第2話 平凡な人生。

 私がこの会社に勤めてからもう20年になる。

 22で大学を卒業して、すぐにこの会社に入った私は、営業部に回される事となった。

 元々、さほど人付き合いが得意ではなかった私だったが、不思議と営業という職は合っていたらしい、同期の者達が去って行くなか、気付けば課長にまで上り詰めていた。

  

 営業という仕事は過酷な仕事で、ノルマに次ぐノルマ。

 稼ぐことができれば、どのような事をやっていても文句は言われず、稼ぐことができなければ…… なんの発言も許されず、誰にも教えてもらえず、ただただ頭を下げ続ける日々。

 要領の悪い人間や人の良い人間は、様々なプレッシャーと度重なるノルマへの催促に心を壊し退職。

 要領の良い人間は…… 楽にノルマをこなし傍若無人に振る舞った後、待遇面に不満をもち退職していった。

 そして、同期のいなくなったこの部署で、年功序列的に残ったのが私。というわけだ。

 辞めていった人間と私に違いがあるとすれば、それは要領の善し悪しなどではなく、私はただひたすらに人より鈍感だったという事だろう。

 人に頭を下げる事を苦に思わず、たとえ叱られたとしてもそれを引き摺ることはなかった。

 営業をする上で、他人への思いやりという感情はただひたすらに邪魔になるだけで、生憎私にはそういった感情もなかったため、そういった意味でのプレッシャーもなかった。

 とくに待遇面で不満に思う気持ちもなかったし、私のような人間が他に移って、今以上を求めることはできないだろうとすら考えていた。

 よって、私はただひたすらにここでの仕事をこなし、誰に何を言われても、誰が辞めていっても、ただただひたすらにこの仕事を続けてきた。


 25の時、私にも人生で初めての恋人ができた。

 元々そういった欲求の少なかった私であったが、同僚に無理矢理連れていかれた合コンで知り合ったのが妻だ。

 合コンの最中、私は翌日の仕事のことを考え、ただひたすらに隅の方で酒を飲んでいた。

 そんな私に、「実は私も、無理矢理連れてこられたんです。よろしければこっそり抜け出しませんか」と声をかけてきた。

 そもそも合コンに興味のなかった私は、女性一人一人の顔や名前を覚えていなかったのだが、そこで初めて認識した妻の美しさに驚いた。

 ……一目惚れだった。

 そして、その日を切っ掛けに何度かデートを重ね、7回目のデートの後に私から告白をして付き合う事になった。

 付き合ってすぐ、私達は同棲を始め、付き合い始めてから3回目の春が来た頃、私からプロポーズをして結婚。子宝にも恵まれ、結婚した翌年に男の子が一人、その二年後に女の子が一人生まれた。

 今にして思えば、私の人生のピークはあそこだったのかもしれないなぁ。

 子供が生まれた後、恋人気分はすっかり抜け、妻はすっかり母親になった。

 私も父親になり、ますます仕事に打ち込んでいった。

 

……その頃からだろうか、少しづつ私達の間にズレが生じていったのは。

 私は妻に女を感じなくなり、妻も私に男を求めなくなった。

 お互いが顔を合わせると、子育てのことや将来の事ばかりを話し、仕事で疲れているからとそういった話を拒むと、妻は機嫌を悪くした。

 そんな私達に、夜の生活などあるはずもなく、二人目を作ってから5年、私達夫婦の間に男女の営みはなかった。

 そんな折、妻が浮気をした。

 なぜ、浮気が分かったのかと言えば至極簡単な話で、会議に必要な資料を忘れてしまった私は、その日の昼、会社から書類を取りに戻った。

 玄関に私のではない男物の靴を見つけた私が足音を忍ばせて入っていくと、だんだんと聞こえてくる妻の嬌声。

 そのまま、いきなり寝室を開けてみれば、見事につながったままの妻と間男が唖然とした顔で私を見ていた。


 妻の言い分はこうだ。

 私は妻としてやるべき事をやっているのに、いつでも貴方は不満そうだ。

 いつの頃からか、あなたを男として見る事ができなくなった。

 あなたとの子供を育てる事にも疲れた。

 あなたも私に対して愛情をもっていなかった。夫婦としての営みもずっとなかった。

 私は悪くない。あなたが私を放っておいたのが悪いんだ。etc......


 きっと、妻の言う事は間違いではなかったのだろう。

 私は、そのような状況であっても特に怒りがわいてくる事もなく、ただ、もはや興味を失ってしまった妻に離婚を切り出した。

 妻は喜んでその提案を受け入れ、めでたく離婚は成立した。

 後で知った事だが、妻は…… いや、元妻は離婚後すぐその男に捨てられたらしい。さほど興味は無いものの、本人がそう言って電話をかけてきた。

 私にとってはもう他人だったため、「そうか」とだけ言ってすぐに受話器を置いたのだが、その後元妻が何をしているのかは知らない。

 

 ちなみに、息子と娘だが、妻は二人の事を引き取りたがらず、私自身も、妻に二人を育てさせる気などなかったので、そのまま私が引き取る事になった。

 私達はその家を引き払い、私の父と母、つまり子供達にとっては祖父母の家に厄介になる事にした。

 孫と暮らすことが出来るようになった父と母は大変喜んで、今ではすっかり孫馬鹿なおじいさん。おばあさんになっている。

 子供達も父と母になついているから、私はひたすらに仕事に打ち込むことが出来ている。

 いつか恩返しをしなくてはなるまい。


 そんな私の人生の、数少ない楽しみは、週末、仕事帰りに立ち寄る公園に出ている屋台のラーメンを食べる事である。

 豚骨ベースで、非常に味が濃いたため、確実に健康に悪そうではあるのだが、週末になると自然と足が向いてしまう。


「らっしゃい」

 屋台の暖簾をくぐると、見知った店主が出迎えてくれる。

「大将、いつもの。それと熱いの一杯」

「あいよ」

 この店のラーメンはいくつか種類があるのだが、私は豚骨ラーメンに極太のチャーシューが乗せられ、キャベツやネギが山盛りに入った、DXラーメンをいつも食べていた。

 毎週、この日のために節制して、健康に気を使っている。

 そして、それを全て帳消しにするようなこのラーメンを食べるのが、私の唯一の楽しみだった。

「お、小杉さん。今日は小杉さんが先かぁ」

 暖簾を開けて、岡島さんが入ってきて、私の隣に座った。

「やぁ岡島さん。今日は仕事が早く終わったので、先にやらせてもらってます」

 そう言って、半分ほど中身の減った、日本酒の入ったコップを持ち上げる。

 岡島さんも、いつものと熱いのを頼んだ。

 ほどなくしてやってくる、熱い酒。

「おわちちっ」

 そんな事を良いながら、コップの端をもった岡島さんとコップを打ち合わせる。

「乾杯」

 この岡島さんは、ここで知り合った仲間で、彼もまたこの店の常連だ。

 特別に残業とかが無ければ、大体の週末はここに集まっている。

「そういえば、工藤さんは?」

 岡島さんが言う。

「さぁ、彼の仕事も今忙しそうですからねぇ。今夜あたり悔し泣きしながら残業をしているんじゃないですか」

 そう私が言うと、岡島さんは、はっはっはっとわざとらしく笑う。

 私もそれに合わせて笑うと、空になったコップを差し出し、大将にお代わりを要求する。

「いやぁ、すっかり暖かくなってきちゃいましたねぇ」

 そう言って公演の桜に目を向ける岡島さん。

 つられて目を向けると、五分咲きといった所の桜が目に入ってくる。

「世間ではもうすっかり春気分ですからね。私の息子なぞ、春休みだなんだとはしゃいでいますよ」

 そう私が言うと、岡島さんはずるずると啜っていたラーメンを咀嚼し、飲み込んでから話した。

「んまぁ、我々の歳になってしまうとね。もう春でも夏でも、冬ですらあまり関係無くなってしまいますね。しいて言うならば、夏は雷や台風が増えて煩わしい。だとか、冬は雪が降ってわずらわしい、だとかでしょうか」

 言い終えると、猫舌の岡島さんは、熱燗をふーふー冷まして、小さく啜る。美味しそうに目を細めると、小さく息を吐く。

「子供の頃は、色々なものが珍しく、世界が輝いていたような気がしますが、いったいいつからでしょうねぇ。世界に色が無くなったのは。気付けば、灰色の日常のなかで、同じ事を繰り返す日々。昔の自分がみたらなんて言うんでしょうか」

 言った後で、はっと気付く。

 少し酔いが回ってきているのか、変なことを言っている気がする。気をつけねば。

 そう思ったのは杞憂だったのか、岡島さんはレンゲでラーメンの汁をかき混ぜると、少しだけ掬って飲み込む。

「まぁ、我々はこのラーメンで言うところの、このスープみたいなものなんですよね。きっと」

 岡島さんも酔ってるのかもしれない。レンゲでまたラーメンをかき混ぜながら岡島さんは続ける。

「最初は、いろんな美味しい物が乗っていて、見るからに美味しそうで。食べてみたら実際においしくて。でも、食べれば食べるほど、量は減っていって…… 最後にはこのスープが残るんです」

 そこまで言った所で、岡島さんはレンゲをもつ手を止め、レンゲを置くと、少し冷えて温くなった日本酒をぐいっと呷る。

 そして満足そうに息を吐き出すと、大将にお代わりを要求した。

「それでね、この残ったスープ。これは誰の目にも美味しいってもんじゃありません。まぁ、飲む人もいるかもれないですけど、大抵は健康だなんだで残されてしまってそのまま捨てられてしまうのがオチなんですよ」

 そう言って岡島さんは、レンゲでスープを掬うと、一口飲み、その後で「やっぱりしょっぱいな」と、小さく呟く。

「でもね、この美味しいところを全部食べ終わったスープ。このスープにこそ、様々な食材のうまみ成分だとか、栄養だとか、いろんなものが詰まってるんですよ。だから、これは我々なんです」

 そういってスープをレンゲで指す岡島さん。言っている事が分かるような…… わからないような……。

「なるほど、たしかに」

 そう言って同意しておく。

 岡島さんは満足そうに頷いた後、大将から渡された追加の熱燗を手に取り、「あちち」なんて良いながらテーブルの上においた。

「だからなんていうか、我々には我々の良さがあると言いますか。とにかく……我々はまだまだこれからなんですよ」

 そう言って岡島さんは強引に話を締めくくった。

 ためになったような気もするし、ためにならなかったような気もするものの、愛想笑いを浮かべた私は、岡島さんに向けて半分だけ日本酒の入ったグラスを持ち上げる。

 それに続いて、グラスを持ち上げる岡島さん。

「この、美味いスープのような、我々の未来に、乾杯」

 打ち合わされる二人のグラス。

 春の夜の屋台の中に大の男が二人。肩寄せ合ってとりとめもないお喋り。

 決して良い事ばかりの人生じゃないけど、このスープみたいな残り物の私達だけど、これからの人生をゆっくり飲み干していこう。

 ちょっとしょっぱいかもしれないけれど、それはきっと、とても美味しいはずなのだから。


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生きてりゃいいことあるんじゃねぇの? 堂家 紳士 @doke-shinshi

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