小心者の落ち着きのない暮らし
@matanai4
思春期少年の小さな冒険1
おぼろげな三日月が真っ黒な夜を淡く照らす。
月下の小さな住宅街の一角にある赤い屋根の家。その一室のベッドで、俺は睡魔からのしつこい誘惑を振り切って跳ね起きた。
そばに置いてあるデジタル時計を見ると、時刻は2時。
闇もいよいよ深まったこの時間帯では、誰もが毛布に身体をくるんで眠りについているはずで、窓から見下ろす町内は驚くほど静かだった。
平時から早寝早起きを心がけ、夜更かしなんて数える程しかしたことのない俺にとって、今の時間に起きているというのはとても新鮮だ。
いつもと大して変わり映えのない、いたって普通の夜だというのに、ただ時間が少し遅いというだけでひどく心が沸く。
そんな興奮を胸にしつつ、俺は自分の体温で温かくなっている毛布を引っ剥がし、立ち上がる。
そのまま音をたてないようにそーっと歩き、勉強机のフックにかけてある愛用のリュックに手を伸ばす。
耳を澄ませて家族が全員寝ていることを改めて確認して、俺はリュックのファスナーを引いた。ファスナーがジーというほんの小さな音をたてる。
これくらいではさすがに誰も起きないだろう。そう考えながら中身をまさぐって取り出したのは、黒い無地の財布。このなかには事前にセットしておいた650円が入っている。
次に、机に置いておいた腕時計を巻き付ける。
――ふう。 準備はオーケーだ。
財布を寝間着のポケットに滑り込ませた俺は、忍者さながらにひっそりと息を殺し、部屋のドアまで足を進めた。
ちなみにドアは開いていない。彼は、俺が薄目で寝たふりをしている最中に、母親によって閉じられてしまった。当然そのとき眠っていなくてはならなかった俺は、目の前で彼が閉められていくのを黙ってみているしかなかった。無念だ。
とはいえ、起きてしまったことに文句を言ってもしょうがない。
俺は左手で木製の取っ手を握り、下に下げた。すると作り上しかたのないことに、カチャという小気味のいい音が鳴ってしまった。
こればっかりはどうしようもない。ここで躊躇したら負けだと考え、そのまま取っ手を手前に引いてやる。
ドアがすっと開き、薄暗い廊下が目に映った。
だが、まだ先に進んではだめだ。その前に下げた取っ手を元に戻さなくてはいけない。この作業でもさっきと同様、音が鳴ってしまうだろう。
俺はさっきの経験を活かし、今度はカタツムリにでも成りきったつもりでのろまに、ゆっくりと取っ手を戻してやる。端から見たらどんな阿保に映っていることだろう。
と、そんな無様をさらしてしまったが、どうやら成功したみたいだ。今度はごくごく小さい音が立っただけで済んだ。
――あとは階段を下りて玄関の鍵を開ければ。
すやすや寝息を立てる妹の部屋の前を、抜き足差し足で通り過ぎ、いよいよ今作戦の最難関エリア、階段についた。
一階へと続く階段は奥に行くほど暗く、まるでどこかのゲームに出てくる化け物の大口のようだ……。そんなことを考えてしまうと、なんだか急に怖くなってきた。腕に鳥肌がたち、背筋がぞくぞくした――ような気がする。
――いかんいかん。 そんなものに怖がっててどうする!
俺は平常心を保つため、頬を思いっきりつねってみた。当たり前だけど痛かった。なんだろう、前に妹とけんかしたときに殴られた感覚を思い出した。
そんな家庭的なことを考えて勇気を取り戻した俺は、体を横に向け、いわゆる蟹さん歩きで降りていく。なぜこんな行動をとるかというと、数日前からひそかに試した結果、この歩き方が一番静かに進めるということが分かったからだ。
だがそれでも築十数年のこの家の階段は多少傷んでいるようで、足を降ろすたびにいちいち、ぎし、ぎしと木のきしむ音がうるさい。頼むから誰も気が付かないでくれよ。
一段一段に時間をかけ、慎重に降りていくこと数分。階段の半分のところにある、小さな踊り場に差し掛かった。ここで少し休憩をとる。当然その間も、それぞれの部屋から出てくるかもしれない家族への警戒は怠らない。
緊張で少し荒くなった息を整え終わった俺が階段エリアの後半戦へと踏み出しのと、それが聞こえてきたのは同時だった。
「ウオォォーン、ウオォォーーン!」
「っ!?」
何かの動物の威勢のいい吠えだ。なんという間の悪さだろう。
音に対して神経質になっていた俺は突然の大音量に驚き、口から声にならない悲鳴を漏らしてしまう。
そして、その一瞬のパニックのせいで、踏み出していた足の力加減にまで気が回らず――バキッ
木がひときわ大きい音を響かせる。家の中が静けさに包まれていたことも相まって、今の音はそれはそれは大きく響いただろう。
――頼みますから誰も目覚めませんように。
正直なところ、父親と母親に関してはあまり心配してなかった。俺の邪魔にならないよう、二人にはアルコール度数の強い酒を飲ませたので、べろべろに酔っているはずだ。
問題なのは、妹。彼女は俺の行動を嗅ぎ付け、なにかにつけて文句を言うスペシャリストなのだ。
それは今回も例外ではなかったようで、俺の願いも虚しく、奴は目覚めてしまった。
「うるさいよ……むにゃむにゃ。 ハッ、もしやお兄ちゃん?」
奴の脳内で、うるさい=お兄ちゃんの仕業という式が一瞬のうちに成立したようだ。とんだ風評被害である。いや、今回に限っては俺の仕業で間違いないのですが。
次の瞬間、要ノック!という札が掛けられたドアが開きく。
俺の気配を感じ取ったか、我が妹は冴えない目を擦りながら、こちらめがけて一直線に歩いてくる。
――だがな、妹。 俺がお前のしつこさに、あらかじめ対策をしてないわけがないだろう。
半開きの目と、口からだらしなく垂れるよだれ。だらーんと伸びた両手。
いったいどんな夢を見ていたかは知らないが、ちょっとキュートな幽霊のようになっている自分の妹を目にし、俺はほくそ笑む。
奴は階段をとてとてと、おぼつかない足取りで降り始めた。
俺はそれにあわせて身を低くし、仕掛けの発動を待つ。
腕時計を光らせて時間を確認する。起動まであと30秒。
余談だが、意図せず実の妹のパジャマ、つまりヒラヒラスカートの中身を、身を屈めて覗きこむ兄という最悪の構図ができあがってしまっていることに、このときの俺は気づけなかった。
ややあって、時はきた。
「夏花、こんな夜中にごそごそうるさいぞぉ……ふにゃらふにゃ」
突然に俺の声が、妹――夏花にむけて発せられた。
しかし当然、これは今の俺が言った訳ではなく、あらかじめデジタル時計で録音をしていたものが、予定通りの時刻に起動しただけだ。
つまり、これはダミーを使ってあたかも俺が部屋にいるような錯覚を植え付ける作戦である。
音声のタイミングまで計算して作られた俺の計画は大成功。
てっきり階段に兄が潜んでいると思っていた夏花は、足を止め、戸惑いの表情を浮かべている。
「え、ええ? お兄ちゃんいるの? ……おかしいなぁ」
寝ぼけ気味の夏花はろくに俺の部屋を確認もせずに、ベットへ直行していった。
――今回は兄ちゃんの勝ちだな、夏花。
妹の背中をながめ、俺は心のなかでガッツポーズをとる。数日前から練った計画と、俺の臆病な性格が功を成したのだ。
さて、これで障害はなくなった。
身体を横に向け、蟹さん歩きを再開。夏花が起きたままでいるかもしれないので、より一層慎重に歩を進める。
やがて階段の後半戦をすべて突破して、俺は一階に降り立った。
リビングの机には何本もの空き缶が散乱していて、部屋全体にアルコールの臭いが漂っている。両親のどんちゃん騒ぎの残骸だ。
今日は日曜日だから、少し気が抜けてしまったのだろう。明日の勤務に支障がなければいいんだけど。
俺はとりあえず、深夜アニメの録画がちゃんとできていることを確認する。時間的に、今テレビをつければリアルタイムで見られそうだ。
リアルタイム視聴。それもそれでとても魅力的だが、今日の俺には達成するべき目的がある。
誘惑をこらえた俺は、開けっぱなしのドアを素通りし、玄関へ。
ここまでくれば何も心配するものはない。
腕時計のライトをつけ、並べられた靴の中から自分のものを探しだし、さっさと足を通す。
今日のチョイスは、大分前にセールで買った安物のサンダルだ。
なんたって夜はフリーダムな時間。
ならばサンダルでぷらぷらするのが華ってものだろう、という俺の意味不明な憧れが勝手にサンダルを手に取っていたのだ。
実を言うと、俺は夜の華なんて全く知らない庶民だ。
今も無限のわくわくと同時に、警察に補導されたらどうしよう、なんて小物じみた心配ばかりしている。
――まあ、警察でも通り魔でも不良でも、その時はその時さ。
頭のなかでお気に入りの歌を歌いながら、扉の二つ鍵を外す。
そして、扉を力強く押していざ夜の町へ。
4月のまだ少し肌寒い夜風が俺を迎え入れてくれた。
それに流されるように、サンダルで石ころを蹴りながら俺は歩いていく。
……あっ。
泥棒に入られたら怖いので、慌てて引き返し、しっかり鍵を掛けておいた。
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