの詩を残しているように、桜は春の代名詞だ。
とまあ、日中の色鮮やかな桜はもちろん綺麗なのだが、夜は夜でまた素晴らしい物が見られることを知った。
俺の目の前――薄闇の中で舞う花びらが、三日月の白い光に透かされて紅藤、白、あるいは薄紫のような色合いに変わっていく。視界一面がどこか妖しく幻想的な世界に様変わりする。
「はあぁー。すごいなあ……」
その景色のあまりの美しさに圧倒され、思わず口から感嘆の声が漏れる。
口をぽかんと開けたままきょろきょろ周りを見回す俺に向かって、左右から枝垂れる満開の桜の木がその艶やかさを誇示してきた。
今に至るまでほとんど意識しておらず、当然のようにこの場所を素通りしていた自分が恥ずかしい。
そう思うと同時に、駄菓子屋のレアカードを握りしめて一日中にやにやしながら眺めていた小さいころの喜び。それに似た気持ちを感じた。
要するに俺は、こんな素晴らしい景色を俺だけで独占している、ということがすごくうれしいのだ。
そんな優越感に浸っていたが、ふと現実に返って今日外に出た目的を思い出す。
――危なかった。家の前の桜で道草食ってる場合じゃないだろう、俺。
そうはわかっていても、満開の桜のアーチがもっと私たちを見ていってよ、と泣いているような気がしてすこし名残惜しかった。
が、時間は限られている。もしも夏花が今の間に俺の部屋に入ってきたら、この外出は一発でばれてしまうのだ。
俺はごめん、と最後につぶやいて足を進めた。
それから少し歩いていると、何か黒いものが俺に向かって飛んできた。
鋭いくちばしと輝く目。カラスだった。
確かカラスは昼行性だったと思うけど、珍しいこともあるもんだ。
人気のない今、ここぞとばかりに食料集めに執心なのか、それとも俺を危険ではないと判断したのか、奴は俺を見たのも一瞬、興味なさそうに目当てのものに向かっていった。
……俺を一瞥したときの奴の目に、自分より下の生き物をあざ笑っているような、そこはかとなくむかつくものを感じたけど気のせいだろう。
それにしても天敵の人間が目の前にいるというのに全く気にしないなんて……ちょっと間抜けな奴だなあ。そんなんじゃ、厳しいカラス社会じゃ生きていけないだろうに。あ、今ビニールの欠片食べてむせた。
俺は奴に対して、何とも言えない哀れみの視線を向けた。
なんとなく放っておけなくて、間抜けなカラスの行く先を見守っていると、奴はほどなくして止まった。
そこにあったのは、町内に何個か設置されてあるごみ捨て場だった。
奴がわざわざ遠くからここを目指して飛んできたのは、この隣の遠藤さん一家の大食いゆえ、廃棄される残飯が多いからだろう。ついでにごみの捨て方も町内会で何度か注意されるほど適当だときたものだから、カラス界隈ではそこそこ人気のスポットなのかもしれなかった。
奴はごみを隠すビニールシートをくちばしで器用にはがし、嬉しそうにガーガー鳴きながらさっそくご飯にありつこうとした――が。
そこには一匹、先客がいた。丸々太った体にギラリとした鋭い目が奴をにらむ。この近辺の野良猫のボスだ。食事の邪魔をされて怒っているように見える。
一方の奴は突然あらわれたボス猫に驚いているようで、羽をばたつかせながらせわしなくごみ捨て場の周りを動いている。
「どうなるんだろ、これ」
カラス対猫の、食べ物を賭けた名バトルが見られそうだ。俺は近くの電柱の陰に移動し、こぶしを握って両者を応援することにした。
と、距離を保ちつつカラスを牽制していたボス猫がついに動いた。ごみ袋の小山を踏み台にして奴に向かってジャンプ。そのまま空中からのひっかき攻撃!
「ニャーーゴォォ」
さすが、野良猫を従えるボス。その太った体から想像できないような速くて強烈な一撃で、今まで数々の猫を倒してきたに違いない。
対するカラスはどう出るか。体当たりか、はたまたくちばしでの鋭いついばみか。俺が生唾を飲み込んで注目した瞬間――
ばさ、ばさばさっ。
「ガー」
いっそ、すがすがしいまでの逃走を見せてくれた。
「……なるほど逃げの一手か。やるじゃないか、カラス」
奴は何本か羽根を落としながら飛び去り、深夜の黒い空に溶け込んでいく。
その思いきった行動に一瞬虚を突かれたものの、奴の事がどこか微笑ましく思えた俺は、その背中を笑顔で見送った。
辺りに静けさが戻る。
「うーん、それじゃこの戦いは猫の勝ち!」
「ニャーー」
猫が俺の言葉の意味を知ってか知らずか、うれしそうに鳴いた。
けれど俺の本心としては、
「カラスも勝ち、かな」
ぼそっと小さく言う。
体面も気にせず一目散に逃げられる奴は、どうやら間抜けなどではなかったようだ。
「ガー」
どこかのカラスが、答えるように小さく鳴いた――気がした。
「……そういえば、また脱線しちゃったなあ」
つい白熱して時間を忘れてしまっていた。けれど目的の場所まであとちょっとだ。
俺は、少し早歩きで先を目指す。
歩くにつれて数が増えてきている街灯に比例して、俺の心の高鳴りもいっそう大きいものになっていた。
小心者の落ち着きのない暮らし @matanai4
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