3
「――、うん大丈夫、助かったみたい」
暗くて寒い海底から浮上していく、そんな例えが当てはまる。
瞼に微かな光を感じて、そして下半身辺りに確かな重みを感じて。
俺は目覚めた。
本当に、今度こそ。
瞼を持ち上げて、少しの間何度も疑いながらじっとしていたが。揺れるカーテンと感じる風と、蝉の声、なにより久し振りに拝む太陽の光で。これは現実だと、八割程確信できた、でもまだ油断ならない。
だって……。
目を開ける前からそこにいたと思われる、怪しいスーツの男が俺の下半身辺りに堂々と腰掛けて、さっきから携帯電話片手に身振り手振り、喋りまくっているんだから。
俺は、まだおかしな夢を見ているのか、というか、此処は……。
それより、俺は……生きているのか。
「だからもう大丈夫だって、こっちに来なくてもいいよアカネ――。解決したんだ。またドクターの目を盗んで電話掛けてるでしょ?どうなっても知らないよー。ははっ……、うん、……あーだめだめ、またそんな無茶ばっかりしたら怒られるよー」
男。というより青年だ。栗色のくせっ毛に日本人離れした顔立ち、碧眼。夏なのに黒いスーツをかっちり着込んで、首元には赤いネクタイ。のんびり口調でスマートフォン片手に楽しげに通話している。こいつは……。
以前、八雲と一緒いた……、八雲の、ツレ――。
「お、まえは……」
「あっ、起きた。……じゃ、アカネ病室だしそろそろ切るね、」
タッチ操作で通話を終了させて、そいつはベッドに座ったまま日向とよく似た穏やかな笑みを俺に向けた。
「グッモーニン……って、わけでもないよねぇ」
「ここは、どこだ……お前なんでまた……八雲と大阪に帰ったんじゃ」
「んーと、此処はナントカ総合病院とかいうとこ。それで、僕は今、出張中」
「は……?」
呆けていたら薄型の携帯を俺の顔に寄せてパシャリと一枚。
「失敬。こうでもしておかないとさ、アカネがまた点滴担いで病院抜け出しちゃうから。あんちゃんが心配やー!とか言ってね。だからセイゾンカクニン」
ふふっと笑いながら胸ポケットにしまった。
「お兄さん、命拾いしたね。お陰で色々と予定が変わって僕の仕事が一つ減っちゃったよ……。まー、でもお兄さんには御恩があったし、ボスには怒られるだろうけど……、僕としては結果オーライ、かなっ?」
理解しがたいことをペラペラ喋りながら、そいつはベッドから腰を上げ、大きく伸びをした後にカーテンを捲って外に出ていった。
「じゃあね、お大事に!グッバイ!Have a nice day!」
病室の扉が開く音より、足音が先に消えたことに対して疑問を抱く前に、俺はこの時きちんと頭が回っていなかった。
黒スーツの青年が消えてからだ。
「っ――!?……ぐ、ふっ……!」
完全に覚醒していなかった体がそこで目覚めたのか。
電撃の如く凄まじい痛みが俺を襲い、あまりの苦しさに短く叫んだ。
いてえ……、やべぇ、いてえ――!?
体を捩ろうにも痛くて痛くてとてもじゃないけどそんなことできない。
呼吸をすることさえ、骨、肉、皮、ありとあらゆる部位に激痛を運ぶ。
生理的な涙が目に滲む。
痛い、けど痛いってのは……。
これは現実。じゃあ、俺は今……いき。
「そ……んなことより」
イテェエエエ――――!!!
よく見れば口には酸素マスク、左腕には大量の点滴チューブ、なんかよくわからないデカい機械に繋がれて、首はキツキツに固定され、右足は天井から垂らした紐で吊ってある、なにか足りないと思っていた視界は半分しか開けておらず、右目が薬臭い布で潰されていた。無事かと思った右腕左足は、期待も虚しく大袈裟ってぐらい包帯ぐるぐる巻きで。
それで終わりかと思いきや、さっきから割れそうな痛みを訴える頭がやけに軽い。まさか、と思ったらそのまさか。俺の頭は見事に丸刈りにされていた。
鏡を眺めなくったって、俺が重症患者だということは一目瞭然だった。
ていうかマジでこれ冗談抜きで痛いんですが。死ぬんじゃないかってくらい。
いやほんっとに痛い。死ぬかもしれない。
「おにい、ちゃん………………、おっ、お兄ちゃん――!?」
悶えまくっていたら気がつかないうちに妹が病室にやってきた。
俺を見た途端、化け物でも見るような顔をし絶叫。ナースコールのボタンが馬鹿になるまで連打。そこからがもう大騒ぎで大変だった。
久方ぶりに顔を見る親父、お袋が血相変えて看護婦と医師と一緒に病室に入ってきて。俺はマスクを外され、口を動かすのも息をするのも痛いというのに医師に幾つか質問をされ、なんやかんやと処置をされた。
どこもかしこもまともそうに見える医師が言うには、俺は一週間もこんこんと眠り続け生死の境を彷徨っていたらしい。
やはりあの夜。記憶にある通り、魔のカーブで事故を起こし、俺はバイクごと崖に転落してしまったのだ。
発見があと数分でも遅れていれば、確実にそこで死んでいたのだが。事故発生直後、運良くそこに店長が車で通りかかり、コンクリートに残った真新しい二輪と思えるタイヤの痕と、鉄板が突き破られて、明らかに普通とは言えない大破したガードレールを見て事故と断定。直ぐに救急車の手配と、捜索の為に警察に通報したらしい。
その後。道路に置き去りにされた俺の携帯を発見して、店長は事故に遭ってしまったのが俺だということをそこで初めて知り。真っ青になりながら慌てて、家族、そして夜勤組、何人かの日勤、夕勤の人達に片っ端から連絡し、全員で俺の捜索をすることに。後から呼び寄せた人達が着いた頃には、もう警察と救助隊が到着した後で。こんな夜中に、山奥に素人なんて入ろうものなら大変なことになると、勿論警察からストップがかかり、過ぎていく時間の中、全員が事故現場で固唾を飲む思いで待ち続けたという。それから間もなくして、死体にも間違われる程酷い状態で俺は発見された。
全身血だらけで着ていた服まで鮮血で染まり、至る所の骨が折れ、外傷も酷いなんてものじゃない。文字通り俺は死にかけていた。
発見された俺の姿を見て、妹が気絶したくらいだから相当だったのだろう。そんな状態でも即死に至らなかったのは木々に引っ掛かって、衝撃が少しばかり抑えられたから。運が悪ければ枝に貫かれて臓器損傷のショックで即あの世逝きだった、なんてことを聞かされたら、ゾッとしたが。
救急車で搬送され、直ちに緊急オペ室に運ばれたものの。深夜の病院で大声で泣き崩れるお袋と、いまだ何が起きているのか信じられないと放心状態のままの親父に、医師は全力は尽くすが状況は極めて厳しいと告げた。
何時間にも渡る手術、その間俺は何度も心肺停止になり、その度蘇生され、大量に輸血され、あらゆる場所を抉られ、切り取られ、縫い合わせられた。全てが終わったのは朝日が完全に昇り切る頃だった。
過酷と言われた手術に最後まで堪えた俺だったが、意識が戻らなければ助かったとは言えない。意識が戻らない以上は医師達も手は出せない。出せない上に、現状が悪いことは変わらず、一生植物状態か、もっと悪けりゃこのまま目覚めずに数時間か数日後に死ぬかもしれないとまで宣告されたらしい。
にも関わらず、いきなり目を覚まして、普通なら声もまともに上げられない状態だというのに元気にイテェと訴えているのだ。
医師も言うように、俺がこうして生きていることはまさしく奇跡と呼べることだった。
しかし、右目は事故の激突で潰れてしまい。もう二度と光を受け入れることはできなくなってしまった。それでも最悪の事態ではないことは確か、意識不明による後遺症も見受けられないし、今のところ反応も正常。治療をしっかり行えば普通の生活に戻れるそうだ。
「いやぁ本当に嘘みたいだよ」と繰り返しながら、医師は俺の手を取って握手をした。
他に異常がないかは、今度精密検査で調べてくれるとか……。兎にも角にも、生きた心地のしないまま、苦しいのに首辺りに泣きじゃくる妹に抱き付かれながら、難しい医師の話を聞くのは体力が限界にまで下がっている俺にはキツくて。疲れと痛みと安心感で、直ぐにまた寝こけてしまい。次に意識がはっきりしたのは窓の外がオレンジ色に染まる頃ぐらいだった。
「よう、やっとお目覚めか、眠り姫……いや、眠り王子か?」
平井さんの声、だけど少しドスのきいた……。
「お前、王子ってツラでもねぇよな」
「……あやめさん」
カーテンの中に入ってきたその人は、また娘の体を使って何食わぬ顔で俺と交信している。
彼女と一緒にいて俺がいじられなかったことはこれまでの経験上からして一度もないわけで、また意地悪をいくつか言われるかと思ったが、今回ばかりは酷い有様の俺を哀れに思ったのかいたって柔らかい口調で話しかけられた。
「散々な目に遭ったな、ご愁傷様だ」
「いや、一応死んではいないんですけどね」
「身内の方は一旦自宅に戻られた、お前の着替えやら荷物やらを纏めにな」
「……ご迷惑お掛けしました」
「ご迷惑はかけられてねぇよ。かけたとしたら心配だ。親御さん達に後でちゃんと言ってやんな」
「はい」
「右目は持ってかれちまったが……、命があるだけマシだな。よく戻ってきた」
目を細めながら優しくそう言われて俺は涙腺を緩ませて頷いた。
「ありがとう……ございます……っ」
あやめさんは、俺がどんな目に遭ったかを知っていたのかもしれない。フッと小さく笑って缶コーヒーのタブを開けた。
「礼ならあの子と……、彼に言うんだな」
コーヒーを一口飲んであやめさんは後ろのカーテンを引っ張った。
そこには……。
病室の白い壁を背にして、椅子に座り、腕組みをしたまま眠っている竹中さんの姿が。
すうすうと寝息を立てる竹中さんの整った顔には真新しい白いガーゼとデカい絆創膏。今は俺の方が重傷なのだろうけど、竹中さんのそれもなんてことないってレベルじゃない感じで。どうしたんだと俺は目を丸くせずにはいられなかった。
「寝かせといてやんなよ、ここ数日ろくに寝てないはずだから。お前は何も知らないだろうけど、今回の件でお前を救おうと一番苦労をしたのは彼なんだよ」
「竹中さんが……」
「あの子に、逢っただろ」
日向のことだとわかり、俺は首を動かす。
「あの子がお前のもとに行けたのは、全部彼の頑張りのお陰……。彼女がお前といられる時間を僅かに伸ばす手助けをしたのもな。……そしてお前はこれから知らなければならない、あの子の死んだ本当の理由を」
そうじゃなきゃ、あまりにも報われない。例え彼女がそれでもいいと言っても。
「同じ女だしな……」
コーヒーをサイドテーブルに置いて、あやめさんは俺の知らないところで起こっていた戦いと、全ての真相を語ってやると言った。
俺につき纏うあの痛々しい姿の日向は、俺が罪悪の念によって創り上げてしまった幻に過ぎなかった。つまり俺はこの数週間、自らの罪の意識の化身である幻影に苦しめられていたのだ。
何故そんなものを視るようになってしまったのか。それは、あの樹海と俺の弱りきった精神が深く関係していた。
「お前は魅入られたんだよ、あの樹海が抱える『
「それって……」
「この間お前はあたしに訊いたな、あそこにはもっと深くてヤバイなにかがいるのかどうかって。ああ、あたしは勿論知っていたさ、あたしぐらいのもんがあそこにいて、それを感知できないわけがないからな。あの時はお前の精神状態にブレを感じていたし、必要ない不安を抱かせるならと思って、知らんふりをしたわけよ。まあ、それが今回裏目に出たわけだが……。まったく、こんなことになるなら、少しは教えてやればよかった」
あの巨大な霊磁場に集った幾多の怨みや妬み、悲しみ、憤り。そういったマイナスパワーが混ざり合って生まれた、いわば念の化け物。
それが、樹海の『核』。
そいつは常に樹海に集まる人々の薄汚れた感情を吸い上げて成長し、また稀に精神的に弱ったり、不安定な人間にとり憑いて引き込もうとする。
「自殺の名所や交通事故の絶えない場所があるだろ、なぜ命を絶つ人が後を絶たないのか、その大体の理由がその場所に強く根づいたそいつらの仕業さ。しかも、人と違って成仏させることもできなけりゃ、人間の一番強い感情から生まれているから兎にも角にもタチが悪い」
それに加えて、奴らは人の心の隙間に少しずつ入り込み、内側からじわじわ浸食していくため、とり憑かれた本人も周りの人間も何か起こるまで殆ど気がつかない。精神を汚染させ、幻覚を見せ、狂わせ死に至らしめる、人の心を蝕む菌と言ってもいい。実体はないが、負の感情と結びついてそいつは、人間が一番恐れるものに姿を変えて視えるという。罪悪感を感じながら、いつか日向が俺を殺しに来ると心の中でそう思っていたから、俺はあのような幻影を視ることになってしまったのだ。
そいつにとり憑かれ、今にも引きずり込まれそうになっていることを竹中さんは察知して、あの夜、俺の前に現れたのは日向ではなく、俺の後悔と罪悪感、恐怖が姿を変えたもの。このまま進むとあの魔のカーブに差し掛かり、非常に危険である、バイクを止め直ぐにその場に店長を呼んで下さい。そう電話で何度も伝えてくれていた。
けれどいつまで経っても俺はパニック状態、終いには途中で電話が切れ。その瞬間、惨状が脳裏を過った竹中さんは、実家を飛び出し、平井さんに連絡。間もなくして店長から俺が転落事故を起こしたと聞きつけて、胸騒ぎを抑えながら病院に向かったのだ。
車を飛ばした竹中さんが病院に到着した頃、俺は手術室で何度も心肺停止を繰り返していた。医師もこれ以上は無理かもしれないと言う程、事態は緊迫したもので。廊下で待つ人々は肩を落とし、最早諦めの空気が漂っていた。
その中でもたった一人、竹中さんだけは諦めず。最悪の結末になることをただ待つことしかできない人達の集う、手術室前の長椅子の隅に縮こまった妹に、もう直ぐ遺品と成り変る俺の携帯電話を貸して欲しいと言い出したのだ。
妹に確認を取り、そこから俺の高校時代の友人で一番気の合う人物、木下にコンタクトを取った竹中さんは、俺が事故に遭ったこと、一刻を争う一大事であること、救う為に力を貸して欲しいと伝え、俺達の母校の場所を聞きだしたのだ。
「竹中君は知っていたんだよ、お前があっち側の手招きを受けて、もう随分深くまで連れていかれていることを……、そのままじゃ間違いなく死ぬってこともな、だから思い立ったのさ、お前を救う唯一の方法を」
「まさか……」
「そう、竹中君は賭けたんだよ。あの子が、お前を死の淵から連れ戻してくれることをな」
「けど、……日向は」
「その通り。成仏しないでこの世にまだ留まっていたよ」
あの旧校舎の屋上に。
「地縛霊になってたけどな」
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