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 竹中さんの提案を聞いていたあやめさんは、その方法が上手くいくともわからない、しかも上手くいかせるには相当のリスクを背負うと行く手を阻んだが、竹中さんは断固としてそれに従わず。まだ陽も昇らぬうちに俺の母校に辿り着き、旧校舎に忍び込んだ。一刻を争うと言って地味に鍵まで壊して。

 寂れた旧校舎の屋上。呼び出さずとも、おどろおどろしい空気と共に日向はそこに現れた。

 かつての面影を失くし、ただ今は人を死に引きずり込もうとするだけの悪霊と化して。


「たったの数年でも、一つの場所に長く留まり続けると魂は穢れ、凄いもんになっちまうんだよ、あたし達の前に初めて姿を現した時、あの子は……」


 自分のもとの姿すら形成することもできず、自分がなに者かも忘れて。屋上に自身の霊磁場を発生させていた。

 対話なんてもってのほか、一歩近づけば間髪を入れずに襲いかかって来た。


「あたしは竹中君に退けと言った。このままじゃ人を救うどころか、もう一人死ぬことになる」


 なんの策も練らずにほぼ思いつきで来てしまったのだ、悪霊を正気に戻すのはそこまで容易なことじゃない。こっちも娘の体を媒体にしているわけで補助も高が知れている。もう一度しっかり体制を整えて挑もう。


「ベテランの言うことを聞けってな」


 そこまで言ってあやめさんは娘の長い髪を掻きあげながら、おかしそうに笑った。


「そしたらなんて言ったと思う、『もう一度なんて悠長な選択取れません。今やらないと袴田さんが死にます……』だってさ。まあそりゃそうだわなって不覚にも思っちまったよ」

「じゃあ」

「やるとこまでやったよ、ほぼ丸腰で。悪霊相手にあそこまで無茶したのも久々だったが……、つっても、一番無茶したのは彼だけど」


 缶コーヒーを再び口にして、あやめさんは竹中さんに振り返る。にやけた声で名誉の負傷だな、と言って。

 竹中さんとあやめさんの奮闘によって我を忘れていた日向は朝陽が昇りかける時、遂に正気を取り戻し。長い間縛られ闇に染まっていた魂は浄化された。


 言葉もまともに喋れるようになった日向に、竹中さんは事情を説明して俺を助けに向かわせた。

 それでも俺が引きずり込まれた場所に日向が到達するには時間も力も不足していて、竹中さんはそれを心配する日向に出来る限りのことをすると言って送り出した。


 それから疲労困憊ひろうこんぱいのまま、一度飛び出してきた実家に戻り、竹中さんの御祖父さんのお寺である本堂に籠り、分厚い経文を詠み。ろくに眠りもせず、ずっと日向に力を与え続けていたらしい。俺が目を醒ます少し前まで……。


 そこまで必死になって駆けずり回って、俺を救いだそうとしてくれていたなんて。安心しきった顔をして眠る竹中さんを見たまま俺は暫くなにも言うことができなかった。

 どんなに過酷な戦いだったかは、彼の負った傷と、目の下の隈が証明してくれている。


「彼だけじゃない」


 あやめさんの言うように、俺を助けようと影で動いてくれた人は他にも沢山いた。

 俺が事故に遭ってから、片っ端から連絡をし、迅速に警察と救急車を手配してくれた店長。

 昏睡状態の俺を心配しながらも、俺の代わりに交代で夜勤に入ってくれた平井さんと青山さん長瀬さん。

 病院に見舞いに来ながら、俺を助けてくれるよう日向の墓の前で毎日拝み続けてくれた木下。

 お袋、親父、妹も、今にも死にそうな俺に、めげずに何度も喋りかけ、心細い思いをしながらも三人で千羽鶴を折っていた。

 他のスタッフの人達も、西村も田中も木下から聞きつけて、俺の為にと協力して鶴を折ってくれていた。

 だから病室の窓際には、千羽鶴の束が三つも吊るしてあるのだ。


「こ……んな」


 こんな、俺の為にだ。

 みんな、……こんな俺の為に。こんなどうしようもない、俺一人の為に。


「俺……、こんなこと、してもらえるような……奴じゃ、ねぇのに」


 涙腺がまた緩む。鼻水が垂れてこようにも腕が使えないから拭えない。


「すげぇ、しょうもねぇ奴なのに……」

「だからお前は勘違いしてんだよ。ばかたれ」


 溜め息を吐きながらあやめさんは、目元を潤ませる俺に言い放つ。


「お前は、お前が思っている以上に、人に大切に思われてる」


 大事なことを教え込むように。


「人に好かれている、人に愛されている――。そのことに少しは気づけ。……じゃなきゃ、あの子が二度もお前を助けた意味がないだろ……」

「二度……って……」

「二度目は、お前を樹海の手招きから引き戻した時、そして」


 一度目は――。


「数年前の、あの日だ」

「あの日って……、俺と日向が喧嘩別れした」

「お前も知っていただろ、あの日いつも以上に彼女の様子がおかしかったこと。それには、大きな理由があったんだよ」

「理由……って、なにが。その理由が、日向が死んだのと関係があったんですか」


 あやめさんは足元の鞄から白い布を取り出し、それに包まっているものを俺が見える位置まで持ってきた。


「お前、これを見たことがあるか」


 真剣な表情で、あやめさんが見せてきたのは、薄汚れてぼろぼろになった紙切れ、いや、これは……。


 御札おふだだ……。


 滲んでしまって読めないが文字みたいなものが書いてある。が、ぼろぼろの上に半分以上が千切れていて、見ただけで効力を失っているものだとわかった。


「あたし達は、旧校舎の屋上でこれを見つけた。これは強いものを封じ込める札だ。見ての通りもうとっくの昔に効果は切れてるけどな。ずっと昔誰かが貼りつけたんだろ、その“強い”ものに魅入られて、被害に遭わないようにするために」

「……それって」


 まさか……。

 そこまで聞かされて。頭の中にバラバラに散らばっていたピースが、一つ一つ結びついて、求めていた答えを導き出していく。

 全てが繋がっていく。

 あの日、あの時。

 日向が何故あんなにも必死だったのか。その答えを確かなものにするため、俺は恐る恐る唇を動かす。


「日向は、まさか、……俺を、あの場所から遠ざけようと……だから、あんな――」


 あやめさんは、少し間を置いて、頷いた。


「あの子がお前を屋上から追っ払わなければ。お前はあの日、……あそこから飛び降りていたんだよ。信じられないだろうけどな」


 あやめさんのその言葉に俺はベッドに預けた背が寒くなるのを感じた。


「あの時のお前には全く視えていなかったんだろうが、彼女には視えていたのさ。お前があの場所に留まる“もの凄く害のあるもの”に憑かれていたことを……、その証拠にお前、あの屋上に何度も通ってただろ」


 それが前兆。気がつかぬうちに精神を汚染され、引き寄せられる。色んなことがどうでもよくなって、虚脱する。


「もう直ぐにでも引き込める状態にさせられてたんだ、お前はね」


 それに気がついた日向は曇った俺の目を醒まさねばと、これ以上なく焦りながらなにがなんでも俺を屋上から立ち退かせようとしたのだ。

 俺は情緒不安定で、日向が本当はなにを伝えんとしているかも聞いてやらずにあいつを拒絶した。


「結果的には、お前はその場から立ち去った。あの子の行動は正しかった、だが――」


 解決には一歩及ばす。一度遠ざけたところで、また俺は訪れる。日向は酷く悩んだ。考えに考え抜いた。

 自分は、なにをすべきか、なにができるか。

 その末に、一つの方法を思い立った――。


「お前を引き込もうとするそれを、どうにかしようとしたんだ」


 それも、たった一人で。

 結果は目に見えていた。

 人より少し強い力を持つだけの日向が。

 強力な札で長い間封じられていた、それを。


 一人でなんて、どうにかできるわけがなかったのに。それでも、出来ると思っていたんだろう。出来ると疑わなかったんだろう。


「いいや……もしかすると、知っていたのかもな」


 敵わないかもしれないことを。

 そうだとしても、そうでなかったとしても。

 日向は挑んでしまったのだ。

 屋上に留まる“それ”に。

 挑んで、そして。

 負けた。

 負けて……、それで。


 ベクトルは、俺でなく、日向に向けられた。

 俺を引き込もうとしていた、それは。

 一瞬にして日向にとり憑き。凄まじい勢いでを引きずり込んだのだ。

 日向は自我を奪われ、抵抗もできぬまま。

 何十メートルもある屋上から。

 冷たい……、雨に濡れたコンクリートに。


 突き落とされた――。



「それが、あの日の真実。あの子の本当の最期だ」



 闇に埋もれた真相。竹中さんと、あやめさんが日向を屋上から解放してやらなければ、永遠に葬り去られたであろう、真実――。


 それは、受け止めきれないくらいの衝撃を、俺に与えた。


「……そん……な……」


 震えまくる言葉は、どうしたって真っ直ぐにならない。受け止めるべき真実が、今まで知らずにいた真実が。あまりにも大きく、重くて。


「じゃあ……あいつは……ッ、俺を、助けるために…………」


 押し潰されそうだ――。


「俺なんかの命を……救うために、俺の、身代わりになって、……死んだって……そういう、ことなんですか……」

「あの子は最後まで、あたし達にそのことはお前に言わないでくれと言っていた。……お前を傷つけたくないから、と……」

「俺の、……せいで、今まで……あの場所に独りで……」


 みんなに自殺したと勘違いされ。

 悪霊になって。なにもかも忘れ去って。あんなに笑顔が似合う、優しい奴だったのに。

 そんな仕打ち……、誰にも救ってもらえずに何年も、……辛過ぎる。


 それなのに。奴は。


「悪霊になってもなお……お前を想い続けていたんだ。お前の名をずっとずっと叫んでいた……、あんな別れ方しかできなかった自分を呪い、嘆いていた。死んでも、お前だけは忘れなかったんだよあの子は……それがどれだけ凄いことか……。あたしも流石に驚いたさ……」


 自分じゃなくて、俺ばかり。


「もしも……、お前が全てを知ってしまった時は、こう伝えてくれと頼まれた」



 ――『先輩、どうか自分を責めないで下さい。先輩が助かったんだから、それで良かったんです』――。



 俺の……ことばかり。

 怨むどころか。死んでも、俺を慰める。


「な……にも、……よく、ねぇ……よ」


 涙が、口端まで流れて、傷口に染みわたる。


「お前が、死んじまったじゃ、ねえ……かよっ」



 俺が助かったって。

 お前がいてくれなきゃ。

 なにも良かったなんて、言えねえよ。


 お前が、いなきゃ。


「ば、……か、やろ……ッ」


 俺じゃなくて、お前の方こそ生きているべき人間のはずなのに。


「こんな馬鹿……助けたって……、なにも、なんねぇじゃねぇかよ……」


 お前の、最後の涙すら拭ってやれなくて。

 お前の最後の言葉にさえも、返事を返してやれなかった。こんな……情けねぇ男を……。


「そう言ってやるな」


 自虐していく俺を、あやめさんが止める。


「そんな馬鹿でも……放っておけなかったんだろ。不器用で、野球しか頭になくて、お堅くて……。だけどそんなお前が、どうしようもなく、他のだれよりも、好きだったんだろ、あの子は……」

「っ……う」

「一つしかない命を懸けるくらいだ、生半可な覚悟じゃできやしねぇよ」

「う……っ……」

「だから、そんな情けねぇこと言うな……、無理して格好つける必要もない、ただ……」


 生きてみせろ――。


 あやめさんは俺を再び立ち上がらせるように言う。


「あの子が歩むはずだった人生を、受け継いだお前は生きろ……しぶとく、前に進め」


 そうしてあやめさんは、俺に初めてにこりと笑いかけた。


「それが、あの子の願いだよ」


 寂しげな日暮らしの声。

 一筋の風が窓の隙間から入ってカーテンを揺らした。

 オレンジ色の光から目を背け、俺は歯を食いしばる。この溢れ出る涙は、どうすれば止まってくれるんだろう。



「あやめさん、すいません……っ、すこしの、あいだ……みっともなく泣きます……」

「そうかい……。じゃあ、あたしは外で一服でもしてくるわ、終わったら呼びにきな」


 冗談を言い残し、彼女は缶コーヒーを持ってとっとと病室から出て行った。


 そこから、スイッチが強制的に入ったみたいに、俺は病室で咽び泣いた。



 ――『もっと一緒にいたかった……』――。



 俺もだ……。俺もだよ日向。

 俺もお前と、もっと一緒にいたかった――。

 もっと色んなことを話して、お前のことを知りたかった。



「ひゅう……が……!」



 俺はこの日。

 この年になって初めて、人は一人で生きているわけではないという、本当の意味を知った。


 みんな誰かを影で助け、同様に、助けられている。気づかないうちに、見えないところで。


 誰かに生かされている。

 沢山の人の助けによって。


 生きているのではない。


 俺達は、皆。


 生かされているんだ。



「っ、ひゅうが……ぁッ!」


 俺は今、生きているんじゃない。


 生かされている。


 日向という尊い一つの命と、多くの人達の救いの手によって。


 生かされている……。

 生かされていく……。


 これからも、誰かを生かしながら。


 そのことを消えないくらい強く濃く、自らに刻んで進んでいこうと思った。


 前に。

 時間がかかったっていい。


 リタイアを選ばないなら。進み続けることを忘れないのなら。

 お前は、笑っていてくれるよな……。


 点滴を打たれた左手首に、うっすらと残った小さな掌の痕を頬に当て、俺は日向の最後の笑顔を思い浮かべながら。


 涙が空になるまで、泣き続けた。







 次回――最終章。



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