第4話 窓ガラスに透ける影

 ◆4月14日



「フー・マンチュウ?」


 俺は全く知らない言葉を耳にして橘に聞き返した。


「そうですぅ、イギリスの作家サックス・ローマーが創造した架空の中国人がぁ、怪人フー・マンチュウ博士なんですぅ。この人はぁ、世界征覇の野望を内に秘める万能の殺人鬼なんですけどぉ、だからなんですよぉ、ロナルド・ノックスが中国人は駄目ぇって書いたのはぁ」


「そうか、そういうことなんだ。確かにそんなパーフェクト怪人がいたらミステリーは成立しないだろうしな。そしてノックスは、中国人はみんなフー・マンチュウみたいな奴って偏見を抱いていたからルールの一つにしたわけか」


「それだけじゃないと思いますけどぉ、そんな感じかなぁ」


「いやー、そっかそっか、勉強になった。やっぱり橘は詳しいんだな。……なんか恥ずかしくなってくるよ、こっちはさ。同じ歳だってのにこんなにも知識に違いがあるんだから」


「いえいえ、チャッピー君も十分詳しいですぉ。ミステリーが好きなんだなぁっていう情熱もひしひしと伝わってきてぇ、私もすごく嬉しいですぅ。……あ、お湯沸いたみたいなんで、紅茶入れますねぇ」


「ああ、ありがとう。おっと、その紅茶……ダージリンじゃないよね?」


「大丈夫ですよぉ、アール・グレイですからぁ。ダージリンじゃ死んじゃうかもですもんねぇ」


「そうそう、『ダージリンは死を招く』。バーイ――」


「「ローラ・チャイルズ」」


「ははは」


「ふふふ」



「楽しそうで何よりだな」



 それは部室の机の端で、しかめっ顔を浮かべている摩耶だった。

 摩耶はクイーン小説を読んでいるが、どうやらエラリー・クイーンの御霊を降臨させるには、一日ひとつの話を読まないといけないということだった。

 

 いや、降臨しないからっ。だからこそのあの推理ボケだろ。


「どうした? 蚊帳の外に置かれているとでも思っているのか? いいぜ、入ってこいよ。お前だってミステリーに詳しいんだろ? 一緒に話そうぜ」


「え? い、いや、別にあたしはいい。放っておいてくれたまえ。ジョング署長」


 ――ん?


「ファインバーグ警部じゃなかったのかよ。……ま、お前がそう言うならこっちはこっちで ミステリー談義で盛り上がるとするさ。何か謎を見つけたら教えてくれ。ちゃんと付き合ってやるから」


「ああ、分かった。……いや待てチャッピー」


「なんだよ?」


「さっきのダージリンは死を招くってのは何だ? ローラ・チャイルズ? って人が書いたのか?」


「ああ、そうだ。ローラ・チャイルズはお茶と探偵シリーズを書いてる人で、その一つに『ダージリンは死を招く』ってのがあるんだよ。いわゆるコージーミステリー(日常的な場面や共同体を舞台にするミステリー。探偵役は一般人が多い)ってやつだ」


「コージー……? そ、そうか、そうなのか。ところでその前の、ノックスのルールって何だっけ? いや、知っているけど、今日に限ってど忘れしちゃってな。はっはっは」


 ……摩耶の態度にどうにも違和感を覚える。なんなんだ?


「十戒だよ、十戒」


「十戒……モーゼの十戒?」


「『ノックスの十戒』だよっ。推理小説を書く際のルールっ。『ヴァン・ダインの二十則』と並ぶ推理小説の基本指針だろうが。ミステリー好きが忘れるか? 普通」

 

 まあ、基本指針と言ってもルールを作った本人達も破っているので微妙なところだが。それにしてもこいつ、もしかして……。

 

ふと橘を見ると、なぜかあたふたとしていた。


「だ、だから今日に限って度忘れしたと言ったじゃんかっ。いつもは覚えているんだ、『ノックスの十戒』と『』」


「ヴァン・ジャ――は?」


「……え?」


「…………」


「…………」


 顔中、汗だくの摩耶。

 俺はほぼ確信する。そして強固な裏付けを得るために勝負に出た。


「おい摩耶。シャーロック・ホームズシリーズの作者は、〇〇〇〇なになに・コナン・ドイルだ?」


 摩耶は思案の表情を浮かべる。

 そしてあちらこちらへと揺動する視線がようやく俺のところへ戻ってきた時、言葉をしぼり出した。



・コナン・ドイル?」



 確定。摩耶はミステリーを知らない。



 ◇



「いいんだ、いいんだっ、別にエラリー・クイーンさえ知っていればほかのミステリーなんて知らなくったってさっ! だってエラリー・クイーンが世界で一番愛されているミステリー作家であり探偵なんだからさっ、ふんっ!」

 

 半ば逆切れの摩耶だが、エラリー・クイーンだけは詳しかったようだ。

 どうやら橘はその事実を知っていたようで、なんとも言えない微苦笑を浮かべていた。

 

 そりゃ、橘も俺の入部を歓迎するわな。ミステリーの膨大な知識を持っていながら、摩耶とはエラリー・クイーンの話しかできないんだから。


「――っ!?」


 その刹那、俺は摩耶でも橘でもない誰かの視線を感じて反射的に顔を上げた。

 そして周囲を見渡して息を呑んだのだが――。

 

「ひいいいいいいっ! ク、ク、ク、クイーンの御霊よ、いざ降臨せん。我、な、謎見つけたりぃッ!」


 と、恐怖におののいた顔の摩耶が上擦った声で述べたので、その先の行為を中断した。


 ……ったくしょうがないな。でも俺の仕事だしな。

 俺はバッグを開けるとブツを出して待機する。ほら早く始めろ。


 窓を見ている摩耶は、ガクガクと震える体でなんとか推理ボケスタイルを完成させると、これまた震える声でおっぱじめる。


「ち、『超すいりくらぶ』の部室はA棟の二階。そ、そして窓の外には張り出した縁などもない……。に、にも係らず窓の外には人がいて、そいつは今もこ、こちらを見ているっひいいいいっ! ……し、しかしあたしは幽霊などという非現実的なものは、しし、信じていない。ゆ、ゆえにこ、この謎の解明はたやすい。

 ……そう、あたしの推理はいつだって真実の扉にしか繋がっていないっ! こ、こここここ、答えはこれだ――」


 さあ、こいっ!



「舞空術を体得した人間が宙に浮かんでいる」


 

 スパコオオオオオンッ!


 摩耶の頭を叩いたスリッパが思いのほか、いい効果音を出してくれる。

 ピコピコハンマーと悩んだが、この突っ込み道具の選択は正解だったようだ。






【窓の外にいる人はなぜそこにいられるのか――? 真相はこのあとすぐっ】






「痛い。けどげんこつよりはいいっ。よし、今度からはそのスリッパで――じゃなくってっ! なぜだっ、なぜ叩いたっ!?」


「ボケたら突っ込むのは当然だろ。しかし舞空術ってお前、幽霊より非現実的じゃないか。それともなにか? 鶴の仙人に指導してもらえば、誰でも空を飛べると本気で思っている愚か者なのか?」


「じゃあ、あの人間はなんで空に浮いてられるんだ? 説明せよ、チャッピー」


「するよ。それも俺の役目みたいだからな。……あの人はな、窓の外にはいないんだ。


 俺、橘、そして摩耶の視線がその人物に向く。


「あれ、本当だ。いつの間にいたんだ?」


 確かにいつの間にだな。入室するときはノックぐらいするもんじゃないのか、普通。最初に気付いたときはゾっとしたぞ――。

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